「まず、早速エッセイを読みました。とてもよかった。私たちのほうから特に内容をリクエストしないのに、こちらの意図を十分すぎるほど理解してくれて期待以上の出来だったよ。ありがとう」
社長が沙希のほうを向いてひどく感心した様子で褒め称えた。沙希は恐縮しながら陸の反応をチラリと窺う。案の定、陸は無表情で鋭い視線を送ってきた。
「俺、読んでないけど」
「あ、あの、ごめんなさい。恥ずかしくて、書いてすぐにメールで送っちゃったから……」
「あっそ」
頬杖をついて右上の天井をつまらなさそうな顔で眺め、わざとらしい大きなため息を漏らす。
(拗ねた……)
沙希はしょげて下を向いた。
身近な人に自分の書いたものを読まれるのは、裸を見られるような恥ずかしさがあって躊躇してしまったのだ。自分自身を表現するのが苦手な沙希にとって、唯一雄弁に語ることができる手段が文章なのだが、逆に表には出さない素の自分がそこに滲み出てしまう。それを目の前で読まれるのは死ぬほど恥ずかしいのだ。
「月末に発行される雑誌に載るから、それまで楽しみに待っているんだな」
社長の言葉を聞いて、陸は黙って目を瞑る。高校生のときに比べてずいぶん大人になったと思うが、こういうところは全然変わらない。変わらないどころか、だんだん手がつけにくくなっているように沙希は感じた。
そんな陸のことなど気にせず社長は更に続けた。
「それと関連することでもあるが、残念なことにいくつかの事業所及び工場を閉鎖することになった。沙希ちゃんもこのことについては既に知っていたとは思うが?」
「はい」
社長は眼鏡の奥で目を細めた。
「そこで今、上のほうでもめているのがある事業所の件だ。もう陸には話してあるが、沙希ちゃんにも聞いてもらいたい」
ある事業所とはどこだろう、と考えながら小さく頷く。社長も満足そうな笑顔を見せた。
「まず、沙希ちゃんはT事業所には行ったことがあるだろうか?」
「いえ、ありません」
「そうか。T事業所はもともとT工業と呼ばれ、当社の発祥の地でもある」
「それは知っています」
沙希の返事に社長はまた目を細くした。
「今も古株の社員が多数所属していて、設計開発での技術者のレベルはおそらく当社一と言っていいだろう。だが、建物は創業当時のまま増改築を繰り返しながら現在に至るため、老朽化が激しい。そこで数年前から全建屋の新築を計画していた」
その噂は沙希も聞いていたので、黙って相槌を打った。
「ところがここに来て突然、会社も非常に厳しい状態に陥った。事業所をまるまる新築する費用を捻出するのは難しいし、更に詳細に調べてみるとこの事業所の維持費は他の事業所に比べてずいぶんと高くついていることが判明した。そこで出てきたのがT事業所廃止の動きだ」
沙希は目を丸くして社長を見、それから陸に視線を移動した。陸は黙々と料理を口に運んでいる。沙希の視線を感じてこちらを見たが、すぐにまた料理に手を伸ばした。
「事実、T事業所の生産部門の人件費はかなりの額で、この部門に属する社員の高齢化が一因でもある。しかし、ここでは大量生産品ではなく、試作品や一部にしか需要のない高級品などを扱っているため、他の工場への機能移転は無理だという意見が当初大方を占めていたのだが……」
社長はワイングラスを傾けて陸を見やる。
「この件を調査していた人間のひと言で一気に形勢逆転した」
次の言葉が、沙希には何となく予感できた。
陸は話が聞こえていないかのように喉をならしてワインを流し込んだ。
「潤也くんがT事業所を廃止して、技術系の社員は他の残った事業所へ異動、生産部門は中国へ移管することを提案した。そして敷地を売れば赤字を圧縮することが可能だ、とね。……この提案をどう思う?」
T事業所は都心にある本社から車でも小一時間ほどの距離にある。昔は辺り一面、林や畑が広がるばかりで何もない地域だったようだが、今は副都心として開発が進み、林も畑も消え、往時の面影はどこにもない。おそらく不動産価値も創業当時とは比べ物にならないくらい跳ね上がっていると沙希にも簡単に想像がついた。
「いいんじゃね? 実際手段がどうこう言ってる余裕なんかないんだし、ジュンちゃんの提案に反論できるヤツいなかったんだろ?」
苛立たしげに陸は言った。沙希は口を噤む。
「お前じゃなくて沙希ちゃんに聞いているんだが」
「コイツの意見聞いてどうするんだよ」
「ずいぶん感情的だな」
社長は背もたれに身を預けてクスリと笑った。途端に陸はフンとそっぽを向く。
「沙希ちゃんはどう思う?」
「確かに亀貝課長の提案は合理的だと思いますが……」
沙希は言葉を選びながら率直な意見を言った。
「会社発祥の地ということもありますが、立地条件のよいあの土地を売却してしまうのはもったいない気がします」
「なるほど」
社長の顔を見ると回答に満足しているように思われた。だが、すぐに横槍が入る。
「発祥の地を残して会社潰れたらシャレになんねぇし」
「それはそうだけど……」
何がそんなに気に入らないのかわからないが、陸は明らかに不機嫌だ。潤也のことになると過剰に反応するような気がする。意識しているのは陸のほうではないかと沙希は密かに思った。
社長は沙希と陸を見比べて微笑を浮かべた。
「……何、ニヤけてんだよ」
「お前たちはいいコンビだな」
「コンビじゃねぇっ!」
陸のツッコミに沙希は思わず吹き出してしまった。社長は笑いながら受け流して料理を口に運んでいる。
「それに、なんで俺がそれを阻止する必要があるんだよ。俺はジュンちゃんの意見に大賛成だね。やりたいならアンタが先頭に立ってやれよ。そもそもアンタが社長なんだし」
沙希は僅かに眉をひそめた。
「それでもいいが、つまらんだろ。それより沙希ちゃんにわかるようにお前から少し説明しなさい」
大きなため息を漏らした後、陸は渋々口を開く。
「要はT事業所を存続させるために新しい商品を作って売ろうということらしい。しかもその企画を俺にやれという無謀な計画なわけ。やる前から勝負が見えてるよな。ま、だから俺にやらせようってことなのかもしれないけど……ったく誰だよ、こんなむちゃくちゃな提案したのは!」
「島田だよ」
「げっ! 島田さんか……」
陸はテーブルに肘をついてこめかみを押さえた。
島田は取締役の中でもとりわけ社長と親密な人物として有名だ。
「どうだ。さすがにやる気になっただろう。島田には毎年たくさんお年玉をもらっていたからな」
ブッと吹き出した陸は慌ててナプキンで口元を拭う。更に社長はダメ押しにこう言った。
「私がやってもかまわんが、それでは潤也くんに分が悪すぎるだろう」
陸の顔色が変わる。
「アンタ、すごい自信家だな。それマジで言ってるのかよ? あんな隅から隅まで調べ上げて完璧な資料作ってくるヤツに対抗できるのか?」
「当たり前だ。ウチの会社が何の会社か忘れたわけじゃないだろうな」
難しい顔で沈黙した陸を、沙希はじっと見守った。
細かいことはよくわからないが、構図としてはT事業所存続を巡って廃止派の潤也に、陸が新製品の企画で対抗するということのようだ。この製品の企画はある意味社運のかかった重大任務と言える。
「それに沙希ちゃんにエッセイを頼んだのも、その新製品の広告のためだからな。今更できないなんて情けないことを言うなよ」
社長の挑発に、陸が顔を上げて沙希を見つめた。
頑張って、と心の中でつぶやく。
沙希の気持ちが通じたのか、陸はフッと笑顔を見せた。
「そういえば」
二人の様子を目を細めて眺めていた社長が、ふと思い出したように言う。
「倉田の娘には辞めてもらったよ。思ったより役に立たなかったので、熨斗をつけて丁重にお返しした」
(え……!?)
沙希は驚いて社長を見た。穏やかな微笑を浮かべているが、目だけは笑っていないように見える。急に背筋が寒くなった。
「ふーん」
こちらを探るような陸の視線を感じ、沙希は目を伏せる。胸の中が嫌でもざわついた。
複雑な気分のままデザートを食べてレストランを後にした。そのせいかいつまでも口の中にデザートの甘ったるさが残り、沙希は重苦しい気分のまま社長と別れた。
玄関のドアが閉まって二人きりになったのを確認すると、沙希はようやく深呼吸して陸の腕に縋りついた。
「……私のせい?」
陸は黙って沙希の頭を撫でる。不安な目で見上げると、部屋の中へと導かれた。
「お前はあの女のことなんか気にしなくていいよ」
「だけど……あのこと、社長に言ったの?」
トイレで倉田由紀と対峙した場面が脳裏によみがえり、急に眩暈が襲ってきた。ふわりと視界が揺れて暗転した瞬間、陸の腕に引き寄せられ額が彼の胸に押し付けられる。
「大丈夫かよ?」
「うん」
「沙希を傷つけるヤツは俺が許さない」
その言葉を聞いて沙希は目を閉じた。温かい腕に包まれて、次第に心が落ち着いてくる。
「お前は別に何もしてないじゃん」
「そうかな?」
「そうだよ」
目を開けて少し考え、そしてまたゆっくり閉じる。
きっと相手はそう思わない、と感じて沙希は小さく嘆息を漏らした。心が深い闇にとらわれそうになる。
「気にすんなって。だいたい同業他社の人間を入れたのが間違いで、お前は何も悪くない。ま、父親に頼み込まれて採用したらしいけど、あのキャラにはおっさんもさすがに参ったらしい」
「そんな……」
思わず沙希は苦笑してしまう。陸もつられて笑顔を見せた。
「そういえばおっさんが言ってたけど、沙希、もしかしてホームシック?」
「え?」
意外な単語に驚いて沙希は陸の顔を見上げた。昼に父からのメールに涙したことを思い出し、そうだったのかと今更自覚する。その表情の変化を見た陸はクッと笑った。
「へぇ、そうなんだ。俺が一緒にいるのに日本に帰りたいのか」
「違う」
「だよな」
したり顔で笑うと唇を寄せてくる。何度くちづけても、この瞬間、ドキドキするのはなぜだろう。
優しく触れるだけのキスを繰り返すうちに、身体中が陸への想いでいっぱいになって言葉にせずにはいられなくなった。
「大好き」
陸が二人のときにしか見せない柔和な目をしてニッコリとする。
沙希は少し背伸びをして陸の顎に唇で触れた。そのまま首筋に唇を這わせる。
「沙希、やめっ……」
上擦る小声を無視してほんの少し舐めると、陸の味がした。陸の肌は自分のものに比べると少し硬いが、男性にしてはなめらかだと思う。そして耳の付け根から肩にかけてのラインがとても綺麗なのだ。
自分からこんなことをするのは陸が最初で、たぶん最後の人だろう。
「こんなことしてどうなるか、わかってる?」
「どうなるの?」
クスッと笑った陸は沙希のワンピースのジッパーを下げた。下着の合間から冷たい指が沙希の素肌に触れる。その感触に思わず息を呑む。
「どうなっても知らない」
耳元で囁く声に沙希は身を捩った。すぐに抱き上げられてベッドの上に着地した。
「ねぇ、まぶしいよ」
沙希は額に手をかざして、覆いかぶさってきた陸に抗議する。
「ちょっと待ってて」
そう言いながらベッドの上から飛び降りて照明のスイッチを切ると、陸は窓際に移動した。どうするのかと黙って見ていると、勢いよくカーテンが開け放たれた。
差し込んでくる月明かりと街頭の明かりで室内はぼんやりと照らされた。陸は窓を背にしてシャツを脱ぐ。青白く浮かび上がった均整の取れた裸体に沙希は目を奪われていた。
再び陸が上から覗き込んできた。
「顔が見えないと怖いでしょ?」
優しい声に胸がうち震える。うん、と小さく首を振ると陸は鼻の頭にキスを落としてきた。
「怖くないよ。でもちゃんと俺の顔、見ていて」
幼い子どもに言って聞かせるような言葉だが、沙希は嬉しくて愛しげに陸の首に手を回した。短い後ろ髪を撫でると陸は気持ち良さそうに目を細くする。
幸せすぎて涙が出そうだ。だが、懸命にそれをこらえた。
(そうだ!)
沙希は陸の首に回した腕に力を入れて上体を起こし、唇を重ねながら身体を捻って陸の上にのしかかる。位置が逆転して愉快そうな顔の陸を見下ろす格好になった。
「今日はずいぶん積極的だな」
そう言われるとさすがに恥ずかしくなったが、それでも沙希は不敵な笑みを浮かべた。羞恥心を越えていかなければ次には進めないと思う。
意を決して口を開いた。
「あのね、今日は試してみたいことがあるの」