HOME


BACK / INDEX / NEXT

第二部 12

 夜も更け、レストランを出た陸の顔をひんやりとした風が撫でた。勧められるままにワインを飲んだのでかなり酔いが回っている。

 ワイン愛好家の折戸は、彼の妻が同席していたときとは別人のようにワインについての講釈を披露し、その立て板に水を流すような語り口には陸も驚いた。

 その折戸とレストラン前で別れた後、陸は社長と肩を並べて歩いた。社長は珍しく車を使わずに徒歩でやって来たのだった。

「俺に折戸さんを会わせたのは、なんか意味あんの?」

 陸は隣を歩く社長をチラッと見た。さすがに社長も顔が赤らんでいるが、危なげない足取りで酔っ払いには見えない。自分が酒に強いのも彼の血を引いているからだろうと陸は思う。

「特に意味はない。ワインのことならアイツが詳しいからな」

(確かに、仕事の話はおっさんがこっちに来る前に済んでたっぽい)

 社長と折戸の会話は会社同士の話ではなく、彼らが所属している同業者の会合の話題がほとんどだった。それらの会は研修会などもやっているようだが、集まって飲むのが一番の目的だと陸は勝手に決めつけている。

「で、会社はそんなにヤバいの?」

 株価がどうのと言っていたことを思い出し、訊いてみた。陸自身はそれほど危機感を持っていなかったのだが、急に心配になったのだ。

 すると社長は目を細めて笑った。

「ヤバくなくても安穏とはしていられないだろう。絶対に潰れない会社などどこにもない」

「そりゃそうだけど、あの不採算部門を売却するのはS社じゃなくてもいいわけだし、他に打診してきた会社もあるって聞いたけど」

「売却先はどこでもいいわけじゃない。今回はS社以外には考えられない」

 力強い口調の回答に、陸は「ふーん」と返事をする。思慮の浅さを指摘されたようで、二の句が告げなかったのだ。

 束の間、沈黙の時が流れる。

 先に口を開いたのは社長だった。

「空港で沙希ちゃんに会った」

 陸はそっぽを向いて気のない相槌を打つ。

「どうするつもりだ?」

「つーか、沙希の身の上話をジュンちゃんにバラしたの、アンタ?」

 鋭い視線を隣に送ると、社長は陸の目を真っ直ぐに見返した。

「覚えがないな」

「……あっそ」

(……ってことはジイさんか)

 苦い顔で嘆息を漏らす。たぶん意図的に潤也の関心が沙希に向くように仕向けているのだ。直接やめろと言っても、あの祖父のことだからシラを切るのは目に見えている。

「入籍だけでもしたらどうだ?」

 社長からの突然の提案に、陸は眉をひそめて隣を見た。

「アンタ、沙希のことになるとやたら干渉してくるな」

「そうか?」

「そうだろ。アンタに指図されなくても、俺は俺で考えてるから余計な口出しするな」

「ほう。それはすまなかったな」

 フッと笑った社長の表情に陸の胸が一瞬鋭く痛む。少し言い過ぎたような気がして、取り繕うように言葉を探す。

「今度の企画がきちんと通って製品化に漕ぎつけたら……そのときは、って思ってるんだ」

 隣で社長が頷いた。

「ぶっちゃけ今の俺って、沙希にもジュンちゃんにもかなうものがなくて、気持ちだけ焦ってる。こんな状態で入籍したくないんだよ」

「なるほど」

 無意識に視線が自分のつま先に向いている。

(この人に人生相談するなんて、俺は終わってるな)

 だが、こんな弱音を漏らせるのは彼の前だけのような気がした。たぶん今の気持ちを誰よりも正確に理解してくれるのはこの男しかいないだろうと思うのだ。

 苦笑しながら陸は沙希が飛び出していった日のことを思い出す。ためらう気持ちもあったが、結局できるだけ陽気な声で言った。

「この前、母さんから電話が来て、俺が沙希に甘えてるんじゃないのかって怒られた」

 社長は表情を変えずに陸の言葉を黙って聞いていた。それを確かめて続ける。

「入籍って人生の中でも一大事だから、ちゃんとけじめつけてからにしたいんだ。一応俺も男だし……」

(そうじゃないとまた昔みたいに中途半端になって、沙希を護れない気がする)

 日常に満足して忘れかけていた目標を、潤也が思い出させてくれたとも言える。そういう意味では彼に感謝しなくてはいけない。

「ほう。その日が来るのが楽しみだな」

 社長はそう言って両腕を後ろに回し、手を組んだ。

 それからしばらくして、ふと思い出したように言う。

「お前の母親は元気か?」

 陸は隣をチラッと見て、できるだけさらりと返す。

「元気じゃね? ばあちゃんが一週間も泊まりに来て派手にケンカしたとか、そんな話ばっかり三十分くらい聞かされた」

 社長はフッと笑ったが、それ以上母親のことを訊いてはこなかった。

 やりにくさを感じながら、陸はまた何気ない調子で言う。

「アンタ、ずっとひとりでいる気?」

「さあな」

 社長の表情を注意深く見守ったが、特に目立った変化は見られない。

「なんで再婚しなかったんだ?」

「まるで私が再婚しなくてはいけないような言い方だな」

 茶化すように社長は言った。

「そうじゃねぇよ。でも相手がいなかったわけじゃないだろ?」

 ふむ、と陸の言葉を受けた社長は、少し考えるように夜空を見上げた。

「再婚しようと思ったことはないな」

「へぇ、なんで?」

「酔っているのか、今日はずいぶん絡んでくるな。お前が私に興味があるとは思わなかった」

 陸は苦笑する社長の顔をじっと見る。自分の実の父親に興味がないはずがない。だが、ずっと興味のないふりをしていたのだ。

「アンタの考えてることが全然わかんねぇ。ひとりは気楽かもしれないけど、寂しくねぇの?」

「お前と一緒にするな」

 そう言って社長は心底愉快そうに笑った。

「それに私が家庭向きでないことを一番良く知っているのはお前じゃないか」

「まぁそうだけど。でもアンタがウチの会社に残る必要はなかっただろ。いくらジイさんと親しいからって、離婚した相手の実家にいつまでも入り浸ってるのはどう考えても異常だし……。それがアンタに関する一番の謎」

 長い間不思議で仕方なかったことをこういう形で本人に直接ぶつける日が来ようとは、陸自身も想像だにしなかった。

 だが、言ってしまうと胸の中がすっきりとして、もう相手の返事などどうでもよくなっていた。どうせまともな答えが返ってくるはずないと陸も最初からわかっていたのだ。

 社長は何度かゆっくりとまばたきをし、不自然に顔を背けた。

「私が他人を全く信用していないことはお前も知っている通りだ。だが自分でも意外なことに、この世にたった一つだけ信じてもいいと思うものがあった」

 意外、という言葉に陸は眉をひそめる。彼の発言自体が意外だった。

「なにそれ?」

「……あった、というよりは、できた、と言うべきか……」

 独り言のようにも聞こえる社長の呟きに、陸は当惑した。隣を歩く男の言葉をそのまま鵜呑みにしてはいけない、と思う。

「全く意味不明なんだけど」

 わざと大きな声で言った。社長がこちらを見る気配がしたので、不愉快な表情を作る。



「自分の命を引き替えにしてもいいと思えるものが、な」



 陸は柔和な表情の社長を穴が開くほど見つめた。

(それ……冗談だろ?)

 先に視線を外したのは社長のほうだった。前方に目をやって「少し飲みすぎたか」と肩をすくめて見せる。

 信じられないものを見るような目でその様子を観察していた陸は、社長と同じように前方に視線を戻すと眉根に皺を寄せた。急速に酔いが醒めていく。



 信じられない……。

 いや、信じてはいけないと思う。特にこの男の言葉は――。



 完全に酔いが引いて、陸の脳はものすごい勢いでありとあらゆる可能性を考え始めた。そしてはたと、あるところで思考が止まる。

「アンタ、どっか悪いの?」

 隣から鼻で笑う声が聞こえてくる。

「老人扱いするな。まだどこも悪くない」

「まぁ、アンタは生涯現役って感じだもんな」

 混ぜっ返すように突っ込む。

 なぜか社長の返事に胸の片隅で安堵していることに気がついて、陸はムカムカした。そして前を見て歩きながら、彼の真意を探ること自体がバカげているのだと心の中で自分に言い聞かせる。

(それにさっきの言葉が本心からだとしても、俺は感謝なんかしねぇぞ)

 陸は思う。もし本気でそう思うなら、こうなる前に手立てを講じてほしかった。喉から手が出るほどその言葉を欲しがっていた少年は、もういない。

(今更……父親みたいな顔しないでくれ)

 複雑に揺れ動く気持ちを持て余しながら陸は社長と別れた。ホテルのエントランスへ向かう社長の後姿が遠ざかっていくのをじっと見つめていると、一瞬彼を引き止めたい衝動に駆られる。

 だが、陸は何事もなかったかのように歩き出した。独りで帰るアパルトマンへの道のりがやけに遠く感じられた。











 明るい日差しが春から初夏へと移行しつつある街並みを輝かせる中、雑誌の中から抜け出してきたような着飾った女性たちが行き交う通りに車は静かに横付けした。

 車から降りると、佐和は何の躊躇もせずに目の前の店へと向かう。だが、沙希はその店の看板とショーウィンドウを見た瞬間、気後れして足がすくんだ。佐和はそれに気がついて沙希を手招きする。

「取って食われたりしないから、安心してお入り。こっちは客なんだから堂々としていればいいんだよ」

 佐和の言うことは正しいが、沙希の懐は未だに心もとないままだ。昨日の幼稚園のように金のかからない場所ならば気兼ねする必要はないが、今日沙希の目の前にある建物は世界的にも有名なブランドの路面店だった。

 ここに入って何をするつもりなのだろう。

(佐和さんのお買い物に付き合うだけだよね)

 沙希は心の中でそう言い聞かせる。確か佐和は「ちょっとばかり付き合って欲しい」と言っていた。付き合うということは、沙希は佐和に付き添うだけでいいはずだ。

 発言どおり佐和は堂々とした態度で店内に足を踏み入れた。店員たちはにこやかな笑顔で一礼し、佐和と沙希を温かく迎え入れるとそれぞれの仕事に戻る。

 店員たちの視線から逃れた沙希は、ホッとして店内をぐるりと見回した。沙希もよく知るこのブランドのロゴマークをモチーフにしたバッグが、飾り棚に誇らしげに並べられ店内にセンス良く配置されていた。鍵のついたショーケースの前では若いカップルが財布の品定めをしている。

 その脇を通り抜け、佐和は店の奥へと進んだ。ちょうど店の中央を通り過ぎた辺りで、一人の店員がごく自然な動作で佐和に近づき、改まった挨拶をした。

「いらっしゃいませ、亀貝様。いつも当店へお運びいただきましてありがとうございます。本日は何かお探しでしたか?」

「こんにちは。今日は若い人の着るものを見に来たよ」

「左様でございますか。それではこちらへどうぞ」

(ま、待って!)

 驚いている沙希のことなどお構いなしに佐和は更に店の奥へ向かう。店員はのろのろと歩き始めた沙希の後ろからついて来た。おそらく四十歳は過ぎているだろうと思われる女性店員は黒いパンツスーツ姿で、身体の隅々まで接客のための気配りを行き渡らせている。

 その店員に背中を押されるようにして、沙希は洋服売り場へたどり着いた。

(うわぁ、これは……)

 沙希が洋服を購入する店は、カジュアルからフォーマルまでのアイテムが所狭しと並べられているというのに、ここでは一着一着が十分な空間を与えられ、丁寧に陳列されていた。その佇まいの美しさに沙希は目を奪われる。

 佐和は臆することなく、シンプルながら洗練されたデザインのドレスを手でつまんだ。

「これを着てみないかい?」

「私が、ですか?」

 思わず聞き返す。佐和は沙希の身体の前にドレスをあてがってみてから目で店員を呼んだ。

 店員に案内されて沙希は試着室にドレスとともに入る。ドキドキしながらドレスを持ち上げるとあまりの手触りのよさに頬ずりしたくなった。

(値札がついてないってどういうこと?)

 内側も確認してみたがそのようなものは見つからなかった。仕方なく沙希は服を脱いでそのドレスに着替える。

 ちょうど着替え終わった頃に店員が声を掛けてきた。

 おそるおそるドアを開けると、まず店員が感嘆の声を上げる。

「こちらの靴をどうぞ」

 と、勧められるままに着用した黒いドレスに合わせた黒のヒールのあるパンプスに足を入れて、鏡を振り返った。

 沙希は小首を傾げて鏡越しに佐和の意見を仰いだ。

「そうだねぇ。それはもう少し大人になってからのほうがよさそうだねぇ」

 肩はベルト状になっていて、胸までのカッティングが深すぎた。バストに自信のない沙希のような体型だと貧弱に見えてしまう。

「黒もいいが、まだ若いんだしもう少し派手な色がいいかもしれんね」

 腕を組んで佐和は批評した。そして店員に向かって、「じゃあ、次」と指示する。

 沙希は店員に差し出されたドレスを見て、目を見張った。

 今度は真紅のドレスだ。しかも凝ったデザインで着方がわからない。

「あの、これはどうやって着るんでしょうか?」

 恥を忍んで店員に聞くと、快く着替えを手伝ってくれた。

 肌触りのよい黒いドレスを脱ぐのが惜しかったが、この真紅のドレスも見た目からは想像できないほど着心地がよい。今度は肩が大きく開いているが、胸の中心から同素材のベルトを首にかけるホルターネックになっていて、店員はそのベルトを胸の前で結び大きなリボンを作った。

 胸の真ん中とウエストにたっぷりとギャザーが寄せられた華やかな形のドレスは、ほっそりとした沙希の体型を程よくカバーし、鏡の中の自分が別世界の人間のように見えた。

 店員が試着室のドアを開け、あらかじめ用意してあった靴を沙希の前に置いた。

「ほう。見違えるねぇ」

 先ほどとは違って、佐和は目尻を下げて頷いた。店員も同調する。

「色が原色なのでお客様の柔らかい雰囲気にはそぐわないかと思いましたが、もともとの美しいお顔立ちをパッと明るく見せて、お客様のために作らせていただいたかのように錯覚いたしました」

「褒めすぎです」

 消え入るような声で反論すると、佐和がすかさず言った。

「この人は客を褒めるのが仕事だから、『もっと褒めて』と言ってもいいんだよ」

 沙希は可笑しくなって口元を覆って笑った。すると、佐和はニッと笑顔を見せて「それじゃあ、次」と店員に呼びかける。

(え!? まだ着るの?)

 驚愕する沙希のことなど気にも留めず、店員は佐和が選んだワンピースを差し出してきた。これもパーティーのような華やかな場所に似合いそうなドレスだ。

(何かあるのかな?)

 次のワンピースに着替えながら、沙希はぼんやり考える。沙希が持っているドレスはどれもこれほど上質ではない。それにこんなに高価で豪華なドレスを持っていても、着て行くのにふさわしい場所がなかった。

(庶民にはホント別世界だよね)

 小さくため息をついて鏡に映る着飾った自分を見た。次第に顔がほころんでくる。

(それでもやっぱり私もお姫様には憧れるし、素敵な服を着るのは楽しい)

 女性に生まれて来てよかったと思うことは、今までそう多くはなかった。だが、自分自身が着せ替え人形になったかのような今を、素直に楽しいと感じる。美しく装うことで自分の女性としての本能の一部が目覚める気がした。

(陸に見せたいな)

 今の自分を見たら、陸はなんと言うだろうか? 誰よりも綺麗だと言ってくれるだろうか?

(やだな。私、何考えてるんだろう)

 沙希は自惚れている自分に気がつき、急に恥ずかしくなった。自分より綺麗な女性などいくらでもいる。そうとわかっていても、やはり陸には自分が一番だと思ってもらいたい。

 鏡の中の自分を挑むようにじっと見つめた。

(私の中の傲慢な私……)

 目を逸らしてもこれが自分なのだ。心の一番奥深いところにのさばるこの女が本当の自分の姿だと思う。たぶん飛行機に飛び乗って日本に帰ってきてしまったのもこの女のせいなのだ。

 沙希は大きくため息をついた。

 生きるということは自分を演じることだと思う。他人の目にどんなふうに映りたいのか、そればかりを気にして日々足掻いている自分――。なんと滑稽な様だろうか。

 それでもこの本能の塊のような奔放な女は、出来る限り隠しておかなくてはならない。

 そうでなければ自分が自分でなくなってしまう。今まで一生懸命に糊塗してきたメッキが剥がれてしまったら、何もかもがおしまいのような気がするのだ。

 自分はなんと厄介な生き物だろうと沙希は肩を落とした。



「大丈夫。それでもお前は俺の特別な人だから」



 陸はそう言ってくれたが、その言葉を鵜呑みにすることはできない。誰よりも信頼し、誰よりも愛する人の前であっても、いやだからこそ、沙希は自分自身を演じ続けなくてはならないのだ。

 永遠に変わらないものなどこの世にはないのだから――。





 着せ替え人形の役目を終えて店を出たのは昼過ぎだった。佐和のなじみの鰻(うなぎ)店で少し遅い昼食を取った。老舗であるらしく店の前には行列ができていたが、佐和と沙希はすぐに座敷へと案内され、その特別な待遇に沙希は庶民とそうでない人の歴然とした差を感じた。

 ふんわりと焼かれた鰻は今まで食べたことのない味と食感だった。鰻がこんなに美味しいものだったのかと沙希は感動する。

 食事が終わると佐和は沙希のマンションへと車を向かわせた。

「来週、ジイさんが昔から世話になっている会のちょっとしたパーティーがあるんだよ」

 佐和が種明かしをするように言った。沙希は頷く。

 結局佐和は二番目に着た真紅のドレスが気に入ったようで、最後にもう一度試着して少しだけ脇の部分を詰めてもらうことになった。支払いは沙希が着替えている間に済んでいた。

「アンタにも一緒に来てもらいたいと思ってね。陸もその日には帰国する予定さ」

「はい」

 思わず頬が緩んだ。佐和は沙希の表情を見て目を細めると、しばらくじっと沙希の顔を見つめた。

 それから少し目を伏せる。

「嫌じゃないかい?」

 沙希は意味がわからず、眉を上げて問うように佐和の顔を見た。

 目を上げた佐和の目にはいつもの強い光が戻っている。

「ウチはアンタが育ってきた環境とずいぶん違うだろう? 陸はそこまで気が回らないだろうし、アンタは一人で何でも背負い込みそうな感じがするよ」

「そんなことはないです」

 苦笑しながら、佐和の気遣いを嬉しく思った。確かに沙希が育った家庭はごく一般的な家庭だ。頻繁にブランド物を購入するとか、料亭で食事をするような習慣はないし、したくてもそんな余裕がない。

 それに比べると佐和と過ごしたこの三日間は夢のような時間だった。超一流のホテルに泊まり、美味しい食事に同伴させてもらい、幼稚園で子どもたちに触れ合って癒されたり、ドレスの試着で着せ替え人形になったり……。

 だが、これが日常となれば話は違ってくるだろう。今は「ああ、楽しかった」で済んでしまう出来事も、そうではない別の側面が見えて素直に楽しめなくなるかもしれない。

(でも、今は嫌だとは思ってないかな)

 自分の内側を点検するように、沙希は自分の気持ちを確かめた。

 佐和は沙希の表情を見て「そうかい」と安心したように言った。

 気がつけばもう車はマンションの近くまで来ている。沙希は慌てて佐和に礼を言った。

「何から何までお世話になりまして、本当にありがとうございました」

「いいんだよ。私はアンタのことが気に入ってるんだ。また陸とケンカしたら私のところに来るといい」

 そう言って佐和はしゃがれた声で笑う。彼女の懐の大きさに沙希は改めて感服する。

 車がマンションの前に静かに停車した。ドアを開けようとした沙希の手を、凛とした佐和の声が止める。

「最後に一つ、このばあさんの言うことを聞いてくれないか」

 驚いて佐和を見ると、佐和はひたむきな視線を沙希に向けていた。



「この先、どんなことがあっても陸のそばにいてほしい。あの子にはアンタが必要なんだよ」



 胸がいっぱいになり、言葉に詰まった。

「私のほうこそ、です」

 やっとのことでそう返事をすると、佐和は手を伸ばして沙希の膝を軽く叩いた。ポンと勇気づけるような調子の手のひらから佐和のぬくもりが伝わってくる。

 急に涙がこみ上げてきて、沙希はそれを隠すように車のドアを開けた。

「また近いうちに連絡するよ」

 窓から顔を覗かせた佐和がそう言うと、それを合図に車はまた静かに走り出した。見えなくなるまで車を見送ると、マンションのエントランスへと足を向ける。

 久しぶりの我が家を懐かしく思いながら見回すと、不意にエントランスの自動ドアが開いて見知らぬ若い女性が出てきた。

(…………?)

 なぜか沙希はその女性に違和感を抱いた。

 社長が所有しているこのマンションはそれほど大きくないが、その代わりセキュリティがしっかりしている。入居者の審査も厳しいと聞いた。沙希は入居者全員の顔を知っているわけではないが、それでも彼女のような女性がここにいることが不自然だった。

 女性のほうはチラリと沙希を見ただけで、ツンとした表情でヒールの音を響かせながらマンションから出て行く。

 オートロックの扉を暗証番号を入力して開ける。気になってもう一度道路のほうへ目をやると、道路の向こう側からその女性がこちらをじっと見ていた。

(……何?)

 不気味に思いながら郵便受けを確認する。だが、特に気になるようなものは入っていなかった。

 エレベーターに乗った沙希は、無意識に女性の姿を思い出していた。

 綺麗なブラウンに染まった長い髪。少しウェーブがかかっていて今時の若い女性らしい。そして少しキツそうに感じる切れ上がった目が印象的な整った顔立ち。何より、均整のとれたプロポーションには同性である沙希も思わず見入ってしまった。

 だが、沙希が彼女に違和感を抱いた理由は若くて美人だからではない。

 その女性は腕にぐっすりと寝入っている赤ん坊を抱いていたのだ。

 

BACK / INDEX / NEXT

1st:2010/06/21
HOME
Copyright(c)2010 Emma Nishidate All Rights Reserved.
Image by web*citron / Designed by 天奇屋