上から見下ろす沙希の目は強い意志を持って妖しく輝いたように陸は感じた。
彼女の唇が次の言葉を発するのをじっと待つ。
「指……挿れてみて」
陸は黙って沙希の顔を見つめた。言い終えた沙希は急に表情が硬くなり、瞳には不安な色が見え隠れしている。
手を伸ばして沙希の頬に触れた。
「いいよ」
できる限り優しい声を出す。それでも沙希の頬は緊張で強張っているようだ。陸は包み込むようにその頬を撫でた。
「嬉しいよ、沙希からそう言ってくれるのは。だけど我慢しなくていいから」
「うん」
微笑んで頷く沙希を見ると、突然スイッチが入ったように本能が理性を凌駕して陸を支配していく。考えることはやめて、改めて自分の上に覆いかぶさっている沙希の身体を眺めた。
両手で沙希の胸を下から支える。
「こうして見るとお前の胸も結構あるじゃん」
「……そうかな……っあ!」
素早く胸の下へ潜り込んで先端を口に含んだ。すぐに沙希の息遣いは乱れ、のけぞる首筋が薄明かりに白く浮かび上がり綺麗だった。
しばらくすると崩れるように沙希は肘をついて、首を横に振る。
「もうダメ……」
陸はすぐさま沙希と入れ替わり、息をつく間も与えず唇を覆った。その間も柔らかな肌に指を滑らせる。脇腹と太腿をゆっくりと何度も往復していると沙希は激しく身を捩り始めた。
いつもより更に慎重な手つきで陸は沙希の中心へと進んでいく。今は沙希の反応を見れば彼女が何を望んでいるのかが手に取るようにわかる。
ふと、沙希と初めて身体を重ねた日のことを思い出した。
高校生のくせに相当な自信を持っていた陸はいいところを見せたいという気持ちもあって、沙希を悦ばせるためにかなり努力したつもりだった。
だが沙希は途中で意識的に本能を強く自制し、あるところまでくるとそれ以上の快楽を激しく拒絶する。陸は戸惑った。今まで自ら貪欲に快楽を求める様はいくらでも見てきたが、それを嫌がられたことは一度もなかった。
そして熱しきらない相手に、いきなり溺れたのも初めてだった。とても他のものとは比較できない強烈な刺激に、陸は自分が狂うのではないかと思った。実際、沙希に出会ってからの自分はおかしいとしか言いようがない。
(俺、この人相手なら間違いなく不倫くらい平気でするだろうな……)
人の道を踏み外す罪の意識など、沙希を目の前にしたら木っ端微塵に吹き飛ぶだろうと陸は思う。だが、その気持ちがどこから来るのか陸には未だによくわからない。
心が先なのか、身体が先なのか、それとも両方――?
苦しそうな切なげな目をした沙希が何かを求めるように陸の顔を覗きこんでくる。彼女がまだ誰のものにもなっていなくて本当によかったと思う。勿論、自分にとって、だ。
(それにこの呪いを解くことができるのは俺以外にいないし)
既に十分に潤っている沙希の中心に指を当てた。周囲は柔らかくすんなりと陸を受け入れようとしている。陸の意識は指など悠長に挿れている場合ではないと主張する何かに支配されかけたが、それをねじ伏せて中指を奥へと進めた。
身体を沙希の横にぴったりと密着させ、彼女の表情をじっと見つめる。
最初、少しだけ辛そうな表情だったが、沙希は黙って陸の顔を見つめ返していた。
「大丈夫そうだな」
困ったような顔をして微笑んだ沙希は、ようやく全身の力を抜いた。
陸の中指は沙希の中にほとんど全部飲み込まれたが、温かく柔軟でやんわりと締め付けてくる感覚がある。自然と陸は指を動かし始めていた。
沙希は驚いたように陸を見て、息を荒げる。目を瞑って、急に苦悶の表情を作った。
「……いやっ!」
「今日はここまで」
陸は指を一気に引き抜いて、辛そうな顔の沙希の唇をむさぼった。沙希はしばらく身動き一つせずされるがままだったが、唇を離すと小さく息をついて頼りない笑顔を見せる。
「大丈夫……なんだけど、急に怖くなっちゃって」
「怖い?」
「うん。でも嫌な感じではなかったよ。きっとあのときと違って……」
そこで沙希はハッとして気まずい表情をした。
「思い出したんだ?」
陸はできる限り穏やかな声を出そうと努めた。それくらいしか自分にできることはない。
「少し……思い出した」
沙希の目が遠くなる。聞いたほうがいいのか、聞かないほうがいいのか、陸は迷った。結局、当たり障りがないように言葉を選んで言った。
「あのときと今日は何が違う?」
「陸の身体がくっついてて、顔が見えて……」
(そういえばいつも身体が離れていると怖いって言うな)
陸はうわごとのように沙希がそう言うのを何度も聞いた。
「あんまり嫌じゃなかった。それに陸は変なことしないし」
「変なこと?」
「……言いたくない」
ただ頷いた。それを聞き出すことが目的ではない。今はとにかく沙希を安心させたかった。
「お前の身に起こったこと全部をなかったことにするのは無理だし、すっかり忘れるっていうのもたぶん無理だと思うけど、でもあまり思い出さないようにすることはできると思うんだ」
明るい声で言ってみる。沙希は素直に陸の言葉に耳を傾けた。
「これから俺とたくさん楽しいことをしよう」
「うん」
「辛いことを思い出しても、いつでも俺がお前を引っ張り上げてやるから」
沙希は少し首を傾げる。
(お前が俺をここまで連れて来てくれたように……)
説明するのは恥ずかしいし、うまく言葉にする自信がない。陸は照れ隠しに沙希の背中をゆっくりと撫で上げた。
「もっと気持ちよくさせたいな」
「えー。もう十分だよ」
「まだまだ。もっと乱れてほしい。我を忘れるくらい」
「えー。恥ずかしい」
「恥ずかしくないって。俺しか見てない」
「だから恥ずかしいの!」
沙希は顔を隠して頭を陸の胸に押し付けた。こういうときの沙希は少女のようで、陸は思わずドキッとする。少し遠のいていた本能が突然陸の意識を乗っ取った。
「そういうところもかわいくて好き」
囁くように言って沙希の耳に唇を這わせる。沙希はビクッと身体を震わせ、小さく声を上げた。
「ねぇ、もういいよね?」
沙希の顔を覗きこむと困ったように微笑んだ。沙希はどこもかしこも優しい。厳しいことを言うときでさえ、それは彼女の優しさゆえの言葉だと信じることができる。
はやる心を抑えながら陸は自身を沙希の中心へとあてがった。
(この瞬間って、いつもただこの人の優しさに包まれたいだけなのかも)
「……っ!」
沙希が声にならない声を上げた。
だが、普段とは違ってあっという間に陸は最奥部まで飲み込まれていた。
「うっ……、何これ?」
驚いて沙希を上から覗き込むが、沙希も目を見開いて陸を見つめ返すだけだ。
「何って……変なの?」
「変っていうか、……ヤバい!」
柔らかい沙希の中はいつもより熱く吸い付いてくるような感覚だった。黙っていることが出来ず、陸は無我夢中で動いた。
「ごめっ、俺、もう……」
言い終わるか終わらぬうちに陸は絶頂を迎えてしまった。
「あーあ、ダメだ……」
沙希も大きく息をついた。それからクスッと笑う。
「ダメだった?」
「ダメダメでしょ。今日は特にヤバかった。あー、もったいねぇな。もっと長く楽しみたいのに、全然そんな余裕なし」
言ってから沙希の頬を触った。
「お前は……どうだった?」
「うーん。いつもと違って、なんかちょっと気持ちいいような? 気持ちよくなれそうな? ……感じがした」
「おお! よかったな」
陸は後始末のことを忘れて沙希に思わず抱きついてしまった。
「いいのかな?」
「いいじゃん! 俺は嬉しいよ。焦らなくていいからさ、ゆっくり教えてあげる」
沙希は眉をひそめた。
「何を?」
「いろいろ」
「怖い……」
「怖くないって。嫌なこととか変なことはしない」
ほとんど唇が触れそうな距離で誓う。元より沙希の意に染まぬことはする気もないし、沙希が自分を信頼してくれていることもわかっているが、それでも言葉にすることで安心させられるなら何度でも言うつもりだ。
「うん」
沙希が微笑んで心地良さそうに目を閉じた。
考えてみれば、この行為があまり好きではないというのに、沙希が陸の求めに応じなかったことは今まで一度もなかった。
それどころか沙希は少しずつ陸のやり方に慣れ、更に今日は陸の要求を満たすための一歩として彼女らしからぬことを口にしたのだと気がつく。
「お前、頑張ってんだな」
「ん?」
「いや、お前は……やっぱりすげぇな、と思っただけ」
沙希はわけがわからないというように首を傾げて、それから陸の頬にキスをした。
「私は普通だよ」
「うん」
「私も普通の女なの。あまり期待しすぎないで」
突き放すような口調に、胸がズキッと痛んだ。たぶん沙希の言うことは正しい。もし呪いが解けたら沙希だって他の女と変わらないかもしれない。
(ホント、この人は……)
陸はこみ上げてくる苦い想いをこらえて、沙希を力いっぱい抱き締めた。自分の胸の辺りから小さな声が聞こえてくる。
「だって、後でガッカリさせたくないから……」
(やっぱ全然普通じゃねぇ。普通そこまで考えないって!)
苦い想いは全て沙希を愛しく想う気持ちに変わり、陸は深い安堵に包まれた。
「大丈夫。それでもお前は俺の特別な人だから」
沙希が陸の胸に頬を摺り寄せてくる。素肌に沙希の柔らかい頬の感触がくすぐったい。できるならいつまでもこうしていたいと陸は思った。
その後、寝る準備をしてベッドに入った陸は奇妙な夢を見た。
どこか見覚えのある場所で陸は一台の車に注目していた。たぶん百貨店などが立ち並ぶ街の中心部だ。実家のある北国の繁華街に似ていた。
白い高級車は時間貸し駐車場に入り、車のエンジンが止まると後部座席のドアが開く。陸のいる場所から駐車場までは小道を挟むくらいの距離のようだ。
(あ……)
女性の脚が見えた。一番最初に車から降りたのは妙齢の女性だった。陸は顔を見なくてもすぐにその人のことがわかる。
(沙希……)
服装が沙希の趣味じゃないことに陸は首を傾げた。初めて会ったときからいつも彼女の服装は流行を意識しながらもシンプルなデザインで、色も黒を基調にしていることが多い。昔から派手すぎない大人っぽい格好が沙希に似合っていて、それを陸は好ましく思っていた。
だが、車から降りてきた沙希は白いワンピースを着ていて、それは大人っぽいというよりは年齢よりも老けて見える野暮ったいデザインだった。
そして続いて子どもが車の開いたドアから顔を覗かせる。着飾った少女だった。
沙希はその子に手を差し伸べた。この光景を見れば誰もが二人は親子だと疑わないはずだ。実際、その少女は沙希の面影があるような気がする。
次に助手席のドアが開いた。驚いたことに恰幅の良い初老の女性が満面に笑みをたたえて助手席のドアを閉める。
「おばあちゃん」
少女が助手席側の女性に向かって呼びかけた。子どもらしい独特の大きな声で、陸にもはっきりと聞こえた。
陸は息が苦しくなる。
(なんだ、これ? 一体どうなってるんだ……)
沙希の娘らしき少女が、今度は「パパ」とドアが開きかけた運転席のほうへ向かって話しかけた。陸は運転席から降り立った人物をただ茫然と見つめる。
(ウソ……だ)
沙希がごく自然に「パパ」と呼ばれた男に寄り添う。何か言葉を交わしているようだが、陸には聞き取れない。男のほうは背が高くはないようで、沙希とその男が並ぶと身長差は十センチほどに見える。それでも端整な顔立ちが目を引いて、沙希と並ぶと見栄えのするカップルだった。
幸せそうな家族は陸の存在に気がつく様子もなく、商業ビルが立ち並ぶ通りへと向かい始める。
陸は彼らの後についていこうとした。
だが、背後から腕を引っ張られる。
焦って必死に振り払おうとすると懐かしい匂いがして、陸は思わず後ろを見てしまった。
「放せ!」
「嫌よ。私を置いてどこに行くつもり?」
(なんなんだ、これは!)
背後の人物は思ったより握力が強く、ギリギリと陸の腕に指を食い込ませて、真紅の唇をニッと笑みの形に動かした。ウェーブのかかった長い茶髪が風に揺れる。
「放せーーー!」
陸は声の限り叫んだ。
前を見ると、もう沙希の姿は消えていた。
悪夢から覚醒した陸はびっしょりと嫌な汗をかいていた。
隣に沙希が眠っていることを確認して、ようやく息をつく。それから水を飲みにキッチンへ立った。
(冗談じゃねぇ……。沙希の旦那がジュンちゃんで、俺の手を引っ張っていた女は……)
思い出しただけでも胃の辺りがムカムカする。水をすべて飲み干すと、ガラスのコップをシンクの横にそっと置いた。
こんな非現実的な夢を見た理由について、実は心当たりがある。
(やっぱりアイツしかいないか……)
陸は昼休みに社長である実の父親から言われた一言を思い出してげんなりとした。
「最近、お前の身辺を嗅ぎ回っている人間がいる。……女性だそうだ」
(いや、ありえないだろ。だいたいアイツは教授について行ったんだ。半年前に別れていたとしても今更あの女が俺に固執する理由がない。元からちょっとカッコいい男なら誰でもいいって女だし)
まだ動揺している自分に言い聞かせながら寝室に戻ると、沙希が寝返りを打って心配そうな目を向けてきた。
「ごめん、起こした?」
「ううん。何だか寝付けなかったの」
「起きてたのか」
「うなされてたみたいだね」
陸はベッドの端に腰を下ろした。沙希も身体を起こしてベッドの上に座る。
「最低な悪夢を見た。ちょっとだけ沙希の気持ちがわかった気がする」
沙希がクスッと笑って陸の背を抱き締めた。汗をかいたパジャマが背に張り付いて冷たく感じるが、それよりも沙希のぬくもりが温かくて嬉しい。
「かわいそうにね」
笑いを含んだ声だったが、沙希の落ち着いた低い声は陸の波立った気持ちをあっという間に静めてしまった。
「汗かいたから着替えるわ」
気分が安らいだところで陸は沙希の手の甲にキスをして立ち上がった。上のシャツを脱ぎながら部屋を出て、洗濯カゴの中に放り込む。
寝室に戻ると沙希が新しいTシャツを用意して待っていた。沙希はシャツを陸の首にかぶせ、すぐさまベッドの上に戻って布団に足を入れた。春とはいえ真夜中はまだ冷える。
ベッドの上に座ったまま黙って陸を観察しているのは、おそらく陸がベッドに入るのを待っているのだろう。そんな些細なことが心に沁みて、もっと沙希に甘えてみたくなった。
「ねぇ、抱っこして」
言いながら陸は沙希の胸に顔を埋めてベッドに倒れこむ。沙希は少しだけ非難の声を上げたが、そのまま陸の頭を優しく撫でた。
陸は空いている手で掛け布団を引き寄せ二人の身体にかぶせた。しばらくするとお互いの体温で温もってくる。
目を瞑って鼻から深く息を吸った。
「沙希の匂いがする。優しくて甘い匂い……」
沙希は微笑んだまま陸の髪を撫で続けている。心の中は幸せで満たされ、これ以上ないほど安らかな気持ちになった。
「ねぇ、昔つけてた香水はもう使ってないの?」
「うん。一つ使い終わると違う香りを試してみたくて、同じのは買ったことないなぁ。それに使い終わるまで結構かかるし……」
「そっか。そうだな」
考えてみればそれは当然のことだ。余程こだわりがあれば別だが、同じものをずっと使い続けなければならない決まりはない。香水売り場に所狭しと並ぶ、様々な色や形のビンの数を思い起こして陸はため息をついた。
沙希の背中に回した手で肩にかかるほどに伸びた髪を触る。細くて柔らかいのは昔と変わらないが、長かった頃とは明らかに印象が違っている。
(昔のことを引き摺っていたのは俺のほうかもな)
頭を撫でる沙希の手が止まり、陸の身体の上に回された腕が急に重くなった。
寝入ってしまった沙希の腕を布団の中にしまい、枕まで這い上がると、寝息を立てる沙希の鼻の頭にキスをして自分も目を閉じた。