翌朝、沙希の熱は下がったが、顔色は冴えずどこかぼんやりとしていてほとんど喋らない。陸は注意深く見守っていたが、体調を崩すとその後はいつも決まって精神的にも酷く落ち込むので、今回もまた同じように下降しているのだろうと思った。
(つーか、喋らなくなるのだけはマジ勘弁!)
一つ大きなため息をついて、陸は「行って来るわ」と声を掛けた。期待はしていなかったが、やはり返事はなかった。
(ホント、アイツもあれさえなければ、ね……)
沙希は笑っているほうが絶対いい、と思いながらアパルトマンを出ようとしたところでテオに出くわした。
「おはよう。……あれ、機嫌悪い?」
テオはニコニコしながら遠慮なく近づいてきて陸の顔を覗きこんだ。陸は忌々しげに見返す。
「わかった。沙希とケンカしたんでしょ?」
「してねぇよ!」
一瞬、怪訝な顔をしたテオは口に手を当てて囁くように言った。
「……浮気?」
「するわけないだろ!」
陸はテオを押しのけて外へ出ようとしたが、テオはなおも進路に立ちはだかった。そして悪戯を企てているような表情をして少し首を傾げた。
「ねぇ、フランス語教えてあげようか?」
「はぁ?」
「せっかくフランスまで来たんだから、少しくらい覚えたくない?」
「まぁな」
テオの企みの意図がわからず、警戒しながらも陸は同意した。
「じゃあ、今日の夜からどう?」
目を輝かせてテオは言った。返事を迷っているとテオが更に続ける。
「沙希も一緒に、ね?」
「……お前の狙いはそこか。俺はオマケかよ」
陸はため息混じりに言い捨てるとテオの脇をすり抜けて外へ出た。空気が冷たい。北国の朝を思い出した。
「だって沙希が陸の許可がいるっていうんだもん。二人一緒ならいいでしょ?」
「とにかく今日は無理」
陸は振り返らずに言う。既に迎えの車が来ていて、ジャンは先に乗り込んでいた。
「どうして?」
「アイツ、体調悪いから」
テオがまだ何か言おうとして追ってきたが、それを制止するように車のドアが閉じて静かに走り出す。陸がホッと一息つくと、ジャンがのんびりとした口調で沙希の様子を訊ねてきた。
「沙希は一人で大丈夫なのかい?」
「ええ。よくあることなんで」
ジャンは一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに笑顔になりバンと陸の肩を叩いた。
「困ったことがあったら何でも相談してくれ。どんな些細なことでもかまわないから」
彼から何度同じセリフを聞いただろうと思い、陸は笑みをこぼす。大雑把なようで実は繊細な気配りの人だな、というのがジャンと一週間を一緒に過ごした感想だ。自分の実の父親である社長が信頼するのも頷ける。
(あのおっさんは有能な人間以外は人間扱いしないからな)
しばらくはあの嫌な顔を見なくてすむ、と思いながら会社に足を踏み入れた陸は、自分のデスクに誰かが座っていることに気が付き、途端に最前の考えが誤りであることを思い知った。その人物は周囲の社員と談笑しながら優雅にコーヒーを飲んでいた。
「アンタ……どこから現れた?」
「やあ、陸じゃないか。久しぶりだな」
社長が陸を振り返ってわざとらしく言った。
「何が久しぶりだよ? 一週間しか経ってないだろ。つーか、何しに来たんだ。まさかコーヒーを飲みにここまで来たわけじゃねぇだろ?」
一気にまくし立ててから陸は顎でよけろと合図する。社長は目を細めてまた悠々とコーヒーカップを口に運んだ。
「お前はせっかちだな。沙希ちゃんは元気か?」
そう言いながらカップとソーサーを持ってようやく立ち上がる。だが、陸はその社長の顔を怪訝な表情で見つめた。
「アンタ、もしかして……」
(沙希に会いに……?)
社長は陸の考えを見透かしたように微笑を浮かべると、空いている隣のデスクにカップとソーサーを置いた。そこは沙希が出社するようになったら彼女が使う予定のデスクだった。
「そろそろ出社してもらったほうがいいんじゃないか?」
「そうだけど……」
それについては陸も考えていたが、昨日からの様子ではまだ無理だと思い、沙希に話すタイミングをはかっていたところだ。
「昨日から体調崩してるんだよ。今朝は、熱はなかったけど機嫌が悪い」
また今朝の沙希の態度を思い出して嘆息を漏らす。社長は陸の様子を見てフッと笑った。
「ほう。ホームシックかもしれんな。どうだ、今夜一緒に食事しないか?」
「ホームシック?」
「お前と違って沙希ちゃんは繊細だからな」
「俺が図太いのはどっかの誰かに似たからだろ。沙希に聞いてみるけど、マジで機嫌悪いから期待しないほうがいいぞ」
またフッと笑っただけで社長は席を立った。二、三歩で立ち止まる。
「昼に話がある」
首を回してそれだけ言い残すと悠然とした歩調で去っていった。
陸はパソコンの前で腕を組む。
(話って……今どき電話もメールもあるのに、わざわざ来なきゃならないような話なのか?)
漠然とした不安が胸に充満した。それでなくても沙希のことで気分が落ち込みがちだったのだ。直々にやって来るくらいだからかなり厄介な問題に違いない。
こんなとき喫煙者ならタバコを吸いたくなるのだろうが、あいにく陸はタバコが嫌いだった。隣の空席のデスクを何気なく見た。社長が置いていったコーヒーカップが目に入る。
(俺も飲もう)
また小さくため息をついて立ち上がり、社長のコーヒーカップを手に給湯室へと向かった。
陸から電話がきたので、沙希は仕方なくベッドの上に起き上がった。身体の中に鉛が注入されたかのような気だるさで、電話が切れた後もしばらく携帯の画面を見ながらぼうっとする。時計を見ると正午を回っていた。
時差にはもう慣れたと感じていたが、どうにも気分の落ち込みが酷い。昨日まで疲れているのに元気なフリをしていたので、余計に反動が大きいのかもしれない。一度下降を始めたらどん底まで落ちないとなかなか浮上できないと経験上わかっているので、沙希は不機嫌な自分を嫌悪しつつも放置していた。
(でも陸には悪いことしたな……)
さすがに口も利かないのは態度が悪すぎると反省しながらキッチンへ向かう。冷たい水を飲んで一息つくと、クローゼットを開けて服を引っ張り出した。あれこれ考えるのが面倒なので迷わず一番気に入っているワンピースに決めた。
(それにしても社長が来るなんて、何かあったのかな?)
ワンピースはベッドの上に放ったままで、沙希はパソコンに電源を入れた。パジャマのままうろうろしていると寒気がするのでウールのケープを羽織る。ついでにキッチンからパンと牛乳を持ってきてパソコンのモニター前に並べた。
夕刻まで少し時間があるので、せっかくだから自堕落の限りを尽くそうと思った。
ネットで日本のニュースを見た。特に関心のある話題はないのでざっと目を通すだけにする。
それからメールをチェックする。いくつか新しいメールを受信したが、中に珍しい名前があった。
(お父さん!)
沙希は急いで父からのメールに目を通した。内容はごく普通のご機嫌うかがいと家族の近況報告だったが、沙希は読んでいるうちに胸に熱いものがこみ上げてくるのを抑えきれず、慌てて近くにあったティッシュペーパーで涙を拭った。
こんなことで泣くなんてずいぶん心が弱っているな、と照れ隠しに首の体操をしながら自嘲する。誰も見ていないとはいえ、父からのメールが嬉しくて泣くなんて少し恥ずかしかった。
だが、実家を離れてから何年も経つというのに、やはり実家の家族を恋しく思う気持ちは根強く心の中に存在する。両親の存在が自分の中でこれほど大きいものだったのかと沙希は再認識していた。
気分が落ち着いたところで、パンをほおばりながら別のメールを開く。同じ課の早坂薫からだ。パッと全文を見渡すが、かなりの長文だった。早速読み始める。
内容は新しい課長に関することに終始していた。
沙希と薫の所属する営業一課と、陸や矢野たちの営業二課は主に国内の取引先への営業活動が任務だ。伝統的には一課は自社ブランド製品を、二課は他社ブランドへ供給するOEM製品を扱い、現在もその大枠は変わっていない。
世界的不況の影響もあり、この数年は近隣諸国のメーカーに価格の面で苦戦を強いられていた。当然K社もコストダウンに励んではいるが、シェア争いは過酷で、こちらがギリギリの数字を出しても、翌日にはライバル社がもっと大幅に安い値段で仕掛けてくる。そうなるとK社も同価格で保障も万全と謳い、何とか契約を取り付けるものの、いくら売っても利益は出ないという結果になるのだ。
その悪循環に亀貝新課長がメスを入れようとしているらしい。
沙希は潤也の冷酷な態度を思い出し、文字通り頭を抱えた。誰かがやらなければならないことなのかもしれないが、彼のやり方ではおそらく社内から反発が出るだろう。
薫のメールによると営業二課内の複数の人物が槍玉に上げられているようだ。その名前を見て沙希は眉をひそめる。
(確かにこの人たちはあまりいい噂を聞かないな)
彼らがK社へ部品を納入している中小企業からリベートを受け取っているという噂は沙希が営業部に来る前からあった。だが、彼らは独特の狡猾さを身に着けていて簡単に尻尾を出すようなことはしない。
(なるほどなぁ……)
潤也は正義感の強い人間なのだ。潔癖症と言ってもよいほどの。
彼が入ったことで部内の雰囲気は一変したと薫は書いている。そして沙希と陸に早く帰ってきてほしいという懇願でメールは締めくくられていた。
(まだ一週間しか経ってないのに)
クスッと笑って、牛乳の入ったマグカップを手に取った。
しかしやり方には問題があるとしても、潤也は会社の改善のために手腕を振るうつもりなのだろう。沙希は複雑な気持ちになる。
(でも陸とは合わないだろうな)
陸はそこまで正義を振りかざすことはしないし、揉め事のような面倒を起こすのも巻き込まれるのも嫌がるほうだ。
(会長はそれを知っててわざと二人を……?)
沙希はマグカップを戻した。気が付けばいつの間にか牛乳を飲み干していたのだ。
少し考えてから、薫のメールに返事を書き始めた。自分が実際に見聞きした話ではないので個人的な感想は控えめにする。薫の話を百パーセント鵜呑みにすることはできない。
返事を書きながら潤也に対する自分の評価は、実際に自分の目で確かめてからにしよう、と思った。
いつもより少し早い時間に玄関のドアが開いた。陸が神妙な顔で部屋の中を覗き込む。
「おかえり。お疲れさま。……朝は、ごめんね」
玄関へ小走りで向かい、沙希はあらかじめ用意していた言葉を口にした。
陸はゆっくりと目を閉じて深く息をつく。
「いいよ。気にしてない」
思わず涙腺が緩み、それを隠すために沙希はいきなり正面から陸に抱きついた。陸は優しい。元彼と比較するわけではないが、どうしてこんなに優しくしてくれるのだろうと思うと自然に涙が出た。
「元気そうで安心したよ。じゃ、メシ行こう。おっさんが下で待ってるから」
「だから『おっさん』ってやめなよ」
「おっさんはおっさんだし。心配すんなって。会社ではちゃんと社長って呼んでるから」
陸がポンポンと頭を軽く叩いた。慰めるような視線が沙希を優しく包む。たぶん泣きそうになったのはバレているのだろう。
もう一度陸に抱きつき力を抜いて身を預ける。陸も受け止めてぎゅっと抱き締め返してくれた。
「充電完了。それじゃ腹ごしらえに行こう」
解放された沙希は、陸の言葉通り心が温かいもので満たされたように感じておのずと笑顔になる。バッグを取りに一度部屋の中へ戻り、それから陸に続いて玄関を出た。
約一週間ぶりに会った社長とは挨拶もそこそこに、沙希と陸と社長の三人は会社の車で目的のレストランへ移動した。
「予約した?」
陸は助手席に向かって話しかける。社用車はそれほど大きくないため、社長は助手席に座っていた。本来なら自分がそこに座るべきではないかと沙希は後部座席で落ち着かない。
「そんなものはしていない」
至極当然という口調の返事が聞こえてきた。
「おい、大丈夫なのか?」
「ダメなら別の店に行けばいい」
「アンタ、意外と適当だな」
陸は呆れたように背もたれに身を預ける。そして沙希の手を握った。驚いて陸の顔を見ると、悪戯な色の見える瞳に捉えられる。
しばらくすると車は小さなレストランの前で停まった。こじんまりとした外観はそれなりの歴史を感じさせる佇まいで街に溶け込んでいた。
社長は先陣を切ってドアを開けた。後ろから覗き込んだ沙希はほぼ満席の店内を見て一瞬躊躇する。だが、すぐに陸に背中を押される形で店内へ足を踏み入れた。
「やっぱり予約しないと無理じゃね?」
店員と話す社長の様子を見て、陸が小声で言った。沙希も小さく頷いて同意する。店員の言葉はわからないが、迷惑そうな表情をしているのでおそらく飛び入りの客は歓迎されていないのだろうと思った。
「まぁ、待ちなさい」
社長は全く動じない様子で店員と会話を続ける。店員は一度厨房へ下がり、戻ってくると今度はにこやかな笑顔で一同を奥の個室へ案内した。
「何を言ったわけ?」
店員が退室した後、陸は社長に訊いた。だが社長は少し目を細めて微笑を浮かべただけだった。
しばらくするとノックの音が聞こえ、シェフが入ってきた。
「やぁ、譲一。久しぶりじゃないか!」
突然陽気な声が響く。驚いたことにシェフは日本人だった。しかも社長とは知己であるらしい。
「まさかまだこの店にいるとは思わなかったよ」
社長は皮肉っぽく言った。シェフもそれにニヤリとして答える。
「譲一に紹介してもらった職場なのに勝手に辞めたら悪いかと思ってさ。それに俺が辞めるときは店を畳むときだってオーナーに脅されて、辞めるに辞められず今もここにいるってわけ。……もしかして息子さん?」
シェフが陸に視線を移して問う。
「そんなふうに見えるか?」
「若い頃の譲一によく似てる。そして奥さん?」
沙希はシェフと目が合うと軽く会釈した。沙希の見た感じでは、シェフは社長より少し若いようだ。
「息子のフィアンセだよ」
「これはこれは、ようこそパリへ。僕は小寺(こでら)と申します。宜しく」
「二人はしばらくこっちに住むことになったんで、たまに美味しいものを食べさせてやってくれ」
社長はそう言って目配せした。シェフもそれに頷きながら、
「喜んで! 請求書は譲一宛にしておくから、いつでも安心して食べに来てください」
と言い残して厨房へと戻った。
「なんだ、知り合いがいたのか」
それまで黙っていた陸が口を開いた。社長はフッと笑う。
「まだこの店にいるとは思わなかったがな」
「ふーん。もしかしてオーナーも知り合い?」
「どうかな?」
その口振りからしておそらくそうなのだろうと沙希は思った。社長の掴みどころのなさは、こうして頻繁に接するようになった今も変わらない。
社長が改めて沙希の顔をじっと見る。慌てて居ずまいを正した。
「体調はどう? まだ慣れるまでには時間がかかるだろうが、そろそろ出社してはどうかな」
「はい。……私でお役に立つことがあるといいんですが」
沙希が正直な気持ちを述べると、プッと陸が噴き出した。
「やべぇ、俺、全然役に立ってない」
「まぁ、誰もお前を即戦力としては期待していないから、テオにフランス語でも教えてもらって地道に頑張るんだな」
「それ、なんで知ってるんだよ」
不機嫌な陸の声に沙希は首を傾げた。昨日テオの言っていたことがいつの間にここまで広まったのだろうか。
「さっき車で待っていたら、彼が直訴してきたんだ」
「アイツ……」
陸は悔しそうに舌打ちする。その様子が可笑しくて沙希は笑いをこらえるためにうつむいた。
ノックの音がして料理が運ばれてきた。シンプルだが上品な器に美しく盛られた料理に思わず顔がほころぶ。
「さて、そろそろ本題に入ろうか」
社長がワイングラスを置いて口火を切った。穏やかな笑みをたたえたままだったが、その一言で陸の表情がスッと消える。沙希の心臓も不安にドキドキと鳴った。