何にでもなれると信じていた時期が沙希にもある。
実際、幼い頃から沙希はいくつか習い事をしていて、そのどれもある程度までは頑張った。もう少し頑張れば、どれか一つを職業にすることも可能だったかもしれない。だが結局沙希はOLになった。
現実を直視すると世の中には自分より優れた人間がたくさんいることに嫌でも気がつく。それを悟ったとき、沙希は夢を見ることもそれを実現させるための努力も放棄してしまった。
陸に出会ったのはその直後だった。
たぶん沙希は、陸が夢を語るのを微笑ましく思いながらも、どこか冷めた目で見ていたのだ。
(私って嫌なヤツだなぁ……)
目の前の陸を見て昔のことを反省した。
「でもさ」
重い空気を追い払うように明るい声で陸が口を開いた。
「沙希には好きなことをやってほしいと思ってるんだ」
「え?」
陸がこちらを見て笑顔を作った。
「仕事を続けたければ続けられるようにするし、会社辞めてしたいことがあればすればいいし。ま、俺としてはできれば一緒に会社のこと考えてほしいけど、嫌なら無理にとは言わない」
沙希は何度か瞬きした。その様子を見て陸は念を押すように言った。
「好きなこと、やりなよ」
「……ありがとう。嬉しいけど……陸は?」
自分だけが好きなことをできるはずもない。沙希は心配になって聞いた。
「俺は大丈夫。今はまだ放り出すわけにはいかないし。でも嫌々やってるわけじゃないな。やりがいあるからね。そのうち突然辞めるかもしれないけど」
そう言って陸は不敵な笑みを浮かべた。だがすぐに怪訝な表情になる。
「何、変な顔してんの?」
沙希はこういうときにどんな顔をすればいいのかわからなかった。
「どうしてそんなに優しくしてくれるのかな? と思って」
「そりゃあお前、俺だよ?」
陸がどんなときでも出来得る限りの優しさで自分に接してくれているのはわかっていた。
「うん」
「沙希が元気だと俺も嬉しくなるから、いつも元気でいてほしいんだよね。もう抜け殻みたいなお前は見たくない」
(抜け殻……か。確かに少し前まではそうだったな)
何の希望もなく、同じ仕事を繰り返すだけの毎日。その平凡で静かな日々はある意味では幸せだったとも思う。
だが、もう戻りたいとは思わない。
「なんだか……」
「ん?」
(家族みたい……っていうのもおかしいか)
「陸に出会えてよかったなぁと思って」
不思議なことだと思う。目の前にいる人は自分とは全く別の場所で生まれ育ってきて、何年か前まではお互いに存在すら知らない人だったのだ。
「ホントにそうだよな。俺がいなかったら沙希はどうなってたか……。もっと俺に感謝しろよ。そして俺を大事にしなさい」
「はいはい」
沙希は真面目な顔を作ってそう言った陸を笑いながら見つめた。
(もっと早く時間が流れてくれればいいのに)
最近の沙希はときどきそう思う。
(早く陸との時間が、あの……昔の無駄に過ごした時間を追い越してくれればいいのに)
それで過去の何かが変わるわけではない。くだらない考えだとは思う。だがそのときが来ればきっと、少なくとも自分の何かが変わるような気がしていた。
焼肉屋を出ると街はすっかり夜の顔になっていた。
「ねぇねぇ、夜遊びしたいなぁって思わない?」
陸の腕に頭をくっつけてそう言ってみる。沙希はそれほど酔ってもいないのに、とても気分が良かった。
「夜遊び? お前は俺のいない間に一体何をしてたんだ?」
冷たい視線が降ってきたが気にならない。
「んー、何もしてないよ」
「あやしい」
「友達に誘われて遊びに行っても、別に何も……」
「それ、男もいるだろ?」
「んー、いたけど別に何も報告するようなことは起きませんでした」
「ま、お前には誘うとか無理だからなぁ」
「うんうん」
信用されるのは嬉しいが、陸にヤキモチを焼かせるような出来事の一つでもあればよかったかな、とも思う。
「ねぇ、ビリヤードやったことある?」
陸が突然そう言った。少し先にボウリング場などが入ったビルが見える。確かビリヤードもできるはずだ。
「ないなぁ。しかもルールがわからない」
沙希は正直に白状した。すると陸が横でプッと吹き出す。
「ルールは簡単。沙希でもわかる。やってみない?」
(何、その、私でもわかるって!)
沙希は口を尖らせて陸を睨んだ。陸はますます面白そうにニヤニヤ笑った。
「陸はやったことあるの?」
「あるよ。大学時代にちょっとハマった」
「ふーん」
陸の腕前を訝しく思いながらも、沙希はビリヤードに挑戦してみることにした。
ビリヤード場は沙希が思ったより広く、半分ほどの台が使用されていた。初めてなのできょろきょろしながら陸の後をついていった。
ところが受付の前に陸が「ちょっとトイレ」と言い出し、沙希はぽつんと一人取り残された。どうしようか、と周りを見ると受付の横にベンチがあった。そこに腰掛けてプレイ中の人たちを観察する。
(女の人……少ないなぁ)
大学生風の人から年配者まで年齢層は幅広いようだが、女性は数えるほどしかいなかった。
少し心細く思っていると、自分のほうに向かって歩いてくる男性の姿を認める。
(……ん?)
「こんばんは。一緒にいたのは彼氏?」
茶髪で色黒の男性が愛想よく話しかけてきた。おそらく年齢は沙希と同じくらいだろう。
「……そうですけど」
「ビリヤードは初めて?」
「……はい」
答えながら沙希はこの人はたぶんモテるんだろうな、と思った。服装もかなりこだわっているようだし、しゃべり方からも自信が窺えた。
「良かったら教えてあげようか?」
「結構です」
突然、陸のきっぱりと否定する声が聞こえてきて沙希は驚いて振り返った。顔が怖い。
「彼氏さん? 若いね。ビリヤード、得意?」
色黒の男性は陸の態度を気にも留めず親しげに話しかける。店員ではなさそうだが、店の常連のようだった。
「まぁ、それなりに。俺が教えるんで放っておいてもらえます?」
陸の出すピリピリしたオーラに沙希ははらはらしたが、男性のほうはまるで気にならないらしい。
「僕ね、プロを目指してるんだ。ここで毎日練習してるんだけど、たまに初心者さんに教えてあげたりしていて……」
「だから、何? プロ目指してるんだったら向こうで練習してろよ!」
(あわわ、言葉遣いが……)
沙希は二人をおろおろと見比べた。
陸は不機嫌さを隠しもせず色黒の男性を睨みつけた。だが、男性のほうはますます笑顔になって陸に一歩近づいた。
「彼氏さん、自信ありそうだね。僕と勝負しない? 勝ったほうが彼女さんに教えるっていうのはどう?」
「…………」
「キミが勝ったら30分奢るよ」
「……いいじゃねぇか、やってやるよ」
(……今「奢る」って言葉につられた?)
沙希は内心おかしかったが笑いをこらえて、二人の後に従って移動した。
ビリヤードにはいくつかのゲーム方法があるということを沙希は初めて知った。これから二人が勝負するのはナインボールで、先に9番のボールを落としたほうが勝ちだ。
「白いのが手球で、あれをキューで撞(つ)いて1番の球から順に落としていくのが基本。途中で他の番号の球が弾かれて落ちてもOK。でも手球が最初に当たるのは台の上で一番小さい数字の球じゃなきゃいけない」
後攻になった陸が沙希の隣に座って小声で教えてくれた。
「沙希でもわかるだろ?」
「うん。それでいつ交代するの?」
「球を落とせなかったとき。手球を落とすのもファウル」
「ってことは、あの人がミスしないで9番まで落としたら、陸は何もしないうちに負けってこと?」
「そう。途中でも9番を落とした時点で、その人の勝ち」
沙希はブレイクショットの音にびっくりして台へ視線を戻した。色黒の男性はこちらを見てニヤリと笑った。
ゲームが始まった。
プロを目指しているというだけあって、男性のキューを構えるフォームは様になっていたし、実際プレイもスマートだった。
「思ったより難しそう」
沙希は思わずそう漏らした。
「簡単に見えたのか?」
呆れたような声で陸が答える。プレイ中の男性を見る陸の目つきは鋭い。
「陸は自信あるの?」
「どうかな。しばらくやってねぇし」
「負けたら私、どうなっちゃうの?」
ささやくような小声で沙希は尋ねた。
「あの人に手取り足取り教えてもらえる」
陸が皮肉っぽい笑みを浮かべて沙希を見た。
「なんかヤダ」
「聞こえるぞ」
クスクス笑いながら陸は立ち上がって台へ少し近づいた。プレイ中の男性の邪魔にならない位置でボールの行方を見守る。
「あっ!」
ショットを終えた途端、男性が短く声を上げた。
5番までは順調に落としていったが、6番のボールは勢いがあと少し足りず、ポケットの手前で止まってしまった。
「どうぞ」
陸の番だ。
キューを持ち、先端にチョークを付ける。そしてゆっくりと台へ近づいた。もう台の上のボールしか見ていなかった。
しばらく眺めてからキューをボールの上へかざす。左手を台の上について、低い姿勢でキューを構えた。
(うわぁ……)
心臓がドキッと跳ねた。一緒に暮らすようになり、陸のどんな姿ももう見なれたものと思っていたが、久しぶりに胸が高鳴った。
(案外カッコいいじゃん)
カツン、と白いボールが6番ボールに当たった。6番ボールはポケットに消え、白い手球は台のふちにぶつかり方向を変えて転がった。
続いて7番もぬかりなく落とした。
「彼氏さん、上手いね。ちゃんと次の手も考えたショットだ」
色黒の男性が隣に腰掛けてきた。沙希は少し端のほうへ移動して男性との間に距離を作る。目が合ったので曖昧に微笑んだ。
台のほうへ視線を戻すと陸が一瞬沙希を睨みつけた。
(私は何もしてないよ!)
心の中で大きく否定するが、陸に伝わるはずもない。沙希は隣に聞こえないように小さく嘆息を漏らした。
残りは8番と9番の二つになった。
「さて、ここからだ」
隣から小さくつぶやく声が聞こえてきた。
「よく思うんだけど、ビリヤードって自分との勝負なんだよね。自分に負けたら負け」
隣の男性はそう言って沙希に笑いかけた。沙希は男性を見ないようにして小さく頷く。
「彼氏さんは自分に勝てるかな?」
祈るような気持ちで陸の挙動を見つめた。
陸は何度かキューを構えては上体を起こし、距離や角度を測っているようだった。そして最後に大きく深呼吸してゆっくりと丁寧な動作でキューを構えた。
白い手球から的球へ陸の視線が移動する。沙希も息をひそめて待った。
(……あ)
陸と視線がぶつかる。その瞬間、陸の口の端に笑みが浮かんだ。
コン! と勢いよくキューが手球を撞いた。8番のボールが弾かれてポケットに入る。白いボールは一度台のふちの壁にぶつかり方向を変えた。
(もしかして……)
沙希には白いボールの先に続く道が見えた。
コンと少し鈍い音がして9番のボールが転がり始める。
「ああ!」
隣に座っていた色黒の男性が思わず立ち上がった。
ゴトン。
台の上には役目を終えた白いボールだけが残った。
「……やられた」
陸が台の向こう側で得意げな顔をした。
「しっかし、お前は何故こういう妙なことに巻き込まれるんだ?」
陸はぶつぶつ言いながら沙希にキューを渡した。
「私は何もしてないよ!」
「わかってるよ! ……ったく、なんで俺が」
そう言いながら台の上にボールをセットする。
「でもカッコよかったよ」
沙希は陸の背中に向かって言った。
すると肩越しに振り返りニヤリと笑ってみせる。
「当たり前だろ。俺が負けるわけねぇし」
沙希は小さくクスッと笑った。
「じゃ、やってみるか?」
陸に教えてもらいながら沙希はキューを構えた。
ドクン、ドクンと心臓の音が聞こえてくる。
ゴン!
「いったーい!」
「おまっ……」
沙希はキューを台に立て掛けて右手を押さえた。陸が隣に来て沙希の右手を覗き込む。
「あのさ、あの球を撞くんだぞ?」
「そんなのわかってるけど!」
思い切ってキューを前に撞いた瞬間、キューを握っている沙希の右手が台に激突したのだ。
「台を壊すな」
「ちょっと、私の手を心配してよ! うっ、血が出てた」
「どうやったらこんなところで怪我できるんだよ」
そう言いながら陸は沙希の右手をつかんだ。親指の爪の甘皮が削れて血がわずかに滲んでいた。
あっ、と思った瞬間、陸がその部分に口づけた。
「こんなの舐めとけ」
「……汚いよ?」
陸は沙希の手を離し、ニヤッと笑った。
「大丈夫。他にもいろんなところ舐めてるし」
「…………!」
沙希は顔が真っ赤になるのを感じた。陸は沙希のキューを手に取った。
「ほい。もう一回やってみ?」
「うん」
「まずはここに狙って」
陸は台の向こう側へ回り、一番狙いやすいポケットを指差した。沙希は頷いてもう一度、今度は慎重に構えた。
ボールが走る理想の道を思い描く。
カツン。
今度は上手くいった。白いボールに押し出された1番のボールは陸の前にあるポケットを目指して転がる。
コトン。
「やるじゃん」
陸が感心して腕を組んだ。沙希は胸の前でガッツポーズを作ってみせる。
「沙希はビリヤードのセンスあるかもな」
「そうかな?」
「俺、負けたりして」
「それはない」
当然だというように陸は顎を少し上げてニヤニヤと笑う。それからすぐに真剣な表情に戻り、台の上をじっと眺めた。
沙希も次の狙うべきボールの軌跡を想像する。
(陸にはどんな道が見えているんだろう?)
沙希にはまだ的球に狙いを定めるのが精一杯で、その先の道など考える余裕はない。だが陸にはもっと先の軌跡をも思い描くことができるのだろう。
(キミに見えているものがいつか私にも見えるかな?)
深呼吸をして白いボールの前に立つ。
狙いを定めてキューを構えた。目だけを上げて陸を見ると、陸は小さく頷いた。
今はこの白いボールをただ一つのボールへめがけて走らせることしかできない。だがそれゆえに迷いはない。
(……行け!)
心の中で叫んで祈った。
――いつも真っ直ぐ、キミのもとへ走って行け……と。