その日沙希は早く帰宅したので、荷造りをしながら陸の帰りを待っていた。
もうすぐ沙希と陸の出発の日がやってくる。沙希と違って陸は持って行くものが少ないのか早々に荷物をまとめ終わり、準備が遅々として進まない沙希は焦っていた。
(でも、確か陸のいとこは女の子だけだったはず……)
沙希が新しく営業部に来る課長の噂を聞いたのは少し前のことだ。会長の孫だとすると陸のいとこのはずだが、そんな人がいるとは聞いたことがない。
(王子様系ってどんな人だろう?)
陸には言えないが、実は沙希もそれがかなり気になっていた。荷物をスーツケースに詰め込みながらあれこれと想像する。
陸の反応からすると、陸はその王子様系と噂される人物を好いてはいないようだ。なので沙希はその話題を自分から言い出すのがためらわれたのだ。
(すぐ拗ねるからなぁ……)
ため息をついて沙希は下着をつまみあげた。そして首を傾げる。
(これ……ちょっと透けすぎ?)
先日購入したばかりの下着だが、実際に着用してみるとレースの部分が思ったより透けていた。恥ずかしいのでまだ陸には見せていない。
(でもせっかく買ったから持って行こうっと)
次は、と今度は深い紺色の下着をつまみあげる。
ガチャっと玄関が開く音がした。
沙希は慌ててしまおうとしたが、逆に下着が入っている衣装ケースをひっくり返してしまった。
「何やってんの?」
部屋を覗き込んだ陸は、惨状を目の当たりにして笑いながら肩をすくめた。
「おかえり」
「ただいま。……その紐のがかわいいよな」
「は?」
「紐がエロい。つーか、お前の下着、全体的にエロいぞ。俺は好きだけど」
そういい残して陸はリビングへ向かう。沙希も急いで衣装ケースに下着を放り込んで後を追った。
「あーあ」
陸はテーブルの上に持っていたCDを投げ出した。首を傾げて陸を見るとため息混じりに「見れば?」と言う。手に取ってみると自主制作版のようだった。
「……これは?」
「昔のバンドのメンバーが作ったCD。デビューするかも、だって」
沙希はジャケットをもう一度見た。
(あ……この人、前に会ったことある!)
そこには陸の家庭教師をしているときに一度だけ電車の中で会ったことがある、長身で女性的な美貌の男性が写っていた。派手なメイクをしているが間違いない。
「でも、売れるのか? 今はこういうジャンル、流行ってないだろ」
着替えてリビングに戻ってきた陸はキッチンに入り水を飲んだ。
「まぁ、そうだね」
「お前もそう思う?」
嬉しそうに言ってもう一杯水を飲み干した。珍しく酔っているようだ。それほど遅い時間でもないのにこれほど酔って帰ってくることはめったにない。
「何かあったの?」
「べーつに。ただ、昔の友達に会ったらつい飲みすぎた」
「……この人?」
沙希はCDのジャケットを陸に見える位置まで持ち上げた。返事の代わりにため息が返ってくる。
「そのCDもさ、ソイツの親が金出してんの。信じられねぇよな。しかもクレジットの最後にサンクスって彼女の名前まで入れてるし」
思わず沙希はクスッと笑ってしまった。
「いいじゃない。彼女だったら」
「今はもう別れてるし」
「……それは、微妙……」
「だろ? 沙希だったら絶対嫌がるだろうね」
陸はテーブルを挟んで沙希の向かい側に座った。意地悪な目で見られたので口を尖らせる。
「そんなことないよー。喜ぶよー、きっと」
「嘘だ。しかもそのうち捨ててそう。ホント、お前は容赦ないからな」
「そうかなぁ……」
「そうだろ。でも、実はお前に感謝してるけど」
沙希は眉間に皺を寄せた。少しうつむいた陸は目を伏せる。
「昔、お前に俺たちのステージを録画したビデオ、見せたじゃん」
そういえばそんなことがあったな、と沙希は思い出した。あまり鮮明な画像ではなかったが、確かインディーズレーベルに売り込むために録ったビデオだったと思う。
「あれ見てる沙希の反応がイマイチだったから、こりゃダメかな、って思った」
「えー!? 私、そんな反応してた?」
「覚えてないのかよ。すげぇ微妙な顔してた」
心当たりはあった。どんな反応をすればいいのかわからなかったのもあるが、実際プロとしてやっていくのは難しいだろうと思ってしまったのだ。
「でもまさか、それで諦めた……の?」
「それだけじゃないけど、あのときのお前の顔見た瞬間、もうほとんど諦めてたかも。なんかこう俺を見る目が『好きー!』って感じじゃなくて、厳しい批評家の目だったからね」
沙希はテーブルに肘をついて頭を抱えた。自分の態度が陸の夢を奪ったとは思いも寄らなかったのだ。後悔しても遅すぎるが後悔せずにはいられない。
「……ごめん、まさか私のせいで」
「だから、いいんだって。むしろ感謝してる」
そう言われても沙希は顔を上げることができなかった。
陸が立ち上がる気配がしたが、それでも沙希は同じ姿勢のままでいた。
「私ね、……応援してたんだよ」
「わかってる。あーもう、ごめん。言わなきゃよかった」
背中を撫でる温かい手が優しすぎて涙が出そうだった。陸のもう一方の手がテーブルの上のCDをつかむ。
「たぶん俺のヤツらに対する今の気持ちは、沙希が俺に思っててくれたのと同じなんだよ」
沙希は少しだけ顔を上げてみる。
「でも、ちょっとは悔しいでしょ?」
「ま、そりゃ少しはね。そのうちライブでも見に行ってやるさ。お前も一緒に行く?」
下から覗き込んできた陸と目が合ったので、うん、と頷いた。陸は目を細めて満足げな表情になる。沙希は安心して甘えるように頭を陸の肩に預けた。
「そういえば、あの噂、お前知ってたの?」
(あ……)
沙希はどう言おうか迷った。
「えっと、少し前に聞いてたけど……確か、陸のいとこって女の子だけって言ってたよね?」
「よく覚えてるな」
だって、とその話を聞いたときのやり取りを沙希は思い出しながら言った。
「陸のことが大好きな女の子だったよね?」
「そう。今、二人とも中学生になってるはず。俺のことが大好きなんだって」
(それ聞いても私がやきもちを焼かないって拗ねたのは誰よ?)
心の中で文句を言いながら、沙希は頭を起こした。陸は腕を組む。
「それで、……気になる? 王子様系」
「うん」
「男の話になるとやけに素直だな」
ものすごく冷たい目で睨まれた。気にならないと言ったところでどうせ追及されるのだ。沙希は気にせずにっこりとして見せる。
「他にもいとこがいるの?」
「いない。正確にはアイツ、はとこなんだ」
(はとこ……)
親戚付き合いの少ない境遇だった沙希には、はとこと言われてもピンと来ない。いとこの子供同士をはとこと呼ぶことは知っていたが、実際にはとこに当たる人物に会ったことがなかった。
「よく会う人なの?」
「小さい頃はジイさんの家でよく会ってたらしいけど、全然覚えてねぇよ。だけど……」
陸は立膝にした足に頬杖をついた。そして険しい表情でため息をつく。
「なんか、嫌われてるんだよな。俺は別に何とも思ってないのに」
沙希は返事に窮した。ますますどんな人なのか気になるが、今まで漠然と抱いていた期待が急速にしぼんでいく。
「でもしばらくは会う機会もないよね」
暗い顔になった陸を元気付けるように彼の膝を叩きながら沙希は言った。
「そうだな。俺らには関係ないね。それより」
膝の上に置いた手に、陸の手が重ねられた。目が合うともう逃げられない。
「ねぇ、慰めてよ」
アルコールの匂いに沙希は少し眉をひそめた。
「酔っ払い……」
「いいじゃん」
既に指が沙希の服の上を這っている。首筋に口づけされて、思わず小さく声を上げてしまった。
「やらしいなぁ」
「どっちが!」
「けど、前より感じやすくなってるでしょ?」
沙希は陸の胸に頭を押し付けて首を大きく横に振った。
「恥ずかしがらなくていいよ」
優しい声が近づいてきて、少しだけ顔を上げるとすぐに唇が重なった。貪欲な舌の進入を許すともう他のことが考えられなくなる。
「立てる?」
そう言って手を差し伸べた陸にすがるようにして立ち上がると、意地悪な光を宿した瞳と視線がぶつかった。
素早く沙希の腰に手を回したかと思うと、歩きながら胸のふくらみに触れてくる。
「ちょっ……、やっ」
後ろから無理矢理歩かされているが、その間も陸の手は服の中に入り込み悪戯し放題だった。
隣の部屋までの距離をこれほど長く感じたことはない。だが決して嫌ではなかった。
壮行会という名の下、沙希と陸の出発前に営業部主催の飲み会が企画された。
歓迎されてからたったの一年で見送られるとは思いも寄らなかったが、自分ひとりではないのがまだ救いだ。そう思いながら陸は少し離れた席に連れて行かれた沙希を見た。
「ちょっと、何見つめてるんだよ。いーっつも一緒にいるってのに!」
同じ営業2課の藤沢が後ろから頭を小突いてきた。グラスを持って隣にドカッと腰を降ろす。
「しかしアレだ、浅野はこれからエリートコースを邁進するわけだな。ま、噂が本当かウソかはどうでもいいが、実はどうなんだ?」
声をひそめて興味津々といった様子の藤沢に、陸は苦笑いで答える。
「隠し子ってヤツですか?」
「そう、それ!」
藤沢は指でさして陸をじろりと見た。周りにいた若手の社員も話題を察して近づいてくる。陸はグラスを思い切り呷(あお)った。
「違いますね」
「なーんだ! でもまぁ、それはどうでもいい」
本当にどうでもよさそうな口調の藤沢は、今度は座りなおして陸に身体を寄せた。
「それより川島さんといつから付き合ってたんだ?」
向かいの席から空いたグラスにビールを注がれたので、陸はそれに少しだけ口をつけた。
「いつから、というのは難しいですが」
「なんだ、そりゃ?」
「川島さんに初めて会ったのは、俺が高校生で川島さんが大学生のときですよ。俺の家庭教師だったんで」
「はぁ? つーか、やらしいなぁ! ……え? その頃からもう?」
「まぁ、そうです。彼氏いましたけど」
しれっとして言うと、藤沢が驚きのあまり陸の腕を叩いた。
「マジかよ? お前、高校生で?」
「そうですけど」
更に藤沢が何かを言おうと口を開いたとき、仕事で遅れていた部長が宴会場にようやく姿を見せた。そして部長に続いて現れた人物に、陸は表情を硬くする。
(……来たか)
「おっと、次世代の王子が登場したぞ!」
藤沢が小声で茶化すように言った。ほぼ宴会場にいる全員が彼に視線を向けている。陸は気になって沙希を見た。
沙希はアルコールが入ったせいか頬が少し上気しているが、普段と変わらない表情で新たな客を見ていた。
「あー、ありゃ間違いなく王子だわ。オーラが出てる」
どこが、と思いながら陸も冷めた目で彼を見た。部長が幹事から挨拶を促され、新しい課長を紹介するために立ち上がった。場内に一際大きな拍手が沸き起こる。
「こちらが四月から営業一課へと配属になる亀貝潤也(かめがいじゅんや)課長です。入社後すぐに中国工場の立ち上げのために海外勤務になったため、ほとんどの人が彼とは初対面だと思いますが、とても優秀で高い能力の持ち主であることは既に皆さんも聞き及んでいることと思います。新たにこのような強力な戦力を迎えることができて我が営業部も……」
部長の挨拶を聞きながら、陸は部長の隣に立つ潤也を観察する。
最後に会ったのは十年以上前のことだった。小学生だった陸にしてみると当時の潤也はずいぶん大人に感じられたが、今、こうして見ると自分とさほど変わらない。
「若いですね」
陸は藤沢にだけ聞こえるように小声で言った。藤沢も部長の挨拶を聞きながら小さく頷く。
「確か29だって聞いたぞ」
それくらいの差しかなかったのか、と改めて思う。だが、以前と全く変わらぬいかにも優等生らしい容姿に、陸は内心、ケッと毒づいた。
(こんなところでご対面なんて、感動的だな、ジュンちゃん)
部長の言葉に続いて、卒のない短い挨拶で潤也は営業部の社員たちから熱狂的な歓迎を受けた。特に女性社員は皆、普段よりも甲高い声で潤也を取り巻いた。
(……ったく、ドイツもコイツも)
呆れた目でその異様な盛り上がりを見せる人だかりを見ながら、陸はうんざりした気分を持て余した。それだけ「亀貝」という姓はここにいる人間にとって何らかの魅力があるということなのだろう。
(くだらねぇ……)
グラスに残っていたビールを飲み干して、沙希はどうしているかと首を回してみる。
相変わらず同じ場所で、数人と静かに談笑している姿が見えた。沙希は動かなくても周りの席は入れ替わり立ち替わり常時埋まっている。
それは今日に限らず飲み会ではいつもそうだった。沙希は場の中心人物ではないのになぜかいつも周囲に人が絶えない。それも沙希の人徳なのだろうかと思う。
(あ……)
何気ないふうを装ってしばらく眺めていると、沙希の隣に営業三課の田原が座った。その顔を見て陸は警戒心を募らせた。以前に見た嫌な光景がよみがえる。
田原は酔うと女性に必要以上に接近しセクハラ紛いの行為をするのだ。陸は最初の飲み会で沙希がその被害に遭うのを見て、無性に腹が立った。だが、田原は沙希と同期で陸からすると年上だ。直接本人に抗議することはためらわれた。
しかし、今の陸には正々堂々と抗議する理由がある。
田原が不必要に接近した瞬間、陸は立ち上がった。
そのとき陸の視界を人影が横切った。不意をつかれて身体が動かない。無意識に視線がその背を追う。
(……!?)
「キミ、いくら酒の席で無礼講だと言っても、これがセクハラだということくらい知っていてやっているんだろう?」
潤也が背後から田原の腕をつかんで引っ張り上げていた。毅然とした硬質の声が宴会場に低く響き、飲み会の浮かれた空気が一瞬にしてどこかへ吹き飛んだ。
田原はさすがに酔いが醒めたのか、青白い顔で俯き気味に宙のどこか一点を見つめている。ほぼ全員の視線を一身に受けてこれ以上の恥辱はないだろうと陸は思った。
沙希が困ったように田原と潤也を見比べる。それからすがるような視線を陸によこした。
陸は深くため息をついてから、ゆっくりと席の間を縫って沙希のもとへと近づいた。