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第二部 14

 それから二日間、長谷川と二人で社長室の資料整理を黙々と進め、火曜の午後にはほとんどの書類を年度別に整理し終わった。

 出来上がったダンボールは長谷川が壁際に積み上げている。それを見ながら沙希は社長が急に資料整理に着手した理由を考えていた。

(でもまさか……)

 潤也が「失態」と言った声が未だに耳に残っている。しかも社長の姿は空港で別れて以来見かけていないので、不安な気持ちが大きくなっていた。

「どうかしましたか?」

 長谷川が沙希の視線に気がついて言った。

「昨日も今日も社長にお会いできなかったな、と思っていたの」

「社長は今、会長の御自宅にいらっしゃいますよ」

「会長の……」

 思いがけずドキッとしたが、すぐに潤也の言葉を意識しすぎていると反省する。

「社長に御用があるのでしたらお伝えしますが?」

「いいえ、そうじゃないんです」

 それ以上の追及を跳ね除けるように大げさに首を振った。長谷川は特に気に掛ける様子もなく無言で作業に戻る。沙希はホッとして彼の手際の良い仕事ぶりをしばらく眺め、それから自分も後片付けを手伝った。


     


 部屋のインターホンが鳴り、モニターには男性の姿が映る。てっきり佐和だとばかり思っていた沙希は、驚いて不鮮明な画像を凝視した。正装をして、わざとカメラから目線を外しているが、髪型と眼鏡、そしてその佇まいですぐにそれが社長だと気がついた。

 慌てて通話ボタンを押すと、佐和と一緒に車で待っているので準備ができたら来るように、と言われる。既に準備を済ませていた沙希はバッグと部屋の鍵を持ち、室内を一通り点検して玄関のドアを閉めた。

 マンションを出ると道路脇に見覚えのある黒い高級車が停まっているのが見えた。昨年、陸が乗り回していた車だ。

 小走りでその車に駆け寄ると助手席の窓が開き、佐和が顔を出した。

「そんなに急がなくても大丈夫だよ。後ろに乗りなさい」

 返事をして後部座席のドアを開ける。運転席で社長が沙希を振り返った。こういうときは何と言えばいいのだろう、と一瞬考えるが、結局「お願いします」と頭を下げてシートに腰掛けた。

「この車は乗り降りがしにくくて好きじゃない」

 佐和が助手席でそうつぶやくと、社長は頷きながら静かにアクセルを踏み込んだ。更に不満げな声は続く。

「しかし急いでほしい人間は、全く急いでいる形跡がなくて困ったもんだ。ありゃ一体誰の子かね?」

「さぁ? ですが、帰国しているのだから予定を忘れたわけではないでしょう」

 比較的呑気な声で社長は答えた。陸の話題だと沙希もようやく気がつく。陸は帰国しているが、まだこちらに合流するつもりはないようだ。

「まぁ、間に合わないようならアンタに沙希ちゃんをエスコートしてもらおう」

 佐和がしゃがれ気味の声で笑うと、社長が「そういえば」と沙希のほうへ話しかけてきた。

「秘密主義の佐和さんのことだから、沙希ちゃんはまだ今日のことを詳しく聞いていないのではないかな?」

「……はい」

 沙希は正直に答えた。すると助手席で佐和が手をぶらぶらと振る。

「なぁに、パーティーといってもどうせジジババの集まりで大したもんじゃないのさ。そんなに気を遣う場所でもない」

「と、佐和さんはおっしゃるけれど、一応この会は社会奉仕の精神を持つ名士の集まりで、会員の推薦でしか入会できない異業種交流会なんだ。沙希ちゃんも名前くらいは聞いたことがないだろうか?」

 そう言って社長が口にした会の名称は一種のステータスシンボルとして世間的にも知名度が高く、当然のことながら沙希も耳にしたことがあった。

 上流階級の人々が集う様子を想像して、目が眩むような思いになる。そんなところに自分のような平凡な人間が混ざってもいいのだろうか。佐和に言われるまま、あまり深く考えずにここまで来てしまったことを後悔すると同時に、心細さが急速に喉元までせり上げてきた。

「だから、いきなりキミに失礼なふるまいをするような人はいないはずだ。でも今日は家族会なので参加者も多いし年齢層も幅広い。万が一、何かあったときはすぐに私か佐和さんに言ってほしい」

「はい」

 その一言で沙希の心は拠り所を見いだしホッとする。社長の気配りはどんなときでも行き届いている、と感心せずにはいられなかった。

(陸にはこんなこと言えないけど、やっぱり社長が傍にいると心強いな)

 社長が陸と血の繋がった父親であることは、自分にとって幸せなことだと沙希は思う。そして誰にとってもそうであるように、陸にとってはそれが生まれながらに与えられた最高の贈り物なのだと改めて感じるのだった。


     


 飛行機の中で十分に睡眠を取った陸は、帰国したその足でT事業所へと向かった。空港からは電車を乗り継ぎ、到着までに約二時間を費やした。今晩のパーティーのことを考えると思ったより早めにT事業所を後にしなくてはならないようだ。

 しかし、いかにも人の良さそうな工場長を目の前にして、先ほどから陸は辞する旨を伝えられずにいた。そわそわしながら壁の時計に目をやる。

(失敗した。まだ肝心の村上さんに会ってないのに)

 焦る陸の心を逆撫でするかのように、工場長は滔々と事業所の歴史から現在までを語り上げ、今は事業所存続の危機に関する持論を展開していた。にこやかに手振り身振りを交え話し続ける工場長の姿には決して悪い印象はない。だが、今日はタイミングが悪かった。

「お話の途中ですみませんが、村上さんにご相談したいことがありまして、そろそろ失礼させていただきます」

 ようやく陸は切り出した。工場長は驚いて額に手を当てた。

「これはこれは、こちらこそ失礼しました。村上の席までご案内しますよ」

 立ち上がろうとする工場長を、既に腰を上げていた陸は軽く手を挙げて牽制する。工場長を連れて行けば、村上を篭絡するのは簡単かもしれないが、それは陸の本意ではない。できれば村上の自らの意志で協力してほしいと思う。

「これは僕の仕事なので工場長にご足労いただく必要はありません」

「若いのにずいぶんしっかりしておられる。さすが、ですね」

 陸は苦笑しながら一礼すると工場長室を後にした。

(何が「さすが」なんだか……)

 工場長は陸と社長の関係を指してそう言ったのだ。褒め言葉のつもりなのかもしれないが、陸には嫌味にしか聞こえない。小さく嘆息を漏らすとそれを頭の外へ追い払い、全ての意識を仕事へと集中させた。





 技監という特別称号が付いている割に、村上は案外普通の壮年男性だった。しかも他の社員たちと同列に机を並べ、何か特別なオーラを放っているわけでもない。少し安心して陸は彼のデスクへと近づいた。

「村上さん、はじめまして。浅野と申します。先日は突然メールを失礼いたしました」

 あらかじめ頭の中で用意していた文句を快活な口調で並べる。最初の印象が全てを決める、と陸はこの仕事を始めてから実感していた。

 パソコンのモニターを最後まで名残惜しそうに見つめて、ようやく陸を振り返った村上は「ほう」と一声上げる。

「浅野くんね。はじめまして。わざわざフランスから来てくれたの?」

 頑固者という社内の評判だが、意外にも好意的な笑顔を浮かべ、生徒に話しかける教師のような気安い雰囲気だ。それでも陸はまだ警戒心を解かない。村上の濃い眉を見ながら、そういえば中学の理科の先生も村上という名前だったと思い出していた。

「と言いたいところですが、別の用件で帰国しました。でも、到着して一番にこちらへ伺ったんですよ」

「それにしては、もう夕方だけど?」

「それが工場長へ挨拶したところ……」

「ははあ、そりゃお気の毒に。コーヒーを何杯飲んだ?」

「三回おかわりをいただきました」

 村上はとても嬉しそうに膝を叩いた。正直、陸には笑えない時間のロスだったが、話の種になったのが不幸中の幸いだと自分を慰める。

「それじゃあ僕は手短に話をすると、だ」

 机の上にごちゃごちゃと山になっている書類をかき分けて、村上は目的のものを手に取った。陸がメールで送った企画書案だ。

「この企画の根本部分がダメだ。これじゃあモノを売れない」

 はっきりとしたダメ出しに陸は小さくため息をついた。勿論、そう言われることは覚悟していたのだが、それでも心が沈みこんでいくのを避けられなかった。

 唇を歪めて頭の中を整理していると、村上が企画書案のコピーをめくりながらフォローするように言った。

「僕自身はね、こういう考え方は嫌いじゃない。技術者の僕としてはキミの案に協力できるかもしれないが、でもその前に僕はこの会社の一社員だ。モノを売らなきゃ会社は儲からない。違う?」

「そうです」

「でもキミの案で売るものは、いわば夢だよ。この大量生産、大量消費社会で商品に長期保障なんかしたら……」

 陸はすうっと大きく息を吸い込んだ。そして一息に言った。

「今の僕は夢を語っているだけかもしれません。でも夢を見る余裕のない世の中なんてつまらない。僕は夢をできる限り実現可能な形にして、更にそれが会社を成長させるようなシステムを作りたいと思っています。そのためには村上さんの力が必要なんです」

 ギイッと椅子が音を立てた。村上が腕組みをして背もたれに身を預けたのだ。

「面白いことを言う」

 しばらくして口を開いた村上は険しい表情をしたままだった。陸は一瞬振り返って時計を見る。もう時間がない。

「返事はぎりぎりまで待ちます。どうか力を貸してください。宜しくお願いします」

 精一杯の誠意を込めて頭を深く下げた。

 村上の唸る声が聞こえてくる。

「悪いが、僕の判断はノーだ」

 頭を下げたまま陸は唇を噛んだ。顔を上げると村上は苦渋の表情で陸を見つめてくる。更に何か言おうと口を開きかけた村上に先んじて陸は言った。

「また来ます」

 再度丁寧な礼をして、陸は踵を返した。


     


 もうすぐパーティーが始まる。

 沙希は約一時間前に会場のホテルに到着し、佐和とともにロビーで陸を待っていた。派手な真紅のドレスを着て、ヘアセットもメイクもプロに施してもらったため、かなり目立つのだろう。先ほどからロビーを行き来するホテルの利用客が珍しいものを見るように沙希を眺めていく。

 ロビーのソファーに身を小さくして座っているが、心臓がドクンと脈打つたび、期待と不安が交互に全身を駆け巡る。もう何度目かわからないが、また時計を見た。

(まだかな)

 そう思った瞬間、素肌がむき出しの肩を人の手が滑る。

「ひゃあっ!」

 思わず高い声を上げて振り返ると、ソファーの背もたれに背後から半分だけ腰掛けた陸が沙希の肩を撫でていた。

「お待たせ」

「ちょっ、くすぐったい」

 身を引いて抗議すると、陸は一瞬意地悪く微笑むが、すぐに素知らぬ顔で立ち上がる。これまで見たことのない濃紺のスーツに水色のネクタイで、普段よりも落ち着いていて大人っぽい印象だ。ドキッとした沙希はすぐに目を逸らしてしまった。

「こんなところでじゃれている場合じゃないよ」

 ニヤニヤしながら二人を眺めていた佐和も立ち上がる。陸が不思議そうに辺りを見回して言った。

「あれ、おっさんは?」

「坂上なら向こうでコーヒーを飲んでるよ。どれだけコーヒーが好きなんだか……」

 ロビーに併設された喫茶店を覗き込むように首を伸ばした佐和は、社長の姿を見つけて手で合図した。社長が合流すると四人はエレベーターで一気に最上階まで上がった。

 エレベーターを降りて受付を済ませた佐和から出席者用のバッジをもらう。会場へと向かう途中、ホール内にこの会専用のロッカーやラックが設置されていて少し驚いた。

 もの珍しそうな視線に気がついたのか、社長が小声で沙希に説明する。

「毎週水曜にここで例会が開かれているんだ」

「年会費はン十万らしいぞ」

 陸の言葉に沙希は目を見開いた。庶民の感覚からすると、年会費とはいえ気軽に支払える額ではない。未知の世界へ確実に一歩ずつ近づいているという気がした。

 すぐ前を歩いていた陸が、ふと沙希を振り返った。

「はい」

 立ち止まって腕を差し出す。その意味に気がついて、沙希は陸の腕にそっと自分の手を絡めた。自然と頬に笑みが浮かぶ。隣に陸がいるだけで緊張感がいくぶん和らいだ気がした。

 しかし入り口で会場内を一望した沙希は、すっかりその熱気にのまれてしまった。大きな窓から見える壮大な夜景、キャンドルや生花で美しくセッティングされたテーブル、そして着飾った人々があちらこちらで歓談する姿。結婚式の披露宴に雰囲気は似ているが、客層が全く違っていた。

「沙希、大丈夫? なんか固まってる」

 会場に入っても平然としている陸はクスッと笑った。

「だって、こういうところに来るのは初めてだから……」

「そんなに緊張しなくてもいいよ。俺たちはばあちゃんの見栄っ張りに付き合わされてるだけだから、堂々と美味しいものを飲んで食べていればいいんだって」

「見栄?」

「孫自慢。見てみろよ、学生とかチビっ子も結構いるだろ」

 そう言われてからよく見ると、確かに幼い子どもたちの姿もある。

「ホントだ」

「今日は家族会だからね。つーか、家族自慢大会?」

 クッと笑った陸の顔を見て、沙希もつられて笑ってしまった。

「じゃあ陸は初めてじゃないんだね」

「うん。子どもの頃は毎年出てたよ。出席者にはプレゼントが出るんだけど、子どもはおもちゃがもらえるんだ。それがちょっと楽しみだったり」

「そうなんだ」

「……ていうか、そのドレス、ラッピングみたい」

 陸は軽く身を引き、改めて沙希を上から下まで眺めた。確かに胸元の大きなリボンがプレゼントのラッピングに似ているかもしれない。その視線をくすぐったく思いながら、上目遣いで陸の顔をじっと見つめる。

 すると陸は素早く沙希の耳元へ顔を寄せた。

「綺麗だよ。俺へのプレゼント?」

「違うって……」

 そう言いながらも顔が緩む。見知らぬ人からの賞賛も嬉しいが、やはり彼の言葉に勝るものはない。

「でもこれ、佐和さんが支払いを……」

「あ、気にすんなって。これもそうだし」

 陸は自分のスーツの胸元を指でつまみ上げた。それを見て沙希はすぐに眉間に皺を寄せる。

「佐和さんは陸のおばあさまだもの。陸が買ってもらうのは別に問題ないでしょ。でも私は……」

「いいじゃん。もらってやってよ。そのほうが喜ぶから」

 言葉にそれ以上の反論を許さないような響きがあり、沙希は困惑顔のまま口を噤んだ。そのまま会場の中央付近まで来て、不意に陸の足が止まる。何かと思い顔を上げると、陸がある方向を顎で指した。

「今、おっさんと話してるのがウチの弁護士」

 社長とその隣にいる男性がこちらに視線をよこしたので、沙希は会釈をした。社長よりも少し年下と思われる弁護士は明るい茶色のスーツの中に赤いベスト、更にはピンク色のアスコットタイを着用し、ダークスーツの男性陣が多い中では際立っておしゃれを意識した装いだった。無論、上着の胸元にはバッジが光っている。

「あら、陸くんじゃない?」

 社長のほうに気を取られていた沙希は、背後から声を掛けられびっくりした。振り返った陸は愛想よく婦人に挨拶する。営業モードに切り替わるのが早い。

「しばらく見ないうちにこんなに男前になってねぇ……。え、もう結婚していらっしゃるの?」

 声を掛けてきた婦人は隣の沙希を見て、今気が付いたかのように大げさに言った。

「結婚はまだですけど、近いうちに」

「そう。……あら、あなた雑誌にエッセイを書いてる方じゃない?」

 突然、婦人が沙希の顔を覗き込むようにしながらまじまじと見つめてきた。その視線に耐え切れず、曖昧な笑顔を浮かべてうつむく。

(正確には雑誌じゃなくて広告なんだけど)

 ここでわざわざ訂正すると意地が悪いと思われるだろうな、と沙希は心の中で苦笑した。だが本当のところ、原稿料をもらっているわけではないから意味合いが全然違うのだ。

 それにしても、と思う。こうして見知らぬ人にまで声を掛けられるということは、本当に自分のエッセイが注目を浴びているのかもしれない。おそるおそるだが、沙希はようやくそれを自覚し始めていた。

「そうですよ。文章も素敵ですが、実物も素敵な方なんですよ」

 横から聞き覚えのある声がする。紫がかった紺色の着物姿の佐和が、いつの間にか沙希の隣にいた。言葉遣いがよそ行きだ。そして改まって婦人に挨拶をする。

「平山(ひらやま)さん、こんばんは。ご無沙汰しております」

 平山も優雅に頭を下げ、お互いに近況報告を二言三言交わす。それを黙って聞いていた沙希の耳にいきなり衝撃的な会話が飛び込んできた。

「そう、この方なのね。陸くんのお相手がこんなにお若いのに才能のある方で本当によかったですわね。この方なら安心して次期理事長もお任せできるし、これで少しは肩の荷が下りたのではなくって?」

「ええ、おかげさまで」

 目を細めてにこやかに返答する佐和を、沙希は驚きの目で見た。

(今の会話って……どういう意味?)

 平山の言葉では、沙希が何かの次期理事長を任されるらしい。理事長と聞いてすぐに思い浮かぶのは、先日佐和に連れられて訪問した幼稚園だ。

(あの日連れて行ってくださったのも、今日のパーティーもそういう意図で? でもそんな話、私は聞いてない)

 帰国してからの佐和の心遣いにはそんな裏があったのか、と謎が解けて急にがっかりする自分がいた。だが、裏があったとしてもそう思うことはいけない、とすぐに負の感情を打ち消す。

 ずっと黙ったままの陸を見上げた。心配そうな目でこちらを見ているが、佐和が近くにいるためか口を開く気配はない。

 沙希はわけがわからず激しく混乱していた。しかしそれを考える隙さえ与えてもらえないようだ。

「亀貝さん、もしかしてこちらの方はエッセイをお書きになっている方じゃなくって?」

 大きな声がして、遠くからおしゃべり好きそうな婦人が手を前に出して小刻みに振りながら近づいて来る。それを契機に次々と着飾った婦人が沙希の周りを取り囲んだ。

 もう茫然としている暇などない。仕方なく沙希はありったけの愛想笑いを頬に貼り付かせ、その婦人たちからの質問攻めを適当にあしらうことに専念し始めた。





(ふぅ……)

 淑女たちに囲まれ、むせ返るような白粉の香りの中で三十分ほど過ごしただろうか。

 途中で陸は社長に呼ばれていなくなってしまい、沙希は佐和の隣で女性陣の賑やかな会話を黙って聞いていた。どの方角を見ても、髪型にしろ身に着けているものにしろ、また身のこなしから言葉遣いまで、全てが洗練された女性ばかりだった。そのことに沙希はただ圧倒されていた。

 新鮮な空気が吸いたいと思い、会場を出て化粧室へ向かった。鏡の前で自分の顔を見ると急に惨めな気分になる。髪型や服装は佐和が気を遣ってくれたために申し分ないのだが、真似しようとしても真似できない何かが、あの女性たちにはあった。

 彼女たちとは価値観も日々の生活習慣も、いや、たぶん何もかもが違う。今まで漠然と想像していただけの上流社会が忽然と目の前に現れ、庶民の沙希を嘲笑っているかのように思われた。

 それでもあの煌びやかな社交界に憧れる気持ちはある。こうして完全に打ちのめされた今であっても、だ。

(だけど陸と結婚するということはあの世界の住人になるってこと? 私、やっていけるのかな……)

 人々が憧れる世界なだけあって、きっと並々ならぬ苦労が待ち受けているに違いない。考えただけでも嘆息が漏れる。

(こういうところで純粋に楽しむことができたら、人生違っていたかもね)

 しかしそれができない自分がいて、それを許す自分がいた。

 メイク直しを終えて化粧室を出る。またあの会場に戻るのかと思うと自然に足取りが遅くなり、宴会場前のホールを横切りながら、壁に飾られている油絵をぼんやりと見ていた。絵のことはよくわからないが、かなり大きなサイズの作品でどこかの山の春の景色が描かれている。

「絵に興味あるの?」

 沙希はハッとして声のした方向へ視線を向けた。印象では三十代前半の爽やかな感じの男性だ。パーティー会場から出てきたその男性は、スーツの内ポケットからタバコを取り出した。

「ずいぶん大きな絵なので、つい見とれていました」

「ホントだね。こういうところじゃなきゃ飾れないな。あ、タバコ吸ってもいい?」

 一度くわえたタバコを口から離し、男性は沙希に許可を求めてきた。

「どうぞ」

 彼は喫煙したいがために会場から抜け出してきたのだろう。自分に構わず好きなところで好きなだけ吸えばいいのに、と沙希は思った。

「すっごくかわいいよね」

「はい?」

 思わず沙希は聞き返した。絵を評価するにはふさわしくない言葉だ。煙を吐いた後で男性が沙希を正面から見る。

「キミ」

 反射的に首を横に振った。彼の目的を悟った沙希は表情を固くして、この後どういう反応をしようかと考えを巡らす。

「俺、中山優祐(なかやまゆうすけ)。キミは?」

 一瞬ためらったが、名乗るくらいは問題ないだろうと思う。

「川島沙希です」

「沙希ちゃんか。かわいい子の名前は一度聞いたら忘れないよ」

 そう言って優祐は笑顔を見せた。カラリと晴れた夏空のような印象だ。雰囲気に清涼感があって、整った顔立ちも女性から見てかなり魅力的だと思う。少し長めの髪にも不潔な感じは全くない。

「こういうところは初めて?」

 近くの灰皿にタバコの灰を落としてから、また優祐が話しかけてきた。立ち去るタイミングを逃してしまった沙希は仕方なく頷く。

「そうか。疲れるよね。それに沙希ちゃんは亀貝さんの関係者なんでしょ?」

「ええ、まぁ……」

「エッセイが話題になっちゃったし、ね?」

 優祐もエッセイのことを知っていたようだ。沙希が小さくため息をつくと、クスッと笑われる。

「そういう反応、いいよね。すごく新鮮。こういうところに来る女の子ってツンとすましている割に場慣れしていて、こっちからすると全然つまんない。その点、沙希ちゃんはいい! ……っていうか、こんなところにこんなかわいい子を一人にしておくことが俺には信じられない」

「あの、私はただお手洗いに行っただけで……」

 放っておかれているのではない、と誤解を正そうとしたそのとき、勢いよくパーティー会場のドアが開いた。

 陸の姿が目に飛び込んでくる。



「王子様の登場、か」



 隣に立っていた男は灰皿にタバコを押し付ける。それから心底残念そうに天井を仰いで紫煙を吐き出した。

 

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1st:2010/08/06
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