バレンタインデー前日の土曜日、沙希と陸は昼時に待ち合わせをしていた。
陸の家に最寄の地下鉄駅は、沙希にとってすっかり馴染みの駅になっている。陸を待つ間、沙希が座るベンチはいつもお決まりの場所で、そこは陸が構内に入ってくるのが真っ先に見える位置だった。
今日も沙希は同じ場所に腰を下ろし、とりあえず辺りを見回した。ここで知り合いに会う可能性は低いのだが、それでも一応気をつけなくてはならない。特に見知った人影はないようだと確認すると、ホッと肩の力を抜く。
それから脇に置いた紙袋をそっと覗き込み、よし、と心の中で思った。
顔を上げるとタイミングよく陸がドアを開けて入ってくる。
「今日も雪だな。どうする? 歩く?」
コートの肩に積もった雪を手で払いながら陸は言った。沙希は「うーん」と考え込む。荷物を持っているから外は歩きたくない。袋が濡れてしまう。
「じゃ、地下鉄で行こう」
沙希の意見も聞かずに即決すると、陸は沙希の手を取って改札へ向かった。二人で一緒に地下鉄に乗るなんて珍しいことで、沙希はほんの少し戸惑っていた。
街中の駅まで一駅なので、天気が悪くなければ二人は街まで歩いて向かう。ぶらぶらと歩いても十分程度だ。何をするわけでもなくただ歩くだけの時間が、二人の間には案外多い。
(歩いているか、食事をしているか、浅野くんの部屋にいるか、あとは……)
二人で過ごす時間は短くあっという間に終わってしまう。地下鉄だとすぐに目的地に到着するので便利だが、車内ではほとんど話ができないのでそれが少し寂しい。
ホームに入ってきた電車は混雑していた。
陸は沙希の背後から庇うように乗り込んだ。乗客それぞれが分厚い外套を着込んでいるのも混雑の一因だろう。また次駅で降りるために乗降口付近には乗客が密集していた。
二人の後ろから乗車する人々が、前の人の背中を全力で押して自分が乗り込むスペースを作る。沙希は背後から見知らぬ男性に上半身を押し付けられ、仕方なく自分も前の人の背中に肩をぶつけた。
膝の近くの紙袋が気になって下を向くと、陸の腕が沙希をぐいと引き寄せた。
ドアが閉まると少しゆとりができたが、陸は混雑に乗じて沙希を胸に抱いたままだ。頭上に陸の吐息を感じながら沙希は陸の黒いコートに顔を埋めた。満員電車も陸と一緒ならたまにはいいかもしれない。
街中の駅に到着すると、乗降客でごった返すホームを二人はのろのろと進んだ。
「ねぇ、お昼はどこで食べるの?」
「肉が食いたいな」
「肉……」
非難がましい声を出すと陸がジロッとこちらを見た。
「たまにはいいじゃん」
「何も言ってないよ」
「何か言いたそうな顔してる」
沙希はとぼけて肩をすくめた。美味しいものを食べたいのは沙希も同じなので反対はしない。だが、まだ成長途中の陸には何でもバランスよく食べてほしいと思う。
(……って、私は浅野くんのお母さんじゃないし)
あまり余計なことを言ってうるさがられるのも嫌だ。それでもやはり心配になる。彼に既往症があるのを知っているがために尚更気になるのだ。
(いつも元気でいてほしいよ)
あれこれと考えた末、最終的に行き着くのはこの一言に尽きる。
二人で一緒に過ごす時間が残り僅かで、その先は陸の歩む道を傍で見ることができないとしても、陸が元気でいてくれさえすればいい。
沙希は手に提げている紙袋の中身のことを考えた。胸がチクリと痛む。
(今度は……)
繋いだ手が急にぐいと引っ張り上げられた。驚いて顔を上げると、途端に沙希はバランスを崩し一瞬宙に浮く。
「……っ!」
「あぶなっ!」
気がつけば地下通路から地上に出て外を歩いていた。沙希は考えごとに気を取られ、周りの状況を全く把握していなかったのだ。陸が注意してくれなかったら沙希は横断歩道の端で無様に尻餅をついていただろう。
抱き止められて数秒後、おそるおそる体勢を戻す。点滅している歩行者信号に気がつき、二人は急いで横断歩道を渡りきった。
「ぼーっとしすぎ」
「ごめん」
「つーか、お前ってホント謝ってばかり。こんなことで謝んなくていいから。それに、その大事そうに持ってる紙袋は何? またバーゲン行って来たのか?」
沙希はドキッとして陸の顔を見た。滑って転びそうになった瞬間、この紙袋を死守するために不自然な格好をしたのがバレている。
「だってバーゲン大好きなんだもん」
「わかんねぇ」
「えー、なんかバーゲンって燃えるんだよね」
何が可笑しいのかわからないが、陸はプッと笑う。
「まぁ、いいんじゃね」
その返事に沙希も笑った。何のことはない、普通の会話だ。だがそれが沙希の胸に沁みる。
再度繋ぎ直した陸の手を、沙希はぎゅっと握った。
(今度は……キミだけを愛してくれる人に出会えるといいね)
どうして陸はこんなに中途半端な自分の傍にいてくれるのだろう。
最後まで何もかもを曖昧にしたまま終わらせようとしている自分のずるさが、本来の沙希であれば許せないはずなのに、なぜか今は少しの反省もなく、ただただ自分のわがままを押し通している。
たまに陸はそれをなじるが、沙希は黙って受け止めることしかできない。酷いと責められることは辛いが、それくらいはまだ平気だ。
本当に辛いことはその言葉も聞こえなくなってしまうことだ。そして自分の言葉も届かなくなってしまうこと――。
お互い口にはしないが、それをわかっているから今を大切にして強く求め合っているのだと沙希は感じていた。
(こうして私たちが出会って惹かれ合うことに何の意味があるのだろう)
沙希は陸と出会ってから、ときどき、かつての友人やクラスメイト、それに恩師たち、また今はもう途絶えてしまった文通相手のことなどを想った。この世界で知り合って同じ時を過ごしたり、思いを共有した彼らは今、どうしているだろう。
思い出すことに何かの意味があるという証明はない。ただ単に沙希の自己満足かもしれない。
だが、いつか陸が言ってくれた言葉で、沙希は暗闇の中に一筋の光を見出したように思う。
(「いつでもお前は俺の中にいるから」……か)
今はもう遠く離れてしまった人たちも、自分の中に確かにいるのだと沙希は感じるようになった。誰かを想うことは相手のためではなく、自分のために大切なのだと気がついたのだ。
(意味がなくても、虚しいと思うことはないよね)
誰かの存在はいつも自分の力になっている。それさえ忘れなければ、この先何があっても大丈夫。訳もなくそんな気がした。
陸は食欲をそそる匂いが漂う店先で立ち止まった。肉を焼いた香りだ。
「ここ、ずっと気になっていたステーキの店なんだけど」
「うん」
「お前と来たかったんだよね」
最高の殺し文句だな、と沙希は苦笑した。高校生が友達同士で来るには少しばかり敷居が高いのは間違いない。
「いいよ。入ろう」
陸が最高の笑顔を見せて、素早く沙希の頭のてっぺんにキスを落とす。
「大好き」
(ステーキが?)
そうつっ込みたくなるのをこらえて、陸の後に続いてステーキ店のドアをくぐった。
通りかかるたびに、いつか一度はここで食べてみたいと思っていたステーキ店に沙希と行くことができて、胃袋は勿論、心も大満足で陸は店を後にした。味は値段に見合っていたと思う。
一つ心残りがあるとすれば、勘定を沙希に任せてしまったことだが、最近はこれくらい甘えてもいいかという気がしていた。親からの小遣いしか収入のない陸には、いいところを見せたくても難しい懐事情がある。
それに沙希はいつも先回りして「私が払うね」と言う。次第にそれを頼りにするようになっていることをだらしないと思うが、そうやって甘えさせてくれる女性は今まで親族以外にいなかったので、陸には不思議な感動があった。
(つーか、デートで全額負担するとか、好きでもない男にはしないよな?)
それを愛の証だと思い込むのはバカだ。だが、そうでなければどうして金を払うことができるだろう。自分なら好きでもない女性には一円たりとも使いたくない。
しかし陸はすぐに頭の中をクリアにした。
目前には図らずも通い慣れたホテル街がある。またここに連れて来てしまった、という一抹の後悔が胸をよぎるが、それもすぐに吹き飛ぶ。
今日はバレンタインデーの前日だ。
(こんな日にしないなんてありえない)
だが、沙希と関係を結んでから、二人で会ってしない日があっただろうか、と考える。生理の最中でも何かしらスキンシップを求め、自分でもやり過ぎだと反省する日もあった。
(……俺、大丈夫かな)
陸がどんなわがままを言っても、沙希は結局それを受け入れてくれている。そして受け入れた後は絶対に嫌な顔をしない。
(アレがよくないよな。たぶん我慢していることもたくさんあるはずなのに、それを見せないから、誰だって勘違いする)
隣を歩く沙希をチラッと見る。
いまだに彼女が何を考えているのか、陸にはよくわからない。
昨日、沙希の教え子だった詩穂子に言われて、沙希が辛い気持ちでいるという現実を改めて突きつけられたが、今ここで手を繋いでいる沙希はそんなふうには見えない。むしろ、楽しそうに少し笑っている。
もし、と考え始めた陸はすぐに呼吸困難に陥った。
(ダメ。無理。俺には絶対できない)
沙希のために陸ができることの中で、最も効果的なものは、陸が身を引くことだ。誰もがそのことを忠告してくれるが、言われる前から誰より陸が一番よくわかっていた。
(俺がこの手を離せるわけがない)
沙希から最後の言葉を告げられる瞬間まで、陸は彼女を求め続けるだろう。笑いたいヤツは笑えばいい。愛とか恋とか、一言でけりがつくような単純な感情ではないのだ。
今、陸に必要なのは誰かの理解でも同情でもなく、ただ隣で沙希が笑っていてくれることだ。
目的の建物の前まで来ると、また陸の頭の中は綺麗にリセットされた。
初めての日と同じホテルを選んだ。今日は陸にとって特別な日だからだ。
部屋に入るとそれぞれコートを脱いだ。沙希のコートも陸と同じで黒い。襟元にファーがついていてかわいいなと思う。
「これ……」
コートをハンガーにかけて振り返ると沙希が紙袋から更に小さめの紙袋を取り出した。洋服の入った紙袋だとばかり思っていたので、それを見て陸は驚く。
「え?」
「チョコレート」
「……俺がもらっていいの?」
沙希は柔らかく微笑んだ。受け取った紙袋を上から覗き込むと包みが二つ見え、手にはずっしりとチョコレートの重みが伝わってくる。
「さーきーっ!」
陸は紙袋を丁寧にコートの下に置くと、沙希を力いっぱい抱き締めた。
「俺、こんなにきちんとしたチョコレートもらったの初めて」
「そうなの?」
「そうだよ。めちゃくちゃ嬉しい! 今日のことは一生忘れねぇわ」
クスクス笑いながら、沙希は「大げさだなぁ」と呆れたように言う。
「家に帰ってから一人で食べよう」
「うん」
「その前にまず沙希を食べちゃおう」
「えー、あんまり美味しくないと思いますが」
(お前が最高なんだよ)
軽口を唇で封じて、陸は目を閉じた。
チョコレートはなくても沙希がいてくれればいいと思っていたが、やはりチョコレートもほしかったし、沙希もほしい。
(俺は欲張りなんだ)
身体だけじゃなく、心も全て奪いたい。
だが、沙希を苦しめたくはない。
どうすればいいのかわからなくて、辛いのは陸も同じなのだ。
(それでも俺はお前の傍にいたい)
沙希の素肌に触れる。柔らかくて温かい。身体は細いのに、どこに触れても優しい曲線で覆われているから不思議だ。
背中を指で撫でるとくすぐったいのか沙希は頭を後ろにのけぞらせた。目蓋が薄く開き、大きな栗色の瞳はどこか別の世界を彷徨うようにゆらりと揺れる。その夢見るような陶然とした表情が、陸の心を一瞬で虜にすると、何もかも飛び越えて二人だけの世界へと連れ去った。
もつれるようにしてベッドに横たわると、沙希の大きな目が陸を真っ直ぐに見上げてきた。
(何を考えていてもいい。でも、今だけは俺を見ていて。頼むから、今だけは……)
沙希は心配そうな表情で両手を伸ばし、陸の頬を大事にそっと包み込む。
それから、ただフッと優しく微笑んだ。
それだけのことなのに、彼女が触れている部分から陸の中に温かいものが流れ込んでくるようだった。急に胸が詰まり、目頭が熱くなる。
もう何も考えることができない。
陸は沙希の胸に顔を埋め、甘く懐かしい香りを深く吸い込んだ。細い指が後ろ髪を撫でる。そのゆっくりとしたリズムが心地よくて、このまま眠ってしまいたかった。
覚めない夢を、いつまでも見ていたい――。
叶うことのない願いとわかってはいても、今の陸はそう願わずにはいられなかった。