沙希は陸の隣でぼんやりしていた。
陸はギターを手にしている。その姿も今はずいぶん見慣れた。
こうして目の前でエレキギターを弾く人を見たことがなかった沙希は、最初こそ物珍しかったがそれを口にはしなかった。
今日は珍しく楽譜を開いている。床の上に置かれているそれを沙希も目で追いながら、ギターの譜面はよくわからないなと思っていた。
ページをめくる。
「ホントに楽譜読めるんだね」
陸が驚いたように言った。
「そりゃ3歳からピアノ習ってたからね。読めないほうがおかしいでしょ」
「今まで周りにそういう女いたことなかったから」
感心したような陸の視線を戸惑いながら受け止めて、沙希はまた楽譜に目を戻した。
「俺は早弾きとかテクを重視した曲は好きじゃない」
「でもそれは基本ができてないとテクニックもついてこないわけで……」
「そりゃそうだけど、必要ないところにまでいらないじゃん。いい曲ってそういうもんじゃないって俺は思う」
陸の言いたいことが何となくわかってきた。テクニックを見せつけるためだけのような曲のことを言っているのだろう。確かに難しい曲がいい曲であるとは限らない。
「できないから『嫌い』って言ってるんじゃなくて?」
沙希はわざとからかうように言った。
「……お前でも怒るよ?」
ふくれた顔の陸はジロッと沙希を睨む。言い過ぎたかな、と思い小さくなった。
「何が言いたいわけ?」
「結局練習するしかないって……私は思うんだけど」
「そんなことはわかってるって。もうやーめた!」
陸はギターを片付ける。その様子を見ながら沙希は彼の部屋にあるコンポや機材がかなり高級品であることに今更ながら気がついた。沙希自身はあまり詳しくないが、沙希の父がオーディオ機器好きなので何となくわかる。
(この部屋だって広いよね……)
何気なく部屋を見回した。持っているCDの数も半端ではない。着ている服や持ち物もブランド物が多い。これは彼の母親の趣味だろうと沙希は思っていたが、親しくなって初めて陸はこだわりが強くて自分の気に入ったものしか持たないことを知った。
目の前に陸が座った。
さっきはふて腐れたような表情をしていたのに今はニヤニヤと笑っている。その顔を見ると思わず沙希も笑ってしまう。
「沙希とはいろんな話ができて楽しいな」
陸は沙希の首に手を回した。頭の後ろで組んで沙希の肩に腕を乗せた。
「お前といろいろなことがしたいなーって思うんだよね。そうだ、ケーキバイキング一緒に行かね?」
「いいよー」
満足そうな笑顔が近づいてきて唇が重ねられた。キスをするだけでもこんなにドキドキするのはこの恋がはじまったばかりだからなのだろうか。
陸の舌が侵入してきてお互いの舌を舐め合った。そのうち陸から何かが送り込まれてきた。
「……んーーー!?」
「飲んだ?」
陸が悪戯な笑みを浮かべて訊いてくる。ごくん、と飲み込んでしまってから沙希は目を見開いて陸を間近で凝視した。
「何するの!?」
唾液が送り込まれてきたのだ。
「お前のもちょうだい」
「えー!?」
陸はにっこりと笑ってすぐにもう一度口付けしてきた。一瞬ためらったが、同じように唾液を溜めて陸の口の中へ押し込んだ。
唇が離れると陸がクスクスと笑う。沙希は困って少し首を傾げる。
「どうしよ。俺、もうこんなになっちゃってるんだけど」
そう言って陸は沙希の膝に自分の身体を寄せた。
「ちょっ……! なんで?」
「だって仕方ないじゃん。お前といるとこうなっちゃうんだもん」
膝立ちで陸は沙希を抱きしめた。身体の一部に陸の硬くて熱いものが押し付けられて沙希は困った。だが強い力で抱きしめられているので身動きができない。
「ねぇ、どうにかしてよ」
「そんなこと言われても……どうにかって?」
陸は嬉しそうに目を細めて笑った。その笑顔が少し恐ろしい。
「お前に舐めてほしいなぁ」
「はぁ!?」
よく臆面もなくそんなことが言えるな、と沙希は妙に感心した。容姿からは想像できないそのギャップが、逆に陸をセクシーに感じさせるところなのかもしれない。
「できる?」
「私、上手じゃないよ?」
経験がないわけではないが自信がなかった。
「巧すぎるほうが嫌だけど」
そう言いながら沙希のカットソーを脱がせようとする。
「ちょっと、なんで?」
「沙希も脱いでよ」
「えー?」
「俺が見たいから。あ、でも寒いかもしれないから下着でいいや」
沙希は困った顔をしながらも、陸のなすがままに下着姿になった。陸も素早く自分の服を脱ぎ捨てベッドに横たわる。
(どうしよう……)
まだ窓の外は明るい時間帯だ。躊躇しつつ陸の足元へ腰を降ろした。
(ホントにするの?)
陸を見ると何かを期待した様子でこちらを見ている。仕方なくベッドの上に乗り、陸の足の上に跨った。陸はいつの間にか真面目な表情になっていた。
深呼吸して沙希は身を屈めた。陸は首を少し起こしてその様子をじっと観察している。ドキドキしながら沙希はゆっくり口に含んだ。
どうすればいいのかよくわからないので、上目遣いで陸に助けを求める。だが、陸は同じ表情のままじっと見つめてくるだけだ。困ったと思いながら沙希はゆっくりだった動きを少しずつ早めてみた。
黙って見ていた陸の表情が一瞬険しくなった。それから手が伸びてきて沙希の頭を撫でる。これでいいのか、と半信半疑のまま沙希はその行為を続けた。
「ちょっと、休憩」
しばらくして沙希は大きく息をついた。陸が目を細めて沙希の顔に触れた。
「下手くそでごめん」
「いや、気持ちいいよ。疲れた?」
「……うん」
「じゃあ、もうちょっと頑張って」
(えー!?)
沙希の心の声が聞こえたのか、陸はニヤリと笑った。仕方なくまた身を屈める。先ほどより動きを早めると、陸は起こしていた頭をのけぞらせて目を瞑った。
沙希の頭の上に置いた陸の手が促すように動く。次第に陸の息遣いがはっきりと聞こえてくる。沙希はだんだん辛くなってきたが、我慢して一段と大きくなったものを口の奥まで含んだ。
「……イきそっ!」
次の瞬間、陸自身が脈打って沙希の口の中で果てた。口の中には苦さが広がり思わず沙希は顔を歪める。それを見た陸は慌ててティッシュに手を伸ばした。
「これに出して!」
だが、その言葉の前に沙希はごくんと飲み込んでしまっていた。
「……飲んじゃった」
「ええーーー!?」
陸は驚いて跳ね起きた。沙希に近づいて頬を両手でつかむ。
「沙希……大丈夫? 普通そんなの吐き出すのに」
「そうなの?」
普通の基準がわからない沙希には他に選択肢がなかったのだ。あまり美味しいものではないが飲み込めないほどでもない。
「そうだよ。無理に飲まなくていいのに。不味いだろ」
「まぁ、美味しいものではないけど」
「でも嬉しい」
そう言って陸はキスをしてきた。沙希はそれを避けるように陸の肩をつかみ引き剥がそうとする。不思議そうな顔の陸に言い訳するようにつぶやいた。
「だって、味するかも」
陸は不敵な笑みを浮かべて強い力で沙希を引き寄せた。
「俺はそういうの気にしないの」
それを証明するかのように陸の舌はいつもより丹念に沙希の口の中を舐めまわした。頭の中にあった様々な考えが消えていく。
その後は何も考えず、陸に身を任せた。
沙希は陸に腕枕をしてもらいながら、いつの間にこの細い腕が居心地のよい場所になったのだろうと考えていた。
家庭教師ではない日まで陸の家に来るようになり、都合のつく限り二人は会って一緒に過ごす。会えない日も明け方まで電話で話していた。
(もう後戻りできないところまで来ちゃったな……)
もっと後ろめたい気持ちになるのかと思ったが、今の沙希にはそんな感情は皆無だ。むしろ陸と一緒にいることが楽しくて嬉しくて仕方ない。できるならこの幸せな気持ちを誰かに自慢して歩きたいくらいだ。
(こんなに素敵な人を好きになったよ……って)
比較するつもりはないが、彼氏と陸とでは比べる以前の話だと思う。
陸のどこが好きなのだろう、と考える。
容姿は重要な要素だが、陸がもしもっと別の姿形でもおそらく自分は彼を好きになっただろうと思う。
(私に真っ直ぐ向かってくる純粋さにやられたっていうのはあるな……)
黙って見つめてくる陸を沙希も見つめ返す。
(でもたぶん私の悪いところも知ってて好きになってくれたから……)
だから一緒にいても安心できる気がした。ダメなところも含めて受け入れてくれる人がいるということが、こんなに嬉しく心強いことだとは知らなかった。
(血の繋がりもない全く赤の他人なのにね)
陸が目を閉じてしみじみとした口調で言った。
「お前といると安心するね。うんざりするようなこともどうでもよくなる」
沙希は驚いて目を見張った。陸も同じようなことを考えていたのだろうか?
「何かあったの?」
「大したことじゃないけど、でも……やっぱりヘコんでるのかも」
珍しく陸がはっきり言わないので、沙希は僅かに首を傾げただけで黙っていた。すると大きなため息をついて陸が口を開いた。
「このマンションの壁、薄いんだよ。隣の部屋からたまに聞こえるの」
何が? とは聞けなかった。隣は陸の両親の寝室だということを知っていたからだ。
「マジで勘弁してほしいよな。……ったく、親のやってる音とか聞きたくねぇ」
苦い顔で吐き捨てるように陸は言った。答えようがない。沙希には眉間に皺を寄せるのが精一杯だった。
「そんな顔すんなって。お前がいれば俺は大丈夫」
「私はそんなにいいものじゃないよ」
「ホントに」
わざと嫌そうな顔で陸は肯定した。だがすぐに鼻で笑う。
「でも……俺のところに来ればいいのに。そうすれば沙希に苦労なんかさせないのに」
「苦労?」
笑ってはいるが、どこか神妙な雰囲気の陸に、沙希は困ったような顔をすることしかできなかった。
「そう。お前は何もしなくていいの。俺のそばにいてくれれば……」
「そんなわけにはいかないでしょ」
「大丈夫だって。俺、お前のために働くし」
「そんな……」
「だってお前が社会人になって仕事とかしても絶対苦労するって」
陸がやけに断定的に言うので、沙希は少しムッとした。
「何よ、酷いじゃない!」
「だって沙希は優しすぎるんだもん。だから絶対利用される。しかも変な男に言い寄られたり? それで断れなくて困ったり?」
なぜか陸が怒ったようにまくしたてた。反論できなかった。絶対にそんなことはないとは言えない。むしろ陸の言うとおりになる可能性のほうが高い気がする。
しょげた様子を察してか、陸は沙希の顔を覗き込むようにして優しい声で言った。
「だから……俺のところに来ればいいのに」
沙希は陸の目を見つめた。その強く真剣な視線にぎゅうっと胸が締めつけられる。だが何を答えることができるだろう?
(嬉しい。でも私は何の約束もしてあげられないよ……)
こんなに愛されているのに、何もしてあげられない。
沙希はそんな自分にほとほと嫌気が差していた。もうこんな自分ならいっそ一度生まれ変わりたいとさえ思う。
答えを待つ陸の痛いほど真っ直ぐなまなざしに、沙希はただ寂しく微笑んで見せることしかできなかった。
空がどこまでも高く澄んだ青色で、筆でさっと描いたような薄い雲がところどころに浮かんでいる。
沙希は助手席で上空を見上げていた。小春日和とは今日のような天気を言うのだな、と思う。絶好のドライブ日和だ。
(眠い……)
運転席を見ないようにして、この一週間のことを思い返す。陸と会う日が多くなり、会えば必ず二度三度と求められる。あまり体力のない沙希は陸に会えない時間になるべく身体を休めるようにしていた。
ぽかぽかとした陽気についウトウトしていると、運転席から声が聞こえた。
「この歌……悲しいな」
沙希はハッとして少し身体を起こした。以前話題になった曲がラジオでかかっていた。
胸に何かがつかえて言うべき言葉が見つからなかった。運転席でステアリングを握る人もそれからしばらくは口を閉ざしたままだった。
流れる景色にぼんやりと目をやりながら沙希は以前その人から聞いた言葉を思い出していた。
「俺は本当は生まれてくるはずのない子どもだったらしい」
彼の両親はもともと子どもを希望していなかったようだ。事実、彼の母親は中絶経験があることを彼に幼い時から繰り返し話して聞かせてきたのだ。
「俺のときは間に合わなくて仕方なく産んだって」
そう聞かされて育った子どもは自分自身をナイフのようにして壊れた心を守ろうとしてきたのだろう。沙希にはそれが憐れに思われた。
(でも結局ただの同情……いや、蔑みかも)
彼に対する感情は今思えば恋愛とは程遠いものだ。かわいそうだが彼にしてあげられることは何もない。どんなに頑張ったところで彼の母親にはなれないのだ。それがこの七年間で唯一わかったことだった。
だが別れたいと言い出す勇気がない。先ほどのような言葉を聞けばますます無理だと心の大半が諦めた。
(早く明日になればいいのに。明日になれば浅野くんのところに帰れるのに)
もう身も心もバラバラになりそうだった。これ以上心を偽り続けるのは苦しい。何より自分に嘘をつき続けるのが辛かった。
(どうして好きな人を好きと言ってはいけないのだろう)
どこかから冷めた自分の声が聞こえてきた。
(でもそれだって、自分で選んだ道でしょ?)
この道がどんな未来に繋がっているのかまるで見当がつかなかった。だが今の沙希にはそれがとても明るいものには思えない。そうわかっていても今はただこの道の途中で立ち尽くすことしかできなかった。
大学の構内はいつも長閑(のどか)で、その雰囲気のせいか沙希は卒論の準備をのんびりと進めていた。
だが今日はゼミ内で卒論研究の報告会があり、他の人の発表を聞いて急に焦りを感じ始めた。間に合うだろうかと不安になる。報告会が終わった後、資料集めのために図書館へ向かった。その途中で携帯が鳴った。
「え? 詩穂子ちゃん? 久しぶりだね」
以前家庭教師をしていた井上詩穂子からだった。図書館のロビーの隅で近況報告を聞いた。用件は沙希の好きなバンドのライブに一緒に行きたいということだった。
「いいよ。チケット取れたら一緒に行こう」
「やったー! 先生大好き」
昔から変わらず無邪気に自分を慕ってくる詩穂子に悪い気はしなかった。
「そうだ、先生。あのね……ユリが休学したんだよ」
(ユリ……。黒川由梨香ちゃん……浅野くんの元カノの)
「そう……」
「休学って……結局は学校辞めちゃうってこと……だよね?」
詩穂子はわからないことを何でも沙希に尋ねてくる子だった。勉強だけでなくいわゆる世間のことについても、だ。特に大人が濁したくなるような事実は親より沙希のほうが聞きやすいのだろう。
「そう……なっちゃうのかな?」
さすがに沙希もはっきりとは言えなかった。電話を切った後も胸が重苦しく、しばらく図書館のロビーから外の景色をぼんやりと眺めていた。もう陽が落ちて辺りは人影もまばらだ。沙希は小さくため息をついて心を切り替え、図書館へ入る。
だがいつまで経っても沙希の胸にわだかまるものが消える気配はなかった。
「なんか変な顔してるな」
陸が下着を穿いて隣に座った。
「そう? いつもこんな顔ですが」
気取られないように沙希は無理矢理頭の中から黒川由梨香のことを追い払う。笑おうと思ったが上手く笑顔を作ることができなかった。
陸は眉を少し寄せて沙希の顔を覗き込む。
「俺と一緒にいるときは笑っていてほしいな」
その言葉に自然と頬が緩んだ。自分だってできればそうしたいと思う。頭を陸の肩の上に乗せる。
「……お腹が痛い」
「え? どこが?」
「この辺。こんなところ痛くなるの、初めて」
臍の下をさする様子を見た陸の唇が笑いをこらえるような形に変化した。沙希は意外な反応に少し口を尖らせて首を傾げた。
「あーそれ、突き過ぎるとなるんだよ。かなり奥まで激しく突いたからね」
沙希は思わず陸の顔をまじまじと見つめた。返事が出てこない。
「へぇ、初めてなんだ。ふーん」
ニヤニヤと笑いながら陸は沙希のお腹に手を当てた。
「なによ」
「いや、俺たちピッタリだね」
「何が?」
「相性?」
「……そういうのよくわかんない」
「大丈夫、だんだんわかるようになるから」
陸が優しく撫でてくれるからか、痛みが薄らいできた。
本当にわかるようになるのだろうか、と沙希は思う。何しろ挿入されても全然気持ちよいとは思えないのだ。それは相手が誰だろうと変わりないらしく、そのことに沙希はかなり落胆していた。
「そうかなぁ? ……私、よく緩いって言われたけど」
今度は陸が意外そうな表情をした。
「いや、お前のは……すっげーいいけど? だって俺、全然我慢できねぇし」
「よくわからん」
「それ……アレじゃね? ソイツのが……」
そこで意味ありげに言葉が途切れた。二人は顔を見合わせる。陸は笑いを噛み殺そうとして苦労しているようだ。沙希は我慢できなくて噴き出してしまった。
「男性もいろいろあって大変だね」
「そりゃ一番重要な部分だからね」
「よくわからん」
「またまた! ホントはわかってるくせに。沙希だって好きでしょ?」
「何が?」
「……ナニが?」
「別に」
「えー、少なくとも俺のは好きでしょ?」
「さぁ?」
「俺はね、お前の全部が好きだよ。……聞いてないって?」
陸はそう言って愛しそうに唇を重ねてきた。沙希の胸はいっぱいになる。
不思議だな、と沙希は思う。気が付けば胸に重くのしかかっていたものは跡形もなく消えてしまっていた。陸が自分にもたらしてくれるものはきっと彼自身が考えているよりもずっと大きなものだと思う。
(この人をほしいと思うのは……罪ですか?)
誰にともなく心の中で問いかけた。
(それで罰を受けるなら……それでもいい。この人を私にください)
涙がこぼれそうになるのを何とかこらえて、沙希は身支度を整え始めた。
陸の家を出ると土砂降りだった。
「タクシー来ねぇな。どうする?」
傘をさしてはいるがアスファルトからの跳ね返りで二人とも足元が既にずぶ濡れになっていた。
「これじゃあ歩くのは無理だな。電車乗るか?」
沙希は小さく頷いた。電車通りが近いのは知っていたが、今まで陸の家への行き帰りで利用したことはなかった。
停留所で五分ほど待つと電車がやって来た。狭い車両の中は蒸していた。雨のためか乗客が意外に多い。先に乗り込んだ陸が一瞬足を止めた。
「よぉ、陸」
痩せた長身の男性が陸に声を掛けてきた。たぶん陸と同い年くらいだろう。髪が栗色で肩につくかつかないくらい長さだ。白い顔は人形のように整っていて、沙希も吸い込まれるようにその人を見た。
「おぅ」
陸は気のない返事をして目をそらした。だが相手は愉快そうに陸に近づいた。そして沙希を値踏みするように上から下までじろりと眺める。その視線が自分の身体を這う感覚に沙希は寒気がした。
「陸が電車に乗るなんて珍しいね」
「……んなことねぇよ」
声は低いが艶っぽい喋り方だと沙希は思う。陸もどちらかというと中性的だが、相手の男性の顔立ちは女性よりも余程女性らしい。動作も蠱惑(こわく)的で目が離せなくなりそうだ。だがそれはあらかじめ計算されたもののようで沙希は好ましく思わなかった。
陸の態度がそっけないので沙希も彼を見ないようにする。
「そうか、陸の家ってこの辺だったね」
「…………」
沙希は陸が纏うピリピリとした空気に身を小さくした。なるべく会話も聞かないようにする。
相手は陸の苛立った様子に気が付いているのにわざと煽るようにどうでもいいようなことを話しかける。陸は仕方なく返事をするがいかにも適当だった。
いつまでこんな空間にいなければならないのだろう、と思っていると終点を知らせるアナウンスが聞こえた。沙希はホッとして身体の緊張を解いた。突然陸が沙希を振り返って手を出す。
「カード貸して。俺、忘れてきた」
沙希は慌ててプリペイド式カードを渡す。受け取った陸はスタスタと降車口に向かい、乗務員に「二人分お願いします」と告げた。焦って沙希はその後を追う。
陸に続いて降りようと階段に足をかけたとき、沙希は強い視線を感じた。
(…………!)
栗色の髪が揺れた。長身の男と目が合う。彼は妙に紅い唇にうっすらと妖艶な笑みを浮かべてこちらを見ていた。
ほんの一瞬のことだったが、沙希は背中がゾクリとし、全身が粟立つのを感じた。