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第一部 11

 沙希は薄暗がりの中で、背後に忍び寄るなにかから逃れようと、必死にもがいていた。

「来ないで!」

(あれは……)

 近づいてくる気配を感じ、振り返る。追ってくるものの正体がはっきりと見えた。

「もうアンタのことは嫌いだって言ってるでしょ!」

 声の限り叫んでも、相手はまっすぐに向かってきた。沙希の言葉が聞こえていないようだった。

 見たくもない相手の姿とそのしつこさに、沙希は吐気を催した。

「何度言えばわかるのよ! もう来ないで!!」

 相手がなにか言っているようだが、声は聞こえない。もし声が聞こえたら自分は発狂するのではないかと沙希は思った。

 気がつくとその人物が至近距離に迫っていた。

 もう、どうしようもなかった。



 ……やらなければ、やられる。



 沙希は覚悟を決め、相手に向き合い、前に1歩踏み出す。

 その瞬間、視界が暗転した。


     


 文字通り飛び起きた沙希は、それが夢だったことにまず安堵した。

 しかしいつもの夢とは違っていた。これまでは追い詰められた沙希が、相手に腕をつかまれるところで目が覚めるのだ。

 ところが今回、沙希が相手に刃を突き出した瞬間に夢の世界は消失した。初めてのことに驚いて目が覚めたのだと思う。

(私は、なんてことを……)

 ゾッとする。

 いくら夢とはいえ、誰かを刺すなんて後味が悪すぎる。どんなに追い詰められていたとしても、他人を傷つけるのは自発的行為だ。沙希は自分の中に未知の感情が潜んでいたことに恐れおののいていた。

 それにしても今まで、この悪夢を何度見たことだろう。

 忘れたと思うころに必ず見る夢だった。精神的に追い詰められるとかなりの確率でソレはやってきた。

 喉がカラカラだった。寝言で本当に叫んでいたのかもしれない。

 起き出して水を飲んだ。冷たい水が身体に染み渡り、沙希は自分が生きていることを実感する。

 しかし気分の落ち込みはひどかった。心だけでなく身体まで重い。

 正直なところ、この問題をひとりで背負い、光のない道を歩き続けるのはつらかった。弱音をぶちまけて、誰かに泣いてすがることができたらいいのに、と思う。

 そこまで考えて沙希は苦笑した。空になったコップを置いて、小さなため息をつく。

 事件が起きた当時の沙希はもっとボロボロだった。

 ところかまわず突然涙が流れ出し、なにかの拍子に過去の忌まわしい記憶がよみがえって道端にしゃがみこんだこともある。そして一時的に他人との会話ができなくなり、母親を泣かせてしまった苦い日々――。

 もがけばもがくほど、沙希の心になにかが絡まり、身動きが取れなくなっていく。家族を含め、周囲の人々は沙希の突然の変化に戸惑いを隠さなかった。

「いつまで暗い顔してるの? 本当のあなたはそんなんじゃないでしょう」

 塞ぎこむ沙希にそう言ったのは、親友だと信じていた人だった。沙希の中の信じるに足るものが次々と崩壊していき、それまで見ていたものすべてが幻だったと認めざるをえなくなった。

 なにかを感じることもなくなって、世界から急に色が失われたようだった。

 何度も病院に行こうと思ったが、結局行かなかった。

 もう誰にも話したくなかった。自分に起こったできごとは他人に理解してもらえるものではないらしい、と沙希は悟ったのだ。

 それから――。

 一度崩壊した自我を再構築するまでにかなりの時間がかかった。

 結局、自分がとてもわがままな女だという事実を受け入れたときに、ようやく生きていることを肯定できたのだ。

 だが記憶の引き出しの隅に、いつの間にか悪夢が棲みついていた。ソイツは絶妙なタイミングで封印された記憶を解き放ち、沙希を奈落に突き落とす。

 過去から「忘れるな」と言われているようだった。

(忘れるはずない)

 鏡で自分の顔を確かめる。まぶたの上を指でなぞった。目尻の上にうっすらと茶色い線がある。

 沙希に残された刻印だ。もう気がつく人もいないだろうが。

 泣きたい気持ちだったが、涙は出なかった。泣いたところでなにも変わりはしない。

 どんなに頑張っても、過去を消せはしないのだ。


     


 悪夢のせいで気分は最悪だったが、なにごともなかったように出社した。

 昼に食堂で会った同期の房代が沙希の顔を見た途端、怪訝な表情になった。

「疲れてる? 顔色悪いよ」

 沙希はごまかすように言った。

「梅雨の時期ってなんだかよく眠れないんだよね」

「確かにじめじめして嫌だよねー」

 房代は沙希のトレイにドンとトンカツの皿を載せた。

「ちゃんと食べないと倒れるよ!」

「はいはい」

 房代の心遣いが沈んだ気分を少し浮上させてくれた。こんなときは誰かの優しい気持ちがとてもありがたく思える。

「で、その後はどうなの? その顔色からするとまだ返事してないんでしょ」

 房代は小さな声で訊いてきた。

「うん」

 房代には、矢野から「付き合ってほしい」と言われたことを話してあった。

 返事をしなければならないことを思い出し、沙希は眉に皺を寄せた。それを考えること自体がおっくうで、できるだけそこから遠ざかっていたいのだ。

「……つまり、付き合うか付き合わないかで悩んでいるわけじゃないってこと?」

「そうなのかな?」

「そうなのかな? ……って他人事なんだから!」

 房代は沙希の返事に苦笑した。そして少し考えて言った。

「でもそれはやっぱりNOなんだろうね」

「そう……なのかな?」

 沙希には自分の気持ちがよくわからなかった。

「だって沙希ちゃんの心の中には、ずっと想っている人がいるんでしょう?」

(ああ、でも……房代ちゃん、その人はね……)

 ここで房代に話せないのがつらかった。そろそろ潮時なのかもしれない。沙希は思い切って口を開く。

「房代ちゃん、今度ちょっと語りたいことがあるんだけど」

 房代は嬉しそうにうんうんと頷いた。

「私でよければどんな話でも聞くよ」

「かなり……引くかもよ」

「それじゃあお酒ないとダメだね! そうだ、ウチおいでよ。おふとんもあるから泊まっていって」

 目を輝かせている房代とは対照的に、沙希は気が引けていた。

「でも……彼氏に悪いよ」

 房代には付き合い始めて日が浅い彼氏がいる。おそらく今が一番ふたりの気持ちが盛り上がっているときだろう。その邪魔をしたくはない。

「いいの! ……あ、でも今週は……もう約束しちゃってて」

 最後は顔が赤くなって消え入りそうな声だった。沙希は見ていて微笑ましくなる。

「房代ちゃんの都合に合わせるよ」

「ごめんね。来週は空けとくから絶対ウチに来てね!」

「ありがとう」

 沙希は心から嬉しく思った。入社して以来、房代とは5年の付き合いになるが、これまで互いの家を行き来したことはなかった。

 これまでのことを話して、どんなふうに思われるだろうか。不安がむくりと頭をもたげた。

(でもこれが私なんだよな……)

 諦めに似た気持ちが、不安をなだめようとする。

 いずれにしろ沙希がたどってきた道のりは今さら変えられないのだ。

 それならば房代に理解してもらえなくても仕方がない。それで房代が以前の友達のように離れていくのなら――。

(悲しいけど……仕方ないよね)

 昼食を終えて房代と別れた沙希は、そんなことを考えながら午後の仕事へ向かった。


     


 その日は定時で上がった。

 気分が晴れないのでリフレッシュのために、寄り道して帰ろうと思ったのだ。

 会社を出て携帯を見た。メールの着信が2件。

 ひとつは矢野からだった。



 > 今週末空いていたらどこかで会いませんか? 返事の催促ではないので……。



 沙希の心は急に重くなった。

 催促ではないと言うが、矢野は返事を期待しているに違いない。心が決まっているなら、一刻も早く返事をするべきだ。しかし沙希には、矢野と付き合えない明確な理由がなかった。

(断るとしても、なんと言って断ればいいの?)

 困ったと思いながら、もうひとつのメールを開く。



 > 土曜の夜、空いてる?



 短い文だったが見た途端、心臓がドキドキし始めた。陸からだった。

 すぐに「空いてるよ」と返信する。

(矢野さんには後で返信しよう)

 沙希は昼に房代に言われた言葉を思い出した。

(「それはやっぱりNO」……か。考える前に、答えは出ているのに、どうして返事したくないのか……)

 先延ばしにすればするほど期待させてしまうのに、どうしても沙希は躊躇してしまう。

(たぶん……断って傷つけるのが嫌なんだ)

 そのときが来るのをなるべく遅らせたかった。それが誰のためにもならないことは沙希もよくわかっていたが、断ると同時に矢野との友人関係も破綻してしまうことが怖いのだ。

(でも、ずっと友達でいたいと思うのは、私のわがままなんだよね)

 陸に「友達と思えない?」と言われて初めて気がついたことだった。

 人と人との関係は難しい、と沙希は思う。

 人は目に見えない関係を言葉で規定する。たとえば「友達」だったり「恋人」だったり。

 しかし人がその言葉を使うとき、「友達」には友達の範疇があり、「恋人」には恋人の範疇がある。

 沙希は房代を「友達」だと思っているが、頻繁に遊ぶような間柄ではない。だから、もしかすると房代は「同僚」であって「友達」ではないのかもしれない。本当に房代を「友達」と呼んでいいのだろうか。沙希は急に不安になった。

 ということは、言葉の力で人の関係を縛ることもできるのではないか――。

 沙希と房代の関係が「同僚」であれば「友達」ほど親密である必要はない。

 しかし「友達」ならば、休日は積極的に約束をし、ショッピングや映画鑑賞を楽しむのが当然だろう。一般的に「友達」と言えば、ほとんどの人がそういう関係を想像するはずだ。

(友達ってなんだろう?)

 沙希は房代と矢野、そして陸の顔を順に思い浮かべた。

 そろそろ陸の黒い短髪を見慣れてもいいころなのに、沙希は今もその姿に違和感を覚えたままだ。昔より1歩遠ざかった場所で、陸が口を開く。「友達」と言った彼の硬い表情が、目に焼きついて消えてくれない。

(だけど私も、あやふやな関係は落ち着かなくて、嫌だったのかもしれない……)

 陸を「友達」と思い、割り切って付き合うことができたら、どんなに楽だろう。友情以上のものを期待せず、いつか彼が本当に愛する人を見つけ、幸せになるのを見届ける。それこそが、沙希の理想とする本物の愛情ではないか。



(できるかな、私に……)



 胸どころか喉まで締めつけられるような感覚が沙希を苦しめる。だが、どうせ届かぬ想いなら、自らで閉じ込め、抹消してしまえばいい。

 沙希はわがままな自分自身を心の中で嘲笑した。

(結局私は、ただ浅野くんに会いたいんだ。友達でも、なんでもいいから……)

 少し時間が経ってわかったことはそれだった。それがごまかしようのない本心なのだ。

(やっぱり矢野さんにはきちんと話をしないとダメだな)

 沙希は先延ばしにしたい気持ちを打ち消し、覚悟を決めて矢野にメールの返信をした。


     


 翌日は朝から陸の周りを3人の女子社員が取り囲み、賑やかだった。

 倉田由紀を筆頭に、陸の歓迎会で紹介された新人が勤務時間中にもかかわらず、鼻にかかった声でわいわいと騒ぎ立てながらやってきたのだ。

 沙希は聞きたくないのに聞こえてくる大きな声にうんざりしていた。

「なんで急に行けなくなったのー?」

「浅野くんが行かないなんてつまんなーい! ねぇ?」

「そうよぉ! 楽しみにしてたのにぃ〜」

「悪いけど急用」

「えぇぇぇぇぇ!!!!!」

「急用ってなに?」

「それは言えない」

「浅野くん、つめたーい」

「温泉より大事な急用なのぉ?」

「途中からでいいから来れば?」

「悪い、無理」

「えー、がっかりぃ〜」

 会話の断片から、週末に新入社員の間で温泉旅行が予定されていて、陸がそれを急にキャンセルしたらしいということがわかった。

(週末……って土曜日?)

 沙希はふと昨日のメールを思い出した。

 あの後、陸から待ち合わせ場所と時間を指定した返信があった。沙希のために温泉をキャンセルしたわけではないだろうが、それでも少し嬉しかった。

(浅野くんにとって私は「都合のいい友達」ってところかな)

 それでもいい。彼が会いたいと思ってくれるなら。

(本当にいいの? いつまでも同じことを繰り返すかもしれないよ?)

 沙希の中で別の誰かが囁く。

(……そうかもしれない)

 しかし沙希には、現状を打破する鍵がどこにあるのか、そもそもそんなものが存在するのかどうかすらわからなかった。

(でも、いつまでもこのままではいられない……よね)

 今はただ、陸との繋がりがどんなに些細なものでも、途切れないことを願うばかりだった。


     


 約束の土曜の夜が来た。沙希は会社近くの小路にあるコンビニエンスストアで陸を待っていた。

 もうすぐ梅雨が明ける。

 夜はまだ幾分しのぎやすいが、北国で生まれ育った沙希にとって、この蒸し暑さは耐えがたい。冷房の効いた店内はひんやりとして心地よかった。

 しかし、しばらくするとむき出しの腕が冷たくなってきた。トップスはキャミソール1枚だ。露出しすぎたことを後悔しながら、雑誌コーナーの前で薄手のカーディガンを羽織った。

 それからファッション雑誌を手に取ってパラパラとめくる。心が浮き立っているせいか、誌面を見たところでなにも頭に入ってこない。

 コンコンと音がしたので目を上げると、ガラス窓の向こう側に陸がいた。沙希は雑誌を戻すと足早に店を出る。

「待った?」

 沙希はううんと首を振って答えた。外に出た途端、熱気が押し寄せてきた。

「ドライブ、付き合ってよ」

 促されて助手席に乗った。黒い国産の高級車だった。車の中はエアコンが効いていて涼しい。

「会社の車?」

 陸の趣味とは思えなかったので訊いてみる。車は静かに走り出した。

「ま、そんなトコ。俺のじゃないね。だいたい車なんか買う金がない」

「ふーん。免許いつ取ったの?」

「20歳のときだな。あ、もしかして俺の運転テクを疑ってる?」

「そんなことはないけど」

 沙希は思わず笑ってしまった。

「沙希も免許持ってたよな」

 陸が横目でチラッと沙希を見る。

「こっち来てからは一度も運転してないけどね」

「この車、運転してみる?」

 意地悪な笑顔で陸は言った。

「無理。ぶつけたら嫌だし」

 沙希は即座に断った。運転は苦手ではないが、5年もブランクがある。いきなりこんな高級車を運転する自信はない。

 しかし陸は穏やかに笑っていた。

「これ、さすがに高級車なだけあって運転しやすいぞ」

「へぇ。……私、ドライブ、久しぶりかも」

 助手席に乗るのも久しぶりだ、と窓の外を見ながら沙希は思った。

 陸はそれには答えず、「今日は会社でずっと会議だった」と急に話題を変えてぼやいた。

「それで温泉に行けなくなっちゃったんだね」

 今日は新入社員たちの温泉旅行の日だ。倉田由紀のふくれ面を思い出して、沙希は苦笑した。

「ああ。あれ、聞いてたんだ?」

「聞きたくなくても聞こえるんだもん」

 正直に言うと陸は鼻で笑った。

「アイツ、うざいんだよな」

 アイツとは倉田由紀のことだろうか。沙希はほんの少し眉をひそめる。

「『うざい』って言葉、私は好きじゃないな」

 陸はチラっと沙希を見て、すぐに前方へ視線を戻した。

「はいはい。俺は昔から言葉遣いが悪い生徒でしたよ。ね? センセイ」

 最後の「センセイ」が嫌味たっぷりだった。陸から顔をそむけ、口を尖らせると、クスッと笑う声が聞こえた。

「会議がなくても温泉に行く気はなかったんだ」

「え?」

 唐突に陸がそう言ったので、沙希は驚いた。

「俺もね、いろいろ複雑な立場でね」

 陸はため息混じりに言う。

 そういえば……と、陸が新人として配属になる前に矢野が言っていたことを沙希は思い出していた。



『オーナーの親戚関係とかさ』



 沙希の勤めているK社でオーナーといえば、それは社長ではなく会長を指す。現在の社長は会長に見込まれて平社員から取締役になったと言われている。だがこれまでにその細かい経緯を、沙希のような若手社員が知る機会はなかった。

 沙希は本社勤務だが、まだ会長に会ったことがない。ここ数年、会長は表舞台から姿を消していた。それでも実際の経営権は未だに会長が握っていると言われている。

(……親戚?)

 沙希には思い当たる節があったが、いきなり核心に触れるわけにもいかず黙っていた。

 陸が自分から言わないのだから、聞かないほうがいいのだろう。

 なんとなくふたりの間に沈黙が流れた。



「で、返事、したのか?」

 また唐突に陸が言った。沙希は思わず陸の横顔を見たが、そこにはなんの表情も見えない。

「……知ってたの?」

「まぁね」

 沙希は言葉に詰まった。

「沙希」

「ん?」

「俺に隠し事なんかするなよ。だいたい俺はお前のケツの穴まで見て……」

「ストップ! そういう下品なこと言わないで」

 沙希は慌ててさえぎった。なにを言い出すんだ、と思いながらも、陸がわざと茶化したことに気がつく。陸の向こう側に、夜の黒い海が見えた。

「まぁ、俺とお前の仲じゃん?」

「……返事はまだしてない」

 沙希は渋々白状した。

「どうすんの? 矢野さん、本気だろ」

「本気ってなに?」

 思わず聞き返した。告白に本気も嘘もないだろうと沙希は思う。

「いや、ほら、……結婚、とか?」

「……え?」

 沙希は思いがけない言葉に一瞬頭の中が白くなる。

「私、結婚なんか、誰とも考えたことないし」

 そう言いながら、矢野に告白された日のことを思い出していた。確かに『食生活を考えてくれる人を見つけないと』と結婚をほのめかすような発言もあった。

「お前は……そうだろうね」

 陸の言葉には、少しだけ同情が含まれているような気がした。

「でも俺は、矢野さんのこと、いい人だと思ってる」

(どういう意味?)

 沙希は苛立ちを覚え、陸に背を向けるようにして窓の外を見た。助手席からは遠くに家の明かりがぽつりと見えるだけだ。いつの間にか郊外を走っていたらしい。

「いや、普通に結婚するんだったら、ってこと」

 言い訳するように陸が言う。

「お前は結婚とか、しないほうがいいと思うけどな」

(それはそれでどういう意味?)

 黙ったまま窓の外を見ていると、車が止まった。周りは電灯も少なく、暗かった。海が近いようだが、ナビは消されて、ここがどこだか沙希にはわからない。

「最近、また暗い顔してる」

 シートにもたれた陸が沙希に手を伸ばした。

「沙希は笑っているほうがいいぞ」

 陸の手が頬に触れた。

 ドキっとした。長い指がそっと頬を撫でる。

 その指が頬から目蓋の上に来て、止まった。



(……え? どうして……知って……る?)



 家族以外は知らないはずだった。家族にもどうやってその傷ができたのかは、話したことがない。それに今はメイクのおかげでほとんど見えないはずだ。



『俺は、たとえお前がどんな姿になっても、お前のことはわかるよ』



 昔、陸が言ってくれたことを思い出した。

 涙が勝手にあふれてきた。そして次々に目からこぼれていく。

「しようがねぇな。泣くなよ」

 陸はそう言って沙希のほうに向き直り、抱きしめた。

 

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