静かな夜だった。日付が変わろうとする時間だが、陸は渋い顔でまだパソコンに向かっている。
(メールじゃ埒が明かねぇな)
メールの差出人は、存続が危ぶまれているT事業所の中でも頑固者で有名な村上(むらかみ)という男だ。過去に多数の業績を上げ、技術系の社員には神のように崇められている存在で、その功績に報いるために職位も通常の役職とは別枠の技監という称号が贈られている。
その村上に、陸は自分が手がける今回の新製品への技術面での協力と相談のメールを送ったのだが、その返事は陸の期待とは裏腹に「協力は難しい」とそっけないものだった。
(やっぱり会ったこともない若造がいきなり、しかも一方的に協力してくれって言ったって、簡単にハイハイなんて言うわけないよな)
ましてや頑固者との噂だ。陸はこめかみを指で押す。それからカレンダーを見た。
(時間がない。だけど、この人の協力は絶対必要だ)
三日後には帰国することになっていた。気分的には今すぐにでも飛行機に飛び乗りたいくらいだが、帰国するまで商談等の予定が入っていて身動きが取れない。イライラを紛らわすため、握った指の関節でノートパソコンの淵をコンコンと叩いた。
先ほどかかってきた祖母からの電話が、その落ち着かない気持ちを更にそわそわとさせている。
(アイツ、一人で大丈夫か?)
沙希は陸より五つ年上だ。社会人としての経験も五年分多い。女性とはいえ二十代も後半なのだし、陸と再会するまではずっと一人暮らしをしていたのだ。本人に言ったら「バカにするな」と怒られるかもしれない。
だが、そうではない。沙希が一人でいることで、何か良からぬことが起こる気がしてならないのだ。祖母から沙希をマンションに送り届けたと報告され、それからというもの沙希のことが気にかかって仕方がない。
特に潤也はこの状況を手放しで歓迎しているはずだ。もし自分が彼の立場ならこんな絶好のチャンスを逃すわけがない。
最初から気がついていた。一瞬で潤也が沙希に特別な好意を抱いたことを。
(ホント、沙希はクセのある男によく好かれるな)
陸としては沙希が男性からモテるのはそれほど嫌なことではない。むしろその事実に鼻が高いのだが、相手が潤也となるとそんな悠長なことは言っていられない。
沙希のことだから、他の男に簡単に心を動かすことはないだろう。けれども、潤也の見え透いた卑怯なやり方に沙希が動揺したのは間違いない。
(同情を引くような言い方とか、モロに沙希の弱点だし)
沙希の心の中には確実に潤也のスペースが出来ているだろう。そう思った途端、沙希の心に入り込んでその部分をぶち壊してしまいたい衝動が身体中を駆け巡った。
同時にその自分の心の動きに戸惑う。沙希のことになると冷静ではいられなくなる自分に、陸は少し恐れを感じた。
(つーか、これじゃあ沙希の元彼と変わんねぇじゃん)
急に自分の中の熱が引いた。冗談じゃない。人間として最低な男と一緒だなんて反吐が出る。
陸はノートパソコンの電源を落とした。
(ダメだ。少し頭冷やそう)
立ち上がって伸びをすると、シャワーを浴びるために浴室へと向かった。
目が覚めると身体によく馴染んだベッドに眠っていた。視界と意識がはっきりしてきてようやくそれもそうだ、と納得する。だが、沙希がひとりで寝起きするのは初めてだった。
身体を起こして部屋を見渡す。家具はほとんどそのままだが、何となく殺風景だ。人が住んでいない家というものは空気の色が寂しい。
それだけではない。
沙希はベッドから抜け出し、リビングへ向かった。生活感のない整った空間はどことなく沙希を拒絶しているような雰囲気だった。
この部屋自体が、陸がいないことを寂しがっているようだ、と思う。
(ごめんね)
誰にともなく謝りたい気分だった。
キッチンに移動すると冷蔵庫を開けた。当然だがすぐに食べられるようなものは入っていない。それにまだ財布の中身も心もとないままだった。
沙希は急いで身支度をし、しばらくの間ここで生活するために必要なものを買いに出かけた。
マンションのエントランスから出た沙希は、車のドアが開く音に反応して何気なくそちらを見た。
(……え!?)
シルバーのスポーツカーから男性が降りてきた。沙希は自分の目を疑う。
黒いジャケットにシルバーグレイのパンツ、ジャケットの中には白地のTシャツを着ている。サングラスを外すとそのTシャツの衿ぐりに引っ掛けた。
その場に立ち竦んだ沙希とは対照的に、車から降りてきた男性は臆せず沙希のほうへと近づいてくる。沙希は逃げるわけにも行かず、彼が自分のほうへ向かって歩いてくるのを黙って見ていた。
「疲れは取れた?」
傍まで来た潤也は親しげに問いかけてくる。沙希は表情を凍らせたまま、潤也の顔を見た。曜日の感覚がなくなっていたので、潤也の服装を見て今日が休日だということに気がつく。
「いつからここに?」
彼と約束などしていない。となると、沙希が出てくるのをマンションの下で待っていたとしか考えられなかった。
潤也はわざとらしく腕時計を見た。
「一時間くらい前だよ」
「一時間もここで何をしていたんですか?」
嫌味になるとは思ったが、沙希は言わずにはいられなかった。これくらいの皮肉で気分を害するようであれば、最初から待ち伏せなどしなければいいのだ。
予想通り潤也は余裕の笑みを浮かべながら言った。
「当然、キミが出てくるのを待っていたんだ」
「私に何かご用でも……?」
突き放すように言ったつもりだが、相手はまるで意に介さず、むしろ喜んでいるようにさえ見える。沙希は心の扉を慌てて閉じた。
「出かけるんだろう? 付き合うよ」
「結構です」
きっぱりと言い放つ。
「はっきり言うね」
面白くなってきたとばかりに潤也は沙希の顔を覗き込んだ。
「陸の話、聞きたくない?」
(え……?)
おそらくこれは罠だ、と沙希は思った。それなのに断ることができない。
後ろの自動ドアが開く音がして、年配の夫婦らしい二人連れが沙希と潤也をちらりと横目に見ながら通り過ぎて行った。
「遠慮しなくていいから」
言いながら潤也は沙希の背をそっと押す。
(遠慮なんかしてないのに)
沙希は仕方なく足を前に出した。人目もあるのでこれ以上抵抗するのは難しいと判断したのだ。
それにやはり陸の話が気になる。
潤也は助手席のドアを開けて「どうぞ」と言うように首を少し傾げて見せた。一瞬ためらうが、大きく息を吐くと意を決して車に乗り込んだ。
「それで陸の話って何なんですか?」
車が走り出すと沙希は急かすように言った。沙希の側にある用件はそれだけだ。早く済ませて潤也と別れることばかりを考えていた。
「気になる?」
「ええ」
潤也は助手席のほうを見て意味ありげにクスリと笑う。
「ないよ」
「は?」
上司だということも忘れて沙希は大きな声を上げた。運転席から静かに笑う声がした。
「別に何もないよ。……いや、正確に言えば今キミに教えるわけにはいかない」
「それはどういうことですか」
沙希は自分の胸の内に暗雲が広がるのを感じた。最初から陸の話なんてどうせハッタリだろうと覚悟していたが、そうでもないらしい。
逆に今の自分に教えられない陸の情報とは何なのかがますます気になった。
「アイツと結婚したい?」
唐突な質問がどういう脈絡で繰り出されたのかわけがわからず、沙希は黙って潤也の横顔を見る。その視線を受けて潤也は再度口を開いた。
「アイツとどうしても結婚したい?」
「何が言いたいんですか?」
前を向いたままの潤也は考えるように数秒黙っていた。
「アイツが相続する遺産が目的?」
「違います」
即座に否定する。バカバカしい質問だ。沙希は腹を立てる。
「じゃあアイツの何がいいの? ……ああ、エッチが上手いとか」
「違います」
今度は大声を張り上げた。あまりにもむかつくので、次に信号で停まったら無理矢理にでも車を降りようと決意する。
「俺はふざけて言ってるわけじゃない。キミがどれくらい本気なのか知りたいだけなんだ」
意外に冷静で真面目な声が返ってきた。
「課長に関係ありません」
ぴしゃりと言い放って潤也から顔を背ける。そんなことを知ってどうしようというのか、潤也の考えていることは全くわからないし、知りたくもなかった。
「わかった。これ以上嫌われたくないし、もうこの話題はやめよう」
潤也が沙希のほうを向いて言った。機嫌を取るような笑顔に苛立つが、極力感情を殺す。
「ここで降ります」
沙希はドアに手を掛けた。信号で停車した隙にドアを開けようとしたが開かない。ドアロックを解除しようと指を伸ばすと潤也がそれを咎めた。
「こんなところで降りたら危ない」
「もう話はないですよね? 私、用事があって出てきたんです。降ろしてください」
「冷たいな」
「私は冷たい人間なんです」
陸にも同じセリフを言ったことがあるが、こんなに冷え切った心で陸に接したことはない。とにかく潤也から一刻も早く逃れたいとそれだけを考えていた。
隣から感じられる気配が微妙に変化したように思い、沙希はおそるおそる運転席の様子を窺う。余裕の微笑を消し、苦しげに顔を歪ませた潤也は、母親に怒られてしょんぼりしている子どものようにも見えた。
沙希はすぐに目を逸らし、ふと思い出したことを口にする。
「そういえばS社との話はどうなったんですか? ニュースになっていないように思いますが……」
「ああ、アレね」
潤也は急に調子を取り戻し、フッと鼻で笑った。
「坂上のおじさん……社長が裏で糸を引いたみたいだね。だけど、今回は珍しく社長の単独行動のようだ。知らなかった会長がどうするのか、楽しみだな。それにしてもこんな失態はおじさんらしくない」
「失態……?」
「会長はS社とのパイプは切れてもかまわないと思っていたか、むしろ積極的に切るつもりだったのかもしれない」
「どういうことですか? S社と取引が上手くいかなくなったらウチの会社も困るって、課長もおっしゃってたじゃないですか」
クスッと嫌味な笑い声が聞こえた。
「簡単なことさ。S社よりももっといい取引先が見つかったということだよ」
潤也がさも愉快そうに話す声が妙に耳障りだった。嫌な予感がして、胸がぎゅうっと縮むような痛みを感じる。
「キミがそんな顔をすることはない。社長が変わったとしても会社は変わらない。いや、今より良くなるかもしれないからね」
「社長が……変わる?」
考えてもみないことだった。いつかは社長が交代するとしても、それが近々のことだとは想像するはずもない。それにあの社長が潤也の言うような失態を演じるとは考えにくい。
沙希が驚いているのを確認すると、潤也は満足そうな笑みを浮かべた。
「今にキミにもわかる。俺がキミに言いたかったことが、ね」
ウィンカーを上げて車が減速する。潤也はショッピングセンターの前で車を停め、ロックを解除した。
「ここで解放するよ。『プレゼン、楽しみにしてる』って陸に伝えて」
助手席から降りた沙希は潤也に厳しい視線を向けてドアを閉めた。
沙希が歩道に上がって十分に離れたことを確認すると、スポーツカーは走り去った。それを見送りもせずショッピングセンターへ向かうが、沙希の足取りは重い。
この数日に起こる出来事がめまぐるしくて頭の中が混乱していた。
自分のあずかり知らぬところで何かが動き出している。それが何なのか、沙希にはわからない。歯痒く思うが、今の沙希にはこれ以上のことを知る術はなかった。
ショッピングセンターから自宅マンションに戻ると留守電にメッセージが入っていた。不審に思いながら再生してみると、陸の祖母のしゃがれ気味の声が部屋に響く。
「生きてるかい? 例のパーティーは水曜の夜だよ。昼過ぎに迎えに行くから着替えしやすい服装でおいで」
メッセージを聞きながら沙希は頬を緩めた。佐和の声を聞いてホッとしたのだ。それにパーティーが水曜なら、その日には陸が帰ってくる。
それまで何をして過ごそうか、と考えていると突然電話が鳴った。ビクッと肩が震える。電話の音がずいぶんと大きく聞こえた。
「お久しぶりです。社長室、長谷川です。今、少しお話してもよろしいですか?」
受話器を取ると聞いたことのある声が耳に飛び込んできた。
「はい」
「明日より数日間こちらに出社願えませんか?」
以心伝心かと沙希は驚いた。ちょうどどうしようかと考えていたところに、この提案はあまりにもタイミングがよすぎる。
「はい、勿論……」
嫌だという理由がない。それに今の沙希は無断欠勤と同じなのだ。普通の社員ならこんなことは許されないはずだ。自分はずいぶん甘えている、と沙希は密かに反省した。
「朝、社長室へ来ていただきたいのですが、他の社員の目がありますので、裏門から入り社長室直通のエレベーターで上がってきてください」
長谷川は事務的にそう言った。
「わかりました。それで私は何を?」
「社長室内の資料整理をしていただきます」
それなら得意だ、と受話器を握ったまま大きく頷く。長谷川との会話を終わらせると、沙希は忙しく家事や明日の準備を始めた。
翌日、沙希は普段とは違うルートで会社へ向かった。社員が通る通用門とは正反対の方角で、ほとんど人気はない。裏門にたどり着くと沙希の姿を見つけた警備員がすぐに門を開けてくれた。
そこから社長室直通のエレベーターのあるところまで進むと、下で長谷川が待ち構えていた。
「おはようございます」
長谷川が慇懃に礼をするので、沙希も慌てて頭を下げた。顔を上げるとエレベーターが開き、長谷川は沙希に「どうぞ」と乗るように促す。軽く会釈をしながら乗り込むと、長谷川は無駄のない動きで内部の操作盤の前に立ち、エレベーターの扉を閉めた。
社長室に一歩足を踏み入れた沙希は驚いた。室内には作業用のテーブルが所狭しと並べられ、その上にはダンボールや書類の山が積み上げられている。
「僕一人では手に余るだろうということで、社長が川島さんを呼ぶようにとおっしゃったんです」
そうだったのか、と納得しながら作業テーブルを見回した。
「かなりの数ですね」
「ええ。しばらく整理していなかったそうです。とりあえず年度ごとに整理したいので、川島さんはあちらからお願いします」
既に長谷川が手をつけていたので、それを見て沙希は反対側のテーブルから作業を始めることにした。しばらくは二人とも黙って書類の山を選り分ける作業に没頭していた。
しばらくして先に口を開いたのは長谷川だった。
「女性はいいな」
突然話しかけられた沙希は、発言の意味がわからず訝しげに長谷川を見る。補足するように言葉が続く。
「結婚相手によってはいきなり大逆転もありうる。羨ましいですよ。その点男性は名家や資産家に生まれなければ、相当頑張らないとある程度の地位を確保するのは難しい」
「男性だって逆玉という手がありますよ」
沙希は茶化すように言った。長谷川は沙希を見て一笑する。
「確かに。……ああ、そういえば社長も逆玉ですね」
クスクスと笑う長谷川の声が耳につく。沙希は顔を歪めて下を向いた。
「でも本来社長にはこの会社など必要ない。いくら会長の傀儡とはいえ、社長を務めることは矢面に立つわけで、常にリスクを負わねばならず、割に合わない仕事だと思います。それを敢えて引き受けているのはなぜなんでしょうね?」
辛辣な表現に戸惑いながら、沙希は首を傾げてみせる。
「そんなこと……私にわかるわけないじゃないですか」
「川島さん。僕はあなたを仕事一筋で生きていく女性なのかと思っていました。でも、本当に上手くやりましたね」
長谷川は鋭い視線で沙希を射るように見つめ、口の端だけを器用に持ち上げて笑顔を作った。
「あなたは今、これ以上ないほどの好位置にいる。婚約している浅野さんは会長の孫で、近い将来彼がこの会社を継ぐでしょう。そうなるとあなたは社長夫人だ」
長谷川の笑みに凄みが加わる。沙希はそれを正視できず、横を向き唇を噛んだ。
「もし浅野さんがダメでも潤也さんがいる。潤也さんもあなたがお気に入りのようですからね」
「『ダメ』ってどういうこと?」
潤也のことを言い出したのが気に入らないが、それを無視して長谷川に食いついた。だが長谷川はそれには答えず、冷ややかな視線をよこし、静かに言葉を続けた。
「そして、もし二人ともダメだとしても、社長がいる」
「ちょっと、長谷川くん!」
沙希は思わず声を荒げた。
それを嘲るように長谷川はフッと鼻で笑う。
「いいじゃないですか。ストイックなように見せかけて、あなたはとても狡猾で世渡り上手だ。でも僕はそういうやり方は嫌いじゃないですよ」
「私はそんなふうに考えたこと、一度もないわ」
激情が身体を駆け巡り、声が震える。酷い侮辱を直接浴びせられるのはこれが初めてではないが、何度こんな場面を経験しても慣れるということはない。悔しさと悲しさが混ざり合って絶望的な気分になった。
(どうせ何を言っても理解してもらえない)
『あなたは先生に贔屓されているから、いいなぁ』
『川島さんと一緒にいると、男子と仲良くできるから。だから友達になったんだ』
『何でもできるあなたに、できない私たちの気持ちがわかる? わかるわけないでしょ』
かつて学生だった頃、同級生たちが投げつけていった言葉が沙希の心の中にのさばる。
もう、ものを言う気力が失われていた。
きっと発言主はそんなことを言った事実すら忘れているだろう。だが何年経っても沙希はその言葉一つ一つを忘れることができない。
『川島沙希 死ね』
ある日学校の女子トイレの壁に書き込まれた言葉だ。確か小学六年生だった。
沙希はその事実を知り、内心では少なからず衝撃を受けていたが、顔色一つ変えず、報告してくれた友達にただ一言「そうなんだ」と答えた。
それが誰かの強い願いなのだと知って、自分の存在はいったい何なのだろうと沙希は考えていた。
もし自分がいなくなれば、彼女の願いは叶うのだろうか? もしそうなら自分の存在など消えてしまえばいいと思う。
だが、現実はそうではない。そうではないから、そう書かざるを得なかったのだろう。
小学生だった沙希はそこまでを理解して、口を閉ざした。涙も出なかった。衝撃が去った後は、ただ虚しい気持ちが沙希を優しく取り巻いていた。
「僕は川島さんが女性でよかったと思いますよ。あなたのそつのない言動は相手に対する思いやりから生まれている。それは努力したからといって、誰もが真似できるものではない」
長谷川から嫌味な表情は消え、声には沙希を労わるような調子が含まれている。沙希は尖る気持ちを抑えて、彼の言葉に耳を傾けた。
「しかも感情をコントロールするのが巧みなあなたは、僕がああいうことを言っても、カウンター攻撃のように僕へ悪意を投げ返すようなことは絶対にしない。普通は自分の気持ちを満足させるために、相手を貶めるんですよ。誰だって自分が惨めなままではいたくないですからね」
クスッと笑う顔が先ほどとは違って柔和だ。どちらが演技でどちらが本来の表情なのか、沙希は混乱した。
「あなたが男性だったら相当手強いな、と思うんです。あなたとは勝負したくない。たぶん僕は負けると思う」
「そんなことないよ。私、長谷川くんのようにはふるまえないもの」
沙希の言葉を長谷川は首を横に振って否定した。
「川島さんは素直で優しすぎる。それがあなたの最大の強みであり、最大の弱点だ。でもこの世界ではそれはできるだけ隠しておいたほうがいい」
この世界という言葉が胸に引っかかる。おそらく沙希がこれから足を踏み入れようとしている未知の世界のことだろう。
長谷川は紙の束を手に取り、それに目を落とす。作業に戻るようだった。
その姿を見て、沙希も機械的に目の前の書類に意識を戻した。
少し間を置いて、長谷川が言った。
「先ほどの非礼をお詫びします」
「いいえ、ご忠告ありがとうございます」
沙希は本当に心から感謝していた。
いくら沙希がそんなつもりではないと言い張っても、今の沙希のポジションは他人から見れば長谷川の指摘どおりなのだ。陰で何を言われているかわからないな、と皮肉っぽく思う。
「本当に、あなたという人は……」
呆れたような声を出す長谷川に、沙希はニッと笑って見せた。