「はぁ!? 言いそこねた?」
房代の声はがやがやとした食堂の中でも響きわたるほど大きく、周囲の社員が一斉にこちらを見た。
「あ……えっと、なんでもないです」
沙希は辺りを見回しながら誰にともなく言い繕う。
「ごめん。ちょっと声大きすぎた……」
房代は小さくなってあやまった。
「でも、どうして?」
「それが……」
沙希は昨日のことを思い出しながら言った。
「先に花火に誘われちゃって……」
「……それ、OKしちゃったの?」
「そういうつもりじゃなかったんだけど……そうなっちゃったみたいで……」
房代が眉をひそめるのを見て、自分のふがいなさに思わずため息をつく。
「あの、矢野さん、私……」
食事が終わって一息つくと、沙希は返事を切り出そうと居住まいを正した。しかし不穏な気配を察したのか、矢野が「待って」と沙希の言葉をさえぎった。
「お盆は帰省するの?」
思いがけない質問に首を傾げながら「いいえ」と正直に答えてしまった。これが失敗だった。
「よかった! それじゃあ一緒に花火見に行かない?」
「……はい?」
意外すぎて少し間抜けな返事をしてしまった。
「え、いいの? 嬉しいなぁ」
(……ちょっと待って。今、私OKしたことになってる?)
向かい側の矢野は喜んで顔を紅潮させている。それがまるで少年みたいに純粋な表情だったので、沙希は今さら「行かない」とは言えなくなってしまった。焦るばかりで、断るための巧い口実が思い浮かばない。
「じゃあ、また詳しくは連絡するね」
「……はぁ」
「……というわけで」
「返事するどころか、次のデートの約束させられちゃったのね」
「うん……」
「Yさんも必死だなぁ……」
房代は箸を持ったまま頬杖をついて感慨深げに言った。
「詳しくは今度の土曜日に聞くよ」
「うん、よろしくね」
それでも房代に話したことで、もやもやとした気持ちが少しすっきりした気がする。
(やっぱり誰かに話すことは必要、かな)
あらためて同性の友達のありがたみに気づかされる。土曜日にはもっと自分のことを房代に話せたらといいな、と思った。
毎週水曜日は定時退社日だ。
ここのところ英文翻訳の仕事がはかどり、残りもわずかになってきた。ただ、3課の古賀だけは予告なしに急ぎの案件を持ってくるので、それが沙希にとっては苦痛だった。
古賀が抱えている取引先は海外が多い。当然本人も英語が堪能だ。だが書類をさばくのは面倒なのか、そのほとんどを他人に処理させていた。
沙希に対しては、本来の業務とはかけ離れた仕事を押しつけているという後ろめたさがあるせいか、機嫌取りで必ずお菓子を持ってくる。沙希は頼まれると断れない性格なので、毎回仕方なく引き受けていた。
今日も古賀から急に頼まれた文書がひとつあった。だが、急げば残業しなくても済みそうなので、沙希は時計を気にしながら辞書を引き、英文を打ち込んでいく。中にはしなくてもいい残業をしている社員もいるらしいが、それを真似したいとは思わない。
終業5分前に目の前の電話が鳴った。
『社長室、長谷川です』
意外な人からだった。長谷川は沙希と同期入社で、今年の春から社長室付になっていた。
「長谷川くん?」
『お久しぶり。今日は定時であがる予定ですか?』
突然の電話に戸惑いながらも「はい」と答えると、長谷川はきっぱりした口調で言った。
『急で申し訳ないのですが、帰宅準備ができ次第、社長室まで来ていただけませんか』
「え……?」
『ではお待ちしております』
「ちょ、ちょっと待って!」
沙希の意向も聞かずに、電話は切れた。
(なんなの?)
時計を見るともう終業3分前だった。
文書はほぼ完成していたが、印刷し、古賀へ提出する手間があるので急がなくてはならない。沙希はざっと見直すと印刷の準備に入る。
出力したものをもう一度見直し、古賀からの依頼文書に添付して、彼のデスクへ急いだ。
終業時間を知らせるベルに追い立てられて自分のデスクに戻り、帰り支度をする。隣の太田は「お疲れさま」と先に席を立った。
「先輩、ずいぶん慌ててますけどデートですか?」
同じ課の早坂薫がニヤニヤしながら通りすがりに声をかけてきた。
「そうだったらいいんだけど、ちょっと仕事で……」
「あらあら、お疲れ様です。じゃあお先に失礼しますね」
と、薫も更衣室へ向かった。
(『帰宅準備をして』ってどういうことなんだろう?)
わけがわからないまま机上を片付けると、足早に営業部のフロアを抜け出した。
社長室は別棟の最上階にある。
入社直後の社内見学で、研修担当から「ここが社長室です」と紹介された日のことをぼんやりと思い出しながら、沙希は「社長室」と掲げられたドアの前に佇んでいた。時計を見ると終業時間から20分が過ぎている。
深呼吸をした後、思い切ってドアをノックした。
中から「どうぞ」という声が聞こえ、スッと内側にドアが開く。
「川島さん、お待ちしていました」
長谷川が沙希に向かって頭を下げた。
「あの……どういうこと?」
「こちらへどうぞ」
電話と同様、有無を言わせぬ口調だった。長谷川は同期の中でも切れ者として有名なのだが、沙希の知る彼とは少し印象が違う。以前の長谷川には、沙希の質問を意図的に無視するような強引さはなかったはずだ。
沙希はひどく困惑していたが、とりあえず長谷川に従い社長室へ足を踏み入れた。
「すでに車でお待ちですので、こちらへどうぞ」
長谷川は数歩進むと立ち止まり、右側にあるぶ厚い両開きのドアを指し示した。エレベーターだ。沙希は目を丸くして銀色の扉を見つめた。
「あの……誰が待っているんですか?」
沙希はエレベーターの中で長谷川に訊いた。
「もちろん社長です」
「……え?」
社長室に呼ばれた時点である程度予想していたことだ。それでも沙希は絶句してしまう。
エレベーターを降りた先は駐車場だった。エレベーター前は車が横付けできるようになっていて、そこに黒塗りの車が止まっていた。
長谷川は後部のドアを開けて沙希を見る。
「どうぞ」
心臓がドクンと鳴る。ためらいがちに近づき、車内を覗くと社長がいた。沙希の姿を認めると社長は柔らかく微笑んだ。
「どうぞ」
長谷川はもう一度同じセリフを繰り返した。
仕方なく沙希は車に乗った。すぐにドアは閉められ、ゆっくりと車が走り出す。
「突然で悪かったね」
社長は読んでいた雑誌を閉じた。沙希には馴染みのない経済関係の雑誌だ。
「いいえ。あの……どこへ?」
沙希は社長との距離が近すぎることに緊張していた。
その様子を見て社長は眼鏡の奥で目を細めた。
「かなり強引で申し訳ないが、これから食事に付き合ってもらえないだろうか?」
「……私……ですか?」
おかしな言葉遣いだと後悔するが、口にしてしまったセリフを引っ込めることはできない。沙希はうつむいて顔を歪める。
「他に誰かいるかな?」
返事をする社長の声には笑いが含まれていた。
「あらかじめ申し込むべきだったが、私の予定はたいていその通りにならなくてね」
「……ええ」
社長の仕事とはイレギュラーな要素も多いのかもしれない、と想像しながら相槌を打つ。
「それに邪魔が入るといけないからね」
(……邪魔?)
沙希の怪訝そうな顔を見て、社長はまた柔らかく微笑んだ。
「気にしなくていい。それと、リラックスして」
(それは……無理です)
このような高級車に乗るのは生まれて初めてだし、しかも隣には社長が座っている。リラックスできるわけがなかった。
だが不思議と嫌な感じはしなかった。なぜかはわからない。
社長が沙希の職場へやって来て雑談をするようになったのは、ちょうど沙希が新人と呼ばれなくなったころだ。最初は職場の巡回の際に少し言葉を掛けていく程度だったが、そのうち雑談の時間が長くなりコーヒーを出すようになった。
沙希はもっぱら頷くだけの聞き役だが、話し方や態度が尊大すぎないところにまず好感を持った。そして社長の優れた洞察力には、ひそかに舌を巻いた。また彼の美学は沙希にも共感できる部分が多く、話を聞くうちにいつしか社長個人の人間性に対して尊敬の念を抱くようになっていた。
だから緊張感のすぐ隣に、これからどこへ行くのかと期待する気持ちがある。不安もないわけではないが、それを凌駕する社長への信頼感が沙希をここに座らせていた。
車は30分ほどで目的地に到着した。
比較的新しい高層ビルがひしめく地域で、沙希には馴染みのない場所だ。車がビルのエントランスの前に停まると、ドアスタッフが待ち構えていた。
案内されたのは25階のレストランだった。
23階まではオフィス、24階より上がホテルという構成のビルで、このレストランはホテル内の日本料理店らしい。
案内された席は夜景が見える個室で、古木が随所に使われているが全体の雰囲気は明るくモダンだった。
沙希が美しい夜景に釘付けになっていると、店員がドリンクの注文を取りに来た。
「ワインを頼みたいところだが、今日はやめておこうか」
そうつぶやいた社長は、ミネラルウォーターを頼んだ。沙希は悩んだ末ウーロン茶を選ぶ。
料理は注文済みだったらしい。ドリンクと一緒に前菜が運ばれてきた。
普通のサラリーマン家庭に育った沙希は、会席料理を前にして別の意味で緊張していた。このように1品ずつ運ばれてくる料理を食べるという経験がほとんどない。粗相がないように気を遣うばかりで、味わうことを忘れてしまう。
「東京の生活はどうだい?」
おもむろに社長が訊ねてくる。
「かなり慣れました。暑さにはなかなか慣れませんが……」
沙希が苦笑すると、社長は目を細めて満足そうに頷いた。
「仕事はどう? 君の仕事はあまり楽しい仕事ではないと思うが」
「そんなことはないです」
実際楽しい仕事ではないが、嫌いなわけでもない。好きな仕事だけを選べるような恵まれた人間は、いたとしても一握りだろう、と沙希は思うのだ。今の仕事に不満はない。
「君は欲がないね」
社長は愉快そうに言った。
前にも誰かが同じことを口にした。あれは中学の担任だっただろうか。記憶をたぐり寄せながらウーロン茶を飲む。
沙希とて欲がないわけではない。ただ、他の人と欲するものが違うだけなのだ。
そんな物思いを見透かすように社長は続けた。
「例えば、ドリンクを選ぶときも君は一番安いものを選んだね。どうしてだろう?」
「ウーロン茶が飲みたかったんです」
沙希はきっぱりと言った。しかし内心ではいつもと違うシチュエーションに戸惑っていた。これまでこんなふうに沙希の趣向を問われたことはない。
社長は「なるほど」と答え、また眼鏡の奥で目を細めた。
その表情がふと心に引っかかった。
既視感(デジャヴュ)だろうか。どこかで見たことがあるような気がするが、どこで見たのか、そもそも本当に見たことがあるのかどうかもわからない。
思い出せないが、懐かしいような不思議な気持ちになった。
親子ほどの年齢差だから、沙希は無意識に社長を自分の父親と重ねて見ているのかもしれなかった。
「あの……どうして私、なんですか?」
ずっと聞きたかったことを思い切って口にした。社員が聞き耳を立てている社内では絶対に聞けないことだ。もし質問するなら今しかない。このチャンスを逃したらもう永遠にこんな機会は巡ってこない。そんな気持ちに駆り立てられたのだ。
「そうだね……」
社長はまっすぐに沙希を見つめた。
「君に初めて会ったのは入社試験の最終面接だったね」
沙希は大学4年生の春を思い出した。忘れるはずもなかった。
最終面接試験は役員面接だったのでとても緊張した。だが、沙希にとってはこの会社が最後のチャンスだった。他にも最終面接まで残った会社はいくつかあったのに、なかなか最後の関門を突破できなかったのだ。
「君はとても印象的だった。特に目が」
なにかを思い出すように社長は遠い目をする。
「私の知っている人に似ていたよ」
(……え?)
社長の意外な告白に少し驚いたが、それに問い返すことは許されていない気がした。沙希は黙って社長の顔を見つめる。
向かい側でフッと笑う声が聞こえた。
「それから1年経って入社後の君を見かけたが、あまりにも印象が違っていて、すぐに君だとわからなかった。髪もずいぶん短くしてしまっていたし」
(そうだ。あのとき初めてショートカットにしたんだ)
すべての係累を断ち切るような決意で髪を短くし、仕事以外のことを目に入れないようにしていた当時の自分が脳裏によみがえる。
そこで社長の言葉は一旦途切れた。
タイミングを見計らったように最後のデザートが運ばれてきた。メロンのアイスクリームだった。社長に促されて沙希はアイスを口に運ぶ。
「ずっと気になっていたんだ」
(…………?)
アイスから目を上げて社長を見ると、社長は沙希を見ているわけではなかった。
もっとずっと遠くのなにかを思い出しているようだった。
沙希の視線に気がつくと穏やかな表情に戻る。
「君はとても芯の強い女性だ。しかし同時にとても脆い一面も併せ持っている。違うかな?」
「……どうでしょうか? 自分のことはよくわかりません」
社長は頷いて続けた。
「自分のことであれば、君は他人に頼らず自力で解決しようとするだろう。だが、あるとき君に自力では解決しがたい問題が起きた」
(なにを……言おうとしているの?)
沙希は自然と身を固くした。社長の目がスッと細くなる。
「そう警戒しなくてもいい。私はただ……」
言いながら社長は夜景に視線を移し、口をつぐんだ。よく見ると目尻には年齢相応の皺が刻まれているにもかかわらず、理知的な光を宿す瞳と計算されたように美しいカーブを描くその輪郭からは、若者にはない独特の色気が漂ってくる。
「……いや、これは私のエゴなのだろうな」
まるでひとりごとのようにつぶやく。そして沙希に視線を戻すと柔らかく笑いかけてきた。
「どうだろう。また食事に付き合ってもらえないだろうか?」
「……え?」
あまりにも思いがけない誘いの言葉に沙希はひどく困惑した。このごろ困ってばかりいるな、と思う。
「無理に、とは言わないよ。アルコールは抜きで。私もひとりの食事ばかりはつまらないからね。君のような人と一緒だと美味しく食べられる」
そんな台詞をさらりと言える社長は女性の扱いに慣れているのだろう。世辞とわかっていても悪い気はしない。だが沙希は笑って返事をごまかした。
社長もそれ以上なにも言わなかった。
店を出ると迎えの車が来ていて、会社の最寄駅まで送ってもらった。
(今日はいったいなんだったんだろう……)
沙希は電車に揺られながらぼんやり考える。
(私って社長の知っている人に似てるらしいけど……昔の恋人とか?)
おそらく社長と関係の深い人なのだろうと思った。社長がずっと独身でいるのは、それとなにか関係あるのだろうか。
(でも私には関係のないこと。それよりも……)
過去の事件をそれとなく指摘されたときの動揺が、ふたたび沙希を襲った。
沙希は社長どころか社内の誰にも、自身に起きた出来事を話したことがないのだ。ただひとり、陸を除いては――。
もし沙希を見ているだけでそれを察知したのだとしたら、その洞察力には舌を巻く。大きな組織の頂点に立つほどの人ならば当然他人を見る目を磨いているだろう。
それでもなにかが心に引っかかる。
(だってなにも知らない人があんな確信めいた言い方するかな? そりゃ、漠然とした指摘ではあったけど……)
ふと、あれは社長の知っている人のことを言ったのかもしれない、と思った。
(やっぱり社長はその人のことを好きだったんだろうな)
だからこそ今夜、沙希が呼び出されたのだ。
(どうしよう。また誘われたら……)
さらに考えなければならないことが増えて、沙希は頭を抱えたくなった。気持ちの整理が追いつかない。ごちゃごちゃした感情があちこちに散らばっていて、それを拾い集めるのは面倒だった。
電車を降りると熱気が重くのしかかってきた。
(早くこの夏が過ぎ去ってくれればいいのに)
沙希はただそう願った。