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第一部 30

 その日陸はクリスマスイブだった昨夜ほどではないが、普段よりは早めに帰宅することができた。

 自宅のドアを開けるときはいつも、それまで意識していなかった1日の疲れがどっと押し寄せてくる。とりわけ今日の疲労感は、内臓がすべて鉛に変化したような重苦しさがあった。

 玄関に入ると夕食の匂いがした。帰宅してから夕食の準備をするのは大変なことだろう。だがそれを苦にする様子もなく、沙希は毎日手作りの料理を食卓に並べる。料理が得意ではないというけれども、既成品の味つけに飽きた陸からすれば、沙希の作るカレーライスやハンバーグが最高においしく感じられた。

 空腹を意識しながらリビングルームのドアを開ける。食卓を見て、陸は驚いた。

「今夜はフルコース?」

 沙希は苦笑しながら「いやぁ、今日はがんばった」と自画自賛する。食器棚のほぼすべての皿が、食卓に所狭しと並べられていた。

 食事をしながら陸は、沙希の様子がいつもと少し違うことに気がついた。沙希はひとりで楽しそうに1日のできごとをしゃべっている。明るく話す様子に不自然なところはない。だが、明るすぎる。話題が途切れるのを恐れるかのように、次から次へとまくし立てた。

「ごちそうさま」

 と、陸が立ち上がると沙希は一瞬口をつぐんだ。瞳に不安の色が翳る。陸はなにも言わず、皿をキッチンへと運んだ。

 シンクの前に立つと背中にドンとなにかがぶつかってきた。温かい。後ろから沙希の腕が陸の身体に巻きついた。

「なんかあった?」

 沙希は陸に後ろから抱きついたまましばらく黙っていた。陸も身動きせずに、どうしたらいいかと逡巡する。

「あのね、浅野くんと私は住んでる世界が違うんだって」

 背後から沙希の小さな声が聞こえた。

「へぇ。それ、俺も初耳」

 後ろで沙希がクスッと笑ったようだ。陸は沙希の両腕をつかんだ。それを言った人物はだいたい想像がつく。

「それでね……」

「うん」

 その先がなかなか出てこない。それでも陸はじっと待つ。



「刺されるかと……思った」



 嗚咽が聞こえてきた。なにを言えばいいのかわからない。陸にできるのは沙希の腕をしっかりとつかまえておくことくらいだった。

「でもね、動けないの。……あのときもそうだった。『刺せるなら刺せば?』って言ったけど、ホントはナイフを持ってないの、知ってたの。……だけど、まさか……」

(あのとき――元カレと別れたとき、か)

 沙希の身になにが起こったのか知りたくてわざわざ沙希の実家を訪ねたが、結局沙希がそのときのことを誰にも話していないことがわかっただけだった。

 本当は、陸も聞くのが怖かった。だが自分にはそれを知る義務があると思う。

「沙希、そのときのこと、俺に話せるか?」

 また沙希は黙ってしまった。やはり無理なのだろうか、と諦めかけたころ、沙希がようやく口を開いた。

「うまく話せないかもしれないけど……」

「いいよ」

 陸は沙希をソファに座らせ、自分もすぐ隣に腰をおろす。そして沙希の肩を優しく抱いた。

 どこか遠いところを見つめながら、沙希はぽつぽつと話し始めた。


     


 その日は肌寒いどんよりとした日だったように記憶している。沙希は重い足取りでその場所に向かった。

 最初から今日で終わりにしようと決めていたが、その割に自信がなかった。おそらく簡単には別れてくれないだろうと思う。だが、終わりにしたい。いや、しなくてはならない。そうでなければ沙希の心はバラバラになってしまいそうだった。

 久しぶりにその人に会った。

 その人は当然のように沙希に近づいた。スキンシップを求められるが、身体に触れられるのももう嫌だった。

「もう私、あなたのそばにはいられない」

 沙希の腕をつかんでいた手を振り払った。

「他に好きな人ができたの。もうあなたのことは好きじゃない」

 沙希の予想通り、その人は納得しなかった。最初は信じなかった。

「あんなに俺のことが好きだったのに」

 沙希は心の中で冷笑する。――私があなたのことを好きだった、と?

「もう好きじゃないの。嫌いなのよ!」

 なかなかわかろうとしない相手に、沙希は何度も事実を繰り返し告げる。沙希の態度がますます冷たくなり、相手はようやくそれが本当のことだと気がつき始めた。

 突然、その人の態度が豹変した。

「裏切ったな! お前なんか……」



 死ね死ね死ね…………



 呪詛のように繰り返し自分に浴びせられるその言葉を、沙希はただ茫然と聞いた。

 このままだと危険だ、と沙希の中のなにかが告げる。早くこの場を離れなくてはならないと思った。

「もう帰るわ」

 その人は泣き始めた。みっともないくらい涙を流し、置いていかれる子どものように懇願した。

「待ってくれ、出て行くふりなんかしないで……」

 ふりなんかじゃない、本当に出て行くんだと沙希は相手を睨む。怯えた目でその人は沙希に追いすがる。沙希は慌てて外へ出ようとした。

 だが、つかまった。

 泣きながらその人は拳を振り上げた。避けきれない。顎に鈍い痛みが走った。

「お前なんかめちゃくちゃに刺してやる!」

「刺せるなら刺せば?」

 1回殴られたせいなのか、沙希は衝動的に挑発に乗った。

「それで気が済むなら、やれば?」

 その人が自衛と称して持ち歩いているナイフを、その日は持っていないと知っていた。だからわざとそう言ったのかもしれない。

「……できない、俺にはできない」

 沙希は相手の口調が変化したことに気がついた。まずい。このままでは――!

 その人はジーンズのポケットから手を抜いた。

 その手にはアーミーナイフが握られていた。すでに刃が剥き出しになっている。

(しまった!)

 そう思ったがもう遅かった。片手は沙希の腕をつかんだまま、ナイフを握った手をこちらへ向ける。

 その人の目を見た。焦点が合っていない。

(ああ……!)

 狂気の目だ。相手の悪意が突風のように沙希めがけて噴出する。

 その一瞬で沙希の身体は金縛りにあったように固まった。身も心も恐怖ですくみ上がる。

 わけのわからない言葉とともに、その人はめちゃくちゃに腕を振り回し始めた。沙希は渾身の力をふり絞り、相手を突き飛ばした。

「…………!!」

 熱い、と思った瞬間、片目の視界が閉ざされた。慌てて拭う。自分の上着の袖に真っ赤な染みができた。

 それを見た相手は力が抜けたのか座り込んでしまった。まるで綿がつまった人形のように、ぐにゃりとだらしない姿勢で壁にもたれていた。

 沙希は目蓋を腕でおさえたまま、最後にその人を一瞥し、外へと通じるドアを勢いよく開けた。振り返らない。もう二度と――。



 小走りに外へ出た。曇天ながら沙希にとっては視界に入るものすべてがまぶしかった。空気を胸いっぱいに吸う。

 やっと自分の足についていた重い枷を外すことができた、そんな気分だった。

 とりあえず近くのビルのトイレに入り、自分の顔を見た。血まみれだった。だが、傷は思ったより小さく、血もほとんど止まりかけていた。

 顔を拭き、あらためて鏡を見る。



『もうお前のこと、前みたいに好きじゃなくなったわ』

 少し前の電話で聞いた陸の声が頭の中に響く。



「あんなに私のことが好きだったのに」



 今にもそう口から飛び出そうだった。できるなら今すぐ陸に会って問いただしたい。もう自分のことが好きじゃないなんて嘘だと言ってほしい。

(だってずっと好きだって……もし会えなくなってもずっと好きでいてくれるって言ったじゃない?)

(お願い、私のこと、嫌いにならないで……)

 できるなら今すぐ陸の元に行き、すがりついて懇願したかった。心が痛くてちぎれそうだった。

(こんなときですら、想うのはキミのことなのに……)

 涙を流す鏡の中の自分が、みっともなく子どものように泣いていたあの男と重なった。途端に我に帰った。

 沙希は笑った。滑稽だった。あの男に言った言葉がそのまま自分に返ってきた。



(もう好きじゃない、嫌い……か)



 血まみれの上着を脱いだ。トイレを出て、広い通りでタクシーを拾う。

(これでおしまい)

 見慣れた街の景色が急に色褪せて見えた。心の中は凍てつくような冷え冷えとした感情が支配していた。もう自分には人を愛する資格などない、と思った。

(でも、これでいい。……さようなら、大好きだった人たち)

 沙希はそうして過去を心の奥に追いやった。もう思い出さないように、できるだけ奥のほうへ。そして、過去への未練をすべて断ち切ったのだ。


     


 聞き終えた陸は大きく息を吐いた。

「お前……ホント」

 バカだな、と言おうとしたがやめた。

 なにを言えばいいのかわからなかった。沙希の元彼の話はもともと聞いていて気分が悪くなるようなものばかりだった。だから別れた事実と残った傷を見ればおおよそなにがあったかは想像できたし、実際沙希の話は陸の想像とそれほどかけ離れてはいなかった。

 それでも言葉が見つからない。

 想像していたとはいえ、沙希の語る事実は陸に少なからぬ衝撃を与えた。沙希とて「別れたい」と言えばこうなることは予測していたのだ。だからこそ沙希があえてそれを選択したことに陸は納得がいかなかったし、いまさらだがとても悔しかった。

「どうしてソイツと別れようと思った?」

 そういえば一度も聞いたことがなかったな、と陸は思う。

 沙希は少しだけ視線を動かしてつぶやくように答えた。

「ひとりになりたかったの」

(……うそつけ!)

 ひとりでどれだけの日々を耐えてきたのだろう。それを思うと胸が痛んだ。

(しかしその男も酷いな。今でもそうやって沙希を縛るのか……)

 沙希はうつろな表情でぼんやりしていた。とてもこの頭の中で考えすぎるほどの思考活動が行われているとは思えない。

 陸は沙希の頭の上にポンと手をのせた。

「沙希に手を上げるなんて、信じらんねぇな」

 寂しそうな笑顔で沙希は応えた。いつもそうだった、と陸は思う。いつもそうやって沙希はすべて飲み込んでしまうのだ。

(もういい加減、沙希を解放してくれよ)

 陸はあらためて自分がいかに無力かを思い知る。それどころか、沙希をそこへ追い詰めたのは自分の無責任な想いなのだ。だが、どんなときでも沙希は、決して陸を責めたりはしない。

「でもね、……もう終わったことだよ」

 沙希が努めて明るく言った。

「今日みたいなことがあると、思い出して鬱になるけど、でももう大丈夫」

 そう言って左手の薬指を触った。そこには陸が贈った指輪がある。

(沙希はすぐ泣くし、心が弱いんだと思っていたけど……強いな)

 と、陸は思う。沙希はきっといつかこの過去も乗り越えていくだろう。ならば、自分にできることは――

「そうだな。これからは俺がいるし、ね」

 沙希は嬉しそうに頷いた。





「……っていうか、沙希がそんなに俺のこと好きだったなんてな」

 陸は沙希の頭を撫でながら先刻の大告白を蒸し返した。途端に沙希の顔が赤くなる。

「だから、それは……昔のことで」

「へぇ、じゃあ今は違うんだ?」

「そ、そうじゃなくて……」

 沙希がしどろもどろになりながら答えるのをニヤニヤしながら楽しむ。我ながら悪趣味だと陸は思うが簡単にはやめない。

「聞きたかったな、お前が『嫌いにならないで』って言うの」

「でも、そんなこと言ったら引くでしょ?」

「んなことねぇよ」

「だって私のこと、もう好きじゃなかったんでしょ?」

 陸はいつの間にか形勢が逆転したことに気がついた。沙希が得意げな顔をしている。慌てて話題を変えた。

「しかし、アレだ、その男も倉田由紀も卑怯だよな。俺が入っていけない場所に現れやがって」

 沙希はプッと噴き出した。

「夢とか女子トイレとか、ね」

「だけど今日は俺も殴られたんだぞ」

 陸は昼間の事件を思い出し、腹を立てた。沙希は小首を傾げる。

「倉田由紀がみんなの前で『うそつき!』とか言いながらビンタしやがって……」

「『うそつき』……?」

 訝しげな沙希の視線が陸を突き刺す。

「なに、その目?」

「浅野くん、なにかやましいことがあるんじゃないの?」

「いや、なにもないって!」

(この話題も失敗か……)

 陸は内心苦笑しながら、まだ頬をふくらませている沙希を見る。すっかり落ち着きを取り戻し、いつもの沙希だった。安心した陸は、ずっと思っていたことを口にした。

「あのさ、そろそろ『浅野くん』って呼ぶの、やめない? それ今の父さんの名字だし」

「えー」

 沙希は心底嫌そうな顔をした。陸は沙希の髪の毛を引っ張った。細く柔らかい髪はいつまで触っていても飽きない。

「『陸』が嫌なら、『陸くん』とか『陸さま』とか……」

「陸さま……」

 プーッと沙希が腹を抱えて笑い出した。

「そんなに笑うことないだろ!」

「だって絶対無理だもん。そんなの呼べない」

(絶対無理とか、けっこうヘコむぞ)

 陸は小さくため息をついた。

「じゃあ結婚したらどうすんだよ。それでも『浅野くん』なわけ?」

「……結婚、ねぇ?」

 沙希が意味ありげにちらりとこちらへ視線をよこした。陸はギクッとする。今日部長に報告することを、前もって沙希に言わなかったのは、やはりまずかったようだ。

「もしかして……今日のこと、怒っていたりする?」

「べーつにぃー」

 沙希は完全にそっぽを向いてしまった。名前を呼ばせるのに失敗した上、機嫌も損ねてしまったらしい。さて、どうしようかと考えながら、陸は頭の後ろで手を組み、ソファに身を預けた。

「じゃ、名前はそのうちでいいから、ひとつ約束して」

 陸がそう言うと、沙希は不思議そうな表情をした。



「これからは、なんでもひとりで勝手に決めないで、俺にかならず相談すること」



「…………」

「あと、前にも言ったけど、俺に隠しごとすんなよ」

 険しい顔の沙希は少し考えてから口を開く。

「約束は、ひとつじゃなくてふたつ?」

「ま、細かいことは気にすんな」

 沙希の顎に指をかけて上を向かせる。すると沙希の唇が小さく動いた。



(り……く?)



 心臓がドキッとするのを感じた。ただ自分の名前を沙希の唇がなぞっただけなのに。

(まいったな……)

 初めて会ったときの、もうずっと忘れていたはずの感情が戻ってくる。

 目を閉じて、口づけた。

(そうだ、最初からわかってたことだ――)



「ホント、お前にはかなわねぇや……」



 額がくっつきそうな位置で沙希が微笑んだ。次の瞬間、沙希から唇が重ねられた。どちらからともなく舌を絡め、深く口づける。

「陸も約束守ってね」

 そう言って沙希は勢いよく陸の首に抱きついた。細く柔らかい身体を受け止めて、沙希のぬくもりに安心する。こんなに抱きごこちがよくてしっくりくる女は他にいないな、と思う。

 届くはずもないが、もしできることなら、ひとりで泣いていた昔の沙希に伝えたい。

(俺がお前を嫌いになるわけないだろ?)

 陸は心の中でそう、そっとつぶやいた。


     


 年が明け、冬が終わりに近づいたある日、沙希と陸は渋滞に巻き込まれていた。

「……ったく、さっきから全然進んでねぇぞ!」

 ステアリングに上半身をもたれかけ、陸はうんざりした調子でぼやいた。

「そうだね」

 沙希は隣を見てクスッと笑った。

「あーもう、行きたくねぇし!」

 さっきから何度同じセリフを繰り返しているだろう、と沙希は思う。

「行きたくないなら進まなくてちょうどいいんじゃない?」

「俺はさっさと行って、さっさと帰ってきたいんだよ!」

「そんなに嫌なの?」

「俺、ジイさん、苦手でさ。お前、見たことある?」

 ふたりは陸の祖父の家に向かっていた。陸の祖父は沙希の会社の会長で、今も実質経営権を握っている。

「お会いしたことはないかな。……どんな人?」

 陸は盛大にため息を吐いた。

「あのおっさんを、さらに極悪非道にした頑固ジジイ」

 沙希は思わず小さく噴き出した。陸はその様子を横目に見て、またため息を漏らす。

「いいよな。たぶん沙希はすぐ気に入られるよ」

 どうかな? と沙希は首を傾げた。

「でもあのジイさんのことだから『早くひ孫の顔が見たい』とか言い出すぞ、絶対」

「……ひ孫」

 その前に結婚もしていない。自分が子どもを産むことなど、まだ想像もできなかった。

(それよりも……)

 沙希は陸が近い将来のことをどう考えているのか、気になりつつも訊けずにいた。



「それで……」

 話題が途切れたところで沙希は意を決して切り出した。

「この先、私はどうなるんでしょ?」

 ああ、と陸は気のない返事をし、逆に「どうしたい?」と問い返してきた。困惑した沙希はさらに質問を返した。

「陸はどう考えてるの?」

「なにを?」

「えっと……春からはどこに行くのか、もう決まったの?」

 また「ああ」と軽い返事をして「どこに行きたい?」と問い返してくる。

「どこって……決まってないの?」

「いや、ジイさんに言えば、どこでも好きなところに行けるんじゃね?」

 沙希は一瞬絶句する。

「……そういうもん?」

「そういうもん」

 今度は沙希が「へぇ」と気の抜けた返事をした。住んでる世界が違うとはこういうことか、と妙に納得する。

「それじゃあ、結婚は……するの?」

 自分で言っておきながら恥ずかしくなり、顔をそむけた。陸がちらりとこちらを見る気配がした。

「したい?」

 沙希は急に身体が熱くなるのを感じた。陸を見ないようにして小さく頷いた。

「でも、まだしない」

 期待に反する言葉をあっさり返される。と同時に気が抜け、自分がひどく落胆していることを沙希は思い知った。それを察したのか、気遣うように陸が言う。

「少なくとも沙希より給料高くなってから、な。一応、俺にもプライドあるし。……大丈夫、沙希が大台に乗るまでにはなんとかするから」

「……大台」

 確かに沙希も気にならないわけではなかったが、ここであらためて言われると嫌味に聞こえ、聞き流すことができなかった。

「それはお気遣い、どうもありがとう」

「どういたしまして」

 陸はいたずらっ子のような笑顔で答えた。懸命に笑いを噛み殺している様子が沙希には腹立たしいが、怒るのもバカバカしいので無視する。

 だが陸なりに、周囲を納得させる努力をしていたのだとわかり、とても嬉しかった。部長に「かなり先になる」と宣言した意味もようやく理解できた。年上の沙希と結婚するということで、余計な苦労をかけているのなら申し訳ない、とさえ思い始めていた。



「そうだ! ジイさんに言われる前に作るか」

「はぁ!? ……なにを?」

 突然、陸は脈絡なくそんなことを言い出した。渋滞にイライラしていた顔がパッと急に明るくなり、目尻が垂れている。沙希はまた始まったか、と呆れた。

「ご休憩してから行かね?」

「疲れてないもん」

「沙希とラブホに行く機会ってもう滅多にないじゃん」

 ニヤニヤしながら陸が言う。沙希はちらりと横目で運転席を見た。

「それって他の人とは行くことがあるっていう意味?」

「なんでそうなる?」

 陸は慌てて沙希に向き直った。

「俺はお前がいれば他の女は必要ないの。お前は知らないかもしれないけど、ラブホで延長したことあるの、お前とだけなんだぞ」

「それは知らなかったけど……それは喜ぶべきところなの?」

 一瞬言葉に詰まった陸を見て、沙希はさらに続けた。

「それにあのときって、確かふたりとも途中で寝ちゃったんじゃなかった?」

「しかも金なくて焦ったよな?」

 ふたり合わせてギリギリ足りてホッとした記憶がある。沙希はそのときのことを思い出して失笑した。自分たちらしいエピソードだと思う。

「でも……陸は、私と……して、楽しいの?」

 いつも疑問に思っていたことだった。自分のような面倒な相手をわざわざ選ばなくてもいいのに、と。

 陸は「バーカ」と言って、またステアリングにもたれかかった。

「……俺のほうが自信も余裕もない」

 首だけ沙希のほうへ向けて流し目をする。その仕草に沙希はドキッとした。

「なんか悔しいよなぁ。……俺、がんばるわ」

「なにを?」

「俺自身で沙希をイかせたいじゃん」

「…………」

「やっぱ、先にご休憩だな」

「しません!」

 チッと舌打ちし、陸はシートに反り返って伸びをした。それから沙希の頭にポンと手を置いた。

「じゃ、帰ってから、な?」

 沙希は笑顔を作った。そういえば、陸と再会した日にこの表情をしたら「意味深」だと言われたのだが、陸は覚えているだろうか?



 あの日から沙希の止まっていた時が動き出したのだ。



 もしかすると、ずっと待っていたのかもしれない。忘れたつもりでいたけれど、いつもどこかで信じていたのかもしれない。



(いつかまたキミに必ず会えるって……)



 サングラスをかけた陸をこっそり盗み見た。少し遠くを見る横顔が好きだった。今も変わらぬ整った顔立ち。――少しだけ大人っぽくなったけれど。

 陸が「なに?」というように無言でこちらを向いた。心の中を見透かされそうでドキッとした。慌てて作り笑いをして「なんでもない」というように首を横に振る。



(ねぇ……?)

 フロントガラスの先に連なる渋滞の列を眺めながら、心の中で問いかける。

(私、ここにいてもいいんだよね?)



 もう、聞かなくても答えは知っている。

 左手の薬指を見た。これが幸せの形だろうか?



 ――でもね、一番ほしかったのは……



 もう一度、隣の席を見た。ステレオから懐かしい曲が流れてくる。陸はステアリングを軽く叩いてリズムを取りながら歌い出した。



 見えないものを信じるなんて愚かだと他人は罵るかもしれない。

 報われない想いを抱き続けるなんて意味のないことだと他人は笑うかもしれない。



 ――でもね、私……

 ――キミのことが、好きで好きで……



 ――……すごく幸せ。





〈 第一部 END 〉


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