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番外編 ふたりの恋がはじまる 《 LESSON 12 》

 冷たい風が肌を刺す季節が来た。沙希は夏より冬のほうが好きだ。夏の暑さを耐えるよりは冬の寒さのほうがまだ我慢できる。

 だが、実際冷気は容赦なく沙希の体温を奪う。

(寒いなぁ……)

 携帯の時計を見ると待ち合わせの時間からもう十五分が過ぎた。十分程度の遅れはお互いによくあることなので、もうすぐ来るだろうと思いながら沙希は地下鉄駅のベンチに座ってぼーっとしていた。

(まだかなぁ? 今日は遅いなぁ……)

 ぼーっとしているのも限界だと思い、鞄から文庫本を取り出した。卒論に取り上げる作家の全集だ。まだ全部読みきっていない。

(早く読まなきゃな)

 本を開いて文字を目で追うが、陸がなかなか来ないことが気になって文章が頭に入ってこない。

 もう一度携帯を見る。

 既に約束の時間から三十分以上経過した。

(どうしたんだろう?)

 沙希は携帯をしまう。考えて見れば沙希の彼氏や親友は一時間以上の遅れなど日常茶飯事だ。三十分くらいの遅れは遅れのうちに入らない。

 そう思うと少し気が楽になった。

(そのくせ私が遅れるとものすごく怒ったり、嫌味を言うんだよね……)

 知らないうちにため息が漏れた。

 そこに慌てた様子の陸が駆け込んできた。沙希はホッとして本を鞄にしまう。

「ごめ……、すごく遅くなった」

 息が上がって喋るのが辛そうだ。陸が走っている姿などめったに見ることができないので、沙希は貴重なものを見たと思いながら首を横に振った。

「ずっと待ってたんでしょ?」

「うん」

 呼吸を整えながら陸は沙希の横に腰を降ろす。

「ちょっと読みが甘くて遅れた。お前が待ってるだろうなと思って走ってきたんだけど……」

 そこで陸はちらりと横目で沙希を見た。

「でもこういうときは電話してくれよ」

「え?」

「だって心配してくれないわけ? 俺が事故に遭ってるかも……とか」

「あ、うん。そうだね……」

「あ、今『お前が連絡しろ』って思ってるでしょ?」

「いや、そんなことは……」

 沙希は困った。自分から陸に電話をしたことがないのだ。おそらく陸はそれを責めているのだろう。

(もしかして、試された?)

「私、一時間くらいは待つの平気だから」

 そう言うと陸は行くぞ、と促すように立ち上がった。そして沙希の荷物を持つ。

「それがおかしいって!」

 荷物を持っていない手で沙希の手をつかんで歩き出した。

「お前の周りの人間は一体お前を何だと思ってんだ!? お前もね、そんなに我慢強く待つ必要ないから」

 沙希は陸の少し後ろを引っ張られながら歩いた。視線が下を向いてしまう。

 急に陸が立ち止まった。

「ごめん。お前が悪いわけじゃないのになんか腹が立って……」

 顔を上げると陸は苦い顔をしていた。今までそんなふうに言ってくれた人はいなかったので嬉しくて顔がほころぶ。つられたように陸も笑顔を見せた。

「あーあ、今日は三十分もお前との貴重な時間を無駄にしちゃった」

 そう大げさに言って陸は「なぁ?」と沙希の顔を覗き込んできた。

(その言い方が……なんだか悲しいよね)

 その元凶は自分なのに沙希はそう思う。陸に心が傾いていくにつれて、二人の関係がまるで「期間限定」だと言わんばかりの陸の言葉に傷ついた。

「ちょっ……、なんで?」

「目にゴミが」

 陸は握った沙希の手を少し上に引っ張った。うつむこうとしたが失敗して一瞬陸と目が合う。すぐに顔を背けた。

「嘘だろ。俺、なんか変なこと言った?」

 沙希は下を向いたまま首を大きく横に振った。

「ホント、お前はどこでも泣くなぁ……」

 その言い方が優しくて涙がますますあふれてくる。うつむいたまま無言で陸の家まで歩いた。





 陸の家の玄関に見慣れない履物があった。草履だ。

 沙希はいつもと同じように靴を脱いで揃えたが、廊下の奥の部屋から物音がして思わずビクッと身体を震わせた。

「早く!」

 陸が小声で沙希を呼んだ。自室のドアを閉めるとすぐに鍵を掛けて沙希を抱き締めた。

「ばあちゃんが来てるんだ」

 沙希はわかった、というように小さく頷く。

「というわけで今日はこれをお前と観ようと思って借りてきた」

 陸が手にしているのは近頃話題になったホラー映画だった。

「えー! これ怖いって噂の……」

「観たことある?」

「ない」

 陸は満足そうな顔でDVDをセットした。そしてテレビから少し離れて座った沙希の隣に腰を降ろす。

「この人、名前なんて言うんだっけ?」

 主演女優を指差して陸が尋ねてきた。

「なんだっけ? 忘れた。でも、この前友達にこの人に似てるって言われたんだよね」

 小首を傾げながら沙希は答えた。とても綺麗な女優で男性女性問わず人気を集めている。沙希はそう言われて嬉しかったが、自分ではそんな綺麗な人に似ているとは思えない。

 陸はこちらを向いてまじまじと沙希の顔を見た。

「俺も今そう思ってたところ」

「え?」

「いや、お前に似てるなーって」

「どこが?」

「……不幸そうな面してるところ?」

「…………」

(そんな顔してるのかなぁ……)

 口を尖らせて沙希はテレビに目を戻す。陸がポンポンと頭を軽く叩いてきた。励ましてくれているらしい。

(最近考えすぎだな。考えても……どうしようもないよね)

「あー、この姿勢疲れる」

 そう言いながら陸が少し前に移動した。そして沙希の膝を撫でる。

「足伸ばしてよ」

「…………?」

 意図がわからないが言われたままに足を伸ばした。陸はニッと笑って即座に膝の上に頭を乗せ、寝転がって腕を組む。

「膝枕してほしかったんだ」
 
 沙希は眉をひそめた。

「この姿勢は楽なの?」

「うん」

 ずいぶん大きな子どもだな、と思いながら陸の頭に手を置いた。こうしているとあれこれと考えていたことがどうでもよくなる。どうなるかわからない先のことより、今が大切なのだと沙希は改めて思う。



「ねぇ、怖かった?」

 ようやく沙希の膝から頭を起こして陸は訊いてきた。

「うん。ちょっと想像と違ってたけど、面白かった」

「面白いって……怖くないのかよ」

「怖かったよー」

「俺に抱きついてもいいよ」

「今は怖くない」

 沙希がにっこりと微笑んで言うと陸はチッと舌打ちした。

 それより、と陸は沙希の間近に顔を寄せた。

「やっぱりしたくなっちゃった」

「はぁ?」

「これからラブホ行かね?」

 沙希は時計を見た。もう外は暗くなっている。

「だって……」

「時間はまだ大丈夫でしょ」

「そりゃ私は大丈夫だけど……」

「俺も大丈夫。タクシーで行けばすぐだって」

 もう陸は出かける準備をしている。沙希も仕方なく上着を着た。陸の後に続いて部屋を出ると、暗い廊下の奥から皓々(こうこう)と光が漏れている。奥の部屋のドアが開いていた。

「お邪魔しました」

 部屋の中央にこちらを向いて正座している女性の姿が見えた。反射的に沙希は挨拶する。

「ご苦労様です」

 凛とした佇まいの女性が軽く会釈しながらそう言った。沙希は途端に頬が赤く染まるのを感じた。

 陸は何も言わず沙希が靴を履くのを見届けると玄関のドアを開けた。

「あれ、ばあちゃん」

「うん、ちょっとびっくりした」

「……つーか『ご苦労様』ってなんだよ」

 エレベーターの中で陸はそう悪態をついた。思わず沙希も噴き出してしまう。

 マンションから通りへ出て少し歩くとタクシーが来た。乗り込んだ陸は歓楽街へ向かうように運転手に告げる。

 後部座席で二人は手を繋いだ。いつもそうだが陸が手を差し伸べてくれる。当たり前になった今でも沙希は陸が手を差し出してくれるのを待っている。

 自分からは手を繋いでほしいとは言えない。だから陸が望まなくなればそれが終わりの日なのだろうと思う。

 そうやって溺愛の日々が少しずつ過ぎ去り、やがて恋人との距離はまた遠くなっていく。

(その兆しが見えたら、そのときは……)

 沙希は近づいてくるネオンサインを見ながら思った。



(私から終わりにしよう)



 物思いから我に返ると、目の前にホテル街があった。

「え? ちょっとどこまで?」

 運転手に聞こえないように陸をつつきながらささやいた。

「あ、ここで」

 急に陸は運転手に降車する旨を伝える。

「ウソ……」

 沙希は思わずつぶやいた。それを聞いて陸はニヤッと笑う。ホテル街のど真ん中の路地に停車した。

 タクシーを降りて、また手を繋いで歩き始めると陸は言った。

「いいじゃん。あの運転手にはもう会うこともないだろうし」

「そうかもしれないけど……」

「何?」

「……いや、キミはオトコだなぁと思って」

 陸は噴き出してこれ以上ないくらい嬉しそうに笑って見せた。

「それ、褒めてるよね?」

「……どうだろ?」

「今日はどこにしようかなー?」

「楽しそうだね」

「うん。沙希といるとめちゃくちゃ楽しい」

 突然陸は沙希の頭のてっぺんにキスした。 



 部屋に入って落ち着くと陸は沙希を愛しそうに抱き締めた。

「ねぇ、沙希も俺と同じくらい俺のこと好きになってよ」

「……同じくらいってどれくらい?」

「もうね、俺のことで頭がいっぱいになるくらい」

 沙希は陸の腕の中で目を閉じた。

「俺はお前のことで頭がいっぱいなんだ」

(浅野くん……)

 涙が勝手にあふれてくる。涙腺がかなり緩くなっているようだ。もう自分ではコントロールできなかった。

 陸の腕に力が入って更に強く抱き締められた。

「それは俺のために泣いてるよね?」

 人のぬくもりをこんなに愛しく感じることができるものかと沙希は思う。できるならいつまでも陸の体温を感じていたいと思った。

「俺のことが好きだから……泣いてるんだよね?」



(きっとキミが思うよりもっとずっと……好きだよ)



 だが返事はできない。

 それが沙希の答えだった。







 ある寒い日の昼下がり、沙希は大きなテーブルに頬杖をついて窓の外を眺めていた。目の前にはコピーされた資料の山と読みかけの本、そして緑茶のペットボトル。

 沙希の所属する学部では卒業論文は原稿用紙百枚以上という決まりがあった。それくらいの分量のある論文が書けるということが卒業の第一条件らしい。

 書き始めてみたものの、百枚分の文章を書き上げることができるかどうか全く自信がない。それに沙希が取り上げた作家は論ずることが難しいとの評判だった。

(進まないな……)

 沙希はため息をついた。卒論が進まない理由は他にもある。

(卒業したら、春から社会人か……)

 既に東京に本社のある会社に就職が決まっている。内定式に行ってそれがより現実的になってきた。おそらく沙希は本社勤務になるだろうとそのとき耳打ちされたのだ。

(やっぱり東京に行かなきゃならないんだ)

 窓の外に目をやると、枯れた木々が風で寒そうに揺れていた。この景色ももうすぐ見納めだと思うと寂しくなる。

(春が来たら……どうなるんだろう?)

 ふと陸の姿が思い浮かんだ。

(キミは遠距離なんて絶対無理だよね)

 期待はしていなかった。そもそも沙希自身が遠距離恋愛の限界を感じているのに、相手にそれを期待することなどできるはずもない。

(でも、まだ先の話だよね) 

 残された時間は多くはないが、それでも明日、明後日の話ではない。いつか終わりが来ると知っていても、沙希は陸に強く惹かれる自分を止めることはできなかった。 

 だが、好きになればなるほど沙希は陸に近づくのが怖いと感じるようになっていた。意識的に距離をおこうとする。そうしなければ自分を保つのが難しいと思った。

(だってきっと私の気持ちは重すぎるもの)

 そして終いに鬱陶しがられたら目も当てられない。それくらいなら、今のままのほうがいい。

(私はズルイな)

 彼氏とも別れず、陸とも会い続けて、いつから平気で人を裏切るこんな強欲な人間になったのだろう。



 突然、研究室のドアが開いた。

「よ! 川島ちゃん。最近真面目に勉強してるって噂になってるよ」

「健ちゃん……」

 同じゼミの岡本健太が明るい声を出して入ってきた。

「この前佐藤さんにつかまったでしょ?」

 隣の席に荷物を下ろすと小声で言った。佐藤はドクターコース三年目で、近頃急に後輩育成に目覚めたらしい。手当たり次第に呼びとめて頼んでもいないアドバイスをしてくれるのだ。

「ああ、なんかレトリックについて小一時間ほど語られて困ったよ」

「院生、誰もいない?」

 岡本は隣の部屋を指差した。壁一枚を隔てて向こう側に院生の机が並んでいる。

「たぶん」

 沙希の返事を聞いてようやくホッとしたのか、岡本は持っていたコーヒーの缶に口をつけた。

「で、最近どう?」

 唐突に岡本は訊いてきた。

「何が?」

「ほら、アイツ。浅野くん」

 沙希は今初めて気が付いたようにわざと「ああ」と声を出した。

「まぁ、割と頑張ってるよ」

「ほぉ。アイツ、川島ちゃんが大好きだからな」

 思わず苦笑すると、岡本はコーヒーの缶をテーブルの上に置いて沙希のほうへ向き直った。

「……俺、見たよ」

「え?」

「アイツと川島ちゃんが一緒に本屋にいるの」

 沙希は少し眉をひそめた。確かに先日陸と一緒に本屋に行っている。

「……辞書がほしいって言うから付き合っただけだよ」

「そっか。でも……手繋いでた」

(…………!)

 声が出なかった。岡本をまともに見ることもできない。

「誰にも言わないよ」

 岡本はバツが悪そうに言った。

「健ちゃん、私……」

 バタン、と隣の部屋のドアが開閉する音が響いて、沙希は口をつぐんだ。

「俺は……何も言わん」

 岡本は鞄をテーブルの上に載せてごそごそと自分の資料や筆記道具を取り出した。それを黙って沙希は見つめた。



(……気をつけなきゃ)

 

 沙希は親友との会話を思い出した。

 先日、陸との恋があまりにも嬉しくてうっかり仲良くしていることを話してしまったのだ。

「ほら、前にカラオケから出たら下のゲーセンで会ったでしょ」

「ああ、あの子」

 親友は思い出したようだった。そしてしばらく考えるような目をしてから言った。

「でも、あの子はアンタのタイプと違うでしょ」

(そう……かな?)

 言葉に詰まって沙希はしばらく口を閉ざした。この親友は沙希の彼氏とも親しい。彼女に陸とのことを理解してもらうのは無理だろうと直感的に思った。

(もしかしたら……誰にも理解してはもらえないのかも)

 彼氏がいるのに五つも下の高校生が好きだなんて、大きな声で言えることではない。

(でも……おかしいことかな?)

 沙希は自分でも驚くほど罪悪感のかけらも感じていなかった。

 むしろどうして二人の恋は祝福されないのだろうかと不満に思うくらいだ。

(だからますます愛しく思うのかも)

 少し自分を突き放してみるとそう思えた。

(浅野くんも……きっとそうなんだよね)

 禁断の恋ほど燃え上がるものとよく言うが、こういうことか、と沙希は妙に納得する。

(じゃあ冷めるのも早いかもね)

 そう思うと冷笑が口元に浮かんだ。たまにこうして自分を振り返らないと、どこまでも陸を好きになってしまいそうで怖い。

 だが、それが陸の不信感を煽っているのも事実だった。

 目の前の資料に目を落とす。

(考えるのはやめよう)

 たぶん考えても考えなくても沙希の心の中にある真実は変わらないのだ。

 それから沙希はしばらく資料を読むことに没頭した。











 夜中、彼氏からたまに電話が来る。どうせ大した話ではない。沙希はパチンコもパチスロも興味がないのに、延々とその話をされるのでほとんど上の空で返事をするだけだ。

 机の上で携帯が音も立てずチカチカと光った。

 沙希はそれをベッドの上からただ眺めていた。しばらく光り続けていたがやがてピタリと止む。

「どうした?」

 握った電話の子機から陸の声が聞こえた。

「なんでもない」

 陸とは明け方まで何時間も話すのが常なので家の固定電話で話していた。こんなに毎日話していても話題が尽きないのが不思議だ。大した話ではないが陸と話をするのは楽しい。それが彼氏との大きな違いだ。

「俺、曲を作ったよ」

「へぇ」

「……お前のことを書いたの」

「……え?」

「バンドの皆でそれぞれ曲を作ることになったんだ。それで書いてたんだけど、俺のが一番いい曲だから!」

 沙希は思わず笑ってしまった。

「笑うな!」

「だって……恥ずかしいよ」

「恥ずかしくなんかないだろ? どれだけ俺がお前を好きかって、わかる?」

「うーん」

「……ったく、他のヤツらも散々からかいやがって。俺はこんなに真剣なのに」

 それを言葉にできる陸がすごい、と沙希は思った。

「ホント、キミはナルシストだね」

「いや、沙希ほどじゃないから」

「えー? 私のどこが?」

「気がついてないのか。重症だな」

 絶対陸のほうがナルシストだ、と思いながら沙希は口を尖らせた。

「そういえば前に土砂降りの日に電車乗ったじゃん。あのとき会ったヤツのこと覚えてる?」

「ああ、妙に綺麗な顔の人」

「そう。アイツ、バンドのメンバーなんだけど、俺の曲褒めてくれた」

「へぇ、それはよかったね」

「でも俺はアイツが嫌い」

 急に陸の声が冷たくなった。

「……そうなんだ」

「だって、アイツと一緒に歩いていたら女は絶対振り返るからね」

「ふーん。キミも振り返られたいの?」

 陸とあの男性が一緒に歩いていたら確かに目を引くだろうと思う。沙希は少し険しい表情になった。これが電話でなければ突っ込まれそうだ。

「そういうわけじゃないけど、とにかくアイツ、めちゃくちゃモテるんだって!」

「そう。それで?」

 はぁ、と大きなため息が受話器から聞こえてきた。

「ムカつくじゃん」

 沙希は受話器を持ったまま首を傾げた。結局陸もモテたいのか、と思うと複雑な気分になる。

「それにアイツ、沙希のこと『かわいい』って言ったから腹が立った」

 ますます返事に困った。

「だから一発殴ってやった」

「え!?」

 驚いて大声になった。慌てて口を塞いだがもう遅い。

「……ていうのは嘘。俺はそんな野蛮なことはしない」

 沙希は胸をなでおろした。陸にはそんなことができるわけないと知ってはいても、一瞬信じそうになった。電車の中ではかなり険悪な雰囲気だったことが沙希の中に強い印象として残っていた。

「そうだよね」

「だって殴ったら俺の手も痛くなるし」

 沙希はクスクス笑った。陸らしいと思う。

「でも、浅野くんって意外と力あるよね。私、お姫様抱っこされたの初めて」

「お前、軽いじゃん」

「だって前に持ち上げられなくて落とされたことあるもん」

 陸が受話器の向こうで噴き出した。だが暗黙の了解でここはさらりと流す。

「俺、曲を書いてて思ったよ。俺は本当にお前のことが好きなんだなーって」

「……それはどうもありがとう」

 何度言われても慣れることはない。恥ずかしくてそれを言うのが精一杯だった。

「だから……もし、お前が俺のそばにいなくなる日が来ても、俺は大丈夫」

(……え?)

 ドキドキと心臓の音が聞こえる。沙希は瞬きするのも忘れて次の言葉を待った。



「いつでもお前は俺の中にいるから」



 涙がとめどなくあふれてきた。嬉しいのか悲しいのかわからない。

「だから寂しくなんかないし、悲しいことなんか何もない。お前を好きになって本当によかった」

 そう言う陸の声が震えた。たぶん泣いているのだろう。鼻をすすりながら陸は言った。

「ホント、沙希は俺をどれだけ泣かせれば気が済むのか……」

「そんな……ごめん」

 陸がクスッと笑った。

「でも、まだ大丈夫でしょ?」

「ん?」

 沙希は妙に明るい声を出す陸に戸惑った。不思議と涙が止まる。

「まだまだ時間あるよね? 一緒にいてもいいでしょ?」

(それって……)

「うん」

「よかった」



(もしかして、こんなずるい私を許してくれるの?)



 たぶん初めてだ、と思う。

 今まで沙希は他人の顔色を窺いながら生きてきた。頑張り屋で何でも出来てものわかりのいい女の子になることが、他人から愛情を得る唯一の手段だと信じていた。

 逆に自分の醜い部分は必死で隠し通そうとしてきたのだ。

 そのうち、いい子の自分が本物だと自分自身ですら勘違いするようになっていた。



(……キミを好きになるまでは) 



 自分の中にこんなわがままな気持ちが存在するなんて認めたくはなかった。

(こんな私でもいいの? それでも好きだと言ってくれるの?)

 そんな人は今までいなかった。

 きっと今のこの瞬間ですら陸を好きになっていると沙希は思う。



(ねぇ、私の一番大事なものをキミにあげるよ)



 誰もが祝福するような恋でも、どうせ明日のことは誰にもわからないのだ。

 それならば限られた時間でも今だけは陸の一番近くにいたい。



「私は……いつでもキミの幸せを願っているよ。そばにいるときも……いないときも」



 もし、離れる日が来るとしても陸を忘れることはできないだろうと思う。

 永遠に変わらないものを信じられるほど沙希は純粋ではない。いつか陸は沙希のことなど忘れてしまうだろう。



(それでもいい。それでいいんだよ)



(それでも……きっとこの想いは変わらない――)



 だから誰よりも深く何よりも強く心からキミを想う気持ちを捧げよう。

 いつでもどんなときもキミを護ってくれるようにと願いを込めて……。


〈 ふたりの恋がはじまる END 〉

 

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