HOME


BACK / INDEX / NEXT

番外編 ふたりの恋がはじまる 《 LESSON 7 》

 陸はタバコの臭いに顔を歪めた。煙いのも嫌いだが、臭いが自分に付着するのが嫌だった。だがこのバンドのメンバーにそれを言っても通用しないことは端からわかっている。

「でも、そんな女やめたほうがいいぞ。お前のためにもさ」

(またか……)

 誰に言っても沙希のことは諦めたほうがいいと忠告されてしまう。つい嬉しくてデートの約束を取り付けたと口を滑らせた自分が悪いのはわかっていたが、やはり面と向かって誰かにそう言われると面白くない。

「ねぇ、その人、そんなにかわいいの?」

 普段あまり口を開かないベースのトオルが艶のある声で聞いてきた。陸はトオルが苦手だった。少女のような顔で自分よりも背が高い。そして同じ学校だった。陸と人気を二分するトオルは陸と違ってあまり浮いた噂がない。

 そのトオルが珍しく女性の話題に反応した。ますます陸は面白くなかった。

「どうだろ? 俺が今まで出会った女の中では一番かわいいけど」

「へぇ……。会ってみたいな」

(お前にだけは絶対会わせたくないね)

 陸はトオルを黙って見た。トオルは薄く笑いを浮かべているが心の中がまるで読めない。

「だって陸がマジ惚れするような人ってどんな人か気になる」

「かわいいってだけで好きになったわけじゃねぇよ」

「ふーん。でも陸ってどっちかっていうとロリコンじゃん。年上なんて想像できないね」

 確かにそれまでの陸は小さくて幼い顔をした女子が好きだった。

(あの人は別格だな。タイプとかそういう次元じゃねぇし)

 どこがどう好きだとか説明できない。陸自身ですらいつの間にこれほど好きになっていたのかわからないのだ。

「年なんて関係ねぇよ」

「ふーん」

 トオルはそれ以上詮索するつもりはないようで、また開いていた雑誌に目を戻した。陸はその様子をぼんやり眺めながら沙希に初めて会った日のことを思い出していた。





 家の近くのファストフードを待ち合わせの場所に指定したのは陸だった。家庭教師の派遣会社から何か目印はないかと聞かれて、それなら自分が迎えに行くと答えたのだ。

 女の先生だと聞いて、期待半分、冷やかし半分というのが正直なところだった。だが時間より少し早く着いて待っていることから考えると期待のほうが大きかったかもしれない。

(早く来ねぇかな)

 ファストフードの前は客の出入りもあり、そのたびにじろじろ見られるのが苦痛だった。なので、陸は少し視線を下に向けていた。

 何となく顔を上げるとこちらに向かってくる女性が目に入った。

 視線が合う。

(……あの人?)

 たぶん間違いない、と陸は思った。自分でも驚いたことに彼女が視界に入ってから、視線をはずすことができない。こんなことは滅多になかった。

「えっと……浅野くん?」

 彼女が近くまで来てそう言った。遠目に見た印象より意外と身長は高くなくて、顔が小さい。だが目が大きくて、その目に見つめられると嫌でも心拍数が上がった。

「そう。……先生?」

 聞かずとも間違いないのはわかっていたが、それが陸の精一杯の返事だった。彼女はすぐに表情を和らげて微笑んで見せた。

「はじめまして」

 大きな瞳が真っ直ぐに陸を捉える。こんなふうに自分と目を合わせる人が今までいただろうかと陸は思った。

 その数秒は陸にとって忘れられない永遠の一コマになった。











 もし沙希と離れる日が来て、それから何十年と時が流れても、おそらくその日のことを忘れることはないだろうと陸は思う。

(けど、誰でもあんなにじっと見つめてたら勘違いする男、続出だぞ?)

 陸は初めて会った日と同じように待ち合わせ場所に早めに到着して、沙希がやって来るのを今か今かと待ち構えていた。これが二度目の待ち合わせで、初めてのデートだ。今日の待ち合わせ場所は地下鉄の改札口で、この街では有名な待ち合わせ場所の一つだった。

 改札からたくさんの人が出てきた。地下鉄が到着したようだ。陸は沙希を探す。人がまばらになった頃、沙希の姿が見えてホッと胸を撫で下ろすとともに、顔がどうしようもなく緩むのを必死になってこらえた。

「ホントに来てくれてよかった」

「私、相当信用されてないみたいねー」

「そうじゃないけどさ。でもわかんないじゃん。待ってる間、俺、からかわれてるだけかも、とかいろいろ考えちゃったよ」

 クスッと沙希が笑った。

「かわいいこと言うね」

「かわいい言うな!」

(ただでも年下だって気にしてるっつーのに!)

 並んで歩いていると普段とは違って沙希が小さく見える。実際20センチほど身長差があるはずだ。それが何だか嬉しい。

「先生もかわいいよ、ちっちゃくて」

「うるさいっ! これでもね、日本人女性の平均身長と同じなんだよ」

 陸をじろっと見上げて沙希は言った。

「へぇ。でも小さい……つか、薄い?」

「は?」

「いや、こう……身体の膨らみが」

 言うか言わないうちに沙希は陸の背中を思い切り叩いた。反応がやたらと早かった。

「ごめんなさいね! 出るトコ出てなくて!」

 陸はおかしくて顔をそむけて笑った。ますます沙希が怒る。

「しょうがないでしょ? 昔からこうなんだから!」

「いや、俺、巨乳とか興味ないから」

「あっそ!」

 沙希が軽蔑のまなざしをよこす。

「褒めてるのになんで怒る?」

「全然嬉しくない」

「じゃあ俺、手伝おうか? ほら、揉むと大きくなるって……ちょっ、やめっ!」

 途中で沙希が陸の脇腹を突っついた。この前、何かの拍子に脇腹が弱点だとバレてしまったのだ。くすぐったくてたまらない。

「なんでキミはすぐそういうこと言うかな」

「えー、いいじゃん。楽しいし」

 そう言っているうちに約束していたラーメン屋に着いた。食券を買うのに財布を出すと沙希も鞄から財布を出そうとした。

「いいよ。今日は俺が奢るって約束」

「でも……」

「じゃあ、次は先生が奢ってよ」

 そう言うと沙希は不満そうな顔をしたが、渋々財布を鞄にしまった。二人とも同じものを頼むことにして、カウンターの空いている席に向かう。沙希が自分の後ろを着いて来てくれることに陸はちょっとした優越感を抱いた。

 家庭教師として家に来てもらう時間は常に沙希に主導権がある。沙希の生徒であることは嬉しいが悲しい。対等ではないからだ。

 だが、こうして外で会っている今は違う。陸は彼女をリードしたい性格だが、沙希に対しては特にその想いが強かった。

「先生ってよく食べるほう?」

 沙希が残さず全部食べたのを見て陸は少し驚いた。痩せているからあまり食べないのかと勝手に思っていたのだ。実際、付き合った相手の中にはわざと残す女性もいた。

「私、出されたものは残さず全部食べるように厳しく躾けられて育ったんだよね。ま、痩せの大食いってよく言われるけど」

「へぇ。奢りがいがあるね」

 沙希は恥ずかしそうに笑った。普段あまり見ることができない表情だ。

(やべぇ。マジでかわいいんだけど)

 直視していられなくなって視線をそらした。

(ラーメン屋でこれじゃあ二人きりになったら俺は一体どうなるんだ?)

 そうこの先のことを危惧しつつ、沙希を促してラーメン屋を出た。

「じゃあ次はカラオケね」

「えー? それ決定事項なの?」

「勿論。先生も歌ってよ」

「言っておくけど下手だから」

 その台詞に思わずプッと吹き出してしまう。沙希が笑いながら睨んだ。

 陸がよく来るビルのカラオケ店に着いた。フロアの一角にゲームコーナーがあり、プリクラの機械が陸の目に入った。

「ね、ね。一緒にプリクラ撮ろうよ」

「絶対嫌です」

「なんで?」

「ヤだから。絶対ダメ」

(こりゃ見込みねぇな)

 仕方なく陸は諦めた。沙希がこう言い張るときは食い下がっても無駄なのだ。

 土曜の昼間のためか、待ち時間なく個室へ案内された。カラオケ店の店員がドリンクの注文を取ってすぐに退室した。陸はすぐに自分の歌う曲を選んでマイクを手元に準備した。

 歌にはそれなりに自信があった。曲が始まると沙希が顔を上げて画面を眺める。歌いだすと今度は陸に視線を移した。陸がちらりと沙希を見ると、彼女はニコニコしている。少し得意げな気分になった。

「この曲知ってる?」

「初めて聞いたー!」

「やっぱり……」

「あれだよね、浅野くんの部屋にポスターが貼ってあるバンドの……」

「そう」

「歌、上手いね。声がよく出てる」

(嬉しすぎる!)

 陸は不敵な笑いを浮かべつつマイクを沙希へ渡した。沙希は「どうしよう、ちゃんと歌えないかも」などとぶつぶつ言いながらマイクを手にした。

 沙希の歌声は陸の想像より高かった。話しているときは低めの落ち着いた声なので意外だった。

(ていうか、全然下手じゃないし)

「あーもう、全然声出ない」

 歌い終わった沙希は照れ隠しもあってか、そう言って椅子に深く腰掛けた。本当は隣に座りたいが、まだそれは許されない気がしてテーブルを挟んで向かい合って座っている。この距離がもどかしい。

(ねぇ、先生。少しは俺のこと、好きになってよ)

 想いをこめていつもより丁寧に歌った。沙希は歌っている間、選曲の手を止めてきちんと聴いてくれる。そういう些細な気遣いが嬉しくて、その裏には自分に対しての好意があると信じたかった。

 カラオケ店を出て他愛のない話をしながら二人は当てもなくぶらぶらと歩いた。週に一度は会っているのに不思議と話題が途切れることがなく、陸は心が急速に沙希へと傾いていくのを抑えることができなかった。

 気がつくと辺りは暗くなっていた。時計を見るとカラオケ店を出てから結構時間が経っている。

 この楽しいデートも終わりの時間が近づいてきた。できるならもう少しだけこの距離を縮めたい。陸は深呼吸してずっと考えていたことをやっと口にした。

「手を繋いでもいい?」

 声が緊張のあまり震えた。たかが手を繋いでほしいと頼むだけなのに、こんなに緊張するなんて自分らしくないと思う。祈るように沙希を見た。

 沙希は最初、目を見開いて陸を見つめた。だがその表情はすぐに困ったように変化し、黙ったまま視線を前方に戻してしまった。

(……やっぱ、ダメか)

 返事がないのは否定だろう。陸はこの恋は絶望的だと覚悟し、ひどく落胆した。こんなことなら言わなければよかったと思ったそのとき、沙希の言葉が聞こえた。



「……汗ばんでるかもしれないけど、それでもいい?」



 三分は経っていただろう。間があまりにもありすぎて、陸は自分の耳を疑った。

「いいよ。俺のほうが汗ばんでるかも」

 こわばっていた顔の筋肉が溶けるように緩むのが自分でもわかる。沙希が差し出した手を取り指と指を絡ませて手を繋いだ。沙希がおかしそうに笑う。

「俺はこれがいいの」

 沙希を見下ろして言った。目線は自分が上なのにどう考えても余裕がないのは陸のほうだった。それを見透かしたように沙希が繋いだ手を強く握り返してきた。

(もう、知らねぇぞ! 今更ここで止まれって言われても無理だからな!)

 それから陸の家の最寄駅まで一駅分以上をゆっくりと並んで歩いた。緊張して会話はほとんど上の空だった。沙希はときどき気遣うように笑いかけてくる。その間ずっと陸の頭の中にはただある一つの考えがぐるぐると回っていた。



(どうしよう。キスしたい。でもここでしたら絶対怒る。……あーでも!)



 そう逡巡しているうちに駅にたどり着いてしまった。

「ねぇ、もうちょっと一緒にいてよ」

 陸は立ち止まって改札口に背を向けた。沙希は時計を見て

「じゃあ、もうちょっとだけね」

 と言ってくれた。その笑顔に陸はもう自分は完全にイったと思った。

 ずっと繋いだままの手を少し強く引いて壁際のベンチに連れて行く。座っても手は離さなかった。

(これで他に人がいなければキスできるのに)

 今なら許してくれる気がした。今は少なくとも自分のことを考えてくれているはずだ。

「そろそろ……時間?」

 言いたくなかったが断腸の想いで切り出した。これ以上引き止めたら自分が暴走しそうで怖い。この雰囲気なら次もきっとあるはずだと自分に強く言い聞かせる。

 立ち上がって改札口の前で仕方なく繋いでいた手を離した。沙希は一瞬陸を見上げて微笑む。心臓が鷲掴みにされたようにきゅっと痛んだ。

「今日はありがとね。気をつけて帰ってね」

 陸は頷くので精一杯だった。改札を通った後も沙希は振り返って小さく手を振ってくれた。姿が見えなくなると心の中をどうしようもない寂寥感が支配した。

(なんでそんなに優しいの?)

 踵を返して駅の出口へ向かいながら、陸は先ほどまで繋いでいた手を見つめた。



『川島ちゃんは優しいから、お前に合わせてくれてるだけかもしれないぞ』



 沙希の前に家庭教師だった岡本の言葉が頭の中に反響した。慌てて陸は否定する。

(違う! それだけであんな顔するわけない)

 手を繋いでからの沙希はいつもよりもっと優しい顔で笑ってくれた。好意以外で異性に優しい顔なんてするはずがない。少なくとも陸はそうだ。

 帰る道すがら今日のデートを振り返る。何でもないような沙希の言動の一つ一つを胸に刻んで、そこにあるはずのものを探した。とにかく今はどんな小さなものでもいいから確証がほしい。

(俺のことが好き? ……いや、嫌いじゃないよね?)

 次に会えるのは家庭教師で家に来てくれる約束の三日後だ。三日も会えないなんて長すぎる。もう沙希がいない人生など考えられないと思った。

(こんなに好きになっちゃって、俺、どうしよう……)

 でも、と陸は思う。

(先生も今日はずっと笑ってたな。きっと俺と一緒にいて楽しんでくれたよね?)

 夜空を見上げるとかすかに星が見えた。

(ねぇ、先生。俺ならあなたを悲しませるようなことはしないのに)

 星が瞬いたように思った。

(だから……俺は絶対諦めないからな)

 改めて陸は自分の心に言い聞かせた。この先、どんなことが起きても心が折れてしまわないように、何度も何度も繰り返し繰り返し……。

 

BACK / INDEX / NEXT

1st:2009/06/29
HOME
Copyright(c)2008- Emma Nishidate All Rights Reserved.
Image by web*citron / Designed by 天奇屋