HOME


BACK / INDEX / NEXT

番外編 ふたりの恋がはじまる 《 LESSON 8 》

 地下鉄に乗った沙希は空いている席に腰を降ろして一息ついた。ふわふわと気分が高揚していたが、どこかに醒めた自分もいて常に沙希の行動を監視している。その監視者が浮かれている沙希の前に立ちはだかった。

(これって……やっぱりよくないよ)

(でも手を繋いだだけでしょ? それくらい別にいいじゃない)

(だけどまた三日後には会うんだよ? これ以上は何もないって本当に思ってるの?)

(それは……)

 自問自答を繰り返すが答えは出ない。きっと答えを握っているのは陸なのだ。手を繋いでもいいかと訊いてきた陸の緊張した声と少し震える手を思い出すと、彼をかわいいと思う自分を認めざるを得ない。

(それにこんなに楽しかったのは久しぶりだな。彼氏とカラオケなんて行ったことないし、手を繋いで歩くなんて最後にしたのはいつだろう?)

 沙希は小さくため息をつく。彼氏といると常に地雷を踏まないようにびくびくしていなければならない。今ではもう沙希は彼氏に心を閉ざして、彼氏が喜ぶような女性を演じているだけだった。

 その点、陸は優しい。それは沙希の気を惹くための仕掛けなのかもしれない。それでも沙希は嬉しかった。

(期待しないほうがいいよ。ほら、自分のものになったら男の人なんて変わっちゃうって十分思い知ったじゃない? 浅野くんだって同じかもよ? そして飽きたら捨てられる……)

 シニカルに自分の一部が笑う。あり得る話だ、と沙希ははしゃいでいた気持ちをクールダウンさせる。

(どうしてあのとき拒否しなかったんだろう)

 悩んだ挙句に出す答えは大概がノーだった。だとしたら、自分は悩んでいなかったのかもしれないと沙希は思い返す。

(ま、いいか)

 自分の本心に向き合うのが怖い。知りたくないのだ。知ってしまったらこのままではいられなくなる。だが今はまだこのままでいたい。

 自分の中の監視者も沈黙した。

 車窓が映す黒い壁が流れていく様子を茫然と見つめながら、沙希は持っていた鞄を無意識にぎゅっと強く握った。











 三日後、沙希は陸の家の最寄駅で地下鉄を降り、階段を昇ったところで驚いて一瞬立ち止まった。

 制服姿の陸が壁にもたれてこっちを見ている。

「どうしたの?」

 沙希が改札を出ると陸は近づいてきた。

「待ってた」

「えー!? 私、一人で行けるよ」

「そんなことわかってる。そうじゃなくて、俺が待っていたかったの!」

 まるで幼い子どものような言い方に沙希は思わず笑ってしまう。

「迷惑?」

「そんなことはないけど、急にどうしたのかなって思って」

 陸は怒ったような顔でじっと沙希を見た。その表情に沙希は少しひるんだ。

「手、出して」

 そう言って陸は自分の手を沙希のほうへ差し伸べた。おそるおそる手を出すとすぐにつかまえられる。

 クッと陸の笑い声が聞こえた。見上げるといつもの悪戯な笑顔の陸がいた。





(こういうの困るな……)

 沙希は三日前とは違って、手を繋いで歩くのが当たり前のようにふるまう陸に戸惑っていた。不安になって陸を見上げる。

 するとニヤッと笑顔を見せて陸は口を開いた。

「あのさ、俺と賭けしない?」

「え?」

 陸は目を細めて口角を上げる。

「今度のテストで全教科70点以上取ったら……」

「…………?」

 そこでわざと区切って沙希を挑むように見つめる。沙希は少し首を傾げて、次の言葉をドキドキしながら待った。



「俺とキスする」



「はぁ!?」

 沙希は素っ頓狂な声を上げた。だが陸は驚きもせず面白そうな顔で沙希をじっと見ている。

「いい考えでしょ?」

「…………」

 とっさには返事ができない。沙希は困ったように陸を見ることしかできなかった。

「どう? 嫌なら嫌って言ってもいいよ」

 それすら沙希には無理だった。

(どう……しよう?)

「嫌じゃ……ないよね?」

 少し弱々しい声が上から聞こえる。沙希はゆっくりと歩く自分の足元をぼんやりと見た。

「じゃあ、決まりね」

(え!?)

 慌てて陸を見ると少しだけ照れたような表情で優しく笑いかけられた。

「だって嫌じゃないでしょ? いいよ、返事しなくても。わかってるから」

「ちょっと……!」

「テスト頑張ろうっと! ちゃんと勉強教えてよ。手を抜いたら怒るから」

「そんなの当たり前でしょ!」

 満足そうに陸は手を繋いでいるほうの腕を大きく振る。

「やっぱり、先生も俺とキスしたいんだ?」

「ちがっ……!」

 沙希は自分の頬が熱くなるのを感じた。

「照れてる」

 陸が嬉しそうに沙希の顔を覗き込んだ。唇を噛んで上目遣いに睨んだが、赤く染まった頬を隠すことは無理だった。





 それから陸は急に真面目な生徒になった。動機が不純なのがいただけないが、沙希としては喜ぶべきことだ。だが胸中は複雑だった。

(どうして嫌だと言わなかったんだろう? 本当に全教科70点以上だったら……するの?)

 小さくため息をついた。

 それを見逃さなかった陸はシャープペンシルを机の上に転がして椅子から立ち上がった。

「ちょっと休憩しない?」

「うん」

「ねぇ、これやろうよ」

 そう言って陸が手に取ったのは家庭用ゲーム機のパズルゲームのソフトだった。有名な落ち物パズルで、沙希はあまり得意ではない。

「うわー、私もそれ持ってるけどものすごーく下手くそなの」

「俺もあんまり得意じゃない」

「こういうの、彼氏が異常なくらい得意で……」

 陸の顔から表情が消えた。うっかり余計なことを言ったと沙希は後悔したがもう遅かった。

「じゃあ対戦しよう」

 気を取り直したように陸はそう言って沙希に背を向けた。その背中が少し寂しそうに見えて沙希は思わず目をそらしてしまった。

「ほい」

 コントローラーを差し出しながら陸は沙希の隣に座った。気になって窺うように見ると、もういつもの顔だった。

「手加減すんなよ」

「ホント下手だからびっくりしないでよ」

 隣からクスッと笑う声が聞こえた。沙希は画面を見つめたまま少しだけ口を尖らせた。

 ゲームがスタートした。

(ホントに苦手なんだよー!)

 心の中で叫びながら沙希は懸命に指を動かした。だが反応速度は陸のほうが断然早い。

「ぎゃーっ!」

 陸がブロックを消した分、沙希のほうへ積み上がる。余裕がなくなってきて沙希は言葉にならない声を発しながら自滅するまいと必死になった。

「ちょっと、もうやめてー! うぎゃーーーーーっ!」

 あっけなく勝負がついた。

「……マジで? 本気でやってる?」

 声にならないくらい大ウケしながら陸がようやくそう言った。沙希は悲しいやら悔しいやらで言葉が出ない。

「もう一回やろうよ」

「くー! 今度こそ!」

 また陸が横でクスッと笑う。その横顔をキッと睨んで画面を食い入るように見つめた。

「行っくよー!」

 ゲームの声を真似して陸がふざけて言う。

「あーーーっ!」

「何?」

「間違ったーーー!」

 沙希のプレイしている画面をチラリと見た陸はプッと噴き出した。

「すげぇ。どうやったらそうなるの?」

「助けてー!」

「無理。……つか、勝手に終了するな」

「うえーん」

 沙希はついに自滅してしまい、コントローラーを放り出して横を向いた。

「俺より下手なヤツ、初めて見たぞ」

 昔、オセロで近所のお兄ちゃんにも同じことを言われたな、と沙希は思い出した。確かそのときは悔しくて泣いてしまったのだ。沙希の負けず嫌いは尋常ではない。だが、陸に負けたことはそれほど悔しくはないな、と思った。

 そう回想している間に陸はゲーム機を片付けて、また沙希の横に座った。何気なく沙希は自分の前に無造作に転がっているゲームソフトのジャケット写真を見ていた。

 急に部屋が静かになった、と思う。

 次の瞬間、陸が沙希の顎に手をかけた。



(……え?)



 その手が顎を少し持ち上げると陸の顔が近づいて唇が触れた。

 頭の中が真っ白になった。

 陸の目が閉じられているのを見て、沙希はようやく目を閉じた。

 わずかに震える唇で軽く触れるだけのぎこちないキスから、陸の真剣さが痛いほど伝わってくる。

 唇が離れるとお互い見つめ合って微笑んだ。だが陸はすぐにうつむく。

「……き。沙希。沙希」

「…………?」

「沙希って呼ぶ練習」

 顔を上げた陸は珍しく頬が赤らんでいた。かわいい。自然とそう思っていた。

「ねぇ、今度は沙希からキスしてよ」

「えー!?」

 一瞬迷った。自分からキスなんて……。



(……もう、いいや!)



 沙希は陸を間近にして笑って見せた。陸が黙って瞬きするのを見て、思い切って陸の首に両腕を回した。

 それから目を閉じて自分から唇を重ねた。顔の角度を斜めにして深く口付ける。少しだけ開いた唇から陸の唇を舐めると、すぐにその舌は絡め取られた。

 無意識のうちに陸の後頭部の髪を撫でていた。愛しく想う気持ちが溢れるのを止められない。

 どれくらいの間、そうしていただろう。

 ようやく唇を離すと、陸は沙希の背中に腕を回した。

「大人のチュウだ……」

(初めてなわけじゃないでしょ)

 そう思いながら、沙希はこんな大胆なことをするなんて、と自分自身に驚いていた。

「キス、上手いね」

「……前にも言われた」

「ふーん」

 また余計なことを言ったかなとおそるおそる陸の顔を見たが、すぐに頭を胸に押し付けられる。

 ドクン、ドクンと陸の胸から伝わる鼓動を聞いた。自分に比べるとずいぶん穏やかなリズムだ。それを聞いているうちに沙希の気持ちも落ち着いてきた。

 二人でいる時間にこんな長い沈黙は初めてかもしれない、と沙希は思う。だが今は言葉はいらない。何も考えられない。ただ、触れ合う部分からお互いの体温が溶け合うのを感じるだけだ。

 壁にかかった時計の規則正しい音が聞こえてきた。



(どうして……)

 ふと沙希は思う。

(私なんだろう?)



 頭を上げて陸の顔を見た。目が合うと陸は目尻を下げて笑う。

「あーあ。キスしちゃったな」

(確信犯のクセに……)

「ごちそうさま。お前の唇、おいしかった」

 そう言って頭にポンと手を乗せた。そして机の前に戻る。沙希も立ち上がって自分の椅子に戻った。

「もう賭けはナシでしょ?」

「いや」

 沙希はニヤリと笑う陸を見て嫌な予感がした。

「これ以上、何を?」

「これ以上っていうと、アレしかないだろ」

「アレ……」

 陸は斜めの角度から挑むように沙希を見る。背筋がゾクっとした。



「俺と……ラブホに行く」



「はぁ!?」

 予想通りだったがとりあえず沙希は驚いてみせた。そして怖い顔を作ってこめかみを押さえながら言った。

「ねぇ、どうしてそこまで?」

 陸は少し考えてから答えた。

「俺が言ったことはきちんとやる男だって証明したいじゃん」

「でも、この賭け、私にいいことある?」

 そう言うと陸は視線を宙にさまよわせた。しばらくしてニッと笑顔を見せて

「ない」

 と、きっぱり答えた。

「でもテストの点が良ければ沙希も嬉しいだろ? そして俺と……」

「そこで言葉を切るな!」

 陸はクスクスと笑って肩をすくめて見せた。

「勉強頑張ろうっと! 早く禁欲生活終わらせたいし」

「はぁ!?」

「なんでもない。こっちの話」

 珍しく自分から問題集に向かう陸を見て、沙希はため息をついた。その横顔をぼんやり眺める。

 テストまでもうすぐだ。そのときが来るのが怖い。

 沙希は自分の気持ちを見ないようにした。ここまで来てしまったことを後悔してももう遅い。それにこの先のことを考えるのも恐ろしかった。

 そっと唇を噛む。

(だって仕方ないよ。嫌じゃなかったんだから)

 誰にともなくそう言い訳した。

 

BACK / INDEX / NEXT

1st:2009/07/09
HOME
Copyright(c)2008- Emma Nishidate All Rights Reserved.
Image by web*citron / Designed by 天奇屋