目が覚めると隣に沙希がいる。
一緒に暮らし始めてから既に半年近くが過ぎ、そのことにも慣れた。いつもは沙希が先に起きてしまうが、休みの日は別だ。
向こう側を向いてネコのように丸まって眠っている。沙希はこの姿勢で眠っていることが大半だ。寝息は聞こえないが、胸のあたりの毛布が呼吸に合わせて上下する。生きているな、と確認して陸は後ろから静かに腕を伸ばして自分の胸の中に沙希をおさめた。
(ホント、ネコみたいなヤツだよな)
沙希を見ているとよくそう感じる。行動がイヌというよりはネコに近い。彼女を繋いでおくのに鎖や縄は似合わない。だから沙希に渡すこの家のキーホルダーはネコを選んだのだった。
初めてこの部屋に沙希を連れてきたときのことを思い出した。
狸寝入りをしていたら「寝たの?」と呼びかけられ、沙希が陸の顔をしばらく眺めている気配がした。どうするのかと思いそのまま眠ったふりをしていたら、すぐに後ろを向いて布団に潜ってしまった。
(そうそう、こんなふうにね)
実は少しだけキスでもしてくれるのかと期待してドキドキしていたのだが、全くの期待はずれだった。
(ま、コイツはそういうことはしないな)
だからあのとき抱きしめたんだろうと思う。沙希と朝まで過ごすのはそれが最初で最後かもしれないという覚悟もしていたからだ。
沙希の髪に顔を埋める。自分と同じシャンプーの匂いがする。
(そりゃそうか)
最初はこの短い髪にずいぶん戸惑った。肩の下で揺れる髪がベッドの上で乱れるのが好きだった。
何故短くしたのかと聞いたら、沙希は一言
「私の長い髪が好きだと言った人がいたから」
と心底嫌そうに冷たい声で言った。
(俺も好きだったのにな)
だが、見慣れると案外沙希は短いほうが似合うのかもしれないと思うようになった。最近は表情もかなり柔らかくなり、笑うと若く見える。
(……なんて言ったら怒るけど)
もぞもぞと沙希が動いて寝返りを打った。沙希の寝顔は険しい表情だった。陸はすぐに親指でその眉間の皺をぐりぐりと伸ばした。
「……んー?」
嫌がるように顔を左右に動かすが、まだ眠りから覚めない。
陸はしばらく沙希の寝顔を眺めていた。メイクをしていない顔のほうが好きだ。昔からの癖で沙希を見るときは穴が開くほどじっと見てしまう。彼女のどんな些細な行動でも記憶に留めておきたいと思っていたあの頃。実は一番大切なことを見逃していたのかもしれない、と今は思う。
沙希の目がぼんやりと開いた。
「おはよ」
「おはよ……」
また目が閉じた。陸は沙希の太ももを撫でる。
「んー。……何してんの?」
寝ぼけた声の沙希は薄く目を開けた。
「何もしてないよ」
「くすぐったい」
「『気持ちいい』の間違いじゃね?」
「くすぐったいってば」
だんだん目が覚めてきたのか沙希は身を捩って陸の手から逃れようとする。陸は足を絡ませて沙希が身動きできないようにした。
「ダメだよ、朝からは。無理」
「なんで?」
「……お腹痛い」
沙希は自分の腹に手を当てて少し顔を歪めた。
「マジで? どこが痛い?」
「んー、子宮のあたり?」
「ここ? あー、これは……」
陸は沙希の手の上から痛いという箇所を触った。沙希は寝ぼけ眼で陸の次の言葉を待っている。真剣な顔をしようと努力したが、こらえきれず笑ってしまった。
「昨日奥まで突きすぎたかも」
「……えー?」
沙希はため息をついてまた目を閉じた。だが口元には笑みが浮かんでいる。沙希の腹を撫でながらそれほど痛くはなさそうだと陸は安堵した。
「今日どうする?」
「どうって……仕事は?」
「休み。呼ばれても行かねぇし」
沙希がその言葉を聞いてパチッと目を開けた。
「じゃあ、デートしよう」
「は!? 出かけるの面倒」
陸は沙希を解放して天井を仰いだ。
「うわぁ! ここにオッサンがいます!」
沙希がベッドの端のほうへ寝返りで移動し、陸を非難がましい目つきで見る。
「昔はあんなにお出かけ大好きだったのにね。やっぱりあの頃はまだ高校生だし若かったからなぁ」
「……誰がオッサンだって?」
布団をガバッとはねのけて身を起こした陸は、沙希が離すまいとしがみついている毛布を強引に引き剥がした。
「出かけるぞ」
「やった!」
沙希もようやく身を起こした。
二人が目的の駅にたどり着いたのはお昼過ぎだった。若者の集まる街は日曜日ということもあり、ごった返している。
「あっちじゃいくら混んでてもこんなに人は多くなかったよなぁ」
陸は北国の繁華街を思い出しながらつぶやいた。沙希が横でクスッと笑う。
「やっぱりあっちは田舎だからね」
「でもメシは断然向こうのほうが旨いね。それに安いし。お前とよくメシ食いに行ったよなぁ」
また沙希がクスッと笑う。
「何?」
「いや、『安い』なんて庶民的なことを言うなと思って」
「俺は庶民だっつーの」
沙希は肩をすくめた。
「だって陸はすごく贅沢なこと言うもん。ご飯食べに行くといつも一番高いのしか頼まないし。たまに『オマエはどこの国の貴族だ!?』って言いたくなる」
「『言いたくなる』じゃなくて、言ってるだろ」
陸は苦々しい顔で隣を睨んだ。確かに何度か沙希にそう言われたことがある。一番食べたいものを選んだら、たまたま値が張るものになるというだけで、陸はあまり値段について考えたことがなかった。
逆に沙希はメニューを渡されてから決めるまでにものすごく時間がかかる。何をそんなに悩む必要があるのか陸にはわからない。しかも最後は「どれでもいい」などと言い出すのだ。だからあるときから沙希の分も陸が勝手に決めることにしていた。
「あー! 靴がほしい」
ショーウインドを眺めていた沙希が突然大声でそう言い出した。陸はため息をつく。
「じゃ、見てくれば」
「一緒に来てくれないの?」
「だってお前、選ぶのにめちゃくちゃ時間かかるんだもん」
沙希は口を尖らせた。
「じゃ、ちょっと待ってて」
ちょっとで済むわけないだろ、と思いながら陸は頷いた。
「俺、あっちの店にいるから終わったら電話して」
沙希は頷きながらヒラヒラと手を振り、小走りで店の中へ入っていった。その姿を見送って、陸は一人、上着のポケットに手を突っ込んで通りの向こう側にある大型電器店へと向かった。
エスカレーターに乗りながら陸は近頃の自社の業績について考えていた。何十年ぶりかの大不況は陸の会社にも大打撃を与えている。陸としてはいずれはこの業界も頭打ちになる時期がくると予想はしていたが、それが突然こういう形でやってくるとは思いもしなかった。
(ホント、どうしたもんかね……)
陸の足は自然とオーディオ機器売り場へと向かっていた。やはり家電製品で一番気になるのはオーディオ製品だった。購入するわけではないが、売り場で眺めているだけでも楽しい。一応はミュージシャンを目指していたくらいだから音にはうるさいのだ。
テレビ売り場では陸の好きな映画のDVDが再生されていた。思わず立ち止まって見入ってしまう。
(今度また沙希と観よう。……って、これアイツと観るとやたら話しかけてくるから集中できねぇか)
近未来の世界を舞台にしたストーリーだが、沙希はその世界観が理解できないらしく、観ている最中にあれこれ質問してくるのだ。そして観終わるときれいに忘れてしまう。
(アイツ、頭いいのか悪いのかわかんねぇ)
心の中で苦笑しながら、次に自社製品をチェックする。店員の商品説明やPOPをさりげなく、だが真剣な眼差しで見て回った。
そうしているうちに、ふと背中に視線を感じた。
振り返るとかなり離れているが通路の向こう側から、じっと自分を見ている人物を発見する。その人はマッサージチェアに悠々と腰掛けてくつろいでいる様子だった。
陸は大きく深呼吸してつかつかとそのマッサージチェアへ歩み寄った。座っている人物は陸が近づくとニヤッと笑顔を見せた。
「おい、いつからここにいるんだ?」
「んー? さっきから」
傍らに置いてある紙袋を見て、今日は珍しくすぐにほしいものが見つかったのだと察した。
「電話しろって言っただろ? 何でこんなところでくつろいでいるわけ? どこのおばあちゃんかと思ったぞ」
「ねぇねぇ、うちの会社でもマッサージチェア作ったら売れるんじゃない? ほら、今は癒されるものが売れてるらしいし」
沙希は目を輝かせて冗談とも本気ともつかぬ調子で言った。陸は自分の顔が引きつるのを感じた。
「残念ながら当社ではこのような製品は取り扱っておりません」
「ケチー!」
「そのうち買ってやるから立てよ」
「ヤダ。今、肩がこってるんだもん」
陸はまた大きく深呼吸する。
「わかった。帰ったら肩もみしてやるからもう行くぞ」
「やった!」
沙希はようやく立ち上がった。その様子を見て陸は苦笑しながらひとつため息をつく。紙袋を沙希の手から奪ってその手を握った。
「さて、次は何する?」
デートなのに別行動はないな、と反省しながら陸は沙希の様子を窺った。
「ちょっと疲れたから座りたい」
「さっきマッサージチェアに座ってたのは誰だよ?」
「喉が乾いたよー」
「はいはい」
仕方なく言うことを聞くようなふりをするが、本当は嬉しい。沙希はネコの中でもかなり気位の高いネコで誰にでも懐いて甘えるようなことはしないからだ。
(ここまで来るのに、俺がどれだけ苦労したと思ってんだ)
最高に機嫌が良さそうな沙希を見て、陸は少し目を細めた。
「あ、映画観ようよ」
突然沙希が陸の腕につかまって言った。
(映画ねぇ……)
さすがに映画館では沙希もマナーを守って黙って観ている。
「座れるし、飲み物飲めるし、一石二鳥」
「まぁ、そうかも」
二人は近くのシネマコンプレックスに立ち寄って、既に観ていたシリーズものの続編を観た。
その後、焼肉屋で沙希がぽつぽつと映画の感想を思いつくままにしゃべるのを肉を焼きながら聞いた。肉を頼むのも焼くのも陸の係なのだ。どっちが「貴族」だ、と思いながらも陸は率先して箸を動かす。沙希に任せると肉が炭になりかねない。
「じゃあ沙希は最初に結末がわかっちゃったわけ?」
「うん。だから嫌なんだよね。でもね、教授が言ってたよ。そういうセンスって大切だって」
陸は焼けた肉を沙希の皿にのせた。
「センス? 分析してわかるんじゃなくて?」
「うん。分析は物語の最後までたどり着かないとできないでしょ。でも最初に『あ、これはあのパターンだな』って直感でわかるのがセンス」
「よくわかんね。でも確かに沙希の予言はよく当たる」
「予言? 私、何か言ったかなぁ?」
「三年以内に日本を代表する企業も傾くかもって言ってたじゃん」
沙希は肉をほおばったまましゃべろうとしたがまともな言葉にならず、むせながら手で口を押さえた。
「口にモノを入れたまましゃべるなよ」
むぅと唸って沙希は水を飲んだ。
(コイツは相変わらずだな)
一息ついてまた持論を語り始めた沙希を眺めながら陸は思う。沙希は興味のある分野について語り始めると止まらなくなる。しかも沙希の話は順序がめちゃくちゃだ。頭の中で整理してからしゃべるということはしないらしい。だから結論をどこかに置いてきてしまうこともしばしばある。
(だけど、コイツの頭の中ではきちんと整理されてるんだよな)
それが一番良くわかるのは文章だった。沙希の作る文章は常に簡潔で、社内でも評価が高い。
「沙希はその能力をもっと活かせる仕事をしたほうがいいのにな。あんな社内の郵便配達してるよりは」
陸は日ごろ思っていたことを口にした。だが沙希は首を横に振る。
「私にはそんな大した能力ないもの」
「そう? でも文章書く仕事したかったんでしょ?」
「まぁね」
そう言うと沙希は俯いてしまった。そして少し考えるように首を傾げた。
「陸と同じだよ」
「え?」
「夢だったけど……でも現実はそんな甘いものじゃないってわかってるから」
(夢か……)
箸が止まっていたのに気がついて陸はまた肉を裏返す作業に専念する。二人の間に何とも言えぬ切ない空気が漂った。