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番外編 寂しがりやの初景色 《 後編 》

 正月の一番の楽しみは何といってもお年玉だ。

 特にバイトをやめてからの陸は、小遣いしか収入がない。他の同級生に比べると小遣いの額が多いことは自覚していたが、それでも臨時収入は嬉しいものだ。

 年末から祖母が陸の家に遊びに来ていて、元日の朝、挨拶とともにお年玉の入った小袋を手渡してくれた。袋は四つ折になった紙幣の厚みで膨らんでいた。中身を確認する前からだらしなく陸の口元は緩む。

 陸は幼い頃から祖母のことが大好きだった。父方の祖父母は陸が言葉を話す前に二人とも他界していたため、陸にとっての祖父母は母の実家の二人のことなのだ。

 勿論、母の再婚相手である現在の父親にも両親がいる。しかし母が再婚する際に一度会ったきりだ。その件に関しての感想はない。

 気がつけば陸の周りからは血の繋がった者が遠ざかっていき、心の中は常に隙間風が吹いているような状態だった。

 だが、陸はそれほど気にしていない。母もいるし祖母もいる。

 寂しくないと言えば嘘になるが、その代わりに陸と母は自由を得たのだ。親が離婚したと告白すると同情の視線を向けられることが多いが、自分たちは不幸になったわけではないと陸は思う。

 朝からつけっぱなしのテレビは賑やかな正月特番を映している。それを観ながら祖母が小気味よい音を立ててせんべいを齧っていた。

「陸、今日はデートじゃないのかい?」

 珍しく陸はリビングルームのソファでぼんやりとテレビを観ていた。祖母の問いかけに苦笑する。

「元日は、せっかくだからばあちゃんと一緒に過ごそうかな、と思って」

「嬉しいことを言うね」

 茶を啜りながら祖母は笑った。

「でもちょうどよかった。陸に話があるんだよ」

 陸は首を傾げる。こんなふうに祖母が改まって話しかけてくることは滅多にないことだ。両親は初詣に出かけたのでしばらく帰ってこない。そのタイミングを見計らって陸だけに話したいこととは何か、と興味が湧く。

「何だろう? いいこと?」

「まぁ悪い話ではないと思う。私からの頼みごとだよ」

 陸は更に首を傾げた。

「何?」

「少し高い買い物をしようと思うんだ」

 咄嗟に祖母の着ている和服を見た。年始ということもあり、普段より華やかな柄の着物だ。

「ばあちゃんの高い買い物って、どういうレベル? 億単位じゃないだろうな?」

 陸の言葉に祖母は不敵な笑みを浮かべた。それを見た途端、全身の筋肉が緊張してきゅっと縮み上がる。

「マンション?」

「これ以上家を増やしてどうする。そうじゃなくて土地さ」

 祖母はあっさりと欲しいものを口にした。

「土地? 何のために?」

「幼稚園が手狭だから、どこかごみごみしていない広いところに移ろうと思ってね」

 なるほど、と陸は頷いた。確かに祖母が理事長を務める幼稚園は都心から少し離れているものの、十分な広い土地を確保できているとは言えない。

「でもこれから少子化社会になるのに、今更広い土地なんかいらないんじゃね?」

 自分も通った幼稚園のことを思い出しながら祖母に返事をする。あの頃は大した悩み事もなくて、遊んでばかりいても誰にも怒られなかったな、と懐かしく思った。

「そうだねぇ。だからこそのびのびさせたいじゃないか」

「ふーん」

 よくわからないが、何となく相槌を打つ。祖母は祖母なりに考えるところがあるのだろう。だが陸にはそれを完全に理解する必要はないので、深く突っ込むのはやめた。

「それで、俺に頼みって何?」

 祖母は背筋を伸ばして陸に向き合った。

「陸がその土地を買ってくれないかね?」

「はぁ!? 俺にそんな金あるわけねぇじゃん」

 ソファから飛び起きる。土地を買うどころか、貯金すらない。しかも俺はまだ高校生だぞ、と内心で叫ぶ。

「ふむ」

 真面目な顔で祖母が返事をした。

「じゃあ、金を作るところから始めるとするか」

「はぁ!?」

 陸は祖母の顔をまじまじと見つめる。冗談を言っているわけではなさそうだが、俄かには信じがたい話だ。

「簡単に言うけど、どうやって? それに俺が買うことに何の意味がある?」

「まぁ、土地は急いでいるわけじゃないんだ。だけどこの前不動産会社の人に言われたのさ。『女性が土地を持っていると危険だ』とね」

「なんで?」

「土地台帳ってのは誰でも見ることができる。今は登記簿と言うらしいが。誰がどこの土地を所有しているのかは一目瞭然なのさ。そこに女性の名前があると悪いことを考えるヤツがいるんだそうな」

「へぇ」

 陸はシニカルな笑みを浮かべて祖母を見やった。他の女性ならわからないが、目の前にいる祖母が簡単に騙されるような人物ではないことは確かだ。ただ無用のトラブルを防ぐためには有効なのだろう。

 だが、それならば所有者は自分でなくてもいいはずだ、と陸は思う。

「ジイちゃんに買ってもらえばいいじゃん。金だって出してくれるだろ?」

 祖母は冷たい視線をよこして言った。

「もう棺桶に半分足をつっ込んだ人間が土地を買ったって何にもならないだろう。相続が面倒になるだけだ。それにあのジイさんには幼稚園なんか似合わん」

 プッと陸は吹き出した。同時に祖父が園の運営に口出しすることを嫌ってのことだと察する。

「ま、俺で役に立つならいいけど、金はどうすんの?」

「そうさね、考えておくよ」

「考えてないのかよ!」

 祖母は声を立てずに笑った。

「大丈夫。陸はアレの血を引いているから見込みがある」

「アレ?」

 聞き返してはみたが、既に陸の脳裏には一人の男の顔がちらついていた。それを見越しているのか、祖母は笑ったまま返事をしない。

「まぁ、そういう話があるということだけ覚えておきなさい」

 話を切り上げると、祖母はまたテレビの正月特番に目を戻した。ほどなく玄関のドアが開く音がして両親が帰宅する。陸は祖母の勘の鋭さに舌を巻いた。





 新しい年が明けて二日目、陸は地下鉄の改札前で沙希が来るのを待っていた。

 二日と言えばほとんどの店が初売りのバーゲンセールを行っている。沙希は朝早くから街に出て買い物をしているらしい。

 それにしても、と陸は思う。沙希が同じ服を着てくることは滅多にない。組み合わせの違いでそう思うだけかもしれないが、着る服は十分あるはずだ。なのにバーゲンに行く必要があるのかと言いたくなる。

(それくらいなら朝早くから俺と会ってよ)

 とはいえ、お互いに家族があり、生活時間も違う。あまりわがままを言うと沙希に鬱陶しく思われるだろう。

 陸はため息をつく。

(俺ってホント、沙希の何なんだ?)

 答えの出ない問いだとわかっていても、これを考えない日はない。

 そしてこの北国にももうじき訪れる春に思いを馳せた。

(彼氏と別れるまで待っていてくれって言うなら、俺はいつまでだって待つのに)

 百貨店入り口横にある大画面についている時計を見ると、待ち合わせ時間の五分前だった。辺りを見回すが、沙希の姿はまだ見えない。

(それとも、俺が高校生だからダメだって言うなら、あと一年待っていて)

 陸は自分のつま先に視線を落とした。陸の革靴は付着していた雪が融けて表面が濡れている。惨めな気分は更に下へ下へと沈んでいった。



(沙希は「待っている」とも「待っていろ」とも言ってくれない)



 結局、春になれば自分たちの関係は終わるということだ。

 陸の心の中に積もる沙希への想いは、天から舞い落ちてきた雪よりも真っ白く、他の誰にも負けないくらい強いという確信があるのに、肝心の沙希が受け止めてくれる気配がない。

(いや、沙希の気持ちが俺に傾いているのはわかってる。だけど……)

 沙希に「彼氏と別れてほしい」とは言えない。何度も言いかけたが、やはり陸にはそれを口にすることはできなかった。

 会ったこともない相手の男のことを想像してみる。沙希が似ていると言った人気バンドのヴォーカルの顔が浮かぶ。……そして、暴力。

 すぐに頭を振って想像をストップさせた。

 ふと視線を向けた先に、美しい女性の姿があった。陸の意識はそちらへ吸い込まれる。



(沙希……と、誰だ、アレ!?)



 沙希が同年代の女性と手を繋いで歩いている。

 二人は楽しそうに談笑しながらぶらぶらとのんびり進んできて、陸から少し離れたところで別れた。沙希と手を繋いでいた女性が陸をチラッと振り返り、意味ありげな笑みを浮かべる。

 大きな紙袋を提げた沙希が陸の目の前に立った。

「アレは誰だ?」

「誰でしょう?」

「もしかして、妹?」

「当たり!」

 陸は信じられないものを見るように沙希の妹の背中を凝視した。

「つーか、妹と手繋いで歩くヤツ、初めて見た」

「そうかな。変?」

「変だろ!」

「気がついたら、いつの間にか手を繋いでたんだよね。あの子、寂しがりやだから」

 楽しそうに話す沙希の顔を、陸は黙って見る。胸の中が不愉快な気持ちでいっぱいになっていた。

(何これ。俺、沙希の妹にまで嫉妬してるわけ?)

 遣り切れない想いを大きなため息にして体外へ吐き出した。

 急に沙希がスッと表情を硬くする。それを見て陸は慌てた。

「いや、妹……美人だね。けど、お前と全然似てねぇ」

「そうかな? 結構似てるって言われること多いよ」

 うん、と頷いた。確かに赤の他人とは違って、沙希と彼女の妹はかなり似ている。だが、陸は全然違うと一目見て感じたのだ。

「俺はああいうタイプ苦手」

「えー」

「なんか男関係派手そうじゃん」

 シュンとして下を向いた沙希の手から紙袋を奪う。バーゲンの戦利品は思ったより重量がある。何を買い込んだんだ、と思いながら空いた手に自分の指を絡めた。

「でも友達もいっぱいいて、いい子なんだよ」

「ホント、お前と正反対だな」

 ようやく隣からプッと笑う声が聞こえてきた。陸も安堵する。

「俺はお前が好き」

 もう一度沙希は茶化すように吹き出した。

「お前が俺のタイプなの」

「へぇ。変な趣味」

 繋いでいる手を沙希がブンブンと大きく前後に振った。嬉しくなってわざとよろけてみる。

「ねぇ、俺も寂しがりやだよ?」

 沙希はクスクスと笑った。

「そうだね」

「俺もお前と……ずっと一緒にいたいよ」

「…………」

「俺とずっと一緒にいてよ」

 隣を歩いている人は何も言わずに、頑なに前だけを見ていた。

 上擦った気持ちを宥めると、陸は小声で言う。

「……なんてな」

 沙希が素早く瞬きを繰り返す。それでも回収しそこねた涙が沙希の頬にぽろりとこぼれる。また泣かせてしまった、と陸は激しく後悔した。

「泣くなって。ごめん。こんなこと言ったら、お前が困るのはわかってる」

 沙希は静かに涙を拭った。近くを行き交う人の視線を感じて、陸は急いで一番近い出口のドアを開けた。タバコの匂いがこもる階段を二人は無言で上がる。



「でも俺の気持ち、止められないよ」



 冷えた空気が陸の頬を撫でる。沙希の目からこぼれる涙が凍ってしまうのではないかと心配になった。

 言わなければいいのに、言わずにはいられない。

 また、心から大事に思う人が自分から離れていこうとしている。今度こそどうにかして引き止めたいのに、どんな卑怯な手を使っても沙希にはたぶん通用しない。

 彼女が金や物で釣れる女性だったらどれほど簡単か、と思う。しかしそんな人ではないから今ここに彼女がいてくれるのだと考え直す。

(金もない、ただの高校生の俺と……)

 陸は人目も気にせず涙を流す沙希をじっと見つめていた。

「お前ってさ、綺麗に泣くよね」

 バッグから取り出したハンカチで涙を拭き取ると、沙希は力なく微笑む。

「よく言われる」

 その返答に陸は思わず吹き出した。

「つか、どこでも泣きすぎ」

「そんなこと言っても、勝手に涙が出るんだから仕方ないでしょ」

 鼻水を啜りながら口を尖らせて沙希は反論する。沙希のいいところは意外と立ち直りが早い点だ。陸は沙希の頭を自分の身体のほうへと引き寄せた。



「もっと強くなれ」



 沙希がうつむいて唇を噛む。それから何かを言いかけて、やめた。

 その呑み込んだ言葉が何なのかと気になるが、せっかく上向いた空気を逃すのがもったいない。沙希の頭を撫でながら明るい声を出した。

「心配だろ。すぐ泣くし、すぐ落ち込むし、すぐ腹痛くなるし、すぐ風邪引いて寝込むし」

「なんか最後のほう、あまり関係ない気がする」

「うるせぇ!」

(親子でも、姉弟でも、彼氏でもない俺にはそんなことしか言えねぇんだよ)

 真っ赤になった沙希の鼻を、陸は指でつまんだ。

「何するのっ!」

「恥ずかしいなぁ。ガキじゃあるまいし、こんなところでビービー泣いて」

「誰のせいだと思ってんの!?」

「勿論、俺」

 バン、と思い切り背中を叩かれた。

「ひどい!」

 沙希が大きな目を精一杯鋭くして睨みつけてくる。本人は怖い顔をしているつもりかもしれないが、全然怖くない。それどころか何故だか笑える。

「ぷっ」

 こらえきれずに吹き出して下を向いた、その一瞬だった。

 突然陸の鼻は力いっぱいつまみ上げられ、呼吸ができなくなった。

「……んぐっ!」

 目の前にはしたり顔の沙希。

 彼女はたまに、自分よりも五つ上だということを忘れるような茶目っ気を見せる。

(この人、実は中身ガキなんじゃね?)

「おい、いい加減放せよ」

 なかなか放そうとしない沙希の腕を陸はつかむ。仕方ないというように口を尖らせて、沙希はやっと陸の鼻から手を放した。

「鼻、高くなったかもね」

 さも可笑しそうに笑いながら沙希が嫌味っぽく言う。

「俺はこれ以上高くならなくてもいいの。それよりお前、もうちょっとつまんでおいたほうがいいんじゃね?」

「あー! 密かに気にしてることを言ったな!」

 沙希は自分で自分の鼻をつまみながらそっぽを向いた。



(もし……)

 隣ではしゃぐ沙希を見る。

(俺に姉がいたら……)



 今まで考えたこともないが、もし自分に兄や弟、あるいは姉や妹がいたらどうだったのだろう。

 陸は昨日の祖母の話を思い出し、複雑な気分になった。沙希に相談できたら少しは心が軽くなるかもしれない。だが、話すつもりはない。たぶんこの先、誰にも――。

 気がつくと沙希が不思議そうな表情で陸の顔を覗き込んでいた。

(いや、今も十分助けられてるよ。お前がそこにいてくれることで……)

「さてと、姫の機嫌が直ったところで行くとするか」

 陸は沙希の頭に手を置いて明るい声を出した。途端に沙希の顔が険しくなる。

「え? どこに?」

「え? 正月と言えばアレしかねぇじゃん」

 ついニヤニヤと顔が緩むが陸にはどうにもできない。それに一度意識がそちらへ向かうと、もうどうにもならないのが男の性なのだ。

「アレ……」

 沙希は険しい顔のまま固まっていた。

「勿論、姫はじめ」

「勿論って……」

 まだ何か言いたげな沙希の手を握って、陸は歩き出す。

 年明け早々の街中は華やいだ空気が満ちていて、歩いているだけでも気分が浮き立ってくる。前方から晴れ着姿の若い女性の二人連れがやってきて、正月だな、と陸は改めて感じた。

 ふと、隣を歩く沙希の姿を確認する。それから彼女が髪を結って着物を着たら、さぞ美しく彼女に似合うことだろうと、ひとり勝手に想像して口元を緩めた。

 

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1st:2011/03/24
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