HOME


BACK / INDEX / NEXT

第二部 11

 沙希は慌てて深々と頭を下げた。

 顔を上げると陸の祖母は姿勢を正し、沙希に笑いかける。

「以前、家のほうに来てくれたのに会えなくて残念だったわ。今はあの家と別宅と半々の生活でね」

「お忙しくしていらっしゃると伺っております」

「そうなんだよ。誰も代わってくれなくて困ったもんだ。さて、ここで立ち話もなんだからそろそろ行くよ」

 陸の祖母がそう言いながら持っていた紙袋の一つを社長へ差し出した。社長は頷いて受け取り、沙希に笑顔を見せる。

「佐和(さわ)さんは心の広いお方だから存分に甘えるといい。そのほうが喜んでくださるよ」

 沙希は困惑しながら笑みを浮かべた。はい、と返事をできるような度胸が沙希にはない。うつむきながら陸の祖母の名を記憶に留めておいた。

「いいから早くお行き。それで潤也くんはどうする?」

 突然、佐和に話しかけられた潤也は荷物を持ち直して言った。

「仮眠を取りたいので、僕はバスで帰ります。それでは失礼します」

 慇懃に礼をするとすぐさまバス乗り場へと向かう。その姿をしばし見送ってから佐和は沙希を促してのんびりと歩き始めた。






「陸はわがままで手を焼いているだろうね」

 駐車場で佐和を待っていたのは、意外にもミニバンと呼ばれるタイプのファミリー向け乗用車だった。運転手付きなのはさすがだと思ったが、もしかすると佐和が着ている和服のほうがこの車より高価かもしれない。

 沙希は硬いシートの感触に少し安堵しながら身を預けた。そして佐和の問い掛けに答える。

「わがままなのは私のほうなんです」

「けんかでもしたのかい?」

「陸……さんから聞いていませんか?」

 笑いながら佐和が言った。

「陸でいいんだよ。自分のおばあちゃんと同じように思ってくれ、と言っても難しいかもしれないが、気を遣う必要はない。陸からは沙希ちゃんを迎えに行って、しばらく財布代わりになってくれと言われたんだよ」

 沙希は自然と渋い顔になる。

(デスクの中にポーチを置いてきたのがバレてるな……)

 パスポートと非常用に取っておいた現金をアパルトマンに保管してあったので帰国することはできたのだが、勢いだけで飛行機に乗ってしまったので、日本に戻ってからのことなど何も考えていなかった。

 これでもし潤也もいなかったら、帰国していきなり路頭に迷ったかもしれない。そう思うと同時に背筋が寒くなった。

「けんかというより、私が勝手に帰ってきちゃったんです。すごく些細なことで……」

 言いながらため息が漏れる。

「いいじゃないか。私なんかしょっちゅう家出しているよ。そして遊び歩いて憂さ晴らしして、ほとぼりが冷めた頃に帰ると、まぁ、我が家も悪くないと思うのさ。娘のところにも行くんだが、最近はどこに行っても邪魔者扱いで、さっさと退散してくるよ。孫もみんな大きくなってしまったし、次の楽しみはひ孫かねぇ」

 佐和は意味ありげな視線をよこす。曖昧な笑みを浮かべて沙希はまた小さくため息をついた。



「陸はアンタに出会ってずいぶん変わった」



「え?」

 しみじみとした口調の佐和は沙希の目を見たまま続けた。

「私は女ばかり七人姉妹の家に生まれて、自分も娘を二人産んだ。私の家系は女が生まれる確率が高いのかもしれんね。だから孫も女の子ばかり生まれるんじゃないかと思ってたんだよ。そこに陸が生まれて本当に驚いた。ジイさんはこれで自分の築いたものを託すことができると、嬉しくて嬉しくてしようがなかったみたいだ」

 そして沙希から目を逸らすと窓の外へ視線を移す。

「でも人間っていうのは型に嵌められるとそこからはみ出したくなるものらしい。陸も高校生の頃なんか、アンタも知ってるだろうが、酷かったねぇ。それが高校三年になってすぐ、電話をよこして言ったんだよ」

(高校三年になってすぐ……)

 おそらく沙希が陸に別れを告げた頃のことだろう。次の言葉を聞くのが怖くて身を硬くした。

「『生きていて楽しいことってなんだろう』なんてね。自分のしたいことだけをして、毎日楽しくて仕方なかったんじゃないのかい? と聞き返してやったさ。そしたら涙声でこう言った」

 沙希はうつむいて意味もなく瞬きだけを繰り返す。



「『大好きな人と別れてから、何もかもが楽しいと感じられなくなった。生きている意味がわからない』とね」



 顔を上げることができない。佐和がこちらを気遣う様子が感じられた。

「出会いがあれば別れもある。だけど、そこまで別れが辛くなるような出会いというのは、長い人生のうちでもそう多くはないだろうね……なんて慰めにもならないようなことを言ったもんだよ。私も口下手だからねぇ」

 そう言って佐和は笑った。しゃがれ気味の声が沙希の中に温かく沁みこんで来る。

「それから急に、陸がジイさんに会いに来たんだよ。娘が離婚して以来、寄り付きもしなかったのにね」

「そう……でしたか」

 家庭教師を辞めて別れた後、陸がどんなふうに過ごしていたのか、沙希はほとんど知らないのだが、その頃の陸の気持ちを想像するだけでも胸が痛む。今ならもっと別のやり方もできたのではないかと後悔する気持ちも強い。

 だが、あれから数年経っているというのに、自分のやっていることと言えばそれを償うどころか、駄々をこねて困らせるだけで、未だに何の進歩もない。

 気分がどんどん下降していく。



「なんだい、そんな辛気臭い顔をして。アンタが陸のいい先生だったってことだよ」



 佐和はポンと沙希の膝を叩いた。その言葉が心の底から嬉しくて、じわじわと潤んでくる目を伏せがちにして頷く。

「そろそろかね?」

 突然佐和が運転席のほうへ身を乗り出して言った。運転手は短く「はい」と答える。

「どうだい、この辺りの眺めは?」

 車窓に顔をくっつけるようにして景色を見る佐和の姿を見て、沙希も窓の外へと視線を移した。

「海が見えますね」

(あれ? ……ここ、前に来たことがある気がする)

 都心からは少し距離があるが、辺りには住宅も少なく、緑が多い。そして目の前には工場のような大きな建物の跡地なのか、傷みの目立つアスファルトの空き地が広がっていた。

 車はその土地の横を通り過ぎる。

 海に近いせいか、かすかに潮の香りがした。



(もしかして、去年の夏に陸と……夜、ドライブに……)



 そのときのことを思い出し、沙希は一瞬笑い出しそうになるのを何とか堪えた。

「ここはどこなんですか?」

 まだ窓の外を食い入るように見ている佐和に声を掛ける。

「どこなんだろうねぇ」

 沙希に背を向けたまま、佐和は他人事のように言った。だが、その姿は景色を楽しんでいる感じではなく、真剣にこの土地を吟味しているようだった。

(ここ、何かあるのかな?)

 考えたところでわかるはずもない。だが、沙希も何となく気にかかり、辺りの景色を心に留めておこうと今度は注意深く車外へ目を向けた。





 その後、車は佐和がよく使っているというホテルへ向かった。

 豪華絢爛な玄関ホールに足を踏み入れて、沙希はいけないと思いながらも周囲をきょろきょろと見回す。何しろ、都内でも有数の超一流ホテルだ。沙希も名前だけは知っていたが、中に足を踏み入れたのは初めてだった。

 佐和がドアマンに荷物を預けながら沙希を手招きする。

 すぐにフロントから係がやってきて佐和と沙希をそれぞれの部屋へと案内した。佐和の隣の部屋に案内された沙希は、部屋を一周し、バスルームなどをチェックする。部屋自体も広く、調度品も普通の客室よりワンランク上のものが設置されていた。

 目に入るものにいちいち感心しているところにチャイムが鳴った。

 ドアを開けるとホテルの従業員が紙袋を二つ差し出してくる。首を傾げていると、隣の部屋から佐和がやって来た。

「着替えだよ。明日は朝からアンタに付き合ってもらいたいところがあるんでね。趣味じゃないかもしれないが……」

「いいえ、お気遣いありがとうございます」

 恐縮しながら紙袋を受け取った沙希は腕で大事に抱える。

「陸に電話するかい?」

 唐突に佐和が提案してきた。

 困ったように佐和の目を見ると、やれやれというように大きく息をついて既に手に持っていた携帯を目の前に持ってきて、ボタンを操作する。

「部屋にお邪魔するよ」

 耳に携帯をあてがいながら佐和は沙希の部屋へ入りドアを閉めた。

 沙希は着替えの紙袋をとりあえず椅子の上に置くと、その椅子の背もたれに手を掛けて佐和の様子を見守る。

 電話はすぐに繋がり、佐和が大きな声で話し始めた。挨拶もそこそこに佐和は沙希と一緒にいる旨を伝える。

 そしておもむろに携帯を差し出してきた。

(え……?)

 心の準備ができていないうちに沙希は携帯を受け取る羽目になった。おそるおそる耳に当てると落ち着いた陸の声が聞こえてきた。

「それでどうだった?」

「……あの」 

「沙希?」

 咄嗟には言葉が出てこない。何と言ったらいいか迷っていると、突然陸の大きな声が耳に響いた。



「お前、ひでぇよ! ホント、何考えてるんだ!?」

「ご、ごめん……」



 怒鳴られてシュンと落ち込むのと同時に、はっきりと非難されたことでなぜか少しホッとした。それに勢いにのまれて、自分でも意外なほどすんなりと謝罪の言葉が出た。

「でもまぁ、ちょうどよかった。ずっとばあちゃんがお前に会いたがってたから。ちょっと気詰まりかもしれないけど、少しの間我慢して」

「うん。すごくよくしてもらっているから大丈夫」

 佐和が傍にいるので言葉を選びながら答える。実際、空港で対面した当初は緊張でガチガチだったが、一緒にいるうちに自然に身体の力は抜けていた。これはおそらく佐和の人柄のなせる業だろうと思う。

 そして声から判断する限り、陸がそれほど激憤しているわけではなさそうで、それが何より嬉しい。

 他の人に説明しても共有しがたい感情だが、沙希にとってこれは特別なことなのだ。

「俺もそっちに行くから、それまで待ってて」

「うん。それじゃあ電話替わるね」

 陸の優しい声に胸がじわりと温かくなり、その声をずっと聞いていたいと思う。だが、その思いを振り切って携帯を佐和に返した。

 沙希が余韻に浸っているうちに佐和は通話を終え、沙希を食事に誘ってきた。情けないことに持ち合わせの少ない沙希は、申し訳なく思いながらも佐和の好意に素直に甘えた。





 翌朝、沙希は行き先を聞かされないまま、佐和とともに車に乗っていた。

 朝食のときにただ一言「体力を使うところ」と佐和は説明したが、どこに向かっているのかまるで想像がつかない。

 着替えといって渡された紙袋の中には下着とともに動きやすい長袖のTシャツとカーゴパンツが入っていた。タグを見るとファストファッションと呼ばれるブランドの品物だったので少し安心する。

 そして、なぜかスニーカーが紙袋の中に入っていた。確かにTシャツとカーゴパンツにはパンプスよりはスニーカーが似合う。

 更に日焼け止めクリームまで用意されていたことには本当に驚いた。

(これって外で何かする格好だよね)

 自分の服装を眺めてそう考える。だが、もっと不思議なのは佐和が昨日と同じく和服姿であることだった。

 沙希は佐和に気付かれないようにこっそり首を傾げた。

(もしかして負担してもらった分、身体で払えってことかな? ……農作業とか?)

 それはないか、と思いながら佐和から顔を背けてクスリと笑う。

 すると車は交差点を曲がり、そのすぐ傍を自転車が何台も通っていった。どれも後ろに制服姿の子どもを乗せた母親たちだ。

(幼稚園が近いのかな)

 そう思っているとまさに幼稚園のかわいらしい建物が見えてきた。園庭らしき広場にはカラフルな遊具が設置されている。その建物の脇を車は入っていった。

「ここが私の職場の一つさ」

「幼稚園……ですか?」

 車から降りた沙希は丸い窓が並ぶ建物の壁面と、佐和とを見比べた。

「そうだよ。昔、私の親がこの幼稚園を創立したんだが、七人も子どもがいながら継いでやると立候補する者は誰もいなかった。結局いつの間にか私が理事長になってしまっていたのさ」

 そうだったのか、と納得しながら沙希は幼稚園のほうへ数歩近づく。

「どうだい。興味はあるだろ? 今日は子どもと遊んでみないかい?」

「ええ。でもいいんですか? 私、幼稚園教諭の免許は持ってませんが……」

 佐和は笑いながら沙希の背中を押した。

「いきなり子どもの指導を頼んだりすると思うかい? 今日は幼稚園児になったつもりで一緒に遊んでおいで」

「はい……」

 苦笑いしながら沙希は佐和とともに裏の職員用玄関から園舎の中へ入った。佐和の姿を見ると園児たちは元気良く挨拶していく。そして沙希を見てひそひそと「新しい先生かな」などと話す声が聞こえてきて、くすぐったく思いながら職員室へと向かった。





 結局その日、沙希は副園長とともに行動し、園児と園庭で遊んだり、花壇に花の苗を植える作業を手伝うなど、久しぶりに太陽の下で活動した。

「疲れただろう? でも空調完備のオフィスビルで一日中パソコンに向かっているよりは余程健康的だね。たまに身体を動かすのもいいもんだ」

「はい。疲れましたが、とても楽しかったです」

 帰りの車の中で睡魔と闘いながら佐和に答える。昨日帰国したばかりなので体力は限界なのだが、不思議なことに辛い感じはない。

「本当は今日こそマンションまで送っていこうと思っていたんだが、明日もちょっとばかり付き合って欲しいところが出来たんで、今夜もホテル住まいで勘弁しておくれ」

「明日はどこに……?」

 沙希は思い切って訊ねた。

 だが、佐和ははぐらかすように言う。

「そうだねぇ。今日ほど健康的ではないが、別の意味で疲れるかもしれんね。ゆっくり休んでおきなさい」

「はい」

(明日はどこに行くんだろう?)

 不安もないわけではないが、どちらかというと期待でわくわくする気持ちのほうが大きかった。それも日本に帰国してから佐和に連れられて思い掛けない体験ばかりしているせいかもしれない。だから体力的にはきついのに、精神的には珍しくまだ余裕があった。

 おかげで陸のことをほとんど考えずに一日を過ごした。再会してからの一年間で初めてのことかもしれない。

 だが、意識し始めると途端に、今頃どうしているだろうと気になって仕方がなくなる。こうしている間もプレゼンの日は刻々と近づいて来ているのだ。

 そのうちふと、飛行機の中で聞いた潤也の言葉を思い出した。

(あれ、そういえば……S社とのことはどうなったんだろう?)

 今日の朝は早かったので新聞に目を通す余裕がなかったのだ。急に不安な気持ちが募り、睡魔はどこかへ消えてしまう。

 落ち着かない気持ちのままホテルへと戻った沙希は、部屋に入るとすぐにルームサービスのダイアルを回して今日の新聞を届けてもらった。

 新聞を手にすると、急いで経済面をめくる。



(……変だな。どこにも書いていない)



 小さな見出しまで目を凝らして見るが、S社の名前もK社の名前も見当たらない。だが、あの潤也が嘘を吐くとは思えなかった。

 だとすると、考えられるのはニュースになるはずだった事件に何らかの変化があったということだ。

 昨日空港で会った社長の様子はいつもと変わったところはなかったように思う。だが、彼はどんなときでも掴みどころがなく超然としているので、沙希にその心の内を読み取ることが出来るとはとても思えなかった。

 わかることはただ一つ。

 行き先はわからないが、社長が海外へ旅立ったという事実だけだ。











 最近このレストランに足繁く通っているな、と思いながら陸はセッティングされたテーブルをぼんやりと眺めていた。

 ナイフとフォークが自分の席の他に二人分用意されている。

(あのおっさん以外にもう一人誰か来るのか? ……沙希、じゃねぇよな。ばあちゃんと一緒にいるのは間違いないからな。……ったく、いつも突然、何の説明もなしに押しかけるのはやめてくれ)

 社長という立場は案外自由が利くものらしい。沙希がちょうど日本に着いたと思われる頃、社長である実の父親から急に渡仏すると連絡があったのだ。

 そして今夜、このレストランへ来るようにと指定されていた。時間より少し早く着いたので陸はひとりで待つ格好になった。とても居心地が悪い。

 手持ち無沙汰なので、更に頭の中でぶつぶつと実の父親に対する文句を連ねた。

(しかもS社にごねられた話がいきなり白紙に戻るとか、わけわかんねぇし。あのおっさんは一体どんな裏技使ったんだ?)

 天井を仰いで大きく息を吐く。

 一緒に暮らしている頃から、父親はよくわからない人間だった。家にいる時間は長くはないが、家族の前では割とよくしゃべる父親だったと思う。

 だが、陸の実の父親が普通の人間と違うところは、しゃべればしゃべるほど、何を考えているのか理解しにくくなるという点だ。

 彼の話術が巧みだとは思いたくないが、大抵の人間がいつの間にか彼のペースに嵌められてしまう。それなのに本心がどこにあるのかは誰にも明かさない。それを徹底しているところが普通ではないと思う。

(それに……どうして今まで……?)

「待たせたな」

 突然本人の声がした。陸は考えるのを止めて声のほうを見る。

「やぁ、浅野くん。また会ったね」

 驚いたことに社長の後ろには見知った顔があった。

「折戸さん!?」

「ほう。いつの間に顔見知りになった?」

 陸と折戸がこの店で知り合いになっていたことは、さすがに社長も想定外だったようだ。

 折戸は「まぁまぁ」と言いながら社長の背を押して、まずは腰を落ち着ける。

「なぁに、先日この店に来たときに、ウチの奥さんが彼を見てすぐにキミの息子じゃないかってピンと来たんで声を掛けたのさ。ビンゴだったな!」

 陸と知り合った経緯を折戸が愉快そうに説明した。

(なんだよ、最初から身元バレてたのか……)

 苦笑しながら折戸の顔を見る。

「譲一の若い頃にそっくりだよ」

「そうか?」

 社長は眼鏡の奥で目を細めてはいるが、特に何の感慨もなさそうに返事をした。それから陸のほうを見て口を開く。

「折戸茂(しげる)がどこの誰だかは聞いたのか?」

「いや……」

 陸が答えると社長はフッと笑った。

「まぁそうだろうとは思ったが、改めて紹介するとこの男は私の昔からの友人だ。会長と研究会をやっていた頃のメンバーの一人さ」

(ああ、株の投資グループ仲間か)

 社長が私財をなしたのもその研究会が始まりだったらしい。そのことは陸も母親から聞いていたのでおぼろげには知っていた。

 頷いた陸の顔を見ると、社長は少し間を置いて更にこう言った。



「そして今はS社の役員だ」



 陸は弾かれたように折戸の顔を見た。正面に座る折戸は陸の視線を受け止めると柔和な笑顔を見せる。

「驚かせてすまないね」

「いいえ……」

 それ以上の返事ができなかった。先日のやり取りで何か粗相がなかったかと頭の中で回想し始める。

 そんな陸を尻目に社長は折戸に向き直った。

「倉田は元気なのか?」

 折戸は運ばれてきた前菜を眺めて、それからワイングラスを手に取る。

「さぁ? 元気はないだろうが、ピンピンしているんじゃないか。どうせ解任されても創業家一族の末裔だから何も困ることはないのさ」

(解任?)

 一度だけ会ったことのある倉田由紀の父親の顔が思い出された。取締役を解任されたということだろうか。

「だが、助かったよ。あれがニュースになると株価が下がる」

「それはウチも同じさ。倉田さんは過去の栄光を過去のことだと認識できていないんだよ。未だに神風を本気で信じているようなところがある。今はそういう時代じゃないのに、空気が全然読めない人なんだ」

「まぁ、昔から彼は全く面白味のないヤツだった。一緒に飲んでもつまらない」

「そう。かわいそうに会社でも全然人気がない。その点、キミの息子はいける口だし将来有望だな。一緒に酒が飲める息子がいるなんて羨ましい限りだ」

 突然話を振られた陸は愛想笑いを浮かべた。

「折戸さんのお子さんは……?」

 そう何気なく口にすると、社長の表情が少し硬くなり、陸はハッと息を呑んだ。

 折戸はワイングラスを傾けてグイっと液体を喉に流し込む。一息つくと笑顔で言った。

「子どもはいないんだ。望んだこともあったが、授からなくてね。残念だがこればかりは仕方がない」

 気まずくなって陸は視線を落とす。

 その様子を気遣うように折戸は明るい声で言った。 

「だから僕はどこかの誰かと違って、奥さんを大切にしているんだよ」

 すぐさま社長が鼻で笑う。それには陸も思わず苦笑した。

 会社の話を絡めた二人の会話を聞いていた陸は、しばらくして折戸が倉田を失脚させた張本人であることに気がついた。

(確かに倉田由紀の親父さんは、問題が多そうな感じはあったな)

 陸に対して示してきた交渉内容も呆れて物が言えないようなものだった。

 それに比べると折戸は明らかに格が違うと感じる。知り合って間もない陸でも、折戸の懐の深さは相当なものだと一目置いてしまう。

 だが、もっと恐ろしい人間が身近にいた。おそらく間接的に折戸を動かして、倉田を失脚させたのは絶対にコイツだ、と陸は確信する。



(やっぱり俺は、このおっさんには敵わないのか……?)



 隣に座る社長を見て、陸は小さくため息をついた。

 

BACK / INDEX / NEXT

1st:2010/06/01
HOME
Copyright(c)2010 Emma Nishidate All Rights Reserved.
Image by web*citron / Designed by 天奇屋