運命、なんてものが本当にあるとしたら、それを決めているのは誰なんだろう?
生きていると、いくらあがいても自分ではどうしようもない出来事は案外多発する。
そもそも俺たちがこの世に生まれてくる際、自分自身で親を選ぶことはできない。出発点からそうなのだから、運命としか言いようのない出来事が起きるのは仕方がないのかもしれない。
しかし、今、俺は運命というヤツをこれ以上ないくらい激しく恨んでいた。
俺の前を歩く目障りなでかい男。認めたくはないが、腰の位置が高くスタイルがいい。しかも短く刈り込んだ髪型で、これは頭の形がきれいでなければダサくなるスタイルだ。
――コイツ、絶対自分に自信持ってやがるな。
というのが、舞の従兄だとかいう高橋諒一の初見の印象。「何、カッコつけてんだ」と言ってやりたいが、負け犬の遠吠えに聞こえそうだから、心の中で毒づくだけに留めておく。
それにたぶんこの男は小さい頃から群を抜く容姿だったはずだ。それが無性に面白くない。
だが、今ここで何か言えば、その不愉快な感情が爆発しそうで、俺は意地になって黙っていた。
舞の腕を少し乱暴に掴んだまま、諒一の背中を追った。舞は困ったようにおどおどしながら俺の後ろをとぼとぼと歩く。
それにしても、こんなところでこんなヤツが登場するとは全くの計算外だった。
それでなくても今朝、眼鏡をかけていない舞を見て、俺はかなり苛立っていた。正直に言うと、ぼんやりとした顔でホームに突っ立っている舞はものすごく心惹かれる姿で、たぶん男ならほとんどのヤツが目を留めてしまうだろう。
伏し目がちにしていても大きな目、形のよい顔のパーツ、そして全体的に色白なのに頬だけ少し赤い。
顔だけでも十分目立つと思うが、何より今は夏。彼女は意外にも胸が大きいのだ。……意外なんていうと失礼かもしれないけど。
そして今日のTシャツは身体にフィットするデザインなのか、どうもまずそこに目が行ってしまう。
――ま、男がみんな女性の胸に興味があるとは限らないけど。
いやいや、そんな悠長なことは言ってられない。実際予備校では舞を見る男の目が気になって仕方がなかった。「見るな!」と一喝したいところだが、そんなことをする俺自身を想像してげんなりする。
だから市村由布(いちむらゆう)がまとわりついてきたのも、うるさいと思いつつ、実はほとんど上の空だった。
いいや、それは嘘かもしれない。
由布を無下に扱わないことでモテる俺を演出したかったというのが本音だろうか。目の前がよく見えていないというのはこういう状況だろう。
そんな俺の気持ちなど露ほども知らない舞が、青白い顔で玄関ロビーに姿を現したとき、愚かなことに俺はほんの少し満たされた気持ちになった。しかも面白いように由布が舞を挑発する。バカな俺はこのシチュエーションを観客のような気分で楽しんでいた。
そこにこの男が登場したというわけだ。
俺は諒一の背中を見て、もう何度目かもわからない嘆息を漏らす。
――こういうのを天罰っていうのか?
歩いているうちに苛立ちはだんだんと影を潜め、自分自身の浅はかな行動の痛々しさが胸に突き刺さる。自然と舞の腕を掴む手から力が抜けていった。
しばらく小道を歩き、駅前の大通りまで出ると、諒一はS市最大のデパートに入った。勿論俺と舞もその後を追う。
いくつかの香水が混じり合った独特な匂いの売り場を通り過ぎ、エレベーターの前に来てようやく諒一が足を止めた。
「ブッフェレストランでいい?」
「うん!」
俺たちを振り返った諒一は真っ先に舞を見た。舞も「待ってました」とばかりに普段の数倍愛想良く返事をする。俺は思わず目を背けた。
奢ってもらうのだから俺たちに文句を言う権利などあるわけもなく、ブッフェレストランにそれぞれが腰を落ち着けたのは、予備校を出てから約三十分後だった。
俺と舞が並んで座り、その向かい側に諒一が陣取っている。
「二人はいつから付き合ってるの?」
諒一は舞と俺を見比べて言った。
舞が急に肩をビクッと震わせて背筋を伸ばす。何かやましいことでもありそうな動作に、俺までビクッとした。
「えっと、一ヶ月前くらい……かな」
「ふーん」
その「ふーん」は「まだそんなもんか」というニュアンスがありありと感じられる嫌味な調子で、俺の眉が勝手にピクッと反応する。
「まだ一ヶ月ですが何か?」
俺は自虐的な笑みを浮かべて諒一に言い放った。向かい側の男は愉快そうな笑顔を見せる。
「別に。じゃあ、今が一番いいときだね」
「い、いや、そんなんじゃないよね?」
舞がおそるおそるこちらを見た。俺はじろりと睨み返す。それから諒一を正面から見据えた。
「諒一さん、でしたっけ?」
「はい?」
「それって恋愛は付き合い始めが一番楽しくて、後は惰性だって言いたいんですか?」
「一般的にはそうじゃない? 恋が終わるのは、自分の遺伝子を少しでも多くこの世に残すための本能的な作用だからね」
涼しい顔で諒一は言った。
この男のムカつくところは態度にゆとりを感じさせる部分だろう。ゆとりといっても「ゆとり教育」のゆとりではない。コイツは意図的に自分の知性を相手に知らしめるような喋り方をしている。
「なるほど。諒一さんは本能だから仕方ないと、多くの女性を泣かせてきたわけですね」
「それは君のほうじゃないの? さっきの状況は誰がどう見たって、一瞬でそう理解すると思うけど」
――うっ、コイツ……!
隣でガチャっと少し大きな音がした。舞が指を滑らせて大きくて重いスプーンを皿の上に落として慌てている。
「あ、ごめん。続きをどうぞ」
つらっとした顔で舞はそう言った。
俺はもう一度舞を睨む。
――ていうか、舞はどっちの味方?
助け舟かと思ったら、舞には全くそういう気はないらしく、俺はかなりがっかりしていた。
そんな俺たちの様子を見て、諒一がフッと笑い、水を飲む。本当に何もかもがムカつく男だ。
「あれは中学の同級生で、元カノでも何でもないですよ」
市村由布のことをこんなところで弁明しなければならなくなるとは、と思いながらため息混じりに言った。
舞の手が一瞬止まる。だが、何も言わずコップに手を伸ばした。
その様子を観察していた諒一が、少し首を傾げて口を開く。
「でも仲が良さそうだったよね。彼女の目の前で他の子と誤解されるような態度を取るのは、どうかと思うけど」
「説教ですか?」
つい我慢しきれず、俺は諒一から売られたケンカを買ってしまった。
「向こうが勝手に絡んできただけで、仲良くなんかないですし、俺と舞のことを諒一さんにとやかく言われたくないですね」
できる限り丁寧な言葉遣いを心がける。ここは冷静さを失ったほうが負けだ。
さすがに諒一の顔から笑みが消えた。笑みどころか感情の全てが消え、その顔の秀麗さだけが際立って、迂闊にも俺ですら諒一に見とれてしまった。
少しすると、向かい側から真っ直ぐな視線が俺に向かってくる。
「そうだね。でも舞のことなら黙ってはいられない」
「な、何言ってんの!? 何の話してるのか、私には全然わかんないんだけど!」
突然、舞がへらへらと笑いながら割り込んできた。俺と諒一の顔をわざとらしく覗き込んでくる。
――やっぱり、この男……。
俺も諒一も舞のことなど無視して、お互い睨み合ったままだ。
急に諒一が舞に微笑みかけた。それはもう愛しくてたまらないような優しい目つきだったから、見ていた俺は不愉快極まりない。
「舞、向こうに本屋があるよ。少し見てきたら?」
最高に穏やかな声音だ。気持ち悪い、と俺は心の中で毒づく。
舞はしばらく固まっていたが、俺と諒一を見比べて「でも」と小さな声で反論した。
「彼と少し話をしたいんだ。舞はいないほうがいい」
諒一はきっぱりとした口調で言い切った。
途端に舞は腰を浮かせて、「じゃ、じゃあ本屋にいるね」と逃げるようにレストランを出て行った。
その姿を名残惜しそうに眺めていた諒一は、レストランの出入り口を見たまま、つぶやくように言う。
「今日の舞を見て驚いたよ。あの子がコンタクトレンズをするなんて、舞は本当に君を好きなんだね」
――え……?
俺は空になった自分の皿を見つめていた。胸がズキッと痛む。
なんだろう、この嫌な感じは。ものすごく悪い予感がする。
諒一が俺に何を言い出そうとしているのかわからないが、とにかく胸がざわざわとして落ち着かない。
「まだ付き合って一ヶ月なら、舞のことは何も知らないんだろ?」
俺の気持ちを見透かしているのか、バカにしたような言い方だった。
「でも高校ではずっと同じクラスで……」
俺は精一杯食い下がる。そうまで言われて黙ってはいられなかったのだ。
「だけど舞は目立たない地味な暗い女の子だ。舞のほうから君のような男を好きになるとは、とても信じられない。からかっているなら、今すぐやめてくれないか」
諒一は真摯な態度で、俺を真っ直ぐに見つめる。すぐに言い返したいが、何かが喉の奥に引っかかって言葉が出てこない。
この男が舞の従兄でなければ「アンタに関係ない」と一蹴できるところだが、俺は諒一より舞のことを知らないという引け目のせいか、強い態度で反撃することができないでいた。
「君にはもっと君に合った相手がいるはずだ。軽い気持ちで舞を傷つけるのはやめてくれ」
「傷つけてなんか……」
「そうか? 舞は君のために変わろうとしている。それだけで十分舞に負担を強いているのに、君は何も気がついていない」
徐々に激しくなる諒一の口調に、俺は眉をひそめた。
「舞が変わろうとするのを、いけないことだと言うんですか?」
諒一は両肘をテーブルの上について手を組んだ。そして深いため息をつく。
「舞のことを何も知らないんだろ?」
先程と同じ言葉をまた繰り返した。
俺は迷ったが、このまま「何も知らない軽い男」と思われているのも癪だから、思い切って告白する。
「俺、小学生のとき、舞に会っているんです」
「いつ?」
諒一は急に身を乗り出した。俺は首を傾げながら少し身を引く。
「確か小学一年生。まだ眼鏡もかけていなくて……」
「舞はそのときのこと、覚えていた?」
心臓がドキッと飛び跳ねた気がした。口を開いたまま、答えに詰まる。教師に当てられても正解の見当がつかない場合、こんな気持ちになるのだろうか。
「覚えているわけがないよな」
冷酷な視線が俺に突き刺さった。
――この男は俺の知らない何かを知っている。
本能的にそう直感していた。とりあえず生ぬるい水を飲んで、乾いた喉を潤す。
「確認したことはないです。舞は覚えてなさそうだし、ぶっちゃけ俺だって何をして遊んだかなんて、ほとんど忘れているし」
諒一が俺に同情するような笑みを浮かべた。こっちは自然と目つきが鋭くなる。
「君は不思議に思わなかった? 小さい頃はもっとかわいかったのに、って」
「それは……」
――コイツ、何を知っているって言うんだ?
口ごもった俺を、諒一は憐れむような目で見つめてきた。正直なところ、喉から手が出るほどその謎の答えが知りたいと思う。
だが、俺のほうから「教えてくれ」とは口が裂けても言いたくなかった。
「だけど今の俺は、分厚い眼鏡をかけていて、目立たなくて地味な舞がいいって思ってます」
自分が軽い男に見えるのは嫌というほどわかっている。それにいくら「舞のことは本気です」と言ったところで、それを証明するものは何もない。
結局俺に言えることは、これくらいしかないのだ。それだって軽くあしらわれて終わりだろうけど。
小さくため息をついて諒一を見ると、意外にも頬杖をついて難しい顔をしていた。
「その言葉を簡単に信じるのは無理だけど、君のために無理をする舞を見るのも辛い」
「無理?」
俺は思い切り眉をひそめた。
そういえばさっきも諒一は舞が変わろうとすることに対し「負担」だと言っていた。普通、人が努力して自分を変えようとすることをそんなふうには言わないものだ。
向かいに座る男は背もたれに寄りかかって、長い足を見せびらかすように組んだ。
「自己紹介が遅くなったけど、俺は大学生で、大学では自動車事故防止システムを研究している」
「へぇ」
なぜ急にそんなことを言い出したのかわからないが、俺はとりあえず相槌を打つ。
「自動車事故は日本中、いや世界中のどこでも起こりうるのに、それを防止しようとする取り組みは不十分だと思わないか?」
「そうですね」
真面目な顔の諒一を半信半疑で見返した。言っていることはもっともだと思うが、それと舞の変化がどうこうという話との間に共通点が見出せない。
諒一は目を伏せて眉根を寄せた。苦しそうな表情だった。
「今から五年前、ある家族が乗った車が、若い男の運転する車と正面衝突した。突っ込んで来た若い男の車は大破し、男は即死だった。一方、事故に巻き込まれた家族の乗った車もぐちゃぐちゃに潰れ、特に助手席は酷い有様だった。だが、奇跡的にその家族は全員一命を取り留めた」
ニュースの記事を読み上げるように淡々と語られる言葉たちが、俺の脳内で凄惨な事故現場の様子を想起させた。無意識に唾を飲み込む。その先を聞くのが怖かった。
「まさか……」
向かい側の諒一はどこか遠くを見ている。
「その家族の中で一番重症だったのは助手席に乗っていた母親だった。運転していたのは父親で、後部座席にはその娘が二人。母親は衝突した弾みに車外に投げ出され、特に頭部の損傷が酷かった。目撃した人によると、顔は誰か判別ができないくらい酷い状態だったそうだ。そして家族の中で一番軽症だったのは運転席の後ろに座っていた下の娘だった」
俺は身動きすることもできず、ただ黙って諒一の言葉を聞いていた。まるで全身が時限爆弾になったかのように感じる。唯一規則正しい心臓の音が、不吉な出来事をカウントダウンしている気がするのだ。
諒一は俺の目を見て言った。
「事故に遭ったのは、舞の家族だよ」
――そんな……!
今、聞いたことは既に過去の出来事だというのに、俺の脳の中ではその内容をなかなか信じようとしなかった。信じられないというよりは、信じたくなかったのだ。
しかし、諒一の態度は作り話を語っているようには見えない。やはり本当のことなのだと、俺は渋々受け入れる。
諒一は小さくため息をついて、それから続けた。
「舞は事故の直後もはっきりと意識があったそうだ。酷く負傷した家族の姿を見て、正気を失ったように泣き叫び、到着した救急隊員に自分はいいから家族を助けてくれと懇願していたという。家族は全員別々の病院に搬送され、まだ小学生だった舞の元には伯母である俺の母親が付き添った」
その後、諒一は独り言のように力ない声で付け足した。
「何しろ舞の家族は、俺の家に遊びに来た帰りに事故に遭ったんだ。あと五分引き止めていれば、と今でも思う」
なんというむごい運命だろうか。
そのときの舞の気持ちを考えると胸が張り裂けそうに痛む。
俺は一瞬だけ自分の家族が同じような目に遭うことを想像してみたが、すぐにギブアップした。
「それで舞は?」
「事故から数日後、小学校の担任が見舞いに来たが、舞の反応が鈍く、俺の母親が最初に『何かおかしい』と気がついた。担任が帰った後、舞は『あの人、誰?』と言ったそうだ。そして『何が大変だったの?』と不思議そうに聞いてきた。自分が事故に遭ったことは彼女の記憶から抜け落ち、なぜか親族以外の人間のことをすっかり忘れてしまっていた」
――記憶障害……
諒一が「覚えているわけがない」と断言するのは当然だ。
舞の場合、部分的な記憶喪失のようだが、単に忘れてしまったというレベルで考えていた俺には十分すぎるほどのショックだった。
それからの舞は、再び学校に通学できるようになったものの、友達と上手く交流することができず、ひたすら本を読んで過ごすようになったらしい。
おそらく友達の側も舞にどう接してよいのかわからなかったのだろう。小学六年生の頃であれば、既に多感な時期にさしかかっていて人間関係は難しくなっていたはずだ。転校生だってすんなり馴染むのは難しいというのに……。
それでも舞は真面目な性格のせいか、学校にはきちんと通い続けていたようだ。
「だけど舞は自分が交通事故に遭い、記憶障害があるということを今でも知らないんですよね?」
俺は一通り話し終えた諒一に問う。
「舞の家族は彼女が事故直後の記憶を失ったことには意味があると思っている。なかったこととして生活するほうが精神的な負担は少ないだろう。俺もよくわからないが、今まで舞の中で矛盾が生じて混乱するようなことはなかったみたいだな。だから無理に思い出させる必要はない、と彼女の両親は思っている」
勿論俺もだ、と諒一は付け足した。
――それでコイツは舞が変わることを負担だと言ったのか。
今、振り返ってみると、舞は自分の生活を変えることに抵抗感を持っていた。イメチェンしてみたら、という英理子の言葉に、きっぱり「できません」と反応した舞の声音が思い出される。あのときの舞は無意識のうちに自己防衛本能を働かせていたのかもしれない。
俺はうつむいて唇を噛んだ。
それ以外に何ができるというのか。
頭の中は落雷を受けたかのようなショック状態が続いていた。
「君のどこに魅力があるのか俺には全くわからないけど、君が舞を苦しめる存在だとわかったときには容赦しない。覚えておけ」
そう言い捨てて諒一は腰を浮かせた。俺は反射的に顔を上げる。
「ただの従兄にしてはずいぶん舞に入れ込んでいるんですね」
「悪いか?」
俺の嫌味など歯牙にもかけず、立ち上がった諒一は俺を見下すような目をして微笑んだ。
――コイツ、本気だ……。
去っていく諒一の背中が、先ほどより何倍も大きく見えた。
最後に見た彼の笑みが、俺の中の傲慢さを完膚なきまでに叩きのめし、つぶれた胸に錘(おもり)のようにのしかかってくる。
コップに手を伸ばすと、水はひと口分しか残っていなかった。それを喉に流し込むが、ぬるい水はただ不味いだけで、喉の渇きは癒えるどころかますます酷くなる。
心の中ではまだ何の結論も出ていないが、俺はとりあえず立ち上がり、舞が待つ本屋へ向かってのろのろと歩き始めた。
1st:2010/12/18