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第二部 3

 陸が沙希のそばにやって来ると、沙希の向かい側に座っていた人々は無言でスペースを空けた。目の前に陸は腰を降ろす。急に静かになった宴会場のほぼ全員が陸の挙動を見守っていた。

「ずいぶん賑やかですね」

 嫌味のこもった言葉に沙希は思わず笑みを浮かべた。陸は隣から差し出されたビールに口をつけてから田原を同情のこもった目で見る。

「田原さんも気をつけたほうがいいですよ。川島さんみたいなおとなしそうな人って後が怖いから」

「ちょっ、そんなことないわよ!」

 慌てて沙希は否定したが、場のほとんどの人間が注目しているせいか顔が真っ赤になるのを自覚する。

「ある日突然、手のひらを返したようにシカトしたり。お前、身に覚えあるだろ?」

 意地悪な笑顔の陸は沙希を真っ直ぐ見つめた。沙希は少し口を尖らせた。確かに否定はできない。

「いやー、熱い熱い! こんなところで見せつけなくてもいいのに!」

 周りから二人をひやかす声が上がった。

 それを契機に年配のグループはまた話題を元に戻し、宴会場には徐々に何もなかったような和やかなムードが帰ってきた。

 田原の後ろに立ち尽くしていた潤也は、陸を一瞥して少し離れた席に座る。それを確認した後で田原は陸にビールを注いだ。

「悪いな、浅野。……それから沙希ちゃん、ごめん」

「沙希、どうする? 確かウチの会社にもセクハラ防止委員会があったはず」

 陸がニヤニヤしながらふざけた調子で言った。田原の顔色が更に青ざめたようだ。もし委員会に報告して調査されれば、証言はいくらでも出てくるだろう。

 沙希はようやくホッとして飲んでいたグラスに口をつけた。

「もう一度されたら通報しようかな」

「……本当にごめんなさい。もう二度としない」

 田原は消え入りそうな声で謝った。その様子を沙希は横目で見て小さくため息をつく。おそらくかなり酔いが回っているときにだけ出る悪癖なのだろう。今は心底反省したとしても、酔って意識があやふやな状態になれば、もう二度としないという誓いも簡単に破られるはずだ。

「田原くん、お酒飲むの控えたら?」

「……そうだね」

 うなだれた田原がつぶやくように答える。陸は料理を皿に取り分けるのに夢中になっていた。

「ここのテーブル、料理に全然手をつけてないけど、食べないの?」

「田原くんも食べるほうに専念したら?」

 沙希は苦笑しながら田原にウーロン茶を注ぐ。

「これからはそうするわ。浅野、本当にありがとう」

「俺は絶対許しませんけど」

 一瞬、上目遣いで田原を睨んで、すぐにニッと笑顔を見せた。

「俺、めちゃくちゃ嫉妬深いですから。沙希が『助けて』っていう目で見るんで仕方なくああ言っただけで、田原さんのためなんかじゃないですし」

(私のためだって言うけど、みんなの前で酷いこと言ったくせに!)

 内心ふくれながら陸につられて料理に手を伸ばす。だが、陸の言葉が中和剤になったことは確かだった。

 沙希は気になって潤也のほうに視線を向けた。後ろ姿しか見えないが男性にしては小柄でなで肩だ。その背格好が昔よく知っていた人に似ていてすぐに目を戻す。

 脳の中で過去の映像が再生されそうになり、沙希は慌ててそれを強制終了させる。

 気がつくと向かい側から陸がじっとこちらを見ていた。

「……何?」

「気になる?」

 沙希は小刻みに首を横に振った。できればあまり関わりたくないと思う。陸とも仲が良くないとなれば尚更だ。

「私、苦手なタイプかも」

「へぇ。でも相手はたぶんそう思ってないぞ」

 シニカルな笑みを浮かべて陸は言った。沙希は眉に皺を寄せる。

「アイツ、ずっとお前のこと見てたんじゃね? 気がついてここまで来るのが早すぎるだろ」

「それはないって」

 沙希は複雑な気分を喉の奥へ押し流すようにグラスを呷った。氷が解けてほとんど水の味しかしない。ドンと少し音を立ててグラスを置いた。

「何怒ってんの?」

 向かい側から気遣うような声が聞こえてきた。

「……別に、怒ってないけど」

 陸の顔をじっと見る。ふと陸が何を考えているのかわからなくなるときがある。今もそうだ。

(きっと陸だって見てたのに……やっぱり助けてはくれないんだ)

 そこまで陸に期待してはいけないということか。

 沙希は大きくため息をついた。苦い気持ちを吹っ切るように頭を振って顔を上げた。

「飲み物、頼む?」

 窺うような表情の陸に小さく頷いて見せると、安堵したように顔がほころんだ。

 一緒にいる時間が長くなっても、所詮他人同士なのだから完全に心が通じ合うことはありえない。そんなことは嫌というほどわかっていたので、陸に何かを期待してはいけないと思っていた。

 だが、それでもどこかで陸が自分を護ってくれるのではないか、と淡い期待を抱いていたのは間違いない。沙希は正直なところものすごくガッカリしていた。

(でも……)

 気を取り直してフォローしてくれたことを感謝しようと思ったそのとき、陸が先に口を開いた。

「沙希を悪く言ったのは、すまないと思ってる。他に浮かばなかった」

 もう沙希に半ば背を向けて隣のグループの会話に加わっている田原をちらりと見てそう言った。おそらくそのことで沙希が怒っていると思ったのだろう。

 ううん、と首を横に振った。

「みんな助かったと思うよ。せっかくの飲み会だもんね」

「そうだけど……」

 珍しく陸が言いよどんだ。沙希は首を傾げる。

「いや、何でもない。もう二次会に移動するみたいだな」

 見ると幹事が立ち上がり、二次会の案内をし始めた。幹事の話が終わるとほぼ全員が立ち上がった。営業部全体なのでかなりの人数だ。

 沙希は陸と一緒に店の外へ出て、移動を開始するのを待っていた。

「浅野くん」

 聞きなれない男性の声が後ろから聞こえてきて沙希はビクっとする。隣の陸は面倒くさそうな顔で振り返った。

「はじめまして、亀貝さん」

 全くと言っていいほど好意的でない声音でわざとらしく陸はそう言った。対する潤也も鋭い眼差しで陸を見ている。飲み屋の店先とはいえ、夜の帳が降りた暗がりの中で見る潤也の整った顔立ちは際立って青白い。

「新入社員のくせに女連れで海外とは、生意気な野郎だな」

 眉目秀麗な面立ちとは裏腹な乱暴できつい言葉が投げつけられた。陸は少しだけ目を細めてズボンのポケットに手を突っ込む。

「心配で置いていけないですからね。特に亀貝さんみたいな人が課長になるなら」

「どういう意味だよ」

 潤也は顎の角度を少し上向きにし、陸を睨みつけた。雲行きが怪しくなり、沙希は知らないうちに陸のスーツの裾を軽く握っていた。

「この人、心がガラスのように脆くて繊細なんで、さっきの亀貝さんみたいなやり方で見世物にされると困るんですよ、俺が。一度壊れてしまうと元に戻るまでに時間がかかるんです。いいところを見せたいなら他でどうぞ」

 最後にフンと鼻で笑って陸は潤也を見下ろした。いくら潤也が顎を上げたところで陸との身長差はかなりある。

 沙希は陸の言葉に胸が熱くなり、少し前に感じた不満は霧散してしまった。

 だが、その言葉は潤也にとっては挑発でしかなかった。

「お前が出しゃばってきたせいで、これからも被害に遭う女性が出るんだ。そのことをよく考えてみるんだな」

 それだけ言い捨てて潤也は離れていった。その後ろ姿を見て陸は呆れたようにため息をついてから沙希を振り返る。

「お前、どこを掴んでるんだ?」

「だって……」

「アイツ、昔からあんな感じなんだよなぁ」

 陸は自嘲気味の表情で肩をすくめて見せる。

「あの人、怖い」

 まるで子どもみたいな言い方だ、と思いながら沙希はつぶやいた。陸は片手をポケットから出して沙希の頭をポンポンと軽く叩く。少しだけ心が落ち着いた。

「だって、もし陸が来てくれなかったら田原くんはどうなってたの?」

「そりゃ、田原さんが辞表を出す覚悟を決めるまで問い詰めるんじゃね?」

 簡単に陸はそう言った。沙希は目を丸くする。

「そんな……」

「アイツの言うことにも一理ある。もしこれで社員からセクハラで訴訟を起こされたら会社にも賠償責任があるわけだし、大事にならないうちに芽を摘むっていうのは間違ってない。けど、やり方がなぁ……」

 潤也の厳格な物言いを思い出して沙希は寒気を覚えた。

「ずいぶん仕事熱心なんだね」



「そりゃそうだろ。アイツはこの会社が欲しいんだから」



(え……!?)

 それをあっさりと言った陸の顔を穴が開くほど見つめた。

「だから俺が邪魔なわけ」

 陸の笑顔が少し悲しげに曇ったようだ。その表情がすうっと消えて真剣な顔つきになる。



「ついでにお前も欲しいってことだ」



「どうしてよ?」

 沙希は反射的に答えていた。小さくため息をついた陸は沙希の手を取って移動を始めた集団の後ろをついていく。

「沙希に利用価値があるからさ。ついでに美人だし」

「はぁ!?」 

「そんなに驚くことでもないだろ。今までだって結局、お前の周りはお前を利用しようとするヤツらばかりだし」

 視線が嫌でも自分のつま先に向いた。言い返す言葉が見つからない。

 握っている手にぎゅっと力がこめられた。

「まぁ、心配すんなって。それとも俺がアイツにはかなわないって思ってる?」

 沙希は勢いよく首を横に振る。満足げに陸は微笑んだ。

「しかし早速お前に目をつけるとは、なぁ?」

「いや『なぁ?』って言われても……」

「あー、やっぱアイツ、ムカつく! しかも先越されたし」

「…………?」

「さっき……助けてやれなかったな」

 沈んだ声が聞こえてきた。沙希は首を上げて陸の表情を確かめる。浮かない顔でどこか遠くを見ていた。

(気に掛けてくれてたんだ)

 沙希はクスッと笑った。

「やっぱり亀貝課長は王子様なのかもねー」

「はぁ!?」

 思い切り不機嫌な声を出した陸は呆れたような顔で冷たい視線をよこした。

「だってピンチのときに助けに来てくれるのが王子様でしょ?」

「よくそんな恥ずかしいこと言えるな」

「だって女の子の夢だもん」

「はいはい。そんなに言うなら毎朝王子様のキスで起こしてやるから覚悟しとけよ」

 ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて陸は繋いでいる手を引っ張った。沙希はよろけて陸の身体にぶつかる。

 すぐに身体を陸から離して、怒った顔を作った。

「キスだけでお願いしますね」

「そんな約束はできないな」

「じゃあ謹んで辞退させていただきます」

「ホントはお姫様もそれ以上を期待してるくせに」

「それ以上って何?」

「俺の口からはとても言えないわ」

 二次会の店の前に到着したので、陸は笑いを噛み殺しながら口を噤んだ。沙希も笑顔で陸の後ろに続いて店に入る。

 沙希の心の中にわだかまっていたものは、もう跡形もなく消えてしまったようだ。ただ、今度は別の問題が心の隅に巣食っていた。そのことを一瞬思い出し、沙希はもう一度陸の背中を見つめた。

(でも、きっと大丈夫だよね)

 周囲の目も気にせず、最初に出会ったときよりはずっと頼もしくなったように見える陸の姿に、沙希はしばらく見とれていた。











 いよいよ二人がフランスへと出発する日がやってきた。

 余裕を持って空港へたどり着いた沙希と陸は、出発ロビーで時間つぶしをしていた。二人とも大学では第二外国語でフランス語を履修していたが、単語は何となく読めるとしても会話は全く自信がない。

「どうしよう。二人とも喋れなくて本当に大丈夫?」

 陸は心配そうに会話集を開いている沙希を見て思わず噴き出した。

「だから、向こうでお世話になるジャンの家は家族全員日本語が通じるし、通訳もしてくれるから大丈夫だって」

「でもそのジャンに会うまでは陸と二人きりだよ?」

「ま、そりゃそうだ。けど、俺、英語なら話せるし。何とかなるって」

「え?」

 信じられないものを見るような目で沙希は陸を見た。

「ああ、俺、大学生のとき英会話教室に通ってたの。言ってなかった?」

「知らなかった!」

 沙希の目がキラキラと輝いた。その目を見るとつい嬉しさと得意げな気持ちががこみ上げてくる。

「私、会話とか苦手なの。聞き取れないし」

「そうだよなぁ。日本語でもコミュニケーション苦手だもんな」

「ひどっ!」

 沙希は会話集を閉じて陸の膝を叩いた。体調も機嫌もよさそうだな、と陸は安心する。沙希を連れて行く上で一番不安なのは彼女の体調に関することだ。元気なときに出発できてよかったと思う。

「飲み物買ってくるわ」

 そう言って陸は立ち上がった。沙希は笑顔で頷く。売店まで歩いていくと幼い子どもが狭い店内を走り回っていた。

「こら、走らないで静かにしなさい」

 五歳くらいの男の子にそう注意した声に陸はハッとした。すぐに振り向いて声の主を見る。

「教授?」

「浅野くんじゃないか」

 男の子の手を握ってその父親と思われる男性が近づいてきた。陸の大学時代の恩師だった。年齢は陸より二回り近く上のはずだ。

「お子さんですか?」

「そうだよ。休み中に向こうに遊びに連れて行こうと思ってな」

「ママ!」

 男の子が母親の姿を見つけて走り去る。陸はママと呼ばれた女性を見た。

(結構若いじゃん……)

 軽く会釈しながら陸は複雑な気分になった。教授の表情も気まずいものに変化した。

「アイツは? 教授について行ったって聞きましたけど」

 教授の妻に聞こえないように陸は小声で尋ねた。

「半年前に一人で帰ったよ。……聞いてないのか?」

「もう一年以上連絡取ってませんから」

 それに一年近くほとんど思い出すこともなかった。そういえばそんなヤツもいたな、くらいにしか陸には思えない。

「お前の彼女だろ」

「元、ですけど。しかもそれだって名目上は、ですし。教授が一番よくご存知なはず」

 口に薄い笑みを浮かべて陸は言った。教授の顔が一瞬青ざめ引きつったが、妻が近づいてきたので表情だけは取り繕ったようだ。

「生徒さん?」

「以前の、な。ところで浅野くんは旅行かい?」

 教授の妻は愛想の良い笑顔で陸を見ている。あまりまじまじと見るのも悪いかと思い何気なく観察するが、容姿はどちらかというと清楚でスタイルも悪くはない。

(こんな奥さんがいてよく不倫なんかするよな……)

「いえ、海外勤務になって今日フランスへ出発なんです」

 忌々しく思う気持ちを表に出さないようにしながら答えた。教授はそうかそうか、と大げさに頷いて見せた。妻も隣でニコニコしていたが、男の子に手を引っ張られてお菓子売り場のほうへと去った。

「お子さん、まだ小さいじゃないですか」

「……そうだよ」

 陸の耳にかろうじて聞こえるほどの小さな声だった。

「じゃあ、もうアイツとは終わったってことですか」

「彼女が私に愛想を尽かしたんだ。……離婚はできないからな」

 フンと陸は鼻で笑った。

「君にも悪いことをしたな」

 教授は申し訳なさそうに頭を垂れた。陸はそれを軽蔑の眼差しで見る。

「別に俺は何も。あんな女のことはすっかり忘れてましたから」

 それを聞いた教授はホッとしたような顔になり、色を失っていた頬に赤みが差した。

「じゃあ今は彼女がいるのかい?」

(そんなこと聞いてどうするんだよ)

 心の中で呆れながら、まぁ、と肯定した。すると教授は突然相好を崩し明るく言い放った。

「そうか、よかったな! 君には忘れられない女性がいるって聞いていたから、どうしているかと心配だったんだ」

「それはご心配をお掛けしました」

 陸はもう話を続ける気になれず、適当に挨拶して飲み物を買って売店から急いで出た。ロビーへ早足で戻ると心配そうにキョロキョロしている沙希の姿が見えた。それが目に入ると自然と笑みが浮かぶ。

「ごめん。売店で偶然大学の教授に会った。仕方なく挨拶してきたよ」

「そうなんだ」

 沙希は安心したのか座った陸の腕にもたれかかってきた。

(この人を忘れられるわけないし。けど、あの女に関わることになったのも……)

 ふと昔のことを思い出して陸は気分が滅入った。救いは今、沙希がそばにいて、そして昔とは違うということだ。

 近くに人がいることなどお構いなしに、沙希の頭を自分の胸に押し付けた。

「突然どうしたの?」

 さすがに沙希は恥ずかしがって離れようとした。だが、押さえつけてそれを阻止する。顔を沙希の首筋に埋めて彼女の匂いを嗅いだ。

「ちょっと!」

「いいじゃん。少しの間こうしててよ」

 やはり無理をしてでも沙希を連れて行くことにして正解だった、と陸は思う。

(沙希のためじゃなくて俺のために、だな)

「これからいろいろ大変なこともあるかもしれないけど、頑張ろうな」

「うん」

 沙希が少しだけ顔を上げた隙を狙って、陸は額に軽くキスをした。

 

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1st:2009/09/15
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