春は出会いと別れの季節だ。
沙希はこの季節が来ると長い物思いにとらわれることが多くなる。仕事は決して暇ではないというのに、自分の席でパソコンに向かいながら一年前のことを思い返していた。
(同姓同名の別人……か)
少し背筋を伸ばし、陸の席を見た。頬杖をついてノートパソコンを眺めている姿が見える。
陸はこの頃難しい顔をしていることが多い。
理由はいくつかあるのだろうが、陸を複雑な心境にさせている一番大きな原因は、会社の組織をスリム化させる動きが顕著になったことだと沙希は感じていた。
実際、帰宅後にそれが話題に上ることが多い。組織がスリムになれば当然余剰人員の問題も出てくる。事業所の統廃合と大規模なリストラの計画が持ち上がっていた。
(デリケートな問題だよね。しかもキミはまだ新入社員だもんね……)
陸の姿を見ながら沙希は思った。
新入社員とはいえ、陸は近い将来この会社でリーダーシップをとらねばならない身だ。だが、今はまだ何の権限もない。その微妙なポジションが陸にとっては辛い部分なのだろう。
(まさかキミが、ね……)
沙希の知っている高校生の陸は面倒なことは避けて通りたいという傾向が強かった。
だが、今は当時の陸とはまるで別人だと沙希は思う。
仕方なく、という姿勢ではあるが会社の問題に正面から取り組もうとしている。昔なら自分ひとりの力じゃどうにもならないと最初からあきらめているだろう。
それに音楽への夢を諦めて幼い頃から拒否していたという道を選んだのだ。
(でも、本当によかったの?)
沙希にはよくわからない。
しかも更には自分という荷物まで背負おうとしているのだ。
(せめて重荷にならないようにしなきゃな)
しかし実のところ、ここに来て沙希の中には小さな不安が芽生えていた。
改めて沙希は陸の祖父であり、この会社の会長の家を初めて訪問した日のことを思い出した。
大都会の郊外にその家はあった。
沙希が想像していた大邸宅はもっと厳めしい門構えをしているはずだったが、実際はどこに門があったのかすらわからない広大な敷地内に忽然と瀟洒な屋敷が出現した。屋敷自体もかなりの大きさだ。
陸は玄関前で車を停めた。すぐに丁寧な物腰の男性が寄ってきて運転席のドアを開ける。助手席側には年輩の女性が回ってきた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
沙希は受けたことのない待遇に戸惑いながら車を降りた。突然足がガクガクしそうなくらい緊張する。
「顔色悪いけど、車酔い?」
陸が目ざとく声を掛けてきた。沙希は慌てて首を横に振った。
「ちょっと緊張してきちゃって」
そう答えると陸は目を細めて微笑んだ。沙希が近づくとすぐに腰に手を回してくる。
「まぁ、緊張するなって言っても無理か。でも俺が一緒だから大丈夫」
沙希は小さく頷いた。そして改めて目の前の大きな屋敷を見回す。
「ずいぶん大きなお屋敷だけど、陸はここに住んだことあるの?」
「ない。夏休みに長期滞在したことはあるけど、見た目通り無駄に広い。ま、隅から隅まで歩き回ればご老人にはいい運動になるんじゃね?」
そう言って陸は肩をすくめた。
玄関を上がると洋館のような建物の内部が見え、沙希の緊張は更に高まった。陸は沙希の手を取ると慣れた様子で廊下を奥へと進んだ。
「遅いじゃないか」
沙希は聞き覚えのある声に驚いた。突き当たりの部屋のドアは開いていて、沙希と陸の足音を聞きつけてその人が出迎えた。
「遠すぎるんだよ。こんな山奥まで来るのがどれだけ大変か、こっちの身にもなってくれ」
陸は部屋の戸口で相手の顔もろくに見ず文句を言った。沙希は小さな声で挨拶する。その人は眼鏡の奥で目を細めて沙希に愛想のよい笑顔を見せた。
「坂上くんはもう帰りたいそうだ」
部屋の中から低い声が聞こえてきた。おそらく陸の祖父だろう。反射的に沙希の背筋は伸びる。
「あっそ。俺、この人には用事ないから、帰れば?」
「そうつれない言い方をしなくてもいいだろう? それに用事があるのはお前にではない」
社長は陸を一瞥して沙希に視線を戻した。
「まぁ、入って座りなさい」
また部屋の中から声がした。陸は社長には目もくれず、沙希の手を繋いだまま部屋に入った。
沙希は緊張で胸が張り裂けそうだったが、部屋の中に足を踏み入れて目が合った陸の祖父の姿に驚いた。
陸の祖父であり、沙希の会社を興して現在は会長と呼ばれるその人は、七十を越えていると聞いたが年齢よりはるかに若く見えた。頭髪こそは少なくなっているが、肌の張りやつや、そして体格は五十代でも通用しそうだ。
だが、何よりその人の存在感を際立たせているのは眼光の鋭さだと沙希は思った。
「はじめまして、川島沙希と申します。どうぞよろしくお願いします」
まるで採用面接のようだと思いながら、マニュアル通りの角度に腰を折り、礼をした。顔を上げて陸の祖父を見ると軽く頷いてくれた。視線に好意的なものを感じてようやく沙希は心が落ち着いてくる。
「あなたのことは会社の人間からも聞いていましたよ。とても美人で優秀な女性社員がいると、ね。……なるほど、素敵なお嬢さんだ」
「言っとくけど、沙希を連れてきたのはアンタたちが都合よく利用しないよう釘を刺すためだから」
陸は来客用ソファに腰掛けて足を投げ出した。それから沙希を見て自分の横に来るように促す。
「利用とは穏やかではないな」
社長はにこやかに笑いながら口を挟む。
「しかしお前も、沙希ちゃんはもっとその能力を発揮すべきだと思っているんだろう?」
「それはそうだけど、……ていうか、その『沙希ちゃん』ってやめろ」
陸は社長を睨みつけたが、睨まれたほうは意に介せず涼しい顔をしていた。
「まぁ、話を聞いてからどうするか決めてくれればいい」
その言葉を聞いて陸はあからさまに嫌そうな顔をした。
「やっぱりそういう話かよ」
「陸、まず行き先はお前の希望通りフランスになった」
沙希は思わず陸の横顔を見る。ここへ来る途中、春からどこへ行くことになるのかと聞いたら逆に「どこに行きたい?」と質問されたのだ。希望を伝えているとは思いも寄らなかった。
「それで沙希ちゃんを連れて行くために一つ条件がある」
「何?」
「彼女に毎月エッセイを書いてもらいたい」
「え?」
沙希は小さな声だが聞き返した。声を上げずにはいられなかったのだ。
「何に使うんだよ」
「広告に使わせてもらいたいのだ」
しばらく黙ってやり取りを聞いていた祖父が口を開いた。陸は渋い顔をする。
「どういうこと?」
「雑誌の広告にただ製品の写真だけじゃつまらないだろう? テレビなどの動画ならイメージモデルとして女優を起用しているが、雑誌や静止画像のメディアでもっと効果的な宣伝方法を、と考えた結果だよ」
社長の言葉を聞いて陸は腕組みした。少し間をおいて沙希のほうへ顔を向ける。
「どう思う?」
「どうって……仕事ということであれば、できる限りお役に立てるよう頑張りますが……」
沙希は控えめにそう答えた。率直な気持ちとしてはとても嬉しい。だが、是非やらせてくださいと言えるほどの自信はなかった。
「それ、沙希の名前とか載せるつもり?」
陸は険しい顔のまま社長に問いかけた。沙希は陸の言葉にハッとして社長を見た。
「本名の必要はないだろう。ペンネームがいいかもしれないな。それに横顔の写真も付ければ、謎めいていていいんじゃないか?」
「写真はまずいだろ」
陸が即答する。社長は意外そうな顔をした。
「横顔で沙希ちゃんだとわからないようにしても?」
「だいたい写真はいらないだろうが!」
「いや、これは絶対譲れないな。これくらいの大きさだが……」
社長がテーブルの上に無造作においてあった書類の中から一枚の紙片を陸のほうへ放った。
それを手に取った陸は眉間に皺を寄せた。
「沙希、どう思う?」
陸が持つ紙には広告の大まかな構成が設計されていた。顔写真と書き込まれている部分は親指の第一関節ほどの大きさだ。
沙希は戸惑った。名前や顔がメディアに露出するのは極力避けたい。過去のこととはいえ、もう何も起こらないとは誰も保証してくれないのだ。だが、社長はそのことを踏まえた上で提案してくれているようだった。
「陸は何を心配しているんだ?」
陸の祖父が真正面から問いかけてきた。
「何って……ジイちゃんも聞いてるんだろ?」
「だいたいのことは、な。だが万が一、何か問題が起きたとしてもお前が沙希ちゃんを護ればいいんじゃないのか? それともお前はその自信がないと……?」
沙希は陸の纏う空気が突然変化したのを感じた。
「……んなわけねぇだろ。それと『沙希ちゃん』はやめろ!」
陸は静かに怒っていたが、沙希は笑いをこらえることができず陸から顔を背けた。
「おい、笑うな!」
「……ごめん」
「じゃあ、話がまとまったところで早速写真撮影をさせてもらうよ」
社長がそう言うなり立ち上がった。
「は? 何それ?」
陸の言葉などまるで聞こえないかのように社長は沙希を促して部屋を先に出て行った。沙希は慌てて立ち上がり、陸の祖父に一礼して社長の後を追う。
部屋を出るときに陸を振り返ると、ちょうど立ち上がったところだった。
「陸、アイツをそろそろ本社に戻すぞ」
陸の祖父の低い声が聞こえた。陸の動きが一瞬止まる。
「……好きにすれば? 俺には関係ない」
沙希は祖父の言葉がとても気になったが、聞こえなかったふりをして社長の背中を追った。
「先輩、もうすぐですね……。本当にパリに行っちゃうんですよね」
突然、同じ営業1課の早坂薫が話しかけてきた。
「うん」
「いいなぁ。憧れます! 婚約者と一緒にパリなんて!」
薫はすっかり夢見る乙女の顔になっていた。沙希は当事者なのにそこまで盛り上がりきれないのは損な性格なのだろうかと思いながら薫を眺める。
「先輩は会社を辞めちゃうんじゃないかと思ってました」
「どうして?」
「だって、あのときは本当に辛そうだったから……」
沙希が以前会社で倒れたとき、薫がずっと付き添ってくれたのだった。そのときのことを思い出すとまだ胸が痛む。
「でもよかったです。今はとっても幸せそうです」
「そうかな?」
「そうですよー。あの浅野くんが、まさか入社して一年で結婚宣言するなんて、誰も想像しないじゃないですか! でも相手が我が社の女性社員で人気ナンバーワンの先輩だから誰も文句が言えないという!」
そう言ってから「あ、多少文句を言ってる女子もいましたね」と舌を出しながら付け足した。沙希は失笑する。
「でも……」
突然薫は表情を曇らせて声を小さくした。
「噂では浅野くんのお給料が少ないから、心配した社長が先輩を別会社で養うんだと言われてます」
沙希はたまらず噴き出した。どの辺りで噂されているのか気になるところだ。
「そりゃまたすごい噂だね」
「だって先輩は社長にものすごーく気に入られてますもん。そしてこれは本当に極秘の噂なんですけど……」
そう言って薫は沙希の耳元に顔を寄せた。
「浅野くんが社長の隠し子だって!」
沙希は口を開けたまま薫を凝視した。薫は真剣な顔をしていた。
「……隠し子?」
「それで、親子で先輩を奪い合ったという……あ、いや、それはないですよね」
薫は沙希の表情の変化を見て急に慌てた。
「ないない。社長とは本当に何もないし、浅野くんにはちゃんとご両親がいるよ」
「そうですよね! 本当にこんな噂がどこから出てきたのか……。たぶん先輩と浅野くんの組み合わせが意外すぎだのが原因ですね。何しろ誰も気が付きませんでしたから!」
「へぇ。そんな噂があるとは知りませんでしたよ」
突然背後から別の声がした。薫は瞬時に振り返って青ざめる。
「俺と川島さんってそんなに意外ですか?」
「浅野くん……いつからここに?」
驚愕のあまり薫の声は震えていた。沙希は意地悪い笑みをたたえた陸に立ち去るように目配せする。だが陸はそれを軽く受け流した。
「今、通りかかったところですけど、楽しそうな話だったんで、つい……」
「盗み聞きなんて趣味が悪いよ」
沙希は薫を庇うように陸を睨んだ。それでも陸は愉快そうに口の端だけで笑ってみせる。
「川島さんは噂をどう思います?」
「噂って?」
「俺が社長の隠し子だとか。似てると思いますか?」
挑発するような視線をよこした。薫が固唾を呑んで二人のやり取りを聞いている。
「私、社長のことはよく知らないから」
「へぇ。じゃあ俺のことはよく知ってると?」
「……武勇伝ならいろいろと」
沙希は嫌味なほど笑顔を作って言った。さすがに陸の顔から笑みが消える。
「早坂さんは噂を信じますか?」
「え? あ、私は……勿論、根も葉もない噂だって思ってるよ」
薫は突然矛先を向けられて動揺を隠せない様子だった。それもそうだろう。噂の当人を目の前にして信じると言えるわけがない。
「そうですか。早坂さんにそう言ってもらえると嬉しいです」
無邪気な笑顔を見せた陸に薫の頬がわずかに染まる。役者だな、と沙希は思う。そういうところは社長の血をひいていると言ってもいいかもしれない。
「噂って言えば、先輩たちと入れ替わりに来る新しい課長もいろいろと噂のある人なんですよね!」
陸の笑顔ですっかり気を良くした薫はまた懲りずに口を滑らせた。陸の目つきが少し鋭くなった。
「へぇ。どんな?」
「なんと、会長のお孫さんだって! だって二十代で課長ですよ? うちの会社じゃありえないですよ。何しろ余るくらい昇進待ちのオジサマがいるっていうのに」
薫の声は小さいが話しているうちにどんどん興奮して熱を帯びていくのがわかった。沙希もその人の噂は聞いていたが、陸にそれを話したことはなかった。陸の顔を見るが表情が読めない。
「それにものすごく優等生だそうじゃないですか。何でも大学生のときにIT関連の会社を興してるらしいですよ。しかも、容姿が王子様系だって!」
「王子様系……ね」
陸がそう反応する。うっすらと笑みを浮かべているが目が笑っていない。沙希の背筋に寒気が走った。
直感的にあの人だ、と確信する。
『陸、アイツをそろそろ本社に戻すぞ』
『……好きにすれば? 俺には関係ない』
新しい季節の始まりは波瀾の予感がした。