「なにか問題でも?」
「大有りだね。気持ち悪い。……母さんのときも同じことしたんだろ? 俺はアンタを軽蔑するね」
正直なところ沙希にはピンと来なかった。調べられたと知っても、具体的にどのような調査をされたのかわからない。陸のいう気持ち悪さが沙希の身には迫ってこないのだ。ただ社長と最初の食事の際、彼がズバリと沙希のことを言い当てたのは偶然ではなく、あらかじめ調べてあったからだとわかり、沙希は少し落胆した。
社長は表情を変えることなく、黙って陸を見つめていた。息子が軽蔑すると言っているのに笑みさえ浮かべている。むしろその様子に沙希は得体の知れない恐怖を覚えた。
「どうせ、素行の悪い息子が大学に受かったんで、驚いて俺の周りを調べたんだろうけど」
ほう、と社長は感心したような声を漏らした。
「お前の推理はなかなか鋭いな。確かに音楽と女の子にしか興味がなかったお前が大学に合格したのは嬉しい驚きだったな。……私の母校でもあるからね」
社長の言葉で、陸の険しかった顔が苦虫を噛み潰したような表情に変化した。
「けど、沙希は関係ねぇだろ」
「君に出会ったのは、君が大学4年の春だ」
いきなり社長が沙希に向かって語り始めたので、沙希は慌てて居住まいを正した。
「成績も筆記試験の結果も申し分なかったが、面接で実際に会ってみて……とてもいい目をしていたのが印象的だった。そして君を見て、大昔のことを懐かしく思い出したよ」
そこで社長は陸を見た。陸は唇を噛んで黙っている。
「その人に出会ったのは、その人がちょうど君と同じ年頃でね。聡明で優しい雰囲気をまとった女性だった。君のもつ雰囲気とよく似ている。……私は彼女をすぐに好きになった」
沙希は自分が社長の知っている人に似ていても、それは自分にはなんの関係もないことと思い込もうとしていたが、つまり……
「それが陸の母親だ」
突然、沙希はなにかを理解した。今まで自分の中でばらばらに散らばっていたピースが、あるべき場所へはまり、ひとつの形になったのだ。
(この人たちは私に別の人を重ねていたんだ……)
陸が自分の中に母親を見ていることには気がついていた。母親の離婚、再婚は思春期の陸に大きな傷痕を残したようで、断片的に陸から語られる母親の話はいつも胸が塞がるような思いにさせられるものばかりだった。陸は離婚という不幸なできごとから大好きな母親を救いたかったのだろう。だが、実際に母親を救ったのは年下の再婚相手だった。陸にとってその事実は母親を奪われたことと変わりなかったのだ。
だから沙希は、陸が不幸な境遇の自分を母親に見立てて、自分を救うことで失ったものを取り返そうとしているのだと感じていた。――今もそうなのかはわからないが。
(でもまさか社長まで……)
社長が自分を気にかける理由が陸と結びつくなどとは思いも寄らなかった。
「容姿が特別似ているというわけではないのだが、なぜかとても君のことが心に引っかかっていた。だから社内で見かけた君に声をかけずにいられなかったんだ。……1年後に見た君はまるで別人だったからね。それで君には申し訳ないが、陸のいうとおり君のことを調べさせたというわけだ」
沙希は横に座っている陸を見た。考えごとをしている表情の陸は、沙希の視線に気がつくと複雑な顔をした。
「驚いたよ。自分の息子が君に出会っているなんて想像もしないだろう? しかも君の選んだ道は……いわばバッドエンドだ。不思議だったよ。他にも選択肢はあるのに、と。それに自分の息子が選ばれなかったのも残念だった。まぁ、いくら好きでも高校生じゃどうしようもないがね。結局君が突き放してくれたおかげで、私の息子もこうして一人前の顔をできるだけになったわけだ」
社長は陸を見ながら意地の悪い笑みを浮かべた。それは陸もたまに見せる表情だ。
「しかし幼い時分からずっと頑なに拒否していた道を、陸が自ら選択する日が来るとは、ね。……言っておくが、私は人事には一切関与していない。君たちが再会したのは本当に偶然なんだよ。そんな素敵な偶然が向こうからやってきてくれたというのに、ずいぶん遠回りをしたね」
「それで手の込んだお節介をしてくれたわけだ」
ようやく陸が口を開いた。社長は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「お節介をしてみたくなったんだよ。この10年、お前に何もしてやれなかった罪滅ぼしに……そして息子を心から愛してくれた女性のために、ね」
沙希は胸がジンと熱くなるのを感じた。しかしそれに答えた陸の声は、低く冷たいトーンだった。
「俺はアンタの話術に騙されねぇからな。理由はどうあれ、アンタのそういうやり方が嫌いなんだよ」
「お前に理解してもらおうとは思わんよ」
社長は笑みを浮かべたまま平然としている。その不敵な笑みを見ていると沙希は背中がぞくぞくと薄ら寒くなってきた。陸の言う「話術」に沙希はいつの間にか騙されていたのだろうか。
「結局……アンタはなにも変わってないんだな」
陸のしぼり出すような暗い声が部屋に低く響いた。沙希はふたりから目をそむけた。他人が見てはいけない場面のような気がしたのだ。
「そうでなければお前も……お前の母親も憎む対象がなくなってしまうだろう?」
社長は変わらぬトーンで答えた。その妙に明るい声は自嘲を含んでいるようにも感じられる。
「……アンタはバカか」
「バカだからこうなったわけだ。当然の帰結だろう?」
陸は大げさにため息をつく。それを見て社長は満足そうに笑い、壁に掛かっている時計にちらりと目をやった。
「君たちと話しているのは楽しい。いつまでもこうしていたいが、そろそろ時間なので失礼するよ」
どうぞ、と陸は頭の後ろに手を組んでソファに埋もれた。
たぶん陸と社長の関係はいつもこうなんだろうと沙希は感じた。社長はたとえ息子がなんと言おうとも自分のスタイルを変える気はないのだ。おそらく社長も、沙希や陸と同じように不器用で、そしてきっと寂しい人なのだろう。
「そういえば、倉田からお嬢さんが大層ご立腹だと連絡があったぞ」
デスクで書類を揃えながら社長が思い出したように言った。陸は面倒くさそうな表情で目を閉じた。
「お土産でも持っていったほうがいいんじゃないのか?」
「……んなもん買って来るわけないだろ」
フッと社長は笑い、沙希に肩をすくめて見せた。そして軽い身のこなしでソファの後ろを通り過ぎる。そのとき、陸が「あ……」と短く声を上げた。
「マンションの合鍵、くれ」
社長は立ち止まってズボンのポケットから鍵を取り出すと、そのひとつを抜き取り陸のほうへと放った。鍵は放物線を描き、陸のてのひらに納まった。それを見届けると社長はエレベーターへ乗り込んだ。
陸はポケットを探ってなにかを取り出した。沙希には見えない位置で手を動かしているので、覗き込もうとしたが、陸はわざと隠すように身体をよじった。
「ほい」
沙希の目の前に小さなネコのキーホルダーがかざされた。合鍵がついている。
「……私に?」
「いらない?」
「でも……ホントにいいの? 考え直すなら今のうち……だよ」
「じゃあ、やめるか」
陸は鍵をてのひらに握り締めてポケットにしまう仕草をした。
(あ……)
沙希の胸がズキンと痛む。
「……ったく素直じゃねぇな。そんな顔すんなって」
意地悪い笑みを浮かべた陸が、沙希の手を掴んだ。そのてのひらに鍵が落とされる。沙希はキーホルダーのネコと鍵を見つめた。
「今日からお前の家はココ。後のことも先のことも考えない。……いいな?」
「考えちゃだめなの?」
「だって沙希の場合、悩むと絶対ネガティブになるじゃん。……俺もどっちかっていうとそうだけど」
沙希は少し口を尖らせたが反論できなかった。確かに陸のいうとおりだ。
「もうさんざん考えただろ、お互い。だから、もういいって。お前は俺のところに帰ってくる。……わかった?」
ぎこちなく頷いた。恥ずかしいようなくすぐったいような気分になる。
(今日から私の家は……浅野くんのところ)
まだ、これは現実なのかと疑う自分がいる。こんな日が来るとは夢にも思っていなかったのだ。
「あー、それにしても悔しい」
陸は立ち上がって伸びをした。窓際へ移動する。
「俺、もうお前と話もできないんじゃないかと思ってた。実際、お前とここで再会してから俺のしてることって……お前を傷つけることばかりだったし」
背を向けたまま陸は静かにそう言った。
「だから俺じゃないほうがいいって、そのほうが沙希のためだって思い込もうとしてた。せっかく忘れかけてたことを思い出させちまったのは、俺のせいだろうしね」
「そんなことないよ」
肩越しにこちらを振り返った陸は寂しそうな顔で笑った。
「それにもうお前のことはそんなに好きじゃないって思ってた」
ドクンと心臓が音を立てた。前にも聞いたセリフだ。
「でも……やっぱり気になって仕方なかった。自分でもよくわかんねぇ。お前に会いたいって思うのをどうやって正当化しようかって、そんなことばかり考えてたよ」
「それで『友達』……?」
ずっと聞きたかったことをようやく口にした。陸は窓を背にして沙希に向かい合った。
「まぁね。友達なら二度と別れる必要もないしね」
(それはつまり……)
「もう、沙希と他人になりたくなかったんだ。でも好きとか嫌いとか、恋愛感情が挟まるとまたそういうことで悩むだろうし。そもそも俺はこれが恋愛感情だと思ってなかったからね」
沙希は視線を落とした。確かに陸の態度は昔とは違った。いつも胸が痛んだのはそれが悲しかったからだ。
「認めたくなかったんだ。だから矢野さんに指摘されて焦った。しかもお前の前にはアイツがうろついてるし、気が気じゃなかった」
(矢野さんが……)
意外な告白だった。陸が怒ったりイライラしているように見えたのはそのせいだったのかと思う。
「だって、もしお前とアイツが……ってことになったら、俺はこの世に生まれてきたことを後悔するからね」
「そんな!」
沙希は思わず声を上げた。
「そんなことあるわけないじゃない」
だが陸は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「でも、あのおっさんにちょっと心動いただろ?」
「そんなことないって! しつこいな、もう……」
自分でもびっくりするくらい大きな声になった。それが逆に信憑性に欠ける気がしないでもない。沙希は取り繕うために慌てた。
「社長が私のことを気にかけたのだって、結局は浅野くんのためじゃない? 食事に誘われたのも最近だし、それだって私自身というよりは……」
「お前もホント男をわかってないよな」
陸の呆れたような声が沙希の言葉をさえぎった。
「アイツがそんな善人に見える? お前に隙があれば、あわよくば……って考えてたに決まってるだろ。だいたいお前のこと、調べさせたのだって個人的な興味からじゃん」
沙希は陸を凝視する。それ以外どうしていいのかわからなかった。のどの奥に何かがつっかえたような感覚だった。陸も沙希を見つめていたが、先に目をそらした。
「最近、母さんがさ……、俺がアイツに似てきたって言うんだ。アイツの若い頃にかなり似てるらしい」
どこか宙を睨んでそう言った。その表情を見ていると沙希は胸がしめつけられるような気持ちになる。
「だけど……」
陸はそこで言いよどんだ。
「俺、アイツのこと、嫌いになれないんだよね。……あんなヤツなのに」
「そりゃそうでしょ。そうじゃなかったら私……浅野くんのこと好きにならなかったと思うよ」
陸が笑顔を作って見せた。それを色に例えるなら透明だろうか。今にも消えてしまいそうなはかない笑顔が沙希の胸に刺さる。
「お前はホント、優しい女だね」
そんなことはない、と思う。陸のそんな寂しそうな笑顔を見たら、誰だってきっとこんな気持ちになるはずだ。
「……だからさ、怖かったんだよ」
「え?」
「お前がアイツに傾いていくのが……。なにしろ、金もあるし社会的な地位もある。頼りがいだけはありそうなヤツだからね。しかも俺と似てる……」
「私はお金とか地位とか、そんなのどうでもいいよ」
陸は横を向いて「知ってるよ」と言った。
「でも結局、なにもなかったから頼らなかったんだろ? ……あのとき、俺に」
そうだ、とも、そうじゃない、とも言えなかった。だが、たぶん陸の言うとおりなんだと思う。
「俺は思ったね。やっぱりなにも持たないガキが、いくら愛してると言ったところで、相手を幸せになんかしてやれないんだ」
「そんなことないよ。私、幸せだったよ」
「そういう幸せじゃないって。俺はね、本当にお前と一緒に生きていくことを考えてた。……笑うかもしれないけど、結婚して、子どもを作って……。でも、あの頃の俺じゃそれはムリ。もしお前に彼氏がいなくても、きっとお前は俺を選ばなかったはず。勉強もしないで、ただギター弾いて、恋愛にのめりこんで……全然説得力ないよな」
意外な言葉だった。陸は珍しいシチュエーションの恋にたまたま夢中になっただけと思っていたのだ。ずっと一緒にいたい、なんて言葉はただその恋の甘いエッセンスでしかないのだろうと……。
「お前にフられたおかげで目が覚めたっていうのは本当。少なくともお前に認められる男になろうって思った。そしてあのおっさんも超えてやるってね。……それが」
陸はそこで大きなため息をついた。そして腕を組んで自嘲気味に笑う。
「このザマ……。情けねぇわ、ホント」
沙希はここが社長室でなければ今すぐ陸を抱きしめたかった。
「だから『ホントにいいの?』って聞くのは俺のほう。……沙希は俺でいいの?」
「うん」
すぐに頷いた。はにかんだ顔を隠すように陸はまた背を向けた。そして言った。
「俺、頑張るわ。……沙希がそうやってずっと笑っていられるように、ね」
「あれ、サンキュー。助かったわ」
その夜は陸の部屋で食事をした。ふたたびこの部屋を訪れる機会があるとは思っていなかった沙希は、不思議な気分で真向かいに座る陸を見る。鍵をもらったとはいえ、自分の持ち物はなにもない。座っていても落ち着かずそわそわした。
そんな沙希の様子に気がついているのか、陸はたまにじっと観察するような視線を向けてくる。それがさらに居心地の悪さを倍増させた。
「で、どうして倉田さんは怒ってたの?」
社長室を出た後、沙希は余分に買ってあったお土産を陸に渡した。父親が社長に連絡を入れるくらいだから、彼女は本当にいいところのお嬢さんなんだろうな、と思う。
「話せば長くなるから端的に言うと、デート? をドタキャンした」
陸は新しいビールの缶を開けた。
「なるほど。それは怒るよね、普通」
言いながら沙希は心の中に鈍い痛みが走るのを感じた。デートをする約束をしていたという事実が少なからずショックだった。
「なんでそうなったか、気にならないの?」
陸は沙希を試すように見た。沙希はポーカーフェイスを崩さないよう、自分自身の心を宥めすかした。
「別に、興味ない」
「へぇ」
ニヤニヤと笑う陸が少し憎らしかったが、沙希も同じように笑顔を作る。
「ホントは気になるでしょ? ……ていうか、その顔、怖い」
「……ひどっ!」
まぁまぁ、と陸は笑いながら沙希をなだめるように手を上げた。怒っていたはずの沙希もつい吹き出してしまう。
「脅されたんだ。秘密をバラすぞって。アイツも卑怯な手を使うよな。……そんなにまでして俺とデートしたいっていうのがよくわかんねぇし」
沙希は深く頷いた。それを見た陸は眉に皺を寄せた。
「それ、どういう意味? 沙希は俺とデートしてもつまんないって言いたいわけ?」
「……あんまりデートしたことないからわかんない」
チッと陸は舌打ちした。家庭教師と生徒の関係だったふたりは普通のデートをほとんどしたことがないのだ。
「とにかく、その日は飛行機に乗る用ができたんでドタキャンしちまったというわけ。とりあえずあのお土産で機嫌は直ったらしい」
「それはよかったね」
沙希は苦笑した。だが、まさかそれで彼女の気がおさまるとは思えなかった。脅してまでデートの約束を取りつけるくらいだ。ここで引き下がるはずはない。
「あれって誰かにあげるお土産だった?」
「いや、自分用」
「マジで? ……俺も食いたかった」
本当にくやしそうな陸がおかしくて、こういうところは昔と変わらないなと思った。変わらない部分と変わっていく部分とを、毎日見つけて数えていくのも案外楽しいかもしれないと沙希は思う。
「そうだ。こっち来て」
陸はビールを片手に持ったまま立ち上がって手招きした。沙希は陸の後についていく。まだ入ったことのない部屋のドアが開けられた。
「あ! ……懐かしい」
沙希はまず目に飛び込んできたものを見て思わずそう口にした。陸は苦笑しながらそれを壁際に移動させた。
いつも陸が手にしていた白いギターだった。
「全然弾いてやってないけど、捨てる気にもなれなくてさ」
うんうん、と沙希は頷く。他にアンプや楽譜なども無造作に置かれていた。
「ここ片づけるから、沙希の部屋にして」
沙希はゆっくり部屋を見回した。ここが自分の部屋になって、この先どんな生活が待っているのだろう。わくわくする気持ちが抑えられない。たぶん頬が相当ゆるんでいるだろうと思う。
「あのね、房代ちゃんにはここに住むことを話してもいい?」
時期が来るまでは誰にも話さないようにと口止めされていたが、陸とのことを心配してくれていた房代にだけは報告したいと思った。
「ああ、お前とおっさんのことをご丁寧に忠告してくれた人ね」
陸はビールをあおった。
「いいんじゃね? お前の数少ない友達だし」
からかうような口調で言われたので沙希はムッとした。横目で睨むと、陸は笑いをこらえるためにまたビールを口にする。
缶の底を天井に向けた瞬間、沙希は陸の脇腹を突っついた。ブハッと陸はビールを噴き出す。
「汚いなぁ」
「おまっ! なにすんだよ」
「弱点」
昔からこの弱点も変わってないな、と沙希は満足げに微笑んだ。陸はブツブツ文句を言いながら床を拭いた。沙希も手伝う。
こうして少しずつふたりの時間が積み重なっていけば、きっと昔のことは思い出すのも難しいくらい遠いものになっていくだろうと思う。いつかあの悪夢も沙希を追ってこなくなるかもしれない。
今すぐには無理でも、いつかその日がきっと来る。沙希はそう思った。
それからの生活は驚くほど順調だった。
一緒に住むようになって初めて知ったが、陸は営業部の仕事だけでなく子会社の仕事も兼務していた。それは社長直々に休みも関係なく入ってくることが多く、仕事漬けの毎日といっても過言ではなかった。
「子会社って言っても、実際はこっちが本体なんだよな。……ったく、あのおっさん、俺をタダでこき使いやがって」
そうぼやきながら説明してくれたが、仕事量からすると確かに陸の手取りは少なかった。基本給なら沙希のほうが高い。だが住居代や光熱費の負担がないので贅沢をしなければ、生活には余裕があった。
会社では一緒に住んでいることがバレないように気を遣ったが、誰も気がつく様子もなく、逆にそれが少し寂しく感じるほどだった。
一緒に暮らし始めた頃は秋だった季節が、いつの間にか冬になった。
12月に入ると社内は慌しくなり、定時退社日の水曜や週末は忘年会で埋まった。陸も疲労のためかいつも眠そうにしていた。ふたりでゆっくり過ごす時間もなく、沙希は遅い陸の帰りをひとりで待つことが多かった。
この様子だとクリスマスも一緒に過ごすのは難しいかもしれないと覚悟していた。街はもちろん、社内までウキウキした気分が充満するクリスマスイブも、沙希にとってはいつもとなんら変わらない一日として終わりかけていた。
それでもケーキくらいは買って帰ろうかと思い、陸にメールをした。するとすぐに返信が来た。
> ケーキはいらないから早く帰ってこい。
(帰ってこい……ってことはもう帰ってるの?)
沙希は知らず早足になる。駆け出したい気持ちを抑えて急いで帰った。
マンションに着くと陸はすでに帰宅していた。クリスマスイブということもあり、外出先から直帰してもよいということになったらしい。
しかもテーブルの上にはケーキの箱が置いてあった。
「買ってきてくれたの?」
「実は内緒で予約してあった」
「ええ!?」
勝ち誇ったような顔で陸は箱からケーキを取り出した。箱を見て沙希は思わず「あれ?」と声を上げる。
「私、最近、ここのお菓子好きなんだけど」
陸はニヤッと笑って上目づかいで沙希を見る。
「もちろん、知ってた」
「ええ!?」
「まぁ、そこに座れ」
陸は自分の向かい側を指差した。沙希はきょとんとしたまま、とりあえず腰をおろす。
「そういえば沙希は変わった手相をしてたよな。ちょっと見せて」
突然なにを言い出すのか、と沙希は首を傾げた。このケーキを目の前にして手相を見るとはどういうことだろうと思いつつ、両手を自分の目の前に広げてみる。どちらも一般的な手相とは似ても似つかないので困惑した。
「どっちの手を見るの? 右? 左?」
「どっちがいい?」
沙希はしばらく両手を交互に眺めていたが、以前どこかで手を組んで親指が上になったほうをまず見ると聞いたことがあったので手を組んでみた。左手の親指が上になった。
「こっち……かなぁ?」
「どれどれ」
陸はニヤニヤしながら沙希の左手を取った。その表情があまりにも怪しいので、沙希は手を引っ込めようとした。
だが、陸は両手で沙希の左手首をつかまえる。そして自分のほうへ引き寄せた。