正月が終わると、毎日が飛ぶように過ぎ去っていく。正月中、たった一日の間に60cmの降雪があったのを契機に市内の積雪は徐々に増え、今では道路の両脇にうずたかく雪が積み上げられていた。
それを横目に見ながら沙希は大学の正門を出てJR駅へと向かう。
沙希はJRを利用しないのだが、JRの駅ビルとそれに隣接するビル群が通路で繋がっていて、巨大なショッピングモールになっている。雑貨と服飾関係のショップが多いため、買い物をするのは勿論、何の目的もなくふらりと寄り道するには最高の場所だ。
こんな寒い冬はなるべくなら外を歩きたくはない。沙希は最寄の出入り口からビル内へ入り、地下へ降りた。そしてデパ地下へと急ぐ。
階段を上がってデパートの重いドアを開けると食料品売り場の喧騒が沙希の耳になだれ込んできた。
「安いよ、安いよ! お姉さん、試食はいかが?」
海鮮を扱う若い男性が、沙希の目の前に試食用の爪楊枝を差し出した。沙希は軽く頭を下げて辞退しながら足早に通り過ぎる。目指すは洋菓子売り場なのだ。
エスカレーターで地下一階に上がると、今度は別の喧騒と熱気が押し寄せてきた。独特の甘い香りと可愛らしい色合いのショップの看板、そして品物を物色する女性達の群れ。
沙希はまずフロアを一周する。遠目に値段や種類、量を確認しながらいくつか候補をピックアップし、まずは最高級品と謳われている銘柄のショーケースの前で足を止めた。
(高いなぁ)
まず値段を見て、沙希は小さくため息をついた。
それからもし買うとしたらいくらくらい出せるだろうか、と考える。そしてどんなものを贈ったら喜んでくれるだろうか、と頭を悩ませた。
(こんなに高いんだから味はきっと美味しいはず。だけどトリュフは高くて無理か。二個とかじゃ全然嬉しくないよね。あ、あの薄い板状のものならたくさん入っていてお得感があるかも)
贈る相手の顔を思い浮かべる。彼は基本的に甘いものが大好きだ。普段は摂取し過ぎないように気を配っているが、この特別な日くらいは喜んで受け取ってくれるだろうと思う。
沙希は結局お得感のある品を選び、すぐに別の洋菓子店の売り場へ移動した。ここ数年で一気に全国区の人気となった洋菓子とパンの店だ。その人気商品の生チョコレートが入っている冷蔵ワゴンを覗き込む。
ワゴンの中には四種類の生チョコレートが入っていた。店員が一つ一つの特徴を教えてくれたので、それを参考に沙希は三十秒ほど迷った。
(定番でいいか。後はイメージで)
「これとこれを一つずつ下さい」
沙希はブラックとホワイトの箱を購入して帰宅した。
自室でパソコンに向かいながら、ふぅと息をつく。
今日は大学で卒論の諮問試験があった。沙希が書いた卒論を読んだ教授陣から内容や論点に関して質問され、それに答えるというものだが、まず教授は「誤字が多い」と指摘してきた。
(やっぱり卒論に集中できてなかったな)
苦い思いで日中の出来事を振り返った。大学最後の大事な論文だというのに、誤字が多いなどの初歩的なミスを指摘されるのは恥ずべきことだった。
(あーあ。私、これでいいのかな)
卒論を書き上げて提出したので、評価は悪くても単位はもらえるはずだ。沙希は順調に四年間の学業をこなし、大学卒業へと駒を進めたのだ。
だがこんな中途半端な気持ちで卒業することになるとは思いも寄らぬ誤算だった、と思う。大学入試に合格したときはもっと高い志や希望、そして夢を抱いていたというのに。
今の自分を省みて、これでいいのかと自問する気持ちが湧き起こるのは仕方のないことだと暗い気持ちで考えていた。
どこで何を間違ったのだろう?
最近よく考えることだった。そして結局、あの男と付き合うことにしたのが間違いの始まりだと思う。いや、そう思いたい自分がいるのだと自覚する。
もし、あの男と付き合わなければ、今頃自分はもっと学業にも身を入れて、教授陣にも褒められるような立派な卒論を仕上げ、清々しい気持ちで大学を卒業できたかもしれない。
そう考えて、沙希は首を傾げる。
やはりそれは何かが違う。あの男と付き合っていることも、陸のことを好きになったことも、卒論に真剣に取り組めなかったこととは実のところ何の関係もないのだ。
(卒論にきちんと向き合えなかったのを責任転嫁するのはよくないな。どうも最近の私は全て逃げ腰になっている気がする)
自然にため息が漏れた。
最悪だ。逃げたい、と思うのだ。
何もかもから逃げ出して、誰もいない島でひとりになりたい。そして静かに死にたいと願う。
暗いほうへ突き進んでいきそうな自分の気持ちを、沙希はこのところずっと持て余していた。
冬休みの間に一度だけ、陸の部屋で思い切って言ったことがある。
「ここから飛び降りたら死ねるかな」
陸の部屋のベッドの上で、窓の外を眺めていた。灰色のどんよりとした雲が空を埋め尽くしていた。雪を降らせる雲だ。
陸は後ろから沙希の様子をしばらく観察していたようだ。沙希が振り返ると彼は冷たい目をして言った。
「俺、見ててやるよ」
できないくせに、と陸の顔に書いてあった。どうしようもなく気分が塞いで、涙を流す以外に気持ちのやり場がなかった。
二人の気持ちが強くなればなるほど、お互いの感情がかみ合わなくなっていった。不満をぶつけては後悔し、抱き締めてはこの時が永遠でないことを恨む。
そんな日々が続き、沙希は自己嫌悪を繰り返し、次第に消耗していった。気持ちは常に不安定で、このままだと心を病む日も近いような気さえした。
(でもそれだけは何とかして防がないといけない)
逃げることはできない。
陸を受け入れたあの日から、たとえどんな状況になっても沙希には全てに決着をつける義務があるのだ。そう覚悟して今日まで進んできたのだと思う。逃げることは許されるはずがない。
心が引き裂かれそうな痛みが沙希を襲う。
何よりわからないのは自分の気持ちだ。
自室を出てキッチンへ向かう。冷蔵庫を開けて厳重に包んだチョコレートの箱を取り出し、それを抱えてまた部屋に戻った。
包みを開くとほとんど同じ包装の品物が二つずつ入っている。それと小分け用の袋が脇に入っていた。
その小分け用の袋を取り出し、二つの袋に詰め直す。
(本命に贈るチョコ……か)
沙希は彼氏と陸にほぼ同じものを購入したのだった。そうすることしか沙希にはできなかったのだ。
(どちらかを選ぶとしたら……選ぶ前にもう相手は決まっているのに)
目の前にある二つの袋を眺める。
時は刻々と迫ってくる。自分は一体どうしようというのか。
こんな中途半端なことを続けているのはよくないこと。だが、こんな形でなければ陸と一緒にはいられない。
「なんて残酷な恋なんだ」
陸の悲痛な声が頭の中に響く。
(ごめんね。ごめんね。ごめん……)
それでも今は離れたくない。過去も未来もどうでもいい。今、陸と一緒にいられるということが一番大切で、沙希の全てだった。
こんなにわがままな自分がいたことに沙希自身も驚くほどだ。
ただ、このままだと一番大切な陸を自分の手で傷つけてしまうことになるだろう。矛盾しているとは思うが、沙希はその事実に耐えられない。だから何もかもから逃げ出したくなるのだった。
チョコレートの入った袋をクローゼットの中にしまい、暖房を切った。沙希の部屋のクローゼットの中は冷蔵庫とまではいかないが、かなりひんやりとしている。この厳冬期の夜ならチョコレートが溶け出すようなことはないだろう。
ベッドの中に潜り込んで明日のことを考えた。明日はバレンタインデーの前日で陸と会う約束の日だ。今年はバレンタインデーが日曜なので、さすがにその日は陸と会うことができない。
(でも日曜より明日が楽しみ。日曜なんか永遠に来なくていいくらい)
日曜のことはすぐに忘れて、明日のことだけを思う。
(陸と会う日は、笑って楽しく過ごそう)
近頃の自分の態度を反省しながら、残り少なくなっていく二人の日々をもっと大切にしようと考える。
そして伝えたい。決して言葉にはできない想いを、自分の全てで……。
沙希は静かに目を閉じた。
明日は土曜だ。嬉しいことに学校は休みだ。
バレンタインデーが日曜日なので、学校では事実上今日がバレンタインデーとなっている。実は陸も少し期待しながら学校へ来たのだが、今年は一つももらえそうにない。
というのも、陸が家庭教師の大学生と付き合っているという噂は、今や学校中で知らないものはいないほど広まっていて、しかも陸のほうが彼女に溺れているというのが目撃した学生たちの評価だった。そのせいで陸の人気は暴落している。
(別にいいよ。俺は沙希が傍にいてくれれば、あとはどうでもいいから)
実際、沙希のことを考えると、沙希以外の女子からチョコレートがもらえないことなど些細なことに思えた。
(まぁ、どうせ本気のチョコなんかもらっても断るし)
そう思いつつも、かわいらしい包装の紙袋を自慢げに見せびらかすクラスメイトが少しだけ羨ましい。
(沙希は……くれるかな?)
急に胸の中に不安が広がった。沙希が陸に好意を持っているのは間違いないと今の陸は信じられる。だが、チョコレートをくれるかどうかはわからない。
(沙希って、そういうところがよくわかんねぇ)
陸はクリスマスのことを思い出した。あのプレゼントは少しがっかりだったな、と改めて思う。手紙は嬉しかったのだが、「好き」の一言はどこにも書いてなかった。
(いや、言わなくてもわかってるんだけど)
帰宅準備をして教室を後にした。マフラーを首に巻いて長い廊下を歩いて玄関に向かう。部活動のジャージ姿のクラスメイトと挨拶を交わしながら靴を履き替えて、前庭を歩く。
学校の正門には他校の女子生徒の姿が見えた。おそらくチョコレートを渡すために目当ての男子生徒を待っているのだろう。陸は自分には関係なさそうだ、と小さくため息をついた。
正門を出ると一人の女子が陸の進路を塞いだ。
驚いて目を上げる。このコートは見覚えがある、と陸は瞬時に思った。たぶんF女子高の生徒だ。
目の前に立ちはだかる女子はガリガリに痩せていて、髪もベリーショートだ。表情は硬く、どう見ても自分にチョコレートを渡しに来たとは考えにくかった。
「浅野くん、だよね?」
こうして向かい合ってみると沙希よりかなり背が高いな、と陸は思った。
「そうだけど、何か?」
「私も以前、沙希先生に家庭教師をしてもらってたの」
「ああ、もしかしてシホコ?」
陸は沙希の話によく出てくる教え子の名前を口にした。詩穂子の顔がよりいっそう険しくなる。
「馴れ馴れしく呼ばないで」
「悪ぃ。いつも沙希がアンタの話するとき、そう言うから」
沙希の名前を出すと詩穂子は表情を緩めた。本当によく懐いているな、とその変化を見て思う。
「私ね、先生のことが大好きなの。私のほうがアンタよりも先生とは付き合い長いんだから」
陸は笑い出したくなるのを懸命にこらえた。相手は真剣なのだ。表情を変えないようにしながら頷く。
詩穂子は満足そうな顔でまた口を開いた。
「今もライブに一緒に行ったり、ランチしたり、電話で悩み相談したり、ものすごく仲がいいの。私にとって先生は友達以上なの」
「うん。俺も沙希のことが大好き」
そう言った途端、詩穂子は目をむいて声を荒げる。
「簡単に言わないでよ!」
ハッとして陸は相手の顔を見た。その勢いにのまれたのだ。
「先生はね、今ものすごく、辛い気持ちでいるんだから!」
胸がチクリと痛み、陸の顔から笑みが消える。詩穂子は本気だ。
「アンタの……、アンタのせいなんだから!」
言い返す言葉がない。
陸はただ茫然と突っ立っていた。
「でもね、私は先生を応援する。先生がアンタを好きなら、アンタと一緒にいて幸せなら、それを応援する。だから……」
そこで詩穂子は大きく息を吸い込んだ。
「先生を傷つけたら私が許さない」
(ああ……)
陸は目を細めて詩穂子を眺める。
(沙希、お前にもいい友達がいるじゃん。お前のこと、こんなに真剣に思ってるヤツが)
「うん」
「先生を……よろしく」
「うん。アンタもずっと沙希のいい友達でいてやってよ」
「当然! 頼まれなくたって私は先生とずっと友達なんだから」
詩穂子は言いたいことを言い終えたらしく、回れ右をして走り去った。その後ろ姿をしばらく見ていたが、陸も歩き始める。外気は肌を刺すように冷たいが、陸の心は温かかった。
自然に口元に浮かんでくる笑みを隠すように、下を向いて帰路を急いだ。