沙希は大学生協会館内の書店で平積みになっている新刊の表紙を眺めていた。そろそろ卒論に本腰を入れなければならないが、そう思えば思うほど現実逃避したくなるものらしい。今日も資料集めを早々に切り上げこうして本屋でぶらぶらしていた。
「川島ちゃん」
呼びかけられるのと同時に腕を引っ張られた。振り返ってみると同じゼミの岡本健太(おかもとけんた)だった。彼は沙希と出身高校も同じで、高校時代からの知り合いだ。
「健ちゃん、久しぶり」
「連休どっか行った?」
「家でゴロゴロしてた」
「そう言って実は卒論やってたんでしょ?」
「そんなわけないでしょ」
岡本はまだ疑わしい目で沙希を見ていたが、思い出したように腕時計に目をやった。
「次の中村先生の講義出る?」
「うん」
「じゃ、一緒に行こう」
沙希は岡本に促されて生協会館を後にした。文学部の建物までは五分くらいの距離がある。今日は雲ひとつない晴天で春の陽気がぽかぽかと沙希の背中を温めた。
「そういえば、アイツ、どう?」
岡本は沙希に歩調を合わせているのかのんびりと歩く。
「アイツって……浅野くん?」
「そうそう、浅野陸」
「うーん」
沙希は持っていた鞄をわざと大きく振った。
「健ちゃん、なんでチェンジ希望したの?」
「表向きは引っ越して通うのが大変だからって理由なんだけどさ。……川島ちゃん、アイツの母親と話した?」
「うん、最初の日に」
「言われたでしょ? 大学に入れたいって」
「……うん」
「でも、アイツ、まるでやる気ないし、成績も伸びないから俺じゃ手に負えないと思ったのが本音。まさか川島ちゃんが引き継ぐと思わなかったよ」
新学期から家庭教師になった陸の前任者が岡本だったのだ。正直なところ沙希も陸の指導に自信を失いかけていたところだった。
「あのコ、飲み込みはものすごく早いんだよね」
「そうだね。ギターも高校生になってから始めたって言ってたな。最初譜面も読めなかったらしい。その集中力を勉強に向けたら成績も伸びそうだけど……今は更に悪いコトにエネルギー消費してるでしょ、アイツ」
沙希は岡本の言葉に苦笑する。その様子を見て岡本は声をひそめた。
「川島ちゃんも気をつけて」
「……何を?」
沙希は岡本の発言の意味がわからず、少し首を傾げた。
「アイツ、すごいんだって。あんな顔して」
「……何が?」
「……数が。女の経験」
「…………」
沙希は二の句が告げなくなった。岡本の顔を見てぱちぱちとまばたきする。
「食われないように気をつけて」
冗談とも本気ともつかない忠告に沙希はますます目をぱちぱちさせた。
「私は年上だし対象外じゃない?」
岡本は大きく息を吐いた。そして肩をすくめて見せる。
「そんなわけないし。アイツ、川島ちゃんみたいなスレンダーが好きなんだよ」
「私……そんなに痩せてないけど」
「ま、俺も見たことないから知らん」
そう言って笑っているうちに文学部の建物に着いた。玄関から入って顔を上げると前方の廊下に見知った顔が見えた。沙希は途端に身体をこわばらせる。
「お、保田(やすだ)!」
岡本が軽く手を上げる。保田と呼ばれた男もこちらに気がついて相好を崩した。
沙希はすぐに視線を外して小声で岡本に話し掛けた。
「私、お手洗い寄ってから行くね」
そしてすぐに保田の脇を通り過ぎてトイレに入った。岡本と保田のいた空間から切り離された場所へ逃げることができて、沙希はホッと胸を撫で下ろした。
「先生、どうかした?」
その日は陸の家庭教師の日だった。沙希は陸に問題を解いてもらう間、昼間の大学での出来事を思い出してボーっとしていた。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「……彼氏のこと? 俺んち来たときくらい忘れてよ」
陸は頬杖をついて斜めの角度から沙希を睨む。
「違うよ。昼間、会いたくない人に会って……」
「男でしょ」
「……うん、まぁ……」
あーあ、と陸は頬杖をついていた腕を反対の腕に変えて沙希に背を向けた。沙希はその背中を見て小さくため息をつく。
「俺が真剣に勉強してるっつーのに、先生は男のこと考えてるんだもんなぁ……」
「どこが真剣……」
そう言いながら沙希は陸が書き込んだ解答に目を走らせた。
「すごい! よくできてるじゃない」
「でしょ? もっと褒めてよ」
陸は機嫌をよくしたのか椅子に反り返って腕組みした。
「じゃあ、次は……」
沙希は問題集の次のページを開こうと手を伸ばした。すると陸は今開いているページを上から押さえる。
「会いたくない人?」
真剣な顔で聞いてきた。沙希は曖昧な表情をする。
「その男となんかあったの?」
陸の顔を見ながら、沙希は迷った。保田とのことは自分でもよくわからない。何かがあったというわけではないのかもしれない。だが、結果的に沙希は保田を避けるようになってしまった。
「あったと言えばあったような……」
「浮気?」
「違う。向こうから一方的に……たぶん私に好意をもってくれたんだと思うんだけどね。勿論、付き合ってる人いるって最初に言ってあったし、最初は私も友達だと思って仲良くしてたんだけど、やっぱり相手は男性だし、だんだん『あれ?』って思うようになって……途中で怖くなって……シカトするようになっちゃった」
「……ソイツ、かわいそうにな」
陸の言葉に沙希の胸がズキッと痛んだ。それに気がついたのか陸は慌てて言葉を付け足した。
「いや、先生が悪いわけじゃなくてさ。彼氏いるの知ってても先生のこと好きになっちゃったんでしょ?」
沙希は首を傾げた。
「好きって言われたわけじゃないから、違うかもしれない」
陸は椅子を左右にくるくると回転させた。
「じゃあ、先生はなんで怖くなったの?」
「はじめは……同じ講義のとき必ず私の隣に座ってきて、帰りも駅まで送ってくれたりするようになって、だんだん二人きりになる時間が長くなったんだよね。しかも聞いてないのに長い身の上話をしてくれたり、買い物に付き合わされたり……。そのうち、別の講義のときにも、どこからか私のことを見ていたらしくて、『さっき○○してたね』みたいなこと言われるようになって……」
沙希は自分でも半信半疑だった。なぜ保田がそんなことを突然言い出したのかわからず、返事に困った。後から考えると彼の言動はいろいろな意味に取れて、そこはかとなく不安になってしまったのだ。
「それだけだとよくわかんないけど、ちょっとストーカーっぽくね?」
陸がズバリと言ったので沙希は苦笑する。
「私の考えすぎだろうと思うけど、一度怖いなって思っちゃうとダメだね。それからずっと避けるようになっちゃった」
へぇ、と言って陸は背もたれに身を預けて腕組をした。
「先生って変なヤツに好かれるタイプ?」
沙希は思わず吹き出した。陸には初めて会った日に、小学生時代にかなり変わった男子に好かれて苦労したことを話してあったのだ。
「そんなことないよ。その人、同じ学部ですごく人気あるもん。憧れてる女の子、多いと思う」
それを聞いた陸の顔が曇る。
「ソイツ、カッコいいの?」
「一般的には人気あるのかもね。私は面食いだけど、タイプじゃないな」
へぇ、となぜか嬉しそうに陸は相槌をうった。
「ま、先生が気にすることないじゃん。どうせ相手にする気なかったんなら、変に気のある態度するよりシカトしたほうが相手のためにもいいって」
「……そうかなぁ。ただの友達だと思ってたら、悪いことしたなって……」
沙希はため息混じりに言った。それを頬杖をついて聞いた陸はしみじみとした口調で言う。
「先生って優しいね。ずっとそうやって悩んでたんだ?」
「まぁね。私は冷たい人間だなって、ね」
皮肉っぽく言った。だが陸は少し目を細めて微笑んだ。その笑顔に沙希はドキッとする。
「普通、ただの女友達にそんな意味ありげなこと、しないけど。しかもそれなりにモテるヤツが彼氏いる女にわざわざ近づくなんて……」
そこで言葉が一旦途切れた。沈黙の間、二人は数秒見つめあう。
「狙ってるに決まってんじゃん」
それでも沙希は首を傾げた。本当のところは保田に聞いてみなければわからないのだ。
「ね、先生。……それがもし、俺だったらどうする?」
悪戯っ子のような笑みを浮かべた陸がそう言った。沙希はすぐに視線をそらす。
「どうって言われても……」
「やっぱり相手にしない?」
沙希はなぜかすぐにノーと言えなかった。本来ならば陸は沙希の好みではない。だが、もし彼が自分に近づいてきたら……
「…………」
「ノーコメ?」
陸が俯き加減の沙希の顔を覗き込むように見る。心臓がドキドキし始めた。そんなこと、あるはずないのに……
「どう……だろ?」
陸は満足げにニヤッと笑う。
「いいの? そんなこと言って。俺、勘違いするかもよ?」
ドクンと心臓が跳ねた。
陸をまっすぐに見る。不意に昼間の岡本の言葉を思い出した。
――アイツ、すごいんだって。あんな顔して。
じっと見つめていると恥ずかしそうに陸は手で顔を覆った。
「先生にそんなに見られると照れるんだけど」
沙希はその様子に顔をほころばせた。中性的な整った顔立ちなのに、どうして恥ずかしがったりするのか沙希にはわからない。
(何が、どう、すごいんだろう?)
ただ見つめたくらいで照れる、自分の目の前の少年が……
沙希は陸から視線を外し、窓の外へ目をやった。陸がようやく顔を上げる。
「ねぇ、でも俺のことは怖くないでしょ?」
「うん」
陸がまたニヤッと笑った。子どもでもなく大人でもない彼がそんな顔をするたび、沙希はその瞳に惹きつけられる。細い首筋や綺麗な長い指を意識すればクラクラと眩暈がしそうだった。
たぶん無理だ、と沙希は思う。もし、陸が自分に近づいてくるなら、おそらく抗うことはできない。
(ううん。そんなこと、あるはずない)
沙希は心の中で強く思った。あってはいけない。もしそんなことがあったら、今まで自分が築いてきたものが崩壊してしまう。
(だって私には彼氏がいて、私はその人のことが好きで、好きになったのは私なんだもの)
だから脇目もふらず、ただじっと我慢してきたのだ。自分を守るために……。
「何、怖い顔してるの?」
陸が心配そうな顔でこちらを見ていた。沙希は自分がいつの間にかしかめ面で考え事をしていたことに気がついて、慌てて笑顔を作って見せる。
「なんでもない」
「またソイツがなんか言ってきたら、俺がちゃんと言ってやるから、そんな顔しないでよ」
無邪気な笑顔で大人ぶって陸はそう言った。思わずプッと吹き出してしまう。
「ちゃんと……ってなんて言うつもり?」
沙希が笑ったので陸は一瞬不機嫌な顔をしたが、すぐに特別な悪戯を思いついたようにニヤニヤと笑みを浮かべた。
「『俺の女に手を出すな』って」
「…………」
「……ウソだって」
陸は自分で言っておきながら恥ずかしくなったのか、頬を赤く染めた。その様子を目にした沙希の胸はきゅうっとなる。
(かわいいな)
そう思う気持ちを止めることが出来ない。沙希はそれが弟を想うような気持ちに似ていると思う。いや、思おうとしていた。
「彼女が泣くよ」
沙希はにっこりと笑ってみせた。
(ほら、全然平気だもん。まだ大丈夫)
陸に彼女がいても全く気にならない。むしろ微笑ましく思う。仲良くしなさいよ、と余計なことまで言いたくなるくらいだ。
だが陸は低い声でぶっきらぼうに「関係ねぇよ」とひとこと言っただけで口を閉ざしてしまった。
(……怒った?)
沙希はおそるおそる陸の顔を覗き込んだ。すると陸は無表情のまま視線だけを沙希に向けた。
「先生にそういうこと言われたくない」
(あ……)
「……ごめん」
沙希は叱られた子どものようにしょげてようやく聞こえるくらいの声で謝った。
陸が小さくため息をつくのが聞こえた。
「何、謝ってんの? 別に先生は悪くないじゃん」
沙希はますます小さくなった。下を向いて唇を噛む。
「ちょっと……!」
陸が沙希の顔を見ようと屈んだ。沙希は上目づかいで睨む。
「びっくりした。泣かしたかと思った」
「ふん」
「マジで焦った。やめてよ、そういう紛らわしいことするの」
「何よ、そっちこそ変なところで不機嫌になんないでよ」
「んなこと言ってもしょうがないじゃん。先生に彼女のこと言われたくないんだもん」
「なんでよ?」
「どうしても!」
沙希は口を尖らせたまま首を傾げた。陸はニヤニヤと笑う。沙希にはその笑顔の意味がわからない。
「いいの。今はわかんなくても」
陸の言葉に沙希は更に訝しげに首を傾げる。だが本当は陸の言葉の意味を推し量ると、一つの答えに行き当たることに既に気がついていた。ふざけてからかう言葉の中に見え隠れする陸の本当の気持ち。
(それって……)
沙希はまた心の中で強く思った。気がついてはいけない。知りたいなんて思ってはいけない。これ以上近づいてはいけない。
「さて、息抜きの時間はおしまい」
胸の中の葛藤をシャットアウトするように強い調子で言った。陸は渋々問題集に目を落とす。
(浅野くんは私の生徒なんだもん)
沙希が今考えなければいけないことは、彼の成績を上げることだ。彼が何を考えているか、ではない。
少しだけ真剣になった陸の横顔を眺めながら、沙希は改めて自分の心を厳しく戒めるのだった。