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第三部 君の目に映るもの

 濃緑の樹木がそれぞれに衣を替え、色とりどりの森が見るものの目を楽しませる季節になった。燃えるような赤、鮮やかな黄――自然の美しさにはかなわないと沙希は思う。

「もうすぐだな」

 隣に座っている陸の言葉に、沙希は「うん」と消え入るような声で答えた。

 すぐにわざとらしいため息が聞こえてくる。

(あーあ、もういや!)

 沙希は飛行機の窓に額をくっつけるようにして、頑なに美しく紅葉した故郷の原野を眺めていた。

(私だって理解しているつもりだよ? でも毎日朝帰りってどういうこと? しかも「結婚してからモテなくなった」って、なによ。モテたいなら結婚しなきゃよかったんじゃない?)

 そこまで心の中で愚痴ると、先ほどの陸より大きなため息をつく。

「沙希、俺さ……」

「何?」

「ごめん」

 そのひとことで沙希の堪忍袋の緒が切れた。

「あやまらなきゃいけないような悪いことしたの?」

「いや、そういうわけじゃないけど、怒っているだろ」

「別にあやまってほしいわけじゃないんで、あやまらなくていいよ」

 怒っていると指摘されたので、沙希は姿勢を正して少しだけ譲歩する。

 陸が気遣うような視線をよこした。

「沙希には悪いと思っている。海翔のこと、全部任せきりだし」

 ううん、と首を横に振る。

「少し疲れているだけだから。私のほうこそ態度悪くてごめんなさい」

 早口で言って唇を噛んだ。疲れているのは本当のことだが、腹を立てている自分が狭量で惨めだった。

(私がこんなふうだからダメなんだよね)

 そうは思うものの、陸が出かけていく夜の会合には常に女性の影がつきまとう。社会の第一線で活躍する女性たちと、まだ言葉の通じない息子と格闘する沙希とでは、同じ一日でも雲泥の差があるように思えた。そしてその差はどんどん広がっていくような気がして、沙希はたとえようもない孤独と焦りを感じるのだった。

 ドンと衝撃音がして、飛行機が無事に着陸したのだと知る。

 陸の腕の中で息子の海翔が目を覚まし、寝ぼけ眼で不満そうな声を上げた。


     


 今回は陸がお盆休みを取れなかったため、2ヶ月遅れての帰省となった。沙希のことを思ってか、陸は沙希の実家に滞在する手配を自ら済ませていた。もちろん、沙希の実家は大歓迎である。

「しっかし、お姉ちゃん、髪ずいぶん短くしたね!」

 沙希の妹、里奈が開口一番にそう言った。

「髪を乾かす時間がなくてね」

 沙希は苦笑しながら答える。実際、長い髪を手入れするような余裕がないので、久しぶりにショートヘアにしたのだ。

「わかるー! でもお姉ちゃん、短いのも似合うよ。ね、陸くん?」

「ええ。沙希はかわいいからどんな髪型にしても似合います」

 荷物を整理するふりをしてため息をついた。この髪型を陸が喜んでいないのは明白なのに、白々しいお世辞など聞きたくないというのが沙希の本音である。

(なによ、「俺は昔の長い髪の沙希が好きだった」とか……)

 苛立ちをぶつけるように階段をドンドンと踏み鳴らして荷物を二階へ運んだ。


     


 階下では陸がテレビにビデオカメラを接続して、これまで録画した海翔の日常を披露しようとしていた。

 沙希の両親はかわるがわる海翔を抱っこしながら、上映が開始されたテレビに歓声を上げる。里奈も自分の子どもたちに着席を促した。

 沙希は里奈の隣に座って、生まれたばかりの息子の様子に目を細めた。

(この頃は大変だったけど、陸の帰宅も早かったから……そんなにつらくなかったな)

 そう思うと目の前がぼやける。

 しかし誰もがテレビに注目しているから、沙希が目に涙を溜めていることには気づいていない。

 こんなことで泣くなんて、どうかしている。そうは思うものの、たった数ヶ月前のことが遠い昔に感じられて心がひりひりした。

 寝返りができるようになり、クッションに囲まれたソファでひとりでお座りをし、そしてついに小さな天使がハイハイでカメラににじり寄ってくると、沙希の家族は一気に盛り上がった。

「いやー癒されるねー」

 里奈がしみじみと言った直後、テレビに沙希の姿が映った。

「おっ! お姉ちゃん登場」

「さきタンとうじょう!」

 里奈の下の子がはしゃぐ。幼児特有の舌足らずなしゃべり方に沙希は顔をほころばせた。

 よく晴れた夏の日に親子三人ではじめて動物園へ行ったそのときの映像だった。行楽日和だったため、動物園は混んでいた。人ごみの隙間から檻を覗くように見ている沙希の姿が映し出される。

 これはなんの動物を見ているのだろう、とテレビの前では議論になりかけたが、カメラがズームしたせいで誰もが口を閉ざした。

「これって……」

 そう口走ったのは里奈だ。

「陸くんの視線!?」

 テレビには沙希の表情が克明に映し出されていた。沙希が移動するのをカメラはまるで人の目の動きのようにスムーズに追いかける。テレビの中で沙希は眉を寄せたかと思うと、感心したように頷き、ベビーカーの海翔に話しかけていた。

(うわー、なにこれ、恥ずかしいよ!)

 いたたまれずに陸を見ると、彼はいつになく真剣な表情で画面を凝視していた。

(えっ……)

 ドキッとした。

「私なんか見ても面白くないよ。飛ばして、飛ばして!」

 沙希は慌てて立ち上がり、画面をふさごうと両手を大きく振った。

 だが陸はテレビに目を向けたまま、ぼそっとつぶやく。

「沙希、ホントきれいですよね」

(はぁ!?)

「髪、短いの、似合わないって言ったくせに」

「いや、俺、そんなこと言った? ごめんな。やっぱり沙希はどんな髪でもかわいい」

 沙希の隣で里奈が「キャー!」と叫んだ。

「陸くん、すごいね! この場でお姉ちゃんにそんなこと言えるなんて……しかも真顔で!」

「だって俺、沙希以外の女性をかわいいとか全然思わないんで」

「うわー! なんなの、この人」

 頭を抱える里奈。苦笑する両親。手を叩いて喜ぶ甥と姪。

 彼らを前にして、沙希は顔をくしゃくしゃにして「うー」と唸る。

 認めたくないが、陸のひとことで胸のモヤモヤが一気に吹き飛んでしまっていた。そんな単純な自分に苦笑する。

(仕方ないな……)

 もう少しだけ、陸のいない夜を我慢しよう。

(でも本当は私、寂しいんだからね)

 喉まで出かかった本音を飲み込んで、目が合った陸に微笑んで見せた。陸は一瞬照れたように目を伏せ、それから極上の笑みを浮かべて肩をすくめた。

 

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1st:2015/10/23
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