ひとしきり泣くと高ぶっていた感情も落ち着き、沙希はようやく顔を上げることができた。そして陸のシャツを濡らしてしまったことに気がつく。
「あ、ごめん」
「ん?」
「鼻水ついたかも」
「おまっ……」
「お前」と言い損ねた陸は慌ててシャツを確認する。
沙希は照れ隠しに「えへへ」と笑った。
「……なにかあった?」
陸は沙希から視線を外して、遠くを見ながら言った。
「なにもないけど……また嫌な夢を見たの」
陸のシャツにつけた涙の染みを見ながら、沙希はマスカラをしてこなくてよかったと思っていた。
「ふーん。かわいそうにな」
なんだか心のこもっていない返事だった。いつのころからか、元カレの話題を出すと陸は上の空になってしまうので、沙希は後味が悪い。それでも陸にしか言えないことだし、やはり陸に聞いてほしかった。
「お前はさ……」
しばらくして陸はようやく口を開いてなにかを言いかけたが、その続きは待っていてもなかなか出てこない。
沙希は遠くの街灯から届くわずかな光を頼りにして、陸の顔をじっと見つめた。
「なんでもない。……ていうか、あんまり見るな」
「どうして?」
「……したくなるから」
「……は?」
沙希は反射的にとぼけた声を出した。
「俺も知らねぇよ。お前が泣くとしたくなるんだから仕方ないだろ」
そう言いながら、陸は額をくっつけてきた。暗がりだから陸は気がつかないだろうが、沙希の頬は瞬間的に熱くなる。
「……ここで?」
一応訊ねる。もちろん返事はわかっていたが――。
「誰も来ねぇよ」
唇が触れた。すぐに深い口づけに変わる。
陸の手が沙希のキャミソールの裾から背中へと侵入してきた。ぞくぞくする感覚が腰のあたりから這い上がってくる。
「……んっ」
沙希は耐えられずくぐもった声をもらした。唇が離れたので、急いで深く息を吸う。しかし休む間もなく、陸は沙希の耳に舌を這わせた。
「……んんっ……」
「耳、感じる?」
囁く吐息は、痺れにも似た感覚を右半身に呼び起こした。返事の代わりに陸のシャツを握り締める。
背中に回っていた手は器用にブラのホックを外し、すぐに柔らかな膨らみを揉みしだいた。
「……あん……っはぁ……」
暗く狭い車内のせいか、それとも誰かに見られるかもしれないと意識するせいか、沙希は自分が普段より感じやすくなっている気がした。
「夏は薄着でいいな」
そう言いながら陸はキャミソールを捲り上げていきなり胸の突起を口に含んだ。
「あぁん……」
自分でも驚くほど甘い媚を帯びた声が響く。
気がつくとスカートの中で陸の手が太腿を撫でていた。沙希は陸の首に手を回して抱きついた。じれったくて自然と身じろぎする。
太腿を這っていた指がゆっくりと下着をなぞる。布地を通して与えられる刺激がもどかしい。
「ん……はぁっ……あぁ……ん」
下着が湿ってくるのを確認すると指はするりと横から下着の中へ入った。直接触れた瞬間、沙希の中でなにかが弾け飛んだ。
「やぁ……っ!」
喘ぎ声がまるで自分のものではないようだ。いつもはどこかで抑える気持ちがあったが、なぜか今はそんなことは気にならなかった。
「ちょっと、いい?」
陸は沙希に覆い被さってシートを倒した。
「こういうとき、このシート便利だな」
ベンチシートのことを指しているのだろう。シート自体も高級車らしく座りごこちがいい。そんなことを考えていると、陸はスカートの中から下着を抜き取った。
沙希の一番感じる敏感な部分を、陸の指がなぞった。
くちゅっ、と卑猥な音がする。
陸がうっすらと笑みを浮かべて唇を重ねてきた。抱きかかえるように沙希の背に左手を回す。その手が向こう側から胸の突起を摘み、器用に弄ぶ。
「あぁっ! ……んっ……はぁん……っ」
一気に快感が這い上がってくる。陸は沙希の首筋を丁寧に舐め、襞の奥に隠された敏感な秘芯を刺激し続けた。
その指の動きが次第に早くなり、沙希はこれ以上ない高みへ昇りつめようとしていた。
「あぁん……はあぁっ、ん……、あああ……っ!」
意識が一瞬遠くなった。全身の力が抜けてぐったりする。
「じゃあ、俺の番」
陸はズボンも下着もすばやく脱ぎ捨て、沙希を上から覗き込んだ。
「足、上げられる?」
沙希は頷いたが、結局陸にされるがままだった。足を割って陸が入ってくる。
すでに硬くなっているものがゆっくりと沙希の中に入った。何度繰り返してもこの瞬間の痛みともつかぬ違和感に慣れることはない。
だがそれが最奥へ到達するころには、違和感が静かな喜びにすり替わっているから不思議だ。
沙希の表情を見ながら、陸はゆっくりと動き始めた。
「でも……ちょっとやりにくい」
陸は苦笑いした。膝が助手席側のドアに当たるのだ。
「足が長いからね」
からかうように言うと、陸は沙希の足をつかんで高く持ち上げた。
「クラクション鳴らすなよ」
沙希は思わず笑ってしまう。
「笑うと締まるなぁ」
「ちょっと! ……あっ……あぁっ!」
陸は激しく動いた。そのリズムが少しだけ車体を揺らす。沙希は陸の脚がドアにぶつからないよう自分の手を添えた。
暗がりの中でも陸の切なげな表情がはっきりと見えた。ふたりの息遣いがどんどん荒くなる。
まるでふたりとも、ケダモノのようだと思う。けれども嫌ではなかった。むしろこうして陸をじかに感じることができる時間が、沙希にとっては幸せなときでもあった。
「ダメだ……もう……イきそ」
そう言った瞬間、陸自身が離れた。腹の上に生暖かいものを感じる。
こういう避妊の仕方はよくないな、とぼんやり思う。それでも沙希はそれを咎めたことはなかった。沙希自身も別の方法を望んでいなかったのかもしれない。
衣服を整え、シートを戻した。
陸は、リアシートに放ってあった鞄からペットボトルを取り出し、喉を潤す。
「飲む?」
差し出されたペットボトルを、沙希は素直に受け取った。
「お茶好きだね」
「だから、ジュースとか炭酸飲料は太るから飲まないんだって」
「うん、何回も聞いた」
少年時代の陸は少し太っていたらしい。写真も見せてもらったが、本人が言うほど太っている印象はなかった。ただ、ジュースや炭酸飲料ばかり飲んでいたのでこのままでは成人病になると医師に言われたらしい。
「沙希はちゃんと食えよ」
思わずフッと笑ってしまう。
「……なに?」
「いや、みんな同じことを言うなぁと思って」
「不幸そうな顔してるからじゃね?」
陸は頭の後ろで腕を組んでシートに背中を預けていた。
「そんなに酷い顔してるのかな……」
両手で顔を覆った。矢野のことを考えると憂鬱な気分になるのは確かだ。
「考えすぎない方がいいんじゃね?」
「え?」
「お前は考えすぎるんだよ。それでなんとか期待に応えようとするだろ? そして自分の首を締める羽目になる」
(……当たってる)
その指摘にドキっとする。沙希は、自分自身が陸にそこまで分析されているとは思っていなかった。
「相手の気持ちを考えすぎるのは、逆に相手のためにならないときもあるぞ」
「……どういうこと?」
「さぁな……」
陸は運転席の窓の外を見た。そのせいで彼がどんな顔をしているのか沙希には見えなかった。
「まぁ……頑張れ」
そう言って、シフトレバーをドライブに入れた。ライトを点けてゆっくりと車は暗闇の中を滑り出す。
(もしかしてそれを言うために誘ってくれた……?)
沙希は陸の言葉を反芻していた。
(『相手のためにならない』……か)
その思考を中断させるように、陸が「本当は」と口を開いた。
「我慢しようと思ったんだけど」
「ん?」
「お前が『セフレ』とか言うから」
ああ、と理解して苦笑する。
「でも……ダメだな、俺」
「なにがダメなの?」
笑いながら沙希は答えた。
「お前見るとダメだわ」
「なんじゃそりゃ……」
「ま、諦めてくれ」
昔もよくそんなことを言っていたな、と沙希は懐かしく思い出した。
求められるのは嫌ではない。むしろ嬉しい。
だが昔とは違って今の沙希は、喜びと同時に恐ろしさを感じてしまう。その行為は愛に似すぎている。愛情などなくてもできることなのに、勘違いしそうな自分が怖いのだ。
「でも、車でするのも楽しいな」
陸は本当に楽しそうに言う。沙希は小さくため息をついた。
「狭くて大変じゃない?」
「それがいいんじゃね? お前もめちゃくちゃ興奮……」
全部を言わせないよう沙希は陸の脇腹を小突いた。
「あぶなっ! 運転中だぞ!」
「変なこと言わない!」
「図星だろ」
陸はニヤニヤと笑った。
沙希はふと思う。もし矢野と付き合ってもこんな会話はできないだろうな、と。
遠い未来に、矢野とそういう関係になる自分を想像することが難しい。
陸以外の誰かとこんな関係になれるのだろうか? こんなふうに自分を理解してくれる人とまた出会えるのだろうか?
「お前んち、どの辺?」
信号で停車した隙に陸が訊いてきた。住所を告げると、陸は慣れた手つきで入力し、目的地に設定する。
「ナビって便利だけど……これ、履歴残るでしょ?」
沙希は少し心配になって聞いた。
「消すよ。それに今はこの車、俺以外ほとんど使ってないから」
(浅野くんのことはかなり知っているつもりだったけど、知らないことも多いな)
特に今の陸のことは知らないことばかりだった。
昔はそんなことを考えもしなかった。これが「友達」の距離なんだろうかと思う。
ぼんやりと考え事をしていたらあっという間に家の前に着いた。
「今日はありがとな」
助手席のドアを開けると、陸は静かに言った。
「こちらこそ」
「またな」
沙希は頷いてドアを閉めた。
(『またな』……か)
陸が別れ際にかならず口にする言葉だ。付き合っていたころは当たり前だったひとことも、今はそれが次に繋がる頼みの綱のように思えて、沙希は泣きたくなるほどの切なさを噛み締める。
家のドアを開けると疲労がどっと押し寄せてきた。すぐにシャワーを浴びる。
(明日は矢野さんに会うんだった)
(彼にきちんと返事をしよう……)
そう心に決めて沙希は眠りについた。
翌日。矢野とランチを約束したその日の朝はのんびりと起きた。
身体が痛い。体力のない沙希は、前夜の行為のせいで気だるさが全身にのしかかっているのだと自覚する。
しかし暗がりの中で見た陸の顔を思い出すと、疲労感すら愛おしくなるから不思議だ。悩ましげに眉根を寄せ、じっと沙希を見つめるその視線は、記憶の中でも沙希をとらえて離さない。
(それにしても、昨日の今日……というのもどうなんだろう)
陸と濃密な夜を過ごした数時間後に、矢野と食事をする。今の沙希はどちらの恋人でもないのだし、それほど気を咎める必要はないはずだ。そう思っても他人が聞けば確実に顔をしかめる状況であることは間違いない。
自分自身に嫌気が差し、投げやりな動作で外出の支度をする。矢野に返事をすると決めていることもあり、動作が自然と鈍くなっていた。
外に出ると、すでに陽は高く、夏の日差しが照りつけていた。
ギリギリの時間に待ち合わせの場所へ到着すると、矢野はずいぶん前から待っていたらしく、「よかった」と小声でつぶやいた。
「今日は暑いね。まずなにか飲もう」
案内されたのは洒落たレストランだった。いつも行く店に比べると、店内の雰囲気も、店員のサービスも質が高い。
沙希は急に不安になった。この雰囲気で返事ができるのだろうか。
矢野はそんな沙希の胸中も知らず、最近公開された映画の話を始めた。
しかしあまり映画に詳しくない上、ひとりで観ることもない沙希にはつまらない話題だった。適当に相槌を打つが、口を挟むこともできず、運ばれてきたオレンジジュースをすぐに空けてしまった。
「喉、渇いてた? また頼む?」
沙希のコップが空になったことに気がついた矢野が言った。
「いえ、もういいです」
「もしかして緊張してる?」
矢野は心配そうな声を出した。背中に汗が垂れるのを感じるが、沙希は笑顔を作る。
「そんなことはないですけど……」
「……困ったな」
矢野は沙希の様子がいつもと違うことに戸惑っているようだった。
「あの……ごめんなさい」
「謝らないでよ。できればいつもと同じようにしていてほしいけど、無理かな」
沙希はどうしてよいかわからずうつむいてしまった。
タイミングよくランチが運ばれてきたので、気を取り直して目の前のフォークを手にする。
「美味しい!」
ひと口食べて、沙希は思わず声を上げた。頼んだのはパスタのランチだったが、とても美味しかった。
「よかった」
矢野は満足そうな表情で言った。
「俺は女の子とデートとか、あまり経験がなくてね」
意外な言葉だった。沙希は目の前の矢野を改めて見る。
「実は俺のほうが緊張してると思う。いつも川島さんと食事するときも結構緊張するんだけど、でも今日は特別だね」
そう言って笑った。矢野の素直さがまぶしくて、直視することができない。沙希はいたたまれぬ想いで目を伏せた。
(とりあえず食べてから……にしよう)
落ち着かない心を無理になだめて、食事に専念することにした。