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第一部 29

 陸は沙希の左のてのひらを覗き込んだ。それから自分のてのひらと見比べる。

「マジでお前、1本多いぞ」

「浅野くん、手相わかるの?」

「いや、よくわかんねぇ」

「……わかんないんだ?」

「右手も多いんだっけ?」

「……うん」

 へぇ、と感心しながら陸はまだ沙希のてのひらを眺めている。

「あの、腕が痛いんですけど」

 陸はまたニヤニヤと笑うだけで返事をしなかった。そしておもむろにズボンのポケットからなにかを取り出した。

(…………?)



「さて、これはなんでしょう?」



 満面に笑みをたたえた陸は握り締めたこぶしを沙希のほうへ差し出した。沙希は陸の顔を食い入るように見た。

(もしかして……?)

 陸はフッと笑って、握っていたものをゆっくりと沙希の指にはめた。そしてようやく沙希の左手首を離した。



「うそ……」

「ホント」



 沙希は自分の左手を見つめた。てのひらではなく甲のほうを。角度を変えると蛍光灯の光が反射してなにかがキラキラと輝く。

 薬指にはリングがはめられていた。優美な曲線を描くリングの中央ではダイヤが小さいながらもまばゆい輝きを放っている。

 驚きのあまり声も出ない沙希は、目を見開いたまま陸を見た。その沙希の反応に満足したらしく、陸は穏やかに微笑んでいた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

「……高かったでしょ?」

「まぁ、それなりに」

「あの、でも、これって……?」

 もしかしてエンゲージリング? と聞きたかったが、はっきりとは聞けず語尾が曖昧になる。

「ホントは5年前に渡したかったんだけど」

 陸は目の前のケーキに視線を落とした。

「金もないし、お前も俺からのプレゼントは受け取らないし。やっと受け取ってくれたのが別れるときのイヤリングって……悲しすぎる」

 5年前、別れが近づいたとき、記念に買って交換したイヤリングとピアス――

「私、まだ持ってるよ」

「俺だって持ってるよ、あのピアス。壊れたけど捨てたくても捨てられなかった。沙希がくれたものは……」

 沙希は思わずクスッと笑った。陸はムッとした顔をして「なに?」と訊いてくる。

「もうとっくに捨てられていると思っていたから意外だな、と」

「俺はそんなにひどい男だと思われてたのか」

「だって、元カノとのペアリング、ゴミの日に出したんでしょ?」

 それを聞いた途端、陸は「クソッ」と言って唇を噛んだ。

「そんな大昔の話、思い出すな。……ったく、記憶力がいいのも考えものだな」

 大きく深呼吸をして、陸は「とにかく」と足を組み直した。



「それが俺の気持ち。1回はずしてみ?」



 沙希は少し首を傾げながら指輪を薬指から抜いてみる。内側に文字が刻まれていた。



 ” I need you ”



 無言で陸を見る。顔を見合わせたふたりは、しばらくするとどちらともなく笑い始め、ついには声を上げて笑いあった。

「おい! 笑うところじゃないぞ」

 陸が無理に笑いをおさめて言った。沙希は目尻の涙を拭う。

「ごめん。……ちょっと懐かしくて嬉しかったから」

 ん? と陸が訊き返す。

「昔はしょっちゅう『好き』とか『愛してる』とか『ずっとそばにいて』とか恥ずかしいセリフを言ってくれたけど、最近はあんまり聞かないから……こういう直接的表現」

 あの頃の陸はもう遠い日の思い出にしかいないのかと思っていた。大人になった陸ももちろん好きだが、沙希はふと寂しく思うことがある。

「昔のピュアなハートの浅野くん、思い出しちゃって」

 陸は小さくため息をついた。

「俺は今でもピュアなハートの持ち主なのにな。でも……」

 薄い唇の端だけ上がって、意地悪な表情になった。

「喜んでたんだ? 沙希は困ってるのかと思って、あれでもかなり我慢してたのにな。あー残念!」

「じゃあ、今言ってよ」

「ヤダ」

 沙希は「むぅ」と唸った。これ以上おねだりもできない性格の自分が少し恨めしい。

 その様子を、あぐらをかいた膝に肘をついて、陸は面白そうに眺めていた。

 だが、しばらくするとおもむろに立ち上り、沙希にニヤッと笑顔を見せ部屋を出て行った。別の部屋のドアが開く音と閉まる音がする。戻ってきた陸は白いギターを手にしていた。

「さてと……」

 腰をおろすとポロンと弦を弾く。アンプに繋がっていないため、ギターからは少し乾いた音がこぼれた。

「間違っても笑うなよ」

 そう前置きして陸はピックを握る。

 沙希はその光景を見ただけでもう胸がいっぱいになった。

(この曲は……)

 歌い出した陸と目が合う。そこから視線を動かすことができない。まばたきするのも忘れて、ただ陸を見つめた。



 沙希は思い出す。

 初めて手を繋いだ日のことを――



 その日、陸が歌うのを初めて聞いた。

 知らないバンドの曲だった。

 彼の声が好きだな、と思った。

 そして初めて聞いたこの曲をいいな、と思った。



「覚えてる?」

 歌い終わった陸がギターを脇に置いて神妙な顔つきで尋ねてきた。

「1番最初にカラオケで歌ってくれたよね?」

 沙希がそう答えると、陸は少し恥ずかしそうな顔をした。

「お前の前で何回も歌ったぞ」

「うん」

 陸が好んで歌う曲はいくつかあったが、その中でもこの曲はよく聞いたな、と沙希は思った。明るいポップな曲調で「君なしじゃ生きていけない」というサビのフレーズが耳に残る。

「……誰かのために歌うなんて、それまでも、その後もなかったんだ」

 胸の奥からなにかがこみあげてくる。沙希はそれを懸命にこらえた。



「沙希が最初で最後。……これからもずっと俺のそばにいてくれ」



 大きく頷いた。もう顔を上げられなかった。涙が膝の上に置いた手にポタリと落ちる。

「ケーキ食べるぞ」

 陸の明るい声が聞こえたので、慌てて涙を拭った。顔を上げると陸はケーキを切り分けていた。

「あ、そうそう、沙希の手相。それ二重知能線じゃね?」

 沙希は一瞬あっけにとられた。そういえば手相の話をしていた、と思い出す。

「調べたの?」

 陸は上目づかいでチラッと沙希を見たが、すぐにケーキを切る作業に戻る。

「ま、そんなの気休め程度にしか信じてないけど。アレだ、指のサイズ測るときに『そういえば』って思い出したってわけ」

「……いつ測ったんでしょ?」

「そりゃ、お前がよだれたらして寝てるときに決まってんじゃん」

「…………」

 陸を軽く睨みつけた。だが陸に悪びれる様子はない。

「今度、一緒にペアリング買いに行こうな」

 差し出されたケーキを受け取りながら、沙希は満面の笑顔を作った。それを見た陸は一瞬ひるむ。

「ゴミの日に出すのがもったいないくらい高いのを買おうね」

 今度は陸がグッと声を詰まらせた。沙希は満足してケーキをフォークで切り分け、口に運んだ。


     


 翌日、沙希は指輪をしたまま出社した。傷がついたら困ると思うのだが、はずしていると陸の機嫌を損ねそうな気がする。それになにより沙希自身が指輪をしていたかった。

「先輩、素敵な指輪してますね! ダイヤじゃないですか? これってもしかして昨日プレゼントされちゃったとか?」

 同じ課の早坂薫が朝一番に目ざとく見つけて寄ってきた。沙希は苦笑しながら頷く。

「わぁ、いいなぁ! ……ってことは、先輩、彼氏できたんですか?」

 後半は囁くような声で聞いてきた。

「どう……かな?」

 はぐらかすように返事をするが、薫は肯定と受け取って歓声を上げる。

「どおりで。最近、先輩の顔色よくて元気そうだなって思ってたんです。……で、社内の人ですか?」

 さすがに困惑した沙希は、机の上の書類に視線を落とした。薫は慌てて付け足した。

「あ、余計なこと訊いちゃいましたね。ごめんなさい」

「ううん、でもまだ言えないの。そのうちちゃんと報告するね」

「はい、待っています」

 薫はにっこりと微笑んで自分の席に戻って行った。

 沙希はひそかにため息をつく。このぶんだとすぐに社内に噂が広まってしまいそうだな、と思う。やはり指輪をしてきたのは間違いだったかと思い始めていた。

 それからいつものようにパソコンの電源を入れた。メールチェックをすると陸からのメールがあった。



 > 午後、部長席に来い。



 相変わらず用件のみの短いメールに、沙希は顔をしかめる。意味がわからず画面から目を離して陸の席を見るが、デスクに陸の姿はなかった。


     


 昼食は同期の房代とお互いのクリスマスイブ報告会になった。房代も彼氏と楽しいクリスマスイブを過ごしたようで、最初から最後まで笑顔で話してくれた。

「でもその指輪には負けたわ。……ってことはプロポーズ?」

 房代は自分の言葉に興奮して、勢いよくテーブルを叩く。

 その音に沙希は少し驚くが、すぐに「うーん」と首を傾げた。

「具体的な話は特になにも……」

(そういえば春から海外って話もどうなったんだろ)

 珍しく昨日は沙希より早く帰宅した陸だが、普段はもっと遅い。ふたりでゆっくり会話をする時間がないため、気にしつつも話す機会がなかった。

「でも、これは房代ちゃんのおかげだね。ありがとう」

 沙希はあらためて房代に礼を言った。房代はとんでもないというように手を大げさに振った。

「私がしたのはただのお節介で、ふたりの心がずっと繋がっていたから今があるんだよ」

 その言葉に、素直に頷けたらよかったのだが、沙希は首をかしげた。いくら心で互いを想っていても、それだけで陸ともう一度心を通わせることができたのではない。

「好きって気持ちだけではうまくいかないものだよ」

 そう言うと、房代は少し考えて感慨深げな顔をした。

「……奥が深いね。恋愛初心者の私はまだ足元にも及びません」

 沙希と房代はクスクスと笑った。夢中で話をしていたので、昼休みの残り時間が少なくなっている。ふたりは猛スピードでランチを口に運び始めた。


     


 昼休みが終わって部署に戻ると、陸はパソコンの画面に向かっていた。何気なく見ていただけだが、沙希の視線に気がついたのか、陸が目を上げた。視線が合って沙希はドキッとした。

 それを契機に陸は立ち上がった。沙希も立って椅子をしまう。沙希を振り返った陸が、早く来いとでもいうように小さく手招きするので、仕方なく部長席へ向かった。

「部長」

 陸が呼びかけると、部長は「はいはい」と返事をしながら、キーボードを打つ手を止めて目を上げた。

「おや、珍しい組み合わせだね」

 沙希は緊張して部長の顔をまともに見ることができなかった。しかも背中にはフロアから無数の視線を感じる。昼休み明けの時間帯は、着席率が高いのだ。

「もしかして、なにか嬉しい報告?」

 陸が口を開く前に部長が先回りをする。苦笑を浮かべた陸はかすかにうなずいた。

「まだかなり先になると思いますが」

 急に沙希の背中に冷や汗が吹き出し、その一滴が肩甲骨の間を滑り落ちた。



「川島さんと結婚したいと思ってます」



(えーーーーーーーーーっ!!)



 思わず陸の顔を見た。

(私も初耳ですが!)

 沙希は部長に視線を移す。部長は破顔して「それはおめでとう」と、陸に握手を求め、続いて沙希にも手を差し伸べる。

「全然気がつかなかったな。いやぁ、驚いた!」

(私も驚いてますが!)

 頬に笑みを張りつかせたまま、部長と握手を交わす。その直後に陸へ冷ややかな視線を送るが、彼は憎らしいほど涼しげに微笑んでいた。

「でも川島さんが結婚しちゃうと残念がる人、多いだろうなぁ。なにしろ管理職の間でも、川島さんは大人気だからね。ウチに引っ張ってくるのにかなり苦労したから」

 部長のセリフが終わらないうちに、陸がこちらを見る。おそるおそる横目で隣に立つ人の様子をうかがうと、涼しげな顔は寒気を感じるほどの無表情に変化していた。

 その後、他愛のない話をして部長から解放されると、沙希は下を向いて一目散に自分の席に戻った。他の人からの視線が痛い。穴があったら飛び込みたいくらいだ。

「せんぱぁい!」

 薫の声がした。もう逃げ場はない。沙希は深呼吸して覚悟を決めた。





(……ふぅ)

 ひとしきり祝福やからかいの言葉を受け取ると、沙希は何日分かの疲労がどっと押し寄せたような気分になった。変な汗をかいたようで、慌ててメイク直しに席を立った。

 トイレに入ると甘ったるい匂いが鼻をついた。視線の先には鏡に向かう若い3人の女性。鏡越しに目が合ったかと思うとすぐに、彼女たちは沙希に向き直った。

「川島さんっておとなしそうな顔して、陰ではやることやってたんですね」

 右端の女性が嫌味な口調でそう言った。いつも陸を取り巻いていた新人の一人だった。

「でもぉ、川島さんってもうすぐ30でしょぉ? もうオバサンじゃないですかぁ。どうやって浅野くんをだましたんですかぁ?」

 今度は左端の女性が舌足らずな口調で問いかけてきた。沙希は黙って彼女を見つめた。

「やだぁ、こわぁい」

 嫌なのはこっちだ、と思いながら沙希は中央の女性を見た。彼女はまだひとことも発していない。だが、最初から沙希をじっと睨んでいた。

「ね、ふたりとも、もう行って」

 ようやく中央の女性が口を開いた。両端のふたりは沙希をじろじろと眺めまわすようにしながら出て行った。

 ふたりきりになっても残った女性はしばらく黙っていた。沙希もその場を動かず彼女と対峙している。

「……つり合わないと思いませんか?」

 最後に残った女性、倉田由紀は沙希を睨んだまま小さな声で言った。

「え?」

 意味がわからず沙希は聞き返した。

「川島さんにはもっとお似合いの人がいるじゃないですか」

 由紀の声は先程よりはっきりと沙希の耳に届いた。

「浅野くんと川島さんとでは住んでいる世界が違うんです」

 そう断定して由紀は沙希のほうへ1歩踏み出した。自分に対する強烈な悪意に沙希は身を硬くしたが、1歩も引く気はなかった。

 それを察したのか由紀は、沙希にわざと肩をぶつけて出口へ向かった。少しよろめいたが、沙希はその場に踏みとどまった。

「そうだとしても……」

 由紀が一瞬立ち止まる。沙希には自分の声がやけに大きく聞こえた。

「私の気持ちは変わらないわ」

 沙希は持っていたポーチを強く握り締めた。由紀が振り返る気配がした。

「図々しいんですね。最初から玉の輿狙いだったりして」

「違うわよ!」

 由紀はドアを開けた。

「どうせ、うまくいくわけないわ」

 そう言い残して出て行った。背後でドアの閉まる音がした。まるで血が逆流するような激情が沙希の中を駆け巡る。

 ふわふわと宙を飛ぶように高揚していた沙希の心は、突然羽根をもぎ取られ地面に叩きつけられたようにぐしゃぐしゃだった。

 沙希はしばらくその場所から動くことができなかった。


     


「おめでとう」

 矢野が通りすがりに陸の肩を叩いたのをきっかけに、陸はたくさんの人に囲まれた。苦笑しながら受け答えをする。照れくさいがそれほど嫌な気分ではなかった。

 中でも藤沢は「予感が当たったよ」と小声で耳打ちしていった。陸はなにも言い返すことができなかった。

 少し離れたところでは婚約祝いの飲み会をしようという話で盛り上がっていた。

(これでよかったのか?)

 周囲の祝いムードをよそに突如、陸の中に疑問がわきあがる。今、このタイミングで本当によかったのか、と。しかも沙希には相談もせず、勝手に進めてしまったことが少し後ろめたい。

 だが陸としては、できるだけ早く公にしたかったのだ。そうすることで沙希を守りたい――というのは建前で、沙希に想いを寄せる男性陣を出し抜きたいというのが陸の本音である。

(それで沙希は……?)

 どうしてるかと沙希の席を確かめるが、そこに彼女の姿はなかった。

(怒ったかもな)

 怒った沙希を思い浮かべ、陸は内心クスリと笑った。

 沙希は怒ってもおもしろい。たいてい口を利かなくなるのだが、一緒に生活しているとどうしても陸に話しかけなくてはならない必要性が出てきて、そこで沙希は仕方なく折れる。陸はその瞬間を見るのが楽しみなのだ。

 そのとき周囲が突然静かになった。

 陸は嫌な予感がして振り返った。甘い香りが鼻をつく。



「うそつき!」



 パン! と派手な音が響いた。

 陸は目の前に立つ人物を睨んだ。

 倉田由紀が陸の頬を張ったままの姿勢で佇んでいた。

「なにか言ったらどうなのよ」

 由紀は怒りに肩を震わせていた。陸は表情を消し、由紀に背を向ける。なにも言う気はなかった。

(くだらねぇ……)

 陸はなにごともなかったようにパソコンに向かう。由紀が去る気配がした。

 辺りは水を打ったように静まり返った。

 

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