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もうすぐ春が来るな、と思いながらいつもの道を歩く。花屋の店先には春らしい明るい色の花が並んでいるし、ミセス向けの洋品店では淡い色調の薄手のワンピースやトレンチコートがショーウィンドウを飾っていた。
それを横目に見ながら、今度の春はK社に入社してから六度目の春になるのだと考えていた。
(もうそんなに経つのか。早いな)
宮川房代(みやかわふさよ)は入社時に本社の総務部に配属となり、それ以来総務部以外の部署を経験したことがない。仕事は一通り覚えたが、K社の本業にはほとんど関係のない実務ばかりで、その九割がルーティンワークだ。
仕事に面白味は感じないが、雑誌に登場する読者モデルたちのようなOLに憧れていた房代にとっては、まさに自分の望んでいた職に就くことができて本当にラッキーだったと思っている。
だが、OLになった当初の房代はコンプレックスの塊だった。
内定式の後、内定者が集まってそれぞれ自己紹介をした。他の内定者たちの出身大学を聞くたびに房代は肩身が狭くなるのを感じた。
(みんなそんなにレベル高いんだ……)
自分の番になると房代は小さな声で早口にまくし立て、さっさと自己紹介を終わらせて椅子にストンと腰を下ろした。恥ずかしくて誰の目も見ることができなかった。
しばらくすると気持ちが落ち着いてきた。深呼吸をしながら何気なく向かい側に座っている人を見ると、一瞬その人と目が合った。
(うわぁ、綺麗な人だなぁ)
相手が視線を外した後も房代は思わずその人に見入ってしまった。あまりジロジロ見ると失礼だとは思うが、なかなか目が離せない。しばらくすると房代の視線に気がついたのか、向かい側の彼女が房代の顔を不思議そうに見返してきた。
慌てて目を逸らすと、視界の端で彼女が立ち上がった。そして自己紹介を始める。
予想より低く落ち着いた声だが、張りがあるので聞き取りやすい。彼女が出身大学を言うと、その場にちょっとした驚きが広がった。
(川島さんか。何だか近寄りがたいな)
房代は瞬時にそう評価した。頭のいい人は自分のような人間をどこか見下している気がする。きっと彼女もそうだろう。話だって合わないはずだ。
そう思うと同時にそれが少し悲しかった。何とか彼女と話を合わせられるところがないだろうか、と房代は向かい側の席に背筋を伸ばして腰掛けている川島沙希を探るように見つめる。
不思議なもので、同性の綺麗な人やカッコいい人と友達になりたいという意識がいつもどこかにあったのだ。
(友達になったからって、自分まで綺麗になれるわけじゃないんだけどね……)
その場が解散になると房代は数人の同期と赤外線通信で携帯電話のデータをやり取りした。何となく話が合いそうな女性が集まっていたのだ。
もらったデータを確認して、ふと目を上げると川島沙希が一人で会場から出て行く姿が見えた。
(あっ……!)
気がつけば房代は駆け出していた。
沙希に追いつくと必死で腕を掴む。振り向いた沙希は大きな目を更に大きく見開いて房代の顔を凝視した。
「あの、メルアド教えてほしいの」
気圧された表情のまま沙希は頷いた。そしてバッグから携帯を取り出す。白くて細い指が綺麗だが、爪が短く切り揃えられていてアンバランスに感じる。
沙希は携帯の画面を見ながら「私から送りますね」と言った。
「丁寧語じゃなくていいよ」
房代が言うと沙希はようやく笑顔を見せた。
それが沙希と初めて交わした会話だった。
(沙希ちゃんももうすぐパリに行っちゃうんだ)
毎日同じ仕事を繰り返していると、この日々がいつまでも続くかのような錯覚を起こすが、実のところ会社の内部は刻々と変化している。大きな会社だからなのか、人の入れ替わりも激しい。
そのことでいちいち感傷に浸る暇はないのだが、親しくしていた同僚がいなくなってしまうというのはやはり寂しい。特に沙希とは、この頃やっと本当の意味で親友になれた気がしていた。
(でも沙希ちゃんの幸せが一番だよね)
最近の沙希の様子を思い出して、房代はついニヤニヤとしてしまった。
精神的に安定しているせいか表情が穏やかで、以前に感じた他人を寄せつけない雰囲気がなくなっている。何かを必死で守ろうとしていたのか、沙希の周りにはいつもピンと張り詰めた空気があったのだが、今は肩の力が抜けて本当に幸せそうでいい顔をしていた。
(浅野くんがいい人でよかった)
房代はしみじみとそう思った。
何しろ最初に浅野陸を見かけた際の印象が「ホストっぽい」だから、見た目からは頼りがいなど感じられなかったし、その中身を信用することもためらわれた。そもそも外見のいい男にロクな男はいないと房代は頭から決め付けていた。
それが沙希の話を聞いているうちに、少しずつ陸を見直すようになっていた。
沙希が困っているときはかならず、陸のほうから彼女へ接触していたと思う。それはときどき友達の域を超えていて、少なくとも彼が沙希を愛していなければできないことだ、と確信を持つに至ったのだ。
(だからあんな余計なお節介なんかしちゃったんだけど)
ドキドキしながら、それでも何かに突き動かされるように、陸へメールを送った日のことを思い出した。
口も利いたことがない別の部署の人間から、いきなりメールを送りつけられた陸はどんな顔でそれを読んだのだろう。しかも内容が「今晩川島さんと社長が食事をするそうです」という突拍子もないものだから、信じてもらえるかどうかも自信がなかった。
房代は自分の行動を半分後悔してうつむく。これで結果的に上手くいったからよかったが、そうならない可能性のほうが高かったのだ。
ため息を漏らして顔を上げると、自分より少し先に若い男性の後ろ姿が見えた。ノートパソコンが入っている鞄を肩に提げ、両手はスーツのズボンのポケットに突っ込んでいる。少し前のめりになって早足で歩いていた。
房代は思わずクスッと笑った。
あの独特の歩き方は間違いなく陸だ。
房代は少し歩くスピードを落として、彼の様子を見守る。
しばらくすると予想通り、陸はコンビニの前で足を止め、外側から窓ガラスをノックした。それから入り口の前へ移動し、肩にかけた鞄を背負い直す。
入り口の自動ドアが開き、小走りで女性が出てきた。二人は短く言葉を交わすと、すぐに駅へと向かった。後ろを歩いている房代に気がつく様子は全くない。
(完全に二人の世界だなぁ……)
時折、陸を見上げる沙希の横顔が房代の目に映る。声は聞こえないが、その笑顔はまるで水面に反射する太陽の光のようにキラキラと眩く輝いていた。
陸は背中しか見えないが、先程早足で前のめりに歩いていたのが嘘のように、ゆっくりとした歩調で沙希に寄り添っている。きっと早く沙希に会いたくてあんな歩き方をしていたのだろう。房代は二人の後ろ姿を見ながらクスッと笑った。
二人が駅へ吸い込まれるようにして視界から消えると、房代は少し考えて駅に直結したパン屋に立ち寄った。
(だってこのまま駅に行くと、沙希ちゃんと浅野くんに鉢合わせしそうだもん)
彼らに会いたくないわけではないが、せっかくの二人の時間を邪魔したくなかったのだ。
(あーあ! すっかり当てられちゃったなぁ)
陳列された美味しそうなパンを眺めながら房代は嘆息を漏らす。
急いでパンを選び、袋に詰めてもらうと、バッグから携帯を取り出した。そして片手でメールを打つ。急に自分の彼氏が恋しくなったのだ。
メールを送信すると満足したが、すぐに返信が来たので、房代の心は更に浮き立った。
恋は絶対大丈夫だと安心できるときがない。順調に思われるときですら、何かの拍子で転覆する危険と隣り合わせなのだ。
自分のこの恋はどうだろう?
房代は思う。今は何の問題もない二人でも、それが永遠に続くことなどありえない。
二人の間に何か重大な問題が発生したとき、自分と彼はそれを乗り越えていけるだろうか?
(沙希ちゃんと浅野くんみたいに……)
彼らが羨ましい。だが、彼らが越えてきたものの大きさやその年月に思いを馳せると、羨望は深い感動に変わる。
(よーし、私も頑張ろう)
房代はしっかりと前を見据えて、また歩き出した。
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