「ちょっと、高橋さん。こっち来て」
私は高梨さんに腕を引っ張られて、廊下に出た。
学園祭前日ともなると、廊下をぶらぶら歩いている生徒はいない。あちこちから忙しく釘を打つ音、机や椅子がぶつかり合う音、そして張りのある声が聞こえてきて、校内はすっかりお祭り気分に染まっている。
「あのね、実は……来たんだ!」
「えっ!? 来たって……?」
「アレが、来たんだよー!」
突然高梨さんが私に飛びついてきた。柔らかい身体が押しつけられ、女の子の甘い香りが鼻をかすめる。シャンプーの匂いかな、とぼんやり思ったところに、高梨さんの声がした。
「ありがとうね。本当にありがとう!」
「いえ、私はなにもしていませんし」
少しのけぞるようにして、困った顔を高梨さんに見せる。
しかし高梨さんは真剣な表情で首を横にブンブンと振った。
「いいや、高橋さんが相談に乗ってくれなかったら、私、もっと事態を悪化させていたかもしれないんだ」
「どういうことですか?」
「ほら、親に言ってしまうとか。そうなると『相手は誰だ』ってなるでしょ。ウチのお父さん、すぐカッとなるから堀内の家に怒鳴り込みに行っちゃうと思う。そしたら堀内、学校にいられなくなっちゃうよ」
「そんな、大げさな……」
「だってね、小学生のころ、学校帰り、私が誰かに後ろから押されて転んだことがあったんだ。友達同士でふざけていたのもあるんだけど、びっくりしたし、痛かったから泣きながら帰宅したわけ。ま、低学年のときはそういうことってよくあるじゃない?」
「はぁ」
「だけどお父さん、勤務先から学校に電話して『転ばせてジャージに穴まで開いたのに、あやまらないとはどういうことだ』ってすごい剣幕で苦情入れたから、翌日、担任が帰りの会で『高梨さんを転ばせた犯人が手を挙げるまで全員帰れません』って言い出してさ」
「……ホントですか?」
「もちろんホントだよ。これってれっきとしたモンスターペアレンツだよね。だから家でヘタなこと言えないんだ。とはいえ、今回は本当に悩んでいたから、お母さんにはこっそり相談しようかと思い詰めていて……」
「そうだったんですか」
「弱気になっていたとき、高橋さんから『10日で生理が来る』って言われたじゃない?」
「はぁ」
「あのとき、なぜか『そうなんだ!』って思えたんだ。急に不安がなくなったの」
私は驚いて目をぱちくりとさせていた。さっきから高梨さんの話に圧倒され、びっくりしたままで固まっている。
「そしたらホントに来たんだよ! ねぇ、高橋さんって超能力者!?」
「あの、私、大したことはしていませんけど」
そう。高梨さんは知らないだろうけど、私はただ綾香先生から聞いたことを、もっともらしく聞こえるように装飾しただけなのだ。
だから根拠のないことを鵜呑みにした高梨さんから感謝されても、無邪気に喜べない。むしろ後ろめたさが私を伏し目がちにさせた。
「いや、私にとっては『生きるか死ぬか』くらいの大問題だったんだよ。来れば天国、来なかったら地獄。でもなかなかこういうことを話せる相手がいなくって……。高橋さん、いろいろありがとう」
「本当によかったですね……」
感極まった高梨さんが、私に頭を下げて、軽やかな足取りで教室へ戻っていくのを見送る。私は廊下にポツンと取り残された。
結局気の利いたことのひとつも言えずに終わり、高梨さんも会話がしにくかっただろうと申し訳なく思う。
――でも『生きるか死ぬか』の大問題を私に話してくれたんだ。
それがなんだか嬉しい。
私は高梨さんが妊娠していなかったことよりも、彼女が私を信頼してくれたことに無上の喜びを覚えていた。人間とは勝手なもので、他人の幸せよりも、まずは自分自身の幸せを思う存分噛みしめたいと思うものらしい。
スキップしたいくらい気持ちが弾んでいたが、また西さんになにか言われるのは嫌なので、普通に歩いて教室へ戻った。
そういえば、と私は教室内を見回しながら思う。
少し前から清水くんの姿がない。どこかへ行って、まだ帰って来ていないようだ。どこへ行ったのだろう。
割り当てられた作業が終わってしまって、私は手持ち無沙汰だった。できれば誰かの指示をあおいで、次の作業に取りかかりたいが、誰に聞けばいいのかわからない。こういうときは、やはり企画書を作成した清水くんに聞くのが一番だ。
「清水、どこ行ったんだ?」
田中くんが、つぶやきにしてはずいぶん大きな声で言った。どうやら田中くんも作業が一段落し、指示を待っている状態らしい。
「ゴミ捨てに行ったんじゃないか?」
野球部の男子が答える。彼はなんという名前だったかな、と考えていると、田中くんが私の前に来た。
「探してきてくれない?」
田中くんは周囲に気を配って、さりげなく小声で私に言った。驚いたけど、断る理由もない。私はぎこちなく首を縦に振った。
また廊下に出て、ふらふらと歩く。ゴミを捨てに行ったということは、1階まで降りてみるべきか。でもゴミを捨てるだけなら、とっくに帰ってきているはずだ。
とりあえず階段を降りてみる。
壁には翌日の来客へアピールするために、手書きのポスターが貼られている。学園祭運営委員会では各クラス5枚まで、好きな場所にポスターを掲示することが許可されていた。
どのポスターもカラフルで、目を引く工夫が凝らされている。私にはそういうセンスがないから、どれもこれも「すごい!」と思わずにはいられない。
中でも、おどろおどろしい雰囲気をかもし出しているポスターは、存在感抜群だった。私はそのポスターの前に立つ。
――ウチのクラスのお化け屋敷だ。
幽霊のイラストや浮遊する人魂、そして案内文の書き文字――どれもササッと書いたような気安さがあるのに、これ以上ないほど調和していて、見栄えする出来だった。
「なかなかいいと思わない?」
背後で声がした。
驚いて肩がビクッと震えた。振り返ると、堀内くんが首を少し傾けて前髪をいじっている。
「これ、堀内くんが?」
「そそ。俺が描いたの。……意外?」
「あ、いや、すごく上手だな、と思って……」
私の心を見透かすような笑みを浮かべて、堀内くんは「ありがと」と短く言う。
「まゆみがいろいろお世話になったみたいで、どうもありがとうございました」
「い、いえ、私はなにもしていませんし」
「アイツ、器用そうに見えるけど、本当は不器用でさ。友達付き合いとか苦手だし」
「えっ!?」
思わず大声で堀内くんの言葉をさえぎった。友達付き合いが苦手なのは私であって、高梨さんではないはず。私は堀内くんの顔をまじまじと見つめた。
堀内くんは切れ長の細い目を私に向けて、少しの間考えるように黙っていた。
そして突然「その眼鏡……」と私の眼鏡を指差し、首を傾げてみせた。
「それ、わざと?」
「は?」
「ああ、わかった。清水が『その眼鏡のままでいて』とか言ってるんだ」
「いえ、言ってませんけど」
「へぇ。じゃあ、なにか理由でもあるの? 目立ちたくない?」
「……え?」
私は堀内くんの発言の意味がわからず、かなり困惑していた。
「でもそこまでイメージダウンさせることもないじゃん。あ、わかった! アレだ。ギャップ萌え!」
堀内くんは最高の思いつきだったとばかりに、のけぞって笑っている。
逆に私はこれ以上ないほど冷静になっていた。
「私はなにも狙ってません。これが素なんです。これ以上悪くなることはあっても、よくなることはありえない」
静かに言ったつもりだったが、私の声は階段の踊り場に反響し、空気を裂いて堀内くんに鋭く斬りこんだ。
堀内くんは笑いを引っ込めると、数回まばたきした。言葉を探しているように見える。
「そんなことないって」
しばらくして彼は言った。
「その眼鏡、変えるだけでも、かなり印象変わると思う。素材はすげぇいいのに、もったいないじゃん」
「…………」
急に、顔が発火したように熱くなった。思考が止まり、返事が思いつかない。
そこへ階段を上がってくる足音が聞こえてきた。姿が見えたと思った瞬間、驚いた声が辺りに響く。
「あっれー、舞ちゃん。こんなところでなにしてるの?」
階段を駆け上がってきたのは、清水くんのイトコの神崎英理子さんだった。
英理子さんは私の目の前にいる堀内くんをチラッと見て、わずかに眉をひそめた。
「あ、ポスターを見てました」
「舞ちゃん、堀内と仲いいの?」
一瞬、堀内くんと顔を見合わせる。彼はこの展開を面白がっているのか、余裕の表情を浮かべていた。
「別にそういうことではなくて、このポスター、堀内くんが描いたって聞いて『へぇ』と思っていたところで……」
「ふーん」
英理子さんは疑いのまなざしを私に向けた。
いや、やましいことはなにもない。そう思いつつも、ドキドキしながら英理子さんの視線を受け止める。
英理子さんは私から視線を外すと、おどろおどろしいポスターを見る。
「堀内って、こういう作風なんだ?」
「いや、いろいろ。これっていうのはない。あ、頼まれればラフ画も描くけど、神崎、モデルにならね?」
「絶対ならない!」
「気が向いたらいつでも言って。んじゃ」
堀内くんは愉快そうに目を細めてお化け屋敷のほうへ戻っていった。
「なんなの、アイツ。ホント、エロい。ていうか、こんなところで堀内となにを話していたわけ?」
私は憤慨する英理子さんをぽかんとして見つめていた。
「あ、えっと……なんだったかな」
「ラフ画とか頼まれていないでしょうね?」
「ラフ画?」
私の頭の中には、スケッチブックに描かれたデッサンがほわんと浮かび上がった。
すると英理子さんが私の目を覗き込むようにする。
「ラフは英語じゃなくて、裸に婦人の婦。つまりヌードモデルってこと!」
「……えっ。えええっ!!」
「ほら、やっぱりわかってない。もう舞ちゃん、ダメだよ。あんな男とふたりきりになったら……!」
英理子さんは怒ったように口を尖らせ、それから私の腕に自分の腕をからませた。
「アイツ、絵の才能はすごいって認めるけど、他は全然ダメだからなぁ」
「才能!?」
「そうだよ。堀内は絵画の分野では有名人なんだよ。去年、ヤツの絵が有名企業のカレンダーに採用されてるし、とにかく将来有望な画家なんだって。……私は芸術とかまったくわからないけどね」
私はもう一度お化け屋敷のポスターをまじまじと見つめた。
――どういうこと?
人間誰しも意外な一面を持っているものだが、堀内くんがそんな有名人とは気がつかなかった。そもそも清水くんに比べると、堀内くんはそこまでのオーラを感じないのだ。
――いや、清水くんが普通じゃないだけで、堀内くんもかなりカッコいい男子だよね。
そんなことを考えていると、突然腕をぐいと引っ張られた。
「で、舞ちゃんはなにか用があったんじゃないの? こんな階段の途中にいるくらいだし」
「あ、ああ! 清水くんを探してるの。どこかで見かけませんでしたか?」
英理子さんの表情がようやく和らいだ。
「はるくんならさっき、あの美人教育実習生と3階の廊下を歩いていたけどね」
「3階!」
私と英理子さんは3階と4階の中間にいる。私は階下を覗くように上体を傾けた。
「私も一緒に探してあげる」
英理子さんは言うが早いか、私を急かすように階段を降り始めた。私も引きずられるようにして階段に足を踏み出す。
――綾香先生と一緒……か。
胸の中がざわざわした。
綾香先生が清水くんとふたりきりになったところで、なにも起こりはしない。
そうは思うものの、妙な焦りが体の中を行ったり来たりして落ち着かない。
でも私だって、ついさっきまで偶然、堀内くんとふたりきりになっていたのだから、きっと清水くんだってたまたま綾香先生と一緒になったのだろう。同じ校内にいればよくあることだ。
英理子さんも私も、無言で3階の廊下を進む。
廊下の突き当たりに、机と椅子が重ねて収納された空き教室があった。中から誰かの話し声が聞こえてくる。女性の声だ。
英理子さんが唇に人差し指を立てて、シーとジェスチャーした。私は頷いてゴクリと唾を飲み込んだ。
「私は、進路に関しては自分の道を貫くべきだと思う」
きっぱりとした口調で言い切ったのは、間違いなく綾香先生だ。私は息を潜めて、その凛とした声に耳を澄ます。
「付き合っている人がいると、その人の進路のことも気になっちゃって、気持ちが揺れるのはよくわかるけど、それは結局お互いのためにならないよ」
「先生は女だから、そういう正論を余裕で言えるかもしれないけど、俺は男だし、ぶっちゃけ、なにがお互いのためになって、なにがお互いのためにならないのか、全然わかりません」
清水くんの声がした。いつもとちょっと違う、なんだか切実な響きがあって、私は戸惑う。
フッと綾香先生が笑う気配がして、それからあきれたような声が聞こえてきた。
「正論なんて言う気は、さらさらないの。私はね、……私がそうだったから、『やめたほうがいい』って言いたいわけ」
「先生が……?」
「そうよ。高校時代、付き合っていた男がホントどうしようもないヤツでね。高2のときだったかな? 一度、生理が10日くらい遅れて、あのときはマジでビビッたよ」
「『マジでビビ』るとか言わないでよ。先生にそういう言葉は似合わない」
「あ、ごめん。あのときはものすごく焦りました。……こんな感じ?」
「それで『10日』か」
「ん?」
「いや、なんでもない。それで? 先生はその男のせいで進路を変えたの?」
「変えたわけじゃないけど、県内の大学って制限かけられた。だけど相手は県内でも一番遠い大学に入っちゃって、結局すったもんだの末、別れたよ。もし進路を決定するときに彼氏がいなかったら、違う道を選ぶ可能性もあったかも、と過去をあれこれ後悔することはある」
「可能性……」
「そう。私はその男がたったひとこと『お前、県内の大学にしとけ』って言ったことで、自分の進路をH大にしようって決めちゃったから」
「じゃあ先生はH大に行きたいと思ってなかった……と?」
清水くんの質問の後、少しの間沈黙のときが訪れた。
「そこが曖昧なんだ。私が心の底からH大に進みたいと思っていたかどうか、未だによくわからない。自分の気持ちにじっくり向き合う前に、選択肢を押しつけられたような気がしていて……。H大に進学したことを後悔しているわけじゃないけど、自分の進路を熟慮しなかったことはものすごく後悔している」
大きなため息が聞こえてきた。これはたぶん清水くんのものだ。
「なるほど。……俺も先生の言うとおりだと思います。進路を決めるのは本人にしかできないけど、他人の干渉によって選択肢が狭められるというのはよくわかるから。俺も父親が歯科医なんで、幼い頃から無言のプレッシャーを感じていたし」
「そういえば、そうだったね」
私は急に息苦しくなった。小さな水槽であっぷあっぷしている金魚のような気分だ。魚のクセに溺れている。深呼吸でもして落ち着けばいいだけなのに、みっともないくらい動揺していた。
英理子さんが顔を私に近づけて耳打ちする。
「どうする? 私が通行人のふりして声かけようか?」
「……いえ、あの、邪魔するのも悪いので、このままで……」
「でも、ちょっとあのふたり、怪しくない?」
「えっ……あや、しい?」
「いくら元カノの姉とはいえ、なんだか仲良すぎない?」
「そ、そうですかねぇ……?」
顔の筋肉を引きつらせながら、私は迷った。迷って迷って、どうしようもなくなったそのとき、衝撃的な言葉が耳に飛び込んできた。
「私はね、もう誰とも付き合うことができないんだ」
「えっ!?」
私の心の声と、清水くんの声が同調した。
英理子さんも目を見開いている。
いつの間にそんな話題になったんだろう。英理子さんとの会話に気を取られていて、先生の発言の前後がまったく不明だ。
「『できない』って、高校時代付き合っていたダメ男とは別れたんでしょ? それなら新しい彼氏、探せば?」
「ずいぶん簡単に言ってくれるけど、そんなに簡単じゃないよ。現実は……」
「え? なんかワケアリ?」
クスッと笑う声がした。綾香先生だろう。教室の中を見ることはできないが、聞こえてくる声の距離感から、先生は教壇にいて、清水くんは窓際にいる図が頭の中に浮かんでいる。
続けて綾香先生は「フフフ……」と笑い出した。しばらくおかしくてしようがない、というように笑いを漏らすと、最後に深いため息をついた。
「そのダメ男が、最後にやらかしてくれちゃってさ。……派手に、ね」
「なにを?」
私は意味もなく廊下の中央線を見つめていた。点々と続くその線の向こうには、学園祭準備で忙しく動き回る生徒の姿がある。
だけど私たちのいるここだけ、お祭りから切り離された別世界だった。
「自殺。……未遂だったけど」
綾香先生の声に陰湿な響きはなかった。そのぶん、先生の心の中に広がる闇の深さははかり知れない、と思った。
「マジかよ。サイテーじゃん、ソイツ……」
「あーもう、またつまらぬ話をしてしまった。はい、忘れる!」
「そんなの、無理」
「もう遠い昔の話です。はい、忘れる!」
「忘れなきゃならないのは、先生でしょ。そんなつまんないこと、もう忘れていいよ」
清水くんの言葉はやけに力強くて、私はガンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
英理子さんが私を心配している。その視線を逃れるように、顔をそむけるが、隠れている私たちにはこれ以上の身動きは危険だった。
「……そうだね」
綾香先生が答える。
「はい、忘れました! ……って、いつか言えたらいいね」
「世の中にはもっといい男、たくさんいるって。先生ももっといい恋しなきゃ」
その言葉を聞いた途端、私は驚くほど冷静になっていた。
なにをほざいているんだ、隣の席の男は。
できるなら今すぐ出て行って、思い切り罵倒したい気分だ。
しかし盗み聞きをしている私にエラそうなことを言う権利はない。
もう立ち去ろう、そう思ったときに、その声が聞こえてきた。
「そういう清水くんも気をつけないとね。女の子に優しくするのはいい心がけだけど、廊下で彼女が泣いてるよ?」
「……は?」
瞬間的に、私と英理子さんはお互いの目を見て、ほぼ同時に駆け出した。
まさか……ずっと前から気がついていた!?
綾香先生の「てへっ」と舌を出しておどけた顔が脳裏に浮かぶ。
廊下を全速力で走る私たちの背に、かわいらしい小言が届いた。
「こらーっ! 廊下を走っちゃダメ!」
完全にやられた。綾香先生にはなにをどうやっても敵わない。そんな気がする。
振り返ると清水くんが追いかけてきていた。
「ちょっ、ふたりとも、待てよ!」
「盗み聞きなんか、してないんだから! ね、舞ちゃん?」
「は、はい。今、偶然通りかかって……」
「そんなわけないだろ。じゃあなんで逃げるんだよ」
「逃げてるわけじゃないの! 急いで作業に戻らなきゃ!」
「わ、私も!」
しかしすぐに、3人の中でもっとも運動能力の劣る私が、清水くんにつかまった。
「舞ちゃん、ごめん。お先!」
英理子さんは小さく手を合わせると、スカートを翻して階段を駆け上がっていく。
「さて、と。言い訳は後でじっくり聞かせてもらおうかな」
私の肩をつかんだ清水くんの手にグッと力がこめられた。
ドキッとしたが、幸か不幸か、ここは人目も多い廊下。清水くんもそれに気がついたのか、私の肩からすんなり手をおろす。
――ああ……。
あれ、今、私……?
もしかして、それをちょっと残念とか思ってた?
うわぁぁぁ! なにそれ、なにそれ。なんだか危険!
思考は大パニックだが、私の本体はとぼとぼと、清水くんの後ろを少し離れてついていく。
階段の途中で、堀内くんの描いたポスターが、ひそかに私を嘲笑っていた。
1st:2012/06/08