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学園祭に恋して 7



 駅から自宅まで、いつもならほとんど全速力で自転車を走らせるのだが、今日の俺は空腹にもかかわらずペダルをのんびりと踏み込んでいる。

 舞を駅まで送り、ひとりになると、当然だが俺は無口になった。星空の下を自転車で走っている、といいたいところだけど、一応T市の中心部を走行中なので、星は数えるほどしか見えない。

 それでも俺は最高にロマンティックな気分だった。

 しかし家の玄関を開けるころには心身ともにクールダウンし、なに食わぬ顔で夕食の席に着く。ここまでは完璧だ、と内心でほくそ笑んだところに、母親の真面目な声が聞こえてきた。

「はるくん。進路はどうするの?」

「まだ悩み中」

「だめじゃない。さっさと決めてちょうだい」

「なにその自分勝手な言い方。俺の進路が未定で困るのは俺なんだから、母さんに指図されたくないね」

「あら、いつからそんな生意気な口を利くようになったのかしら。この私に向かって!」

 母が目を細くしてフンとそっぽを向く。それからドンドンと床を踏み鳴らしつつキッチンに引っ込んだ。完全にいじけてしまったらしい。

 向かい側から妹の笑佳がおそるおそる話しかけてきた。

「なんかママ友とお茶して、そういう話題になったみたいよ。はる兄の志望大学が未定っぽいことを言ったら『のんびりしすぎ』って他のママに笑われたらしい。……もしかしたらママ泣いてるかも」

 俺はギョッとしながらキッチンのほうへ視線をやった。そんなことで泣くなんてガキじゃあるまいし、と心の中でつぶやきながら、仕方なく立ち上がる。

「放っておけば?」

 横から冷静な弟の声が聞こえてきた。

「どうせすぐに立ち直るよ」

「ま、そうだな」

 ガキよりもガキっぽい俺の母親は、自分の思いどおりに物事が進まないとすぐにいじけたり、泣いたりする。本当に面倒くさい。

 しかし母が言うことにも一理ある。

 高校生活もほぼ折り返し地点なのに、進路を決めかねている俺はあまりスマートではない。ゴールがどの方角にあるのかを知らないまま、やみくもに走っているようなものだ。

(やっぱり進路って重要だな)

 俺は、普段の動作は緩慢なくせに、ものすごい勢いで酢豚を口に運ぶ隣の弟を見た。

「寛人はどこの大学狙ってるんだ?」

「一応KO大」

 あっさり返答されて、俺は口を半開きにしたまま絶句した。

「はる兄は?」

 笑佳が興味津々な目で俺を見る。

「だから、悩み中だって言ってるだろ」

「でも候補はいくつかあるんでしょ? 国立? 私立?」

「だから、未定なんだよ」

「でも私、はる兄は国立って感じがするんだよね。ひろ兄は私立大が似合ってる」

 そう言って笑佳はうんうんと頷いた。自分の思いつきに満足しているらしい。

「つまり俺は努力家で、寛人は金食い虫ってことだな」

「俺のどこが金食い虫なんだよ! 俺が金の卵で、兄貴は玉虫色の卵じゃないか」

「玉虫色!? 意味がわからない」

「兄貴はいつも余裕そうなふりして、みんなにいい顔して、女子にもモテて、だけどなに考えているか全然わからない」

「それのどこが悪い?」

 寛人は突然口を閉ざした。そして俺から目をそむけると、ふくれ面でため息をつく。さっきの母親と同じ表情だ。

 俺もため息をついて、食事を再開する。

 こうしてロマンティックな夜は、身近な面倒くさい人間によってぶち壊されてしまうのか――。

 早くこの家から出たい、と俺は酢豚を飲み込みながら思う。そうなるとやはり県外の大学を目指すべきだろう。

 だけどおそらく舞は県内の大学を志望するはずだ。

 以前話題にのぼったH大なら、舞も俺も自宅通学が可能なのだ。なにしろキャンパスは、夏期講習に通った予備校から歩いて5分のところにある。

(どうしたものか……)

 寛人が私大に行くなら、俺は国公立大を目指すべきだろうとも思う。笑佳も含め、子どもを3人とも私大へ進学させる余裕が、我が家にあるとは思えない。

 現時点で誰にとっても都合がいいと考えられる俺の進路は、県内の国立大学であるH大を志望することだ。H大は一応、旧帝大のひとつに数えられる大学であり、ネームバリューの点では申し分ない。

 それにもしかしたら舞とともに大学生活を送ることができるかもしれない。

(やっぱりこれが最高の選択肢じゃないか!)

 ついでにあわよくばひとり暮らしができたら、家族の目を気にすることなく舞と会えるのに……と、暴走する俺の思考を、「ごちそうさま」という弟の声がさえぎった。

 続いて椅子がガタッと鳴る。



「兄貴はいつになったら本気になるんだよ。必死になって無様な姿をさらすのが、そんなに嫌なのかよ。だけどそんなもんじゃないだろ、兄貴の実力は」



 俺よりも背の低い弟が、立ち上がって俺を見下していた。

 その瞳に挑発の色を見て、俺は心臓を握りつぶされるような錯覚に陥った。

 寛人は茶碗を持ってキッチンへ向かう。だが顔を上げた途端、彼は立ち止まった。

 俺も笑佳も、寛人の視線を追い、そして目を見張る。

 キッチンの入り口に、俺たちの母親が、今まで見たこともない形相で腕組みをし、寛人の進路をふさいでいた。





 結局母は、俺たちが部屋に引っ込むまでひとことも発しなかった。

 機嫌の悪いときにはよくあることだから、いちいち気にすることもない。と思うものの、俺はすっきりしない気分のまま、ケータイを片手にただぼんやりしていた。

 舞に電話をしようと思うのだけど、あんな素敵なできごとがあったのに、今の俺はテンションが低い。明るい将来の話をしたくても、声が沈んでしまいそうだ。

 舞もケータイを持っているとはいえ、あまり遅い時間に電話するのは迷惑だろう。そろそろタイムリミットだ、と思い切ってケータイの発信履歴を表示したところで、俺の部屋のドアがノックされた。

「暖人。起きてる? 入ってもいい?」

 ドアの向こうから母親のよそ行きの声がした。俺はケータイを布団の中に突っ込んで、ドアを開ける。

「ん?」

「さっきはごめんなさい」

 部屋のドアを閉めると、母親はそう言って軽く頭を下げた。俺はしおらしい様子の母親に不気味さを感じるが、とりあえず「うん」とその謝罪を素直に受け止めておく。

 顔を上げた母は、比較的真面目な表情でためらいがちに言った。

「それで、暖人には付き合っている……彼女っているのかしら?」

「……っぐ!」

 食べ物を喉に詰まらせたような声が出て、俺自身も驚く。

「いきなり、なんだよ?」

「そりゃ私も母親ですから、そういうことは一応気になるでしょう? だって相手は女の子なわけだし。……って、まさか男の子!?」

「そんなわけないだろっ!」

 いや、他のヤツのことは知らないが、少なくとも俺にはそっちの趣味はない。

「そうよね。それで、彼女とはどんな感じなのかしら?」

 母のまなざしが真剣で怖い。俺はひやひやしながらも、顔色を変えない努力をする。

「どんなって、付き合い始めたばかりだし、母さんに心配をかけるようなことは、なにもないね」

「そう。……その言葉を信じることにするわ」

「うん」

 いや、俺は別にウソをついているわけじゃない。

 本当にまだキスまでしかしていないのだし、それだってつい数時間前に初めてしたところなのだ。まぁ、あれは確かに、初めてにしてはちょっと……いやかなりディープだったかもしれないが。

 俺が舞とのファーストキスに関する回想を楽しんでいる間、母は難しい顔で俺の部屋を眺め回していたが、やがて飽きたのか、こっちに視線を戻すとまた口を開いた。

「大学受験、する気はあるんでしょう?」

「まぁね。でも進路は迷ってる」

「そう。ずっと不思議だったんだけど、暖人って小さいころから将来の夢を語ったことがないんじゃない?」

「ないね。ついでに言えば、将来の夢自体がない」

「それって、もしかして『歯医者にならなきゃ』というプレッシャーみたいなものを感じているから?」

 母は罪悪感でもあるのか、俺を上目遣いで見ている。そういう顔をされるとちょっとからかいたくなるのは、俺の性格が悪いからなんだろうか。

「どうかな」

「だけど私たち、暖人にも寛人にも、もちろん笑佳にも、『歯医者になれ』とか『ウチを継げ』なんて一度も言ったことないわよ」

「そうだね。だけど言わなくても、そう思ってるだろうなって、こっちの立場だったら絶対感じるよ、普通は」

 この「普通」をとりわけ強調してやった。

 すると母は悲しそうな顔でうつむき、「そっか」とつぶやいた。

「でも実は『他の誰かが継ぐだろう』って思ったりしてない?」

「寛人と笑佳はそうだろうね」

 俺がため息混じりにそう言ったところで、母はパッと顔を上げ、急に満面に笑みを浮かべる。



「じゃあ暖人が継いでくれるのね!」

「ちょ、ちょっと待て!」



 いやいやいや、母さん、そうじゃないだろ!

 からかってやるつもりが、逆にからかわれているとしか思えないこの展開。

 長男の悲哀が胸に迫ってくるのを感じ、俺はとりあえず机の上のペットボトルを手に取った。

「母さんは俺が歯医者になることを期待しているわけ?」

「それは、まぁ……半々かな。ウチを継いでくれたら嬉しいけど、暖人が歯科医になりたくないなら継がなくていいのよ。本当にやりたいことを見つけて、それが将来の仕事につながれば一番いいと私は思ってる」

 返事に困って、ペットボトルに口をつけた。

 将来の夢がない、というのはウソじゃなかった。俺は物心ついたころからずっと、歯医者にならなければならない、と思い込んでいたのだ。それが長男の運命だと勝手に信じていた。

 確かに「継げ」と言われたことはなかったが、「継がなくてもいい」と言われたのも今日が初めてだから、戸惑うのは仕方がないだろう?

「ママ友に笑われたって? 俺のせいでごめん」

「暖人こそ、寛人に言われっぱなしね。それも私が悪いのよね。ごめんなさい。もっと早くに話をすればよかった」

 母は少し困ったような顔をして笑った。ガキよりもガキっぽい人のオトナな表情に、俺もほんの少し困る。なんだか母親らしいことを言うし、さ。



 母が俺の部屋を出ていくと、俺は急いで舞に電話をした。

「なにかあったんですか?」

 いきなりそう言われて、俺は少し面食らう。テンションを上げているつもりなのに、なぜバレてしまうのか。

「どうしてそう思う?」

「なんとなく」

 俺は声を出さずに苦笑した。顔は見えなくても、舞の心配そうな表情が電話越しに想像できてしまう。

「俺はいつでも本気なんだけどな」

「は?」

「俺って本気に見えない?」

「なんの話だかさっぱりわかりませんが、少なくとも清水くんの必死なところは見たことがないですね」

「その『清水くん』ってそろそろやめない?」

 必死な姿なんて無様なだけだろうと思いながら、俺はずっと気になっていたことを言ってみる。

「他の呼び方を思いつかないので」

「俺には『暖人』という名前があるんだけどね」

「そうですか」

「いや、『そうですか』じゃなくて、『暖人』って呼んでよ」

「嫌です。というか無理です」

「どうして?」

「呼びにくいから」

「どう考えても『清水くん』より『暖人』のほうが呼びやすいって。本当は恥ずかしいだけでしょ?」

「……それは、そうですけど……」

 ヤバい。俄然、楽しくなってきた。ちょっと赤くなった舞の頬が目に浮かぶ。

「なにが恥ずかしいの? 俺のことが好きすぎて、名前を呼ぶのも恥ずかしい?」

「そうじゃなくてっ!」

「じゃあ呼べるよね?」

「え?」

 あまりいじめるのもどうかな、と思うけど、こんな機会もそうそうあるわけじゃないから、簡単に引き下がったりはしない。

「『暖人』が無理なら『はるくん』でもいいよ。あ、でも今は言わなくていい」

「そう、ですか……?」

「だって電話じゃなくて、直接聞きたいから」

 電話の向こうで舞が固まった。見えないけど、きっと間違いない。

 壁の時計はそろそろ午後11時を回ろうとしていた。

 俺は「じゃ、また明日。おやすみ」と言って電話を切る。

 いつまでも話していたくなるから、電話は10分以内で終わらせるようにしているのだ。電話代もバカにならないし、続きは明日話せばいい。今という時も大切だけど、明日の約束も大事なことだから。

 ベッドに入り、ぼんやりと未来のことを考える。

 いつになったら舞はよそよそしい態度をやめるのだろう。

 そりゃ、突然なれなれしくなっても驚くけど、いまだに丁寧語で返事をされるのは、正直嬉しくない。まぁ、舞が丁寧語になるのは限られた場面だけど、それ以外はほとんど業務連絡だよな、あれじゃあ……。



 やはり彼女の鎧(よろい)を脱がすのは容易じゃない。

 しかし、だからこそやりがいがあるというものだ。

 とはいえ、どうする――?



 これで相手が他の女子なら自分から鎧を脱ぐように仕向けることもできるが、舞には同じ手を使うことはできない。すでに俺はお手上げ状態だった。

 そろそろ俺も本気にならなきゃダメなのか……。





 それから一週間ほど平穏な日常が続き、あっという間に学校祭の前日となった。

 舞は消極的な態度ではあるが、学校祭の準備に協力してくれている。

 西こずえ率いる女子グループも表立って嫌がらせをしてくるようなことはなく、クラス内にトラブルらしきものは見当たらない。すこぶる順調に我がクラスのお化け屋敷は完成へと向かっていた。

 学校祭の前日は割り当ての教室での作業になる。お化け屋敷は2教室を使用し、教室同士の連結部分はベニヤ板に囲われた通路を設置した。つまりここだけ廊下に張り出している状態だ。

 教室内もベニヤ板の仕切りで通路を作り、各所に仕掛けを設ける。

 だいたいがよくあるお化け屋敷の仕掛けで、真っ暗な中、天井から吊り下げた布切れが顔を撫でるとか、実際に人間が隠れていて通過する客を驚かせるなどのありきたりなものだ。

 そうとわかっていても、お化け屋敷はなぜか人気がある。

 おそらくみんな、期待どおりのスリルを味わいたいだけなのだ。もしこんな学校祭ごときのお化け屋敷が想像を絶する恐怖体験を提供してしまったら、怒り出す客もいるかもしれない。人間の心理のほうがよほど不思議なからくりだ、と俺なんかは思ってしまうのだが。

 教室内の仕切りが完成した段階で、俺は廃材を捨てるために教室を出た。

 学校のゴミ集積所から戻ってきて、家庭科室の前を通る。昨日までは教育実習生の控室だったのに、今は3年生が慌しく出入りし、ドアには「しろくま食堂」と看板が取り付けられていた。

 ――なぜ、しろくま?

 そのネーミングセンスに首をひねりつつ階段を駆け上がり、2階の廊下を進んでいくと、俺の目に「理科室」の文字が飛び込んできた。

 近づいていくと、理科室内は会話が飛び交い賑やかだった。教育実習生の控室は、家庭科室から理科室へと引っ越していた。

 明日の学校祭で実習期間が終了する。昨日、多くの教職員が見学する研究授業を終えて、実習生たちはホッとした様子で寛いでいた。

 開け放したドアから、綾香先生の横顔が見えた。俺は思わずその姿に見入ってしまう。こうして綾香先生を見ることができるのも、明日が最後だと思うと非常に惜しい気がした。

「それで窓際で弁当を食べていたヤツがいたんだけど、ちょうどその窓が開いていたんだ」

「え、ちょっと、もしかして!?」

「そう! ホントに一瞬だったね。カラスがヒュウと飛んできたかと思うと、弁当のエビフライをくわえて飛んでいった!」

「うわぁ! これぞ、本当のエビフライ! でもその人、かわいそう」

 綾香先生が大げさに驚いて顔を覆った。黒い天板のテーブルを挟んで綾香先生とカラス談義で盛り上がっているのは、女子に大人気の谷口という男だ。確か谷口は数学の授業を担当していた。まぁ、噂にたがわず、男の俺でもハッとするような容貌の持ち主だ。

 そして綾香先生の隣には、冷ややかな目をした酒井先生が座っている。彼女はJ大学の院生らしい。

 しかし谷口はこの才女をほとんど無視して、ひたすら綾香先生へ話しかけていた。その視線の一途さに、俺の背筋が寒くなる。

 反射的に俺は「失礼します」とつぶやいて、理科室内へと乗り込んだ。

「あれ? 清水くんだ。どうしたの?」

 綾香先生がいち早く俺に気がついてくれた。それだけで溜飲が下がる思いだったが、明らかに敵意を含む視線をよこす谷口の鼻を明かしてやりたくなり、俺はこれ見よがしに綾香先生を誘った。

「進路のことで相談したいんですけど、お時間ありますか?」

「お時間はありますよ」

 綾香先生がにっこりと笑って俺を見上げた。その顔がサヤカさんに似ているようにも見えるが、全然違うような気もする。しかしこの人の目はなにかを訴えかけてくるから危険だ。

「じゃあ、ちょっと場所を移動しようか」

 俺がつい綾香先生に見入っていると、先生はスッと立ち上がる。それから谷口に軽く会釈し、俺の背中を押した。

 去り際チラッと横目で谷口を見ると、唇を噛んでくやしそうな表情をしている。

 俺はこれ以上ないほど満足して、綾香先生とともに理科室を後にした。


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 1st:2012/04/14