沙希の家では毎年クリスマスや正月は家族揃って過ごす習慣になっている。しかしこれは特に両親から強制されているわけではない。
沙希には二歳下に妹が一人いる。妹は沙希とは正反対で、友達が多く積極的な性格だ。そして目鼻立ちのくっきりしたアイドル顔のため、男性からはとにかくモテた。
そんな妹のことだから高校に上がってからは彼氏のいない時期というのがほとんどない。それでもクリスマスと正月は彼氏ではなく家族を取るようなところもあり、そんな妹を沙希はとにかく可愛がっていた。
「お姉ちゃんにあの男はもったいないわ。私、やっぱりアイツが義理の兄になるのは許せない」
大晦日、沙希と妹は並んでテレビを観ていた。父は風呂に行き、母は洗面所にいるらしい。二人きりのリビングで妹が突然そう切り出した。
「まぁ、ね」
沙希は苦笑しながら曖昧な返事をした。彼氏との交際をきっぱりと反対してくれるのは、今となっては妹しかいない。
(あと、浅野くんも、か)
陸のどこか人懐っこい笑顔を思い出して、沙希はホッとする。
妹はみかんを頬張りながら「私がいい男紹介するよ」と言ってきた。
「うーん」
「なに、その意味ありげな『うーん』は? あれ、もしかして姉ちゃん、他に好きな人できた?」
「うーん」
脇腹を肘で小突かれる。わざと大げさによろめいて沙希は嘆息を漏らした。
「ねぇ、どんな人?」
「それが年下なんだよね」
「えー!? もしかして私より下?」
「うん……」
妹は「あっちゃー!」と大声を出し、額に手を当ててのけぞった。
「そう来たか。それで相手はどんな男?」
沙希は苦笑したまま妹の顔を見る。目が合って数秒後、妹は突然驚愕の表情になり、口に手を当てた。
「まさか高校生!?」
「……その『まさか』かも」
「そっか」
急に妹は冷静な返事をした。呆れているのかもしれない。だがそれでも沙希は陸を好きになったことに対して罪の意識を全く感じないのだ。いかれていると言われればその通りだと思う。
「好きなんだね、その子のこと」
妹は何もかも諦めたような声を出した。「その子」と言った時点で妹が既に教え子だと悟っていることに気がつく。
「うん」
「でもどうするの? あの男と別れられるの?」
「それは……」
無理だ。そんなことは最初からわかっていたのだが、改めて問われると答えに詰まる。それにこの先自分がどうしたいのかということも、沙希にははっきりと答えることができない。
(できるなら彼氏と別れて浅野くんと……。でも実際はそんな都合よく、上手くいくわけがないもの)
もうずっと前から沙希の心の中には答えは一つしかないと結論が出ていた。ありとあらゆる可能性を考えて、自分にはこの道しかないと思う。だがそれは一番選びたくない道でもあった。
「私、姉ちゃんの旦那さんには私のわがままも聞いてくれそうな素敵なお兄さんを想定していたんだけど、あの男以外で姉ちゃんを幸せにしてくれる人なら年下でも年上でもいいや」
「里奈(りな)……」
妹の気持ちが嬉しくて胸がいっぱいになった。しかしすぐに申し訳ない気持ちが胸を占める。
(だけどきっと幸せにはなれないよ)
「姉ちゃんさ、もしかして……」
沙希は隣に座る妹の顔をまじまじと見つめた。顔をこわばらせた妹は急に頭を横に振って見せる。
「なんでもない。でも心配だな。きっと姉ちゃんは誰かを完全に見放したりできないから」
「そんなことないよ。私は冷たいよ」
「確かに怒った姉ちゃんは怖い。でも姉ちゃんの傍に寄ってくる人間はちゃんとわかってる」
僅かに眉をひそめると、妹はみかんを一房頬張ってテレビの画面に目を戻した。
「だから姉ちゃんから離れられなくなる。私もそうだもん」
「里奈は妹だからそう思うだけだよ」
クスッと隣から笑い声が聞こえてくる。
「今まで何回変な男に付きまとわれた?」
沙希はグッと詰まった。それを見て妹の里奈は更にニヤッと笑った。
「私は今までそんな経験、一度もないもん」
知らず知らずため息が漏れる。賑やかだった大晦日恒例の歌番組が終わり、テレビからは除夜の鐘の音が聞こえてきた。
それと同時に妹の携帯が鳴った。里奈はその携帯を片手にいそいそと自分の部屋へ戻る。その後ろ姿を羨ましく思いながら見送った。
(あーあ。ついに新しい年が明けちゃうな)
年が明けて春になるまではあっという間のような気がして胸が痛む。雪が解け始める頃には、沙希はこの家を出て一人暮らしを始めるのだ。
そしてその頃には――。
突然、テーブルの上に置いてあった沙希の携帯が鳴る。あと五分で今年が終わるというタイミングだ。
急いで携帯を手にし、リビングルームを出た。
「はい?」
「やっと繋がったー!」
明るい陸の声が聞こえてくる。とても嬉しそうだ。沙希も思わず笑顔になる。
「さっきから全然繋がらなくて焦った。絶対沙希とカウントダウンするって決めてたから」
「それはお疲れさま」
茶化すように言うが、沙希も嬉しい気持ちは隠しきれない。すぐに陸の小さな声が耳に届く。
「話し中じゃなくてよかった」
「うん、大丈夫」
(あの人、行事とかどうでもいい人だから)
そう内心愚痴るとすぐに彼氏のことは頭の中から追い払った。
「しかし寒い」
沙希は身震いした。部屋の暖房は入れてあるが、足元が冷える。雪こそほとんど積もっていないが、外気は十分冷え込んでいるようだ。
「あー、今すぐお前のところに飛んで行きたい」
最近、陸は電話中によくこのセリフを口にする。
「一緒の布団に寝て温めてやりたい」
沙希はクスクスと笑った。本当にできるなら今すぐここに来てほしいと思う。
「あれ、そろそろじゃない?」
時計を見ながら沙希は自室のテレビの電源を入れた。
「ホントだ」
テレビではタレントが大声で「20」と叫んだところだった。
「もしもし?」
陸の慌てた声が聞こえる。一瞬、電波の状態が悪くなったようだ。
「5」
テレビから聞こえるタレントたちの声に陸も唱和する。沙希もまねした。
「4」
「3」
「2」
「1」
「あけましておめでとう。今年もよろしく」
「おめでとう。こちらこそ」
「今年は俺が一番乗りだね。お前に誰より早く言いたかった」
「それはどうもありがとう」
電話なのに照れくさくてどんな顔をしていいのかわからない。困った顔で陸に聞こえないようにため息をついた。
「ねぇ、明日会える?」
陸の甘えた声が聞こえてきた。沙希のため息には気がついていない様子にホッとする。
「明日って二日?」
「うん。今日は家にばあちゃんが来てるのもあって出られないけど、明日は暇なんだ。お前は?」
「特に予定はないけど」
「じゃ、決まり」
また沙希は苦笑する。陸の強引な言い方はそんなに嫌じゃなかった。
先ほどまで観ていた歌番組のことや大晦日の夜をどんなふうに過ごしたかをお互いに取り留めなく話す。
(……って、つい数時間前まで会っていたのに)
楽しそうに話す陸の声を聞きながら、半日前には一緒にカラオケをしていたことをぼんやり思い出していた。
(今日は丸一日会えないんだ)
二人は家族ではないのだから、そういう日があるのは当然のことだ。だが、たった一日会えないと思うだけでも寂しくて、次に陸に会える時間が待ち遠しくて仕方がなかった。
(会いたいよ。明日なんて言わないで、今すぐ会いに来てよ)
すぐそこまで出かかっている言葉を、沙希は飲み込んだ。
「沙希、俺と会わない時間はちゃんと休んでおけよ」
「何よ、それ」
「お前、最近ずっと顔色悪い。俺が無理させてるのかって心配なんだ」
本当に心配そうな暗い声を出すので、クスクスと笑って応える。
「大丈夫だよ。無理はしてないもん」
「ダメ。ちゃんと休んで! もしお前が寝込んで会えなくなったら、俺が死にそうになるんだぞ」
「そんな大げさな」
「とにかくちゃんと食って、ちゃんと寝ろよ。お前はもう少し太ったほうが絶対健康的なんだから!」
勝手なことを、と思いながらも陸が心配してくれる気持ちはありがたく受け取っておくことにする。
「じゃあ私が太ったら浅野くんが責任取ってね」
クッと笑う声が携帯から聞こえてきた。
「勿論! あ、そうだ。二日の日はハンバーグにしよう。お前も300g食え」
「絶対無理」
他愛のない会話が楽しくて、電話を切る瞬間が辛い。沙希はいつも陸が通話を終了させたことを確かめてから、電話を耳から離す。
新しい年はどれくらいの間、一緒に過ごすことができるのだろう。もっと時間がほしい。陸と二人きりで過ごす時間が――。
携帯を机の上に置くと、テレビを消した。部屋の中が急に静かになる。
(もう寝よう)
陸の心配そうな声を思い出して沙希は笑った。それから風呂に入るために階段を降りた。