チャイムが鳴った。
陸は仕方なくギターを置いて立ち上がりリビングへ向かう。インターホンには見知った男の顔。面倒くさそうに通話ボタンを押して、会話もそこそこにオートロック解除のボタンを押す。
しばらくすると今度は玄関のチャイムが鳴った。
心底嫌そうに顔を歪めて陸は玄関を開けた。
「よ、久しぶり」
「岡本さんには会いたくなかったけど」
陸の低い声を聞いてニヤッと笑いながら岡本が上がってきた。
今日から二週間、沙希の代わりに前任者の岡本が家庭教師に来ることになっていた。沙希は教育実習で母校へ行っている。
「まあ、そう言うなって」
「俺は川島先生がいい」
陸はだだっ子のようにそう言って自室のドアを開けた。
「川島ちゃんもえらく気に入られたようだなぁ」
岡本は鞄を下ろして椅子に座る。陸はその椅子を見て背後でクッと笑った。沙希が来るときはこれでもか、というくらい自分の机に近づけておくのだが、今日は少し、いやかなり机から離れたところに置いておいた。
「その『川島ちゃん』って……何? なれなれしいよ」
陸も自分の椅子に腰を下ろして横目で睨む。だが岡本は涼しい顔で笑う。それが嫌味たっぷりで陸はますます面白くなかった。
「川島ちゃんから聞いてない?」
「同じゼミだって聞いたけど」
「今はね。でも高校時代からの知り合いよ」
「はぁ?」
初耳だった。陸は改めて岡本をじろじろと見た。岡本は色白で面長だ。目鼻立ちのはっきりした顔で額が広いのが賢そうに見える。
「俺の元カノの友達で、昔から親しいよ。カラオケ一緒に行ったりしたし」
「へぇ。川島先生の高校時代って?」
岡本は陸を見てニヤリと笑った。
「このページ終わったら話してやるよ」
チッと舌打ちして仕方なくシャープペンシルを握った。沙希の出身高校を聞いていなかったが、岡本と同じということは市内で一番レベルが高い高校だ。
沙希はパッと見、それほど成績優秀には見えなかった。
陸が思い描く頭のいい女子は大抵服装は野暮ったく、スタイルもよくない。メイクもしていなければ、毎朝髪をとかしているのかも疑問な髪型。かなりの偏見だが……。
それに比べると沙希は雑誌に載っているモデル並だと思う。実際モデルをやっていると言われたら、やっぱりそうかと納得しそうだった。
だから彼女が岡本と同じ大学と聞いて最初は驚いた。
「はい、できました」
陸は岡本の方へ問題集を乱暴に差し出した。目を通した岡本は問題集を閉じる。
「で、聞きたいことは?」
内心ヤッタ! とバンザイして陸はまず何から聞こうかと考えた。
「川島先生って高校時代、どんなだったの?」
「今とそんなに変わんないよ」
「へぇ。じゃあ岡本さんは先生の彼氏、知ってる?」
聞きたいのと聞きたくない気持ちが陸の中で半々だったが、結局好奇心が勝って尋ねる。
岡本は当然、というように頷いた。
「学年で知らないヤツはいないってくらい有名だったからね。特に彼氏の方が」
陸はかなりショックを受けた。
「カッコいいってこと?」
外見に関してなら自分だってそれなりに自信はある。わざわざ他の学年の女子が休み時間に見に来るくらいだ。
だが岡本は少し言いにくそうに否定した。
「そうじゃないな……。ちょっと普通じゃないっていうか、何ていうのかなぁ……変わってる?」
その答えに陸も首をひねる。
「でも、顔はいいって聞いたよ」
「ま、好みもあるだろうけど、確かにきれいな顔したヤツだよ。そうだ、修学旅行のとき『男風呂に女がいる』って騒ぎになったんだけど、実は川島ちゃんの彼氏だったんだよなぁ。後姿だけ見たら女に見えたらしい」
「……へぇ」
陸もある女優に似ていると言われるくらいだから、顔に関しては女性的な部分があると思うが、身長がそれなりにあるし女性に間違われることはない。どんな男を想像すればいいのかわからなかった。
「でも川島ちゃんが有名になっちゃったのは……言いにくいんだけど……彼氏が川島ちゃんを殴ったことがあってさ」
「え?」
一瞬息をのんだ。
「怪我したんだよね。そのときは唇が切れて腫れてただけだったけど、俺の元カノが言うには日常的に殴る蹴るだったらしい。顔はすぐバレるからバレない部分にね」
岡本はそこで小さく嘆息した。
「元カノは川島ちゃんがその彼氏と付き合うときに反対したらしくて、その後も『なんであんな男と付き合ってるのかわからない』ってよく言ってたな。ま、そんなの本人たちの勝手だし、余計なお世話だとは思うけど、でもほとんどの人が川島ちゃんを同情の目で見てたね」
(マジかよ……)
陸は聞かなければよかったと後悔した。だがもう遅い。
(それでトイレとか公園ってことになるわけか)
それを「最悪」と言ったときの沙希の口調を思い出して、苦々しく思った。
「だから去年、彼氏のほうがH市のキャンパスに移ってからは、飲み会とかで絡むヤツ多くなったな。『アイツより俺のほうがいい男でしょ』って。でも川島ちゃんは全然相手にしないんだよね」
「彼氏のことが好きだから?」
「そんなの本人じゃないとわかんないけど、川島ちゃんの態度は高校時代からずっと変わってなくて……好き好きって感じじゃないんだよね。それがまた彼氏の気に入らないところらしいけど」
それは何となく陸にも想像がつく。沙希が男性に対してベタベタと甘えるところを思い浮かべることはかなり難しい。
「ま、とにかく口説いても全然なびかないからみんな諦めるんだけど、俺の友達がなぜか俺の忠告を無視して川島ちゃんにハマっちゃってさ……」
陸はすぐにピンときた。
「ストーキングした男?」
その言葉に岡本は失笑する。腕を組んで「聞いてたのか」と短く言った。
「先生はまだ悩んでたよ。『ただの友達だと思ってたらシカトして悪かったな』って」
岡本は少し考えるような顔つきになった。
「川島ちゃんらしいな。男のほうもそういうところにハマるんだろうな……」
「岡本さんはどうなの?」
「俺は彼氏が怖いから川島ちゃんはパス。俺なんか顔割れてるから殺されかねん」
冗談とも本気ともつかぬ調子で岡本は肩をすくめたが「あ、でも」とすぐに付け足した。
「元カノにフられた時は思わず川島ちゃんに慰めてもらったね」
「何っ!?」
陸は眉をしかめた。岡本は両手を小さく上げて陸を宥めるように作り笑いをした。
「いや、話を聞いてもらっただけだって」
(ホントかよ……)
「そんな怖い顔すんなって。でも思わず話を聞いてもらいたくなるようなところがあるな。俺が川島ちゃんとよく会話するようになったのは最近だけど、一緒にいても気詰まりしないし、話が面白いし、あの笑顔には癒されるよなぁ」
(けっ!)
何だか面白くない。陸はその感情を隠さず顔に出した。
「お前、まさか……マジで? だって彼女は?」
岡本は陸の不機嫌な顔を見てひるんだ。
「別れた」
「なんで?」
「好きな人ができたから」
「おい、まさか……」
フンと陸は鼻で笑った。
「勿論、川島先生」
岡本は陸を真面目な顔で見つめた。それからしばらくしてやっと口を開いた。
「悪いことは言わん。……やめとけ」
「なんで? 彼氏が怖いから?」
「それもあるけど……。いや、お前のためだぞ? 悪いことは言わん。マジで彼女はやめとけ」
(もう遅い)
陸は心の中でつぶやいた。誰に反対されても諦めるつもりはない。沙希本人から拒絶されるまでは絶対に引かないと強く思った。
「……同情か?」
ポツリと岡本が言った。陸はとっさに岡本を睨む。
「同情なんかしてねぇよ! だいたいそんなの先生の自業自得だろ。嫌なら別れればいいだけなんだし」
「そんな簡単じゃないんだよ。相手の束縛が……」
言葉に詰まった。沙希の彼氏を知っている岡本がそう言うのだから、おそらく陸が想像する以上の束縛が沙希に身動きを取らせないのだろう。だから誰にもなびいたりしないのだ。
(そりゃそうか。殴る蹴るに……ムリヤリ?)
考えただけで吐き気がしそうだった。慌ててそのことは頭の隅に追いやる。
「とにかく、俺は川島先生が好きになっちゃったの! 彼氏がいようが好きなものは好き。それに……」
陸はそこで声のトーンを落とした。
「たぶん先生も俺のこと、嫌いじゃないはず」
全然自信はない。だが沙希は自分に多少は心を開いてくれてると思う。ストーキングされたことを話してくれたのも信頼されているからだ、と陸は解釈した。
岡本は諦めたようにため息をついた。
「川島ちゃんは優しいから、お前に合わせてくれてるだけかもしれないぞ。後で辛い思いをするのはたぶんお前なんだぞ」
「……何? その、フられること決定みたいな言い方」
「確かにお前はモテるし、性格も……まぁ、真っ直ぐでいいと思う。だけど彼女は難しいと思う。お前には荷が重過ぎる。もし本気で川島ちゃんを……って思うなら、まず社会的に彼女を守ってやれないとな」
陸は意味がわからず怪訝な表情をした。岡本はその顔を見て苦笑する。
「ま、フられたら慰めてやるからな」
「岡本さんにだけは報告しねぇよ」
(なんだよ、ムカつくな)
好きになってはいけないなんておかしい。目の前に美味しそうなものがあるのに、手を伸ばすことすら許されないなんて理不尽だ。反対されればされるほど、意地でも諦めないぞと陸は思う。
帰り際、岡本は壁際に置かれている白いギターを見て、思い出したように陸を振り返った。
「そうだ、川島ちゃんにギター聞いてもらうといいぞ」
「なんで?」
(言われなくてもそのつもりだけど)
と、心の中で言い返す。岡本はそんな陸を意地悪な目つきで見た。
「川島ちゃん、ずっとピアノやってて指導者の資格持ってるらしいよ。それに高校のとき、作曲の課題で音楽の先生がたまげるような、すげーいい曲作ったらしい」
(はぁ!?)
陸は叫びたいのをこらえて眉をピクッと動かした。
(信じらんね……)
玄関を出て行く岡本の背中を見ながら、自分が静かに興奮していることに気がつく。
(そんな女、今まで周りにいなかったぞ)
知れば知るほど好きになるのを止めることができない。ただ綺麗なだけならここまで好きにはならなかったと思う。
もっと知りたい。
もっと近づきたい。
もっともっと……
風呂から上がってCDをかけながらギターを弾いていたが、携帯が鳴る音で中断させられた。名前を見て渋い顔をする。
「何の用?」
『どうして? ……どうして突然別れるって』
陸はため息をついた。理由は別れを切り出したときに伝えている。
「だから、もう好きじゃなくなったって」
『でも、私……まだ陸のこと、好きだよ』
相手の声が震える。さすがに胸が痛んだ。だが、自分のほうにはもうそういう気持ちは残っていなかった。
「……ごめん」
『……誰か好きな人、できたの?』
「……うん」
相手は黙ってしまった。沈黙が辛い。もうこれ以上話すこともないのだ。
『いいな、その人。陸に愛されて……うらやましい』
返す言葉が見つからないので、相手に聞こえないようにもう一度ため息をつく。
『どんな人?』
「年上。すげー美人で頭いい人」
『……そっか』
ようやく相手は納得したようだった。電話を切ってまたため息をついた。携帯の画面を見つめる。かかってきてほしい人からは一向にかかってくる気配がない。
ふと、隣の部屋から物音がすることに気が付いた。
(……ったく、冗談じゃねぇ)
陸は慌ててミニコンポに手を伸ばしボリュームを上げる。そしてベッドに潜りこみ、布団を頭からかぶる。
それでも陸の耳には切れ切れのか細い女性の声が壁越しに聞こえてくる。聞きたくないのに、何故だか意識は研ぎ澄まされてしまう。
(女なんて……みんな同じ)
陸は布団の中で中学の同級生の姿を思い出した。クラスで一番かわいいと言われていた女子だ。今とは違って少し太っていた陸はとても想いを伝えることはできなかったが、ずっと好きで憧れていた。穢れとは無縁のように思っていたその人が、高校1年の時に企画されたクラス会の後、これまたクラスで一番人気のあった男子と二人で夜の街に消えたのだ。
(どうせ、いい男に誘われたら簡単についていくんだろ?)
だから楽しくて夢中になった。ゲームのように女を陥として遊んだ。だが、その後に残るのはざらざらとした砂を噛んだような気分と焼け付くような心の飢餓感だけ……
(愛のないセックスなんて虚しいだけ)
だが好きになったと思って付き合ってみてもことごとく長続きしない。そんな自分が嫌になる。
(やっぱり半分はアイツの血だから?)
もうしばらく会っていない男の顔が思い出された。人を愛することなど出来そうにない薄情な笑みを浮かべた顔。
(……俺はアイツとは違う)
本当に好きな人ができたらどんなことがあっても一生愛し続けてみせる。
『浅野くん』
声を思い出すだけでもドキッとする。女性にしては低めの落ち着いた声だ。彼女はよく笑う。笑いながらしゃべるから最初は何を話しているのか聞き取れないことも多かった。
でも今はそれにも慣れて聞き返すこともまれだ。岡本が言っていたように彼女の話は面白い。普段そんなに笑わない陸もつい笑ってしまう。
「私ね、あまり料理は得意じゃなくて、作っても味が薄いって言われるんだよね」
「へぇ」
「中学校の家庭科の調理実習で私、お味噌汁の係だったんだけど、ちゃんと量って入れたはずなのに同じグループの男子に『おい、川島! この味噌汁、お袋の味がしないぞ!』って怒られたさ……」
頭の中で思い出してまたプッと吹き出してしまう。
(ホントに量って入れたのか? あの人ちょっと抜けてるところあるからなぁ。それに味見くらいしろよ)
彼女の行動はツッコミどころが満載だ。勉強や社会情勢などの難しい話になるとまるで隙がないくらい弁が立つのに、普段の彼女はちゃんと前を向いて歩いているのかも心配になるくらいぼんやりしていたりする。
(そのギャップがおかしいんだよなぁ)
そして気になるのは、時折見せる悲しそうな笑顔。
(ねぇ、そんな顔しないでよ。俺は先生の笑った顔が好き……だ……よ……)
沙希のことを考えると不思議と心の渇きが潤される気がする。今まで付き合ってきた女子とは違う安心感があった。ただ沙希がそこにいるというだけで、それだけでいい。
(ずっと……そばに……い……)
いつの間にか隣の部屋のことなど頭から消え、陸は安らかな寝息をたて始めた。