実は結構動揺していたと思う。
そもそも、男子同士のケンカなんて滅多に起こるものではない。というか、入学以来初めて見た気がする。校内で、休み時間中に、流血事件!
そして田中くんからの報告によると、口から多量の血を流していた男子は前歯が一本折れていたらしい。勿論殴ったほうの拳も負傷。
これは校内で起きた事件なので先生たちの寛大な計らいにより謹慎等は免れたようだけど、相手を負傷させるようなケンカというのは下手をすると犯罪になるとか……。
どうしてそこまで見境なく攻撃的になれるのか、私には不思議でしようがない出来事だった。これは私が女性だからそう思うのだろうか。
しかも最後に私のロッカーを破壊していくという全く意味不明の行為で、私の気持ちは大いに乱れていた。
本当なら菅原くんや田中くんにもっとたくさん感謝の気持ちを伝えなければいけなかったのだと思う。仲がいい訳でもないただのクラスメイトのロッカーが壊されただけなのに、暴力男子に抗議してくれて、更にロッカーの扉も直そうとしてくれて、よく考えてみると彼らの善意はありがたいを通り越して、ありえない出来事だった。
そして菅原くんと清水くんが廊下で話す姿を茫然と見ていた私は、男子ってこんなに頼もしい存在だったのかと、大げさかもしれないが確かに感動していた。
同時に自分がとてもちっぽけで弱い生き物のような気がして、急に心細くなる。
今まで私はどんなことだって自分一人でやってのける、自分一人で生きていけると信じて実行してきたつもりだった。少なくともこの学園生活は一人でも大丈夫だったのだ、……今までは。
それにしても、これはまさに天災としか言いようがないな、と凹んだロッカーの扉を見て思った。
一体、どうやったらここまで凹ませることができるんだろう。ロッカーの扉もかなりぶ厚く並の力ではびくともしないはずだ。まさか上靴にスパイクがついているはずはないし。
本当に高校生ともなると、男子はあらゆる意味で私たち女子とは全く別の生き物だと実感する。
次の授業が始まったので小さくため息をついて教壇を見た。またテストが返却されるらしい。今度は日本史だ。返ってくる前から憂鬱だった。
昨日といい、今日といい、最近の毎日はそれまでの日常に比べるといろんな出来事がてんこ盛りで、正直なところ私はひどく疲れていた。
しかもテストの結果が案の定悪い。家に帰って両親に報告することを考えると気が遠くなりそうだ。怒った母親の様子が目に浮かぶ。
そして我が家では「なぜこんな点数を取ってしまったのか」検証会議が盛大に行われるのだ。間違った問題一つ一つを「どうしてこれがわからないの?」と尋問されると自信喪失、顔面蒼白、しまいに自暴自棄になること間違いなしだ。
――予備校か。行ってみたいような気もするけど。
母親はたぶん賛成してくれると思うが結局「パパに聞いてみなさい」と言われ、父親から「それで成果が上がるのか?」と問い詰められながらくどくどとお説教をいただく流れを想像すると、自然と大きなため息が出る。
――なんか、ウチって面倒なんだよね。
両親のことが嫌いなわけではない。ものすごく好きなんだけど、融通の利かないところが多いのだ。もう少し緩くてもいいんじゃないかと思う部分はたくさんある。
――友達付き合いを避けたくなるのは、あの二人の影響も多少あるかな。
外泊は絶対禁止だし、友達だけでの遠出も理由がしっかりしていないとダメ。あの風変わりな姉が高校生時代に数度トライしたがことごとく却下。姉のしょんぼりした顔が今でも忘れられない。
――清水くんと一緒に通うって知ったら……反対されるかな?
というか、付き合っていることを両親にはまだ報告していないけど、やっぱり言っておいたほうがいいのか、言わないほうがいいのか……。
悩みは尽きないが、先生から名前を呼ばれて仕方なくテストを受け取りに行った。日本史は今回のテストの中で割と手応えのあった科目だ。
席に戻るとまた隣のヤツが話しかけてくる。
「どう……だった?」
気を遣われるとますます傷ついた気分になるのはなぜなんだろう。でも先ほどのあんな場面を見せられてしまっては突っ撥ねることもできない。
「さっきよりはマシな点数です」
実際、現代文が酷すぎた。この教科で60点台というのは自己最低点だった。日本史はかろうじて70点台をキープしたので、まだ気持ちにゆとりがある。
「そっか。よかった」
何気なく隣を見ると、ニッコリと笑う清水くんと目が合ってドキッとした。廊下で私のロッカーの扉を直してくれた姿が頭をよぎる。
思えば彼にもまだ「ありがとう」と言っていない気がする。菅原くんや田中くんには無理でも、せめて清水くんにはちゃんとお礼を言っておきたいと思った。
「あの、さっきはありがとう」
隣の清水くんはニコニコしたまま小さく頷く。
「どういたしまして。でもあれくらい当たり前だけど」
「当たり前?」
どうして当たり前なのかよくわからず、私は一瞬怪訝な顔をした。すると清水くんが自分のシャープペンシルを手に取って、私の日本史のノートを自分の机の上に引き寄せる。
――舞の悲しむ顔は見たくないから。
さらさらとシャープペンシルが紙の上を走り、綺麗な文字でその言葉は綴られていた。
私は戻ってきた自分のノートを黙って見つめる。何か言いたいけど胸がいっぱいで言葉にならない。
ずっとその愛しい文字を見ていたいと思っていると、ノートがまたズズッと隣の机の上に移動した。
――さっき私語で怒られたから、授業中に話しかけるのは自粛する。
――その代わり、たまにノートにいたずら書きするけどいい?
見た途端、思わず笑みがこぼれてしまい、それを隠すように慌ててうつむく。
少し考えてから彼の綺麗な文字の下に返事を書き込んだ。
――勉強の邪魔にならない程度なら。
それを隣から盗み見た清水くんは頬杖をついてクスッと笑うと、囁くような声で言った。
「ラジャー」
私はまた笑いを噛み殺すのにひどく苦労するが、彼の優しさが嬉しくて、テストの点数が悪いことなどすっかり忘れて、幸せに胸を熱くしていた。
その日、帰宅した私は戻ってきたテストを無言で母親の前に並べた。
答案用紙を見る母の顔色がどんどん青ざめていく。
「舞。一体どうしたのよ?」
「これが私の実力なのかも」
母親は険しい顔で私と答案用紙をしきりに見比べた。
「そんなわけないわ。舞は努力家だもの。今回の点数は頑張ってもこれだったって言うなら仕方ない。でも……」
「ママ、私ね、夏休み中予備校に通ってみたいと思うんだけど」
母親の言葉を遮って、思い切って言ってみた。母は眉間の皺を消し、今度は私の顔を穴が開くほど見つめてくる。
「そうね。今まで塾にも行ったことがなかったし、いい経験かもね」
「あと、もう一つお願いがあるの」
私は慌てて付け足した。このタイミングを逃すと言い出しにくくなりそうな気がする。
「なに?」
「ケータイがほしい。……ダメかな?」
「ケータイ……」
母はしばらく複雑な表情で考え込んでいたが、大きく息を吐くと意を決したように言った。
「舞にもそろそろ必要かなと思っていたけど、ママの一存では決めかねるわ。舞からパパに言ってみなさい」
――やっぱり……。
思った通りの返事だった。仕方なく頷いて部屋に上がる。
すぐにノートパソコンの電源ボタンを押すあたり、私は重症だ。でもパソコンのメールじゃもどかしくてもう我慢できない。
彼の姿が見えている間はこんなに不安な気持ちにはならないのに、離れていると心がキリキリと痛み、磨り減っていくような感覚に陥ってしまう。
人を好きになるって、意外と重労働だと思う。特に心がしんどい。
でもやめられない気持ちもわかる。好きな人から愛される。これほど幸せなことが他にあるだろうか。
――そのためなら私は何だってできる。何だって耐えられる。
昂った気持ちのまま、根拠もないのにそんなことを考えたりした。
予備校とケータイの件を父に掛け合ってみたところ、三十分ほどお小言を頂戴したが、案外あっさりと承諾を得ることができた。ものすごく勇気を出して口にしたのだが、父にきちんと理解してもらえてホッとした。何より「舞ももう自分で考えて行動できる年齢だと思っている」と私自身を認めてもらえたのが嬉しい。
しかし翌日、あまりの嬉しさに鼻歌が出そうなウキウキした気分で登校した私を待ち受けていたのは、かなり残酷な現実だった。
学校に到着し、教室へ向かう階段を上っていると、部活動の朝練習を終えたサッカー部の男子が私を追い越して駆け上がっていった。運動部独特の汗のにおいがして一瞬顔をしかめたが、彼らが通り過ぎると何もなかったように階段はシンと静まり返った。
でも階段を上りきった私の耳にこんな声が聞こえてきて、また顔をしかめる。
「おい、なんかこのへん、におわない?」
「そう言われると、なんか臭いな。なんだ、このにおい?」
「何かが腐ったようなにおい?」
ウチのクラスの前でサッカー部の田中くんと菅原くんが二人してしきりに鼻をクンクンさせながら話していた。その様子を遠くから見るとかなり笑えるのだが、私は表情を変えないようにして教室へと向かう。
「ロッカーの中か?」
「……かもな」
近づいていくと二人はますます鼻をひくひくさせてにおいの元を探索していた。その場所を見て私は「あれ?」と思う。
昨日破壊された私のロッカーの扉は、清水くんが昼休みに再度直してくれて、鍵はかかるようになったのだけど、下端に少しだけ隙間が残ってしまった。でもどうにか指が入る程度の隙間なので、ロッカー内のものを盗むことは不可能なはずだ。
ここまで直してもらえたら私は何の文句もない。そう思って昨日は大満足で下校したのだ。
しかし、田中くんと菅原くんは明らかに私のロッカーの前で鼻を寄せ合っている。
「……近いな」
「間違いない。このへんだ」
私が廊下にいることに先に気がついたのは菅原くんだった。
「おはよう、高橋さん」
「お、高橋さん。ちょっとこっち来てよ。なんかここにおわない?」
田中くんはそこが私のロッカー前だと気がついていないような気軽さで、私を手招きした。私が気まずい顔で硬直しているのを、菅原くんは眉をひそめて観察している。
「おはよー。どうしたの、みんな? 私のロッカー、開けたいんだけど」
そこに教室からひょいと顔を覗かせたのは高梨さんだった。ロッカーの順序は出席番号順なので、私の上は高梨さんのロッカーなのだ。
「高梨。お前もちょっとこっち来て、においを嗅いでみろよ」
「におい?」
三つ編みにしたおさげを揺らして高梨さんは廊下にやって来た。今度は三人で鼻をクンクンさせる。
すぐに高梨さんは鼻を指でつまみ、顔を思い切り歪めた。
「うっ……。アニキ、これはにおいますぜ」
「ふざけてる場合じゃねぇよ。お前のロッカーじゃねぇの?」
菅原くんが高梨さんの頭を小突きながら言うと、高梨さんは慌てて自分のロッカーを開ける。
「見たところ、何もない。あるとすれば……最近ジャージを洗っていない、とか」
「お前、持って帰って洗え! 女のクセにどういう神経してるんだ!」
「そんなこと言ったって荷物になるし面倒なんだもん。それに持って帰ったら家に忘れてくるかもしれないしー」
菅原くんと高梨さんが言い合っている間、田中くんはまだ自身の鼻探知機でにおいの元を探っていた。
「いや、高梨じゃねぇな」
やけにきっぱりとした田中くんの声に、私は立ちすくんだまま自分の顔が青ざめていくのがはっきりとわかった。
「私のロッカー、かな?」
言いながら私は三人のもとへ近づいた。そして注目を集める中、鍵を取り出して自分のロッカーを開けてみる。手が震えてすんなりとはいかないが、ガチャリと音がして鍵が外れた。
ポトッ。
扉を手前に引っ張った途端、小さなポリ袋が床に落ちる。
「な、なんだこれ?」
田中くんが真っ先に声を上げた。私たちはポリ袋をじっと見つめる。周囲には刺激的な腐敗臭がかなりの勢いで漂い始めた。
「くっせぇー! 何かが腐ってる!」
私を含めたポリ袋を囲む四人は一斉に鼻をつまんだ。そしてじりじりと後退りする。
登校してきて廊下を通りかかった人だけでなく、騒ぎを聞きつけた野次馬たちが集まり始めた。
「え、イタズラなの? なにこれ、くっさーい!」
同じクラスの女子グループが教室の戸口でこちらを見ながら冷やかすように大声で言う。
そちらに視線をやると、一瞬、西さんと目が合った。彼女は何食わぬ顔ですぐに教室内に消える。
「どうする? このままにはしておけないよな」
菅原くんが田中くんに話しかけた。その間にも思わず顔をしかめたくなる腐敗臭は空気を汚染し、クラスの前には人だかりが増え続けている。
私は意を決して片手で鼻をつまんだまま、空いている手でそのポリ袋を拾おうと屈んだ。
だが、つかもうと思った瞬間、別の手がポリ袋に伸びる。
「これ、刺身だな」
私は自分と同じように屈んでいる隣の人物の顔をおそるおそる見た。その間も彼は口が開いたままのポリ袋の中身を探っている。
「昨日の昼に寿司を買って、放課後にでも高橋さんのロッカーにできた隙間から忍び込ませておいたってところか? わざわざ手の込んだことを……」
呆れたようにも、感心しているようにも受け取れる嘆息を漏らして、彼は身を起こした。拾い上げたポリ袋の口をくるくると捻り、最後にギュッと縛る。
そして周りを見渡した。
「それで何がしたいわけ?」
シーンとなった廊下で誰かが堪え切れないように「プッ」と笑う。
「清水、誰に向かって言ってるんだよ。こんな姑息な手を使うヤツが答えるわけねぇだろ!」
菅原くんだった。
廊下にはまたざわざわとした空気が戻ってきて、清水くんは小さくため息をついた。
「ま、そうだけど。でもこんなことしかできないってことは、最初から高橋さんに勝てないと自ら証明しているわけだ」
――え?
私は清水くんを見上げる。彼はこちらを見ると、口角をきゅっと上げて微笑んだ。
「そうだね! そうだよ! 清水くん、たまにはいいこと言うね! キミ、実は頭いいんじゃない?」
突然隣から明るい声がして、高梨さんが「ぎゃはは!」と笑う。そして笑っていたかと思うと急に真剣な顔で言った。
「ホント、こんなことするなんてバカみたい! どんな頭悪いヤツだ、隠れてないで出て来いっつーの!」
彼女は本気で怒っていた。胸に何かがこみ上げてきて、唇を噛んでそれをグッとこらえる。うつむいた私を庇うように、両隣から清水くんと高梨さんがそれぞれ私の肩に手を置いた。
それを契機に野次馬は散り、清水くんはポリ袋を持って立ち去ろうとした。ぼーっとしていた私は慌てて後を追う。
「外のゴミ箱に行くんでしょ? 私が捨ててくる」
チラッと振り返った清水くんは、そのまま何も言わずに前を向き階段を下りる。私もその後をついて行ったが、清水くんの足が速くて急がなくてはならない。
「あっ!」
足がもつれて、身体が宙に浮いた。何が起こったのかわからない。
空白の時間の後、気がつけば清水くんの腕に抱きとめられていた。
遠くで朝のホームルームが始まるチャイムの音が聞こえる。
「危なかった」
「……うん」
それでも私の頭の中はぼんやりとしていた。これは現実の出来事なのだろうか、と頭の片隅で疑問が湧き起こる。
「少し保健室で休んだら?」
私の顔を覗き込む清水くんの顔が近すぎるが、なぜかドキドキしない。彼がガラス一枚を隔てた向こうの世界にいる人みたいに見えた。
「どこも痛くない」
「無理しなくていいのに」
――無理? ……してないのにな。
そんなふうに見えるのかなと思いながら首を横に振った。今の自分がどんな顔をしているのか、よくわからない。ただ顔の筋肉が強張って笑うのは難しい気がする。
清水くんは私をきちんと立たせると階段の踊り場に落ちているポリ袋を拾い上げ、また階段を下り始めた。今度は私に合わせているのか、ゆっくりと。
「これで完璧にバレたね。たぶん学校中に……」
清水くんの後ろ姿を見ながら、小さくため息をつく。
「なんかもう、どうでもいい。どうせ遅かれ早かれ大変なことになるっていう気はしてたから」
階段を下りきった清水くんは私を振り返った。真面目な顔だ。
「舞、本当に大変なのはこれからだよ」
――これから……。
私の足が勝手に止まる。
「ここで待ってて。走って捨ててくるから。すぐ戻る」
小さく頷いたが、それを見もせずに清水くんは玄関へ走り去った。
何かを考えようと思うが頭が全然働かない。現実に起こっている出来事が、まるで本に描かれている出来事のように実感がないのだ。
もしさっき階段から落ちて、彼が受け止めてくれなかったとしても、痛みなんか感じなかったんじゃないだろうか。
そう思うと突然胸がドキドキした。清水くんの顔が接近しても無反応だったのに、だ。
――試してみようか。
私は階段を踏みしめて上る。
踊り場にたどり着き、振り向いて下を見た。結構な高さがある。
――どうやって落ちてみようか。
――今なら飛び込みみたいに大きくジャンプして頭から落下できるんじゃないだろうか。
そうしたら私はどうなるのだろう。心臓の音が大きくなる。唾を飲むと喉がゴクッと鳴った。
目を閉じて大きく深呼吸する。
思い切って飛び込むポーズを取ったその瞬間、タッタッタッと足音が聞こえたかと思うと、止まった。
――え……!?
「なに……してるの?」
目を開けると階段の下には、もう我慢できないという様子で盛大に吹き出している清水くんがいた。
「そんなところで、そのポーズ?」
気がつけば、私は中腰でお尻を突き出し、両手を後ろに振り上げ、スキージャンプ競技の踏み切り直前のようなスタイルで踊り場の上に佇んでいたのだ。
「こ、これは……ですね」
「うん」
「め、め、瞑想……?」
「ぶーーーっ!!」
清水くんは本気で笑い転げ、しばらくして目尻の涙を拭いながら階段を上がってきた。
「瞑想ってそんなバリエーションがあったんだ」
「そうですよ。何事も極めると奥が深いんです」
意地になって言い張るが、微妙に語尾が丁寧語になってしまい、口から出まかせを言っていることはバレバレだった。その証拠に清水くんは可笑しくて仕方がないという目をしている。
「……っていうか、危ないよ」
「はい。でも急に母の言葉を思い出しました」
私は階段を上りながら、目を閉じた瞬間頭に浮かんだ言葉を復唱する。
「『人間、死ぬ気になればなんでもできる』って」
「へぇ」
隣の清水くんは感心したように頷いた。それから急に私の腕をつかむ。
「俺の見ていないところで変なこと考えない」
「何も考えてないって!」
瞬間的に突っ撥ねる。清水くんは少し考えるような顔をして、私の腕を解放した。
「そっか。舞は瞑想してたんだっけ?」
私は口を尖らせてしきりに首を縦に振る。だけど心の中ではヒヤッとし、話題を変えようと慌てて思考を巡らしていた。……いや、本気で落ちてみようなんて思ってたわけじゃないんだけど。
でもこの悪魔を騙すのは容易ではない。何か言えば言うほどボロが出そうで怖かった。
そんな私を見越したのか、先に清水くんが口を開く。
「ま、幸いもうすぐ夏休みだし、少しは落ち着くと思うけど」
夏休みという言葉で私は急に思い出した。
「あ、あの、私も予備校に行く!」
隣を歩く人の表情が突然ほころんだ。その笑顔を見た途端、身体中がボッと熱くなる。今まで切れていた電源がいきなりONになったような感覚だ。
「楽しみだなぁ」
「うん。あと、ケータイも買う!」
「え、マジ!?」
「マジです」
ちょうど二階と三階の間にある踊り場に差しかかったところだった。上のほうから、朝のホームルームを終え、一時間目の準備をする生徒たちのざわめきが聞こえてくる。
清水くんは素早く周りを確認して、ギュッと私の両肩を掴んだ。
――え、何する……?
そう思った瞬間、額に何か暖かいものが触れた。慌てておでこを手で押さえ、そのまま彼から数歩離れる。
「なっ……!?」
清水くんはニッコリと微笑むと、何もなかったように先に階段を上り始めた。
「さすがに校内ではここまでが限度だな」
「え、ちょっ、だっ!」
意味不明の言葉を口走る私を、清水くんは上から見下ろす。いや、ちょっと、だって、校内でもここまでしちゃダメじゃない!?
「大丈夫。誰も見てない」
「そ、そりゃそうだけど。いや、そうじゃなくて!」
彼に近づきながらパニくる頭の中を何とか整理しようと思うが、全然上手くいかない。それどころかふと見上げた清水くんの顔に、私は思わず釘付けになった。
「このことは誰にも内緒」
唇に人差し指を立てて「シーッ」のポーズをすると、ニッと笑う。その蠱惑的な表情に、私の脳は全ての思考活動の放棄を高らかに宣言したのだった。
こうして「腐敗刺身異臭事件」は皮肉にも清水くんと私の距離をほんの少し縮めるきっかけとなったのだが、犯人はそうとも知らずに今もどこかでほくそ笑んでいるかもしれない。
それはそれでかわいそうなことだと思った。
勿論私だって全然ショックを受けなかったというわけではない。
ただ剥き出しの悪意は見るものに憐憫の情を催させる痛々しいものだけど、それ以上でもそれ以下でもない。
それが私を不思議にも悲しくて虚しい気分にさせるのだろう。
しかし、ロッカーが壊されたことも、腐った刺身を入れられたことも、清水くんのおでこにちゅーで全て吹っ飛び、どうでもよくなってしまった。
おそろしや、おでこにちゅー……。
……ってことは、他のところにちゅーなんかしたら大変なことになるよね? そういえば清水くんも言ってたな、「大変なのはこれからだよ」って……。
あ、あれはそういう意味じゃないか。そうだよね。あはは、何考えているんだろう、私。
いかんいかん。こんな調子で清水くんと一緒に予備校に通ったりして大丈夫なんだろうか?
しっかりしろ、高橋舞! 恋にうつつを抜かしていたら将来を棒に振ってしまうぞ!
でも、もう一回おでこにちゅーしてほしいな、なんて……密かに思っていたりする自分が、ちょっとかわいいなと思ったりして。
そして、はじめて恋をした私の、はじめての夏が始まった――。
〈「ないしょの関係」END〉
1st:2010/10/09