沙希と陸がパリでの生活を開始して一週間が過ぎた。
まだ見慣れないパリの景色を窓から眺めていると、この空が自分の故郷にも通じているとは信じられない。そもそも空気がまったく違う。街並みも行き交う人の目や髪の色も話す言葉も……。
二人が住むことになったのは社長である陸の実の父親坂上譲一が所有するアパルトマンで、社長自身が以前住んでいた部屋だった。他にもいくつか物件を所有しているらしいが、部屋数や設備が充実していることと、管理人のジャン一家全員が日本語を話すことができることからこの部屋が選ばれたようだ。
実際にジャン一家に対面してみて、一家が明るく健全な家庭であり、また家族全員が最初からフレンドリーに接してくれることに、沙希は内心とても安堵していた。
一家の主であるジャン・タレックはK社の社員であり、社長の親友でもあると沙希は聞いていた。社長とは同年代でかなりがっちりとした体格の持ち主だ。そしてユーモアを交えた愛嬌のある話し方をする。
一方、パートナーのナタリーは落ち着いた雰囲気の女性だった。仕事はフリーランスのイラストレーターで、ほぼ自宅で作業をしている。沙希と陸が来るのをとても楽しみにしていた、と初対面の挨拶で言っていたがその言葉通り、二人の部屋はすぐに生活できるように清掃は勿論、生活用品などもほぼそろっていた。
ジャンとナタリーには二人の子どもがいる。長女のレティシアは恋人と同棲に近い生活をしているらしくほとんど家にいないが、長男のテオは日本で高等学校にあたるリセに通う16歳だ。少年らしさは残るものの、父親に似たのか身長は既に180センチを越えている。
「アイツ……、テオだっけ? むかつく!」
部屋に入り二人きりになった途端、陸は開口一番そう言った。沙希は初対面の様子を思い出して笑う。
「かわいいじゃない」
「どこが? つか、デカすぎ! しかも生意気! 俺より年下とは思えない」
陸はふてくされた顔で沙希をじろりと見た。もの言いたげな視線に沙希は首を傾げる。
「お前、一人のときは気をつけろよ」
「何を?」
「何を、じゃないだろ。テオは男だぞ」
「だってナタリーだっているし?」
「そういう問題じゃねぇし」
まるで娘を心配する父親のような口振りの陸を見ていると可笑しくて仕方なかったが、頷いて素直にその忠告を受け入れた。
「うんうん。そういえばキミもあのくらいの頃は……」
「あーーーっ!! ……つーか、昔のことを言うな!」
慌てて陸は沙希の言葉を遮った。沙希は焦る陸の態度にほくそ笑む。
「とにかく、仕事でお前を一人にすることも多くなると思うから寂しい思いをさせるかもしれないけど……」
「うん、たぶん大丈夫。心配かけないようにするね」
(……とは言ったものの、やっぱり寂しいなぁ)
荷物の整理も終わってしまい、することがなくなった沙希はコーヒーを飲みながらぼんやりと窓の外を眺めていたのだ。
陸はジャンと朝から出かけてしまい、ナタリーは仕事が大詰めらしく、夕方までは一人で過ごさなくてはならなかった。
(眠いなぁ……)
渡仏した興奮で今までは元気にふるまっていた沙希だが、一週間が経ち、ここにきて急に疲れが全身にのしかかってきたようだ。身体が気だるく、食欲もあまりない。だが、陸の前では努めて明るくふるまうようにしていた。
夕刻まで昼寝でもしようかと思い、ソファーに横になってうとうとしているとチャイムが鳴った。
「沙希、いる?」
慌てて起き上がってドアを開けるとテオが買い物袋を持って立っていた。
「一緒に買い物行こうよ。今日は僕が沙希のお供をするよ」
ニコニコしながら流暢な日本語でテオは提案してきた。思わず沙希は時計を見る。テオがリセから帰宅するのはもう少し後のはずだった。
「今日はずいぶん早いね」
「ウィ。水曜は早いのさ。早く準備しておいでよ」
テオは悪気のない笑顔で沙希を急かす。沙希がテオと買い物に行くことは決定事項のようだ。一人で退屈していた沙希には嬉しい申し出だったので、すぐに準備をしてテオと一緒に外出した。
「沙希って本当に28なの? 18の間違いじゃない?」
沙希に合わせているのかのんびりした歩調のテオは沙希を見下ろして言った。視線はかなり高いところから下りてくる。
「間違いなく28だよ」
苦笑しながら沙希は答えた。日本人は若く見られるというが、自分もそうなのだろうかと思いながらテオを見上げると、彼は大げさに眉をひそめる。
「信じられない! 僕、日本人の女の子の友達はいっぱいいるけど、その中でも沙希はとびきり若くてかわいいよ」
「そ、そうかな?」
「ウィ! ああ、陸がいなければなぁ。ねぇ、陸はやめて僕にしない?」
沙希は物怖じしないテオの言葉に顔を背けて笑った。その様子を不思議そうに見ていたテオが目で問う。
「何だか昔の陸を見てるみたいだな、と思ったの」
「昔の? 彼が僕に似てる?」
「そういうわけじゃないんだけどね」
「じゃあ、どういうわけなんだろう?」
沙希は詳しく説明する気がなかったので肩をすくめて見せた。するとテオも同じように肩をすくめる。身体は大きいが中身はまだ少年だ。
「沙希はフランス語、全然話せない?」
「うん。ほとんどわからないし話せない」
「じゃあ僕が教えてあげようか?」
テオは目を輝かせて沙希を見つめてくる。その様子が体格とアンバランスで沙希は可笑しくて仕方がなかった。
「陸がいいって言ったらね」
途端にテオはがっかりした表情になった。
「許してくれるわけないよ。陸は僕が沙希の頬にキスするのもダメだって言う」
初対面のときの挨拶で陸はテオにそう釘を刺したらしい。沙希には陸が何を言ったのかはよく聞こえなかったが、テオが陸に対して「陸は自分に自信がないの?」と皮肉っぽく言い返したことは覚えている。それで陸は不機嫌になってしまったのだ。
「でも沙希は陸と結婚してないんだから、僕にだってまだチャンスはあるよね?」
沙希はプッと噴き出した。テオは無邪気な笑顔でじっと沙希を見つめてくる。
「テオと私じゃ12歳も離れているよ? もっと年齢が近くてかわいい女の子はいっぱいいるじゃない」
「僕が子どもだからダメだって言うの? 僕は人を好きになるのに歳や国は関係ないと思う」
ストレートに好意をぶつけてくるテオに悪い気はしないが、だからといって彼に恋心を抱くことはとても想像できない。もし陸より先にテオに出会っていたとしても、だ。
「私がここに来たのは陸を好きだから、なの」
日本にいるときにはとても恥ずかしくて言えそうにないセリフだと思いながらも、沙希はテオにきっぱりと言った。
テオは少し寂しそうな表情になったが納得したように頷いた。
「沙希は陸のことを愛しているんだね」
愛しているなんて日本では滅多に使わない言葉だな、と思う。何のためらいもなくテオはさらりと言ったが、ここで聞くと至極当然のフレーズに聞こえるから不思議だった。
(でも、「結婚してないんだから」……か)
先ほどのテオの言葉が心の隅に引っかかり、スーパーに着いても沙希は買い物に集中できないでいた。今の状態に特に不満はないものの、改めて指摘されるとよりどころのない不安定な気持ちになるのは否めない。
だからといって、今はそれを言い出す時期ではないことも沙希は了解していた。
(私、もう28なんだけどなぁ……)
内心ぼやきつつテオの背中を追う。まずはこの生活に慣れなくては、と思い直し今夜の夕食のメニューへと頭の中を切り替えた。
パリの支社は日本とは違って残業がほとんどない。そして休みも多い。K社は日本の同業界内でも休日の多い会社で有名だが、それ以上にフランスの人々が多くの休暇を取っていると知って陸は驚いた。
早く帰宅できるのはいいことだと思う。日本では残業するのが当たり前の毎日だったのでストレスが溜まる一方だったが、パリに来てからはコミュニーケーションがスムーズにいかないストレスはあるものの、時間や気持ちという点ではずいぶん余裕ができたように感じていた。
帰宅すると沙希が忙しく夕食の準備をしているところだった。すぐに着替えて手伝う。沙希は笑顔だったがしきりにこめかみを押さえていた。
「沙希、疲れてる?」
「うーん。ご飯支度の間ずっと立ちっぱなしのせいか、少し座りたいかも」
そう言って沙希はソファーに倒れこむように身を投げ出した。気になって傍に行って頭に手を乗せると熱い。確かめるように反対の手で自分の額を触ってみるが、比べるまでもなく沙希は熱があった。
「熱あるぞ。風邪?」
沙希はかすかに首を横に振る。熱のせいか大きな瞳が潤んで辛そうだ。
「後は俺がやるから、食べたら温かくして寝ろ」
うん、と沙希は頼りなく微笑んだ。
もともと身体があまり丈夫ではない。沙希自身体力がないことを気にしていて、他人が聞けば驚くほど体調管理に気を遣っている。それでも少し無理をすると必ず体調を崩すのだ。
(やっぱり元気なふりしてたな……)
目を閉じてぐったりとしている沙希を見て思った。だが、おとなしく寝ていればすぐに元気になるだろう。
陸は急いで食事を準備し、食べ終わるとすぐに沙希を寝かせた。
しばらくネットで日本のニュースなどを見てから陸もベッドに入った。
沙希は相変わらず熱があり、眠っている顔も上気して苦しそうだ。あまり効果はないかもしれないが額の上に乗せていたタオルをもう一度冷たい水に浸して絞り、また額の上に乗せてやる。
突然、沙希がしくしくと泣き始めた。
陸は眉をひそめてその様子を見る。また嫌な夢でも見ているのだろうかと思い、一瞬沙希を起こそうかと迷った。そのときだった。
「……んね。ごめんね、浅野くん……」
(え……?)
涙が伝い枕を濡らす。しゃくりあげながら寝返りを打つと、額の上に乗せたタオルが落ちた。
(俺……か)
横を向いた沙希はネコのように身体を小さく丸めて泣き続けている。
涙と汗でこめかみに張り付いた髪を払うと、触らないでほしいというように首を振った。
(いつの夢を見てるんだよ。俺はもう高校生じゃないぞ?)
嫌がられても気にせず陸は沙希の頭を撫でた。彼女をとても愛しく思う。
そのうち落ち着いたのか、沙希は泣き止んだ。
いつも沙希が夢の話をするときは元彼のことばかりで、陸はかわいそうだとは思うものの、実際心の中は不愉快な気持ちでいっぱいだった。それが続くと、悪夢とはいえ元彼の夢しか見ていないのかと責めたくもなる。沙希の中には何をどうやっても消せない影があることが悔しかった。
(でも、俺もちゃんとお前の中に存在してるんだね)
自分のつけた傷跡を確認して、いけないことと思いつつも陸はとても満足していた。そして同時に自分の気持ちを偽って言った言葉が、沙希をどれほど傷つけたのかと想像すると胸に鈍い痛みが走る。
(俺はお前のために何ができるだろう?)
ずっと考えていることだった。
(俺にできること……か)
沙希の額からずり落ちたタオルを折り返して頭の上に乗せる。もう眠りが深くなったようで沙希は身動き一つしなかった。
「おやすみ。早く元気になれよ」
聞いているはずもないが、陸はそうつぶやいて沙希の隣に潜り込んだ。