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涙色の彼女 9



 雲が風にのって気ままに空を流れていく。

 ふわふわと綿菓子のようで美味しそうだと思い、教室の壁時計を見るともうすぐ正午だ。

 ――暇だ。ついでに腹が減った……。

 今日何度目かわからないため息をつく。そして恨めしげに隣の席を見た。

 ――やっぱり昨日体調悪かったのかな。

 また窓の外に目をやった。

 授業は最高につまらない。古文の先生が『源氏物語』について解説しているが、当時の帝の夜の生活について、冗談交じりにきわどい発言をして生徒の笑いをとっている。

 正直、俺にはどうでもいい。

 ハーレムは楽しそうだが、帝の寵愛を受けた桐壺の更衣が他の女性たちから嫉妬され、廊下を歩けば着物が汚れるようにわざと汚物を撒き散らしてあったりするくだりを読むと、男女それぞれの性(さが)に嫌悪感すら覚える。

 愛情が、場合によっては、悪意に発展していくのが人間の怖い部分だと思う。

 しかもそれが大昔から何も変わっていないというのが、気が滅入る原因だ。

 ――愛……ね。

 しかし考えようによっては『源氏物語』はよい教訓話だとも言える。現代風に言うなら、イケメン御曹司が愛した女性は必ずしも幸せにはなれないのだ。人生、ほどほどがよいということか。

 つーか、イケメン御曹司なんてどこにいるんだ? と、俺は思う。

 しかも御曹司というのは生まれてみたら家が金持ちで超ラッキー! ……といった具合で、本人の努力は皆無。

 イケメンだって同じだ。まぁ、現代では整形という裏技もあるが、それは努力とは言えまい。

 ――それにしても、進路どうするかな……。

 担任から呼び出されて言われた言葉を思い出した。

「そろそろどっちに進むのか、ご両親とよく相談して決めたほうがいいぞ」

 ――なぜ俺の進路を両親と相談しないといけないんだ?

 知らないうちにまたため息が漏れた。

 欠席している舞の席をぼんやりと眺めて、先週聞いた彼女の進路について思いをめぐらす。

 舞の志望大学は見当がついたが、たぶん今の彼女の成績だとかなり厳しいだろう。その場合、ランクを落として地元私大の文学部を受験させるというのが、進路指導のいわばセオリーだった。

 どちらにしろ、舞は地元の大学を志望するようだ。それがわかってから、俺の心はかなり揺れている。

 数学をやるなら地元では無理だ、というのが俺の結論だった。

 そして一般論としては、歯科医になるなら舞が志望している地元の国立大学に進学するのがベストの選択と見なされていた。

 ――俺は……どうすれば?

 考えがまとまらないうちにチャイムが鳴った。

 頬杖をついたままもう一度ため息をつく。すると「おい、清水」と言いながら前の席に田中が腰掛けた。

「浮かない顔してどうした? 今日はお隣さん、休みなのに……」

 田中の発言の意図がよくわからず、首を捻る。

「高橋さんが休んで、俺が嬉しくならないといけない理由は?」

「だってよ、お前……」

 急に口の横に手を当てて声を潜めた。



「強請られてるんだろ?」



「はぁ?」

 突飛な発言に俺は思わず大声を上げる。

「いくらだ?」

「お前、何言ってんの?」

「いや、だから、お前さ、高橋に何か弱み握られてるんだろ? あ、そうか! この前高橋が居眠りして椅子から落ちたのを庇ってやったのも……」

「違う。田中、勘違いしてる」

 俺は田中の暴走を慌てて止めた。どこでどうなったらそういうことになるんだ?

「何が勘違いなんだよ」

 田中は自分の思い込みに絶対的な自信があるらしい。コイツがそう思い込むに至った経緯が知りたいが、とりあえず舞のあらぬ嫌疑を解くのが先だ。

「まず俺は高橋さんに金を請求されていない。それに弱みを握られてもいない」

「あ?」

 間抜けな返事だ。口をだらしなく開けたまま田中は固まった。ダメ押しに俺は付け足した。

「あと、高橋さんが休みでつまらないな、と思っていたところ」

 田中はぱちぱちと細い目を何度か瞬きさせる。

「清水、お前……それって、あの高橋と仲良くしてるってこと?」

 信じられないものを見るように田中は俺から少し遠ざかった。俺はその言い方にムッとしてすぐに言い返す。

「『あの高橋』って、そんな言い方は高橋さんに失礼だろ」

「だってアイツ暗いじゃん。友達もいないし。でも実は裏で危ないことしてるんじゃないかって噂だぞ?」

「危ないこと? ……噂?」

「そうだよ。あの分厚い眼鏡もダテで、実はアイツ結構綺麗な顔してるから、ほら、怖い人たちと仲良くて、ヤバいこともいろいろやってるらしいとか……」

 俺はムカつくのを通り越して呆れた。

「誰だよ、そんなこと言ってるヤツ」

「うちのクラスのヤツ、みんなそう思ってるよ」



「バッカじゃねぇの!?」



 教室内がシンと静まり返った。

 いつの間にか俺は立ち上がっていて、田中を見下す格好になっていた。

 クラス内の全視線を一身に受けて、更に俺の怒りは膨れ上がる。

 ――なんて低俗なヤツらだ!

 一人ひとりの顔を睨みつけると俺は椅子を乱暴に戻して教室を出た。

 制服のズボンのポケットに手を突っ込んで、廊下の真ん中をズカズカと歩いて行き、ある教室の前で立ち止まった。

 教室の中を覗くと、英理子の顔が見える。

「神崎」

 呼び捨てて、顎でこっちに来いと示す。英理子は一瞬嫌そうに顔を歪めたが、すぐに廊下まで出てきた。

「何の用? ストーカー男」

「つか、今日高橋さん休んでるから」

「えー?」

 英理子は驚いて手で口を覆った。舞の体調不良に気がついたのは俺だけか。

「どうしたんだろう。あ、もしかして……」

「何?」

 英理子はムフフと気色悪い笑みを漏らした。

「なんでもない。それより何か用?」

 笑いを無理に収めて澄ました顔で言う。訝しく思うが、まずはこのイライラをぶつけることにした。

「英理子、高橋さんの噂、知ってる?」

「ウワサ? 知らない。そんなの聞いたことないけど」

 学校内の噂に詳しい英理子が知らないのは変だと思いながら、田中の言ったことを話すと、英理子は難しい顔で頷いた。

「それ、きっと最近クラスの中で広まった噂なのよ」

「どういうことだ?」

「はるくんが舞ちゃんと仲良くするのを不愉快に思う人がいるんじゃない」

 思わず腕を組んで廊下の壁に寄りかかった。

 ――なるほど。そういうことか。

 納得したくはないが、それが一番妥当な線だと認めざるを得ない。



「バッカじゃねぇの?」



 俺はもう一度同じセリフを、今度は心底呆れて言った。

「そう言いたくなるのもわかるけど、仕方ないわよ。それよりはるくんは自分の行動の結果が相手に及ぼす影響を考えたほうがいいと思う。女の嫉妬は怖いわよぉ」

「……ご忠告どうも」

 まだ何か言いたげな英理子にさっさと背を向けて売店へ向かった。腹が減っていたのを急に思い出したからだ。

 パンを買って教室へ戻ろうと階段を昇っていると、上から同じクラスの高梨まゆみが軽やかに降りてきた。

「高梨さん、ちょっといい?」

 トレードマークの三つ編を両手で掴んで「うん」と、俺の三段上で立ち止まる。

 俺は辺りに人影がないのを確認してから小声で言った。

「俺の隣の席の人の悪い噂って聞いたことある?」

 高梨はすぐにピンと来たらしく、ニヤリと笑顔を見せた。

「清水くんも気にしてたんだ。高橋さんがそんなヤバい人たちと友達なわけないよねー。みんな高橋さんと話したことないから勝手なこと言ってるけど、清水くんは最近仲良くしてるからわかるでしょ?」

 一瞬、反応をためらう。この高梨という女子はどこまでが天然で、どこまでが計算ずくなのかがわかりにくい。 

「じゃあ高梨さんは噂を信じていないんだ」

「うん。どうせ言い出したのはメアリーだろうし」

 メアリーというのは勿論あだ名で、同じクラスの西こずえのことだ。西が英語の教科書に出てくるメアリーという女の子の挿絵にそっくりだということで、このあだ名がついたらしい。

「西さんが?」

 俺は面白いように外跳ねしている西の髪型を思い出して、笑いをこらえるのに苦労した。

 それを見透かしたように高梨はニヤッと笑う。

「メアリーはきっと軽い気持ちで言ったと思うよ。悪気はあったと思うけど」

 ――悪気あるのかよ!

 小さくため息をつくと、高梨は階段をスキップするように降りてきて、すれ違いざまに俺の腕を二回叩いた。そして階下で振り向くと大声で言った。

「モテる男はつらいのぉ」

 俺が睨むと高梨は肩をすくめて逃げるように走り去った。

 ――何がメアリーだ!

 これまで特に何の感情も持っていなかった西こずえに対して、今の俺は嫌悪感でいっぱいだった。



 ――こんなことして何になるんだよ?



 西を恨むのと同時に、自分自身に嫌気が差してくる。

 中学生のときにも同じようなことがあった。クラスのある女子と仲良く話していただけで、その子がクラスの女子全員からシカトされてしまったのだ。

 明るくて話しやすかったその子は急に俺を避けるようになった。それどころかクラスの誰にも心を開かなくなってしまった。

 彼女に謝ってどうにかなるわけでもないし、クラスの女子全員を問い詰めても事態が改善するはずがない。むしろ悪化することが簡単に予期された。



 結局、俺は何も出来なかった。そして自分のことが嫌いになった。



 教室に戻ってパンを頬張ったが、ほとんど味を感じない。ただ胃に詰め込んでいるだけだった。

 それでも空腹よりはマシだ。腹が減っていると思考回路が働かない。

 教室内できゃあきゃあ言っている女子のグループを忌々しく見る。その中心には西がいた。

 ――直接言うか?

 俺としては、舞が登校してくるまでに何か手を打っておきたいが、英理子のありがたい忠告を思い出し、早まった真似はよそうと結論を下す。

 だが結局のところ、これでは中学生のときと同じだ。

 卑怯な連中の報復を恐れて、身動きが取れなくなるのは嫌だ。

 それに、だ。



 ――俺は何も悪いことをしていない。



 ……よな?

 しかも舞にとって俺はまだ、ただの「隣の席の人」だぞ?

 腹がこなれて気分も落ち着いてきたので、まず俺が一番最初にしなくてはいけないことは何かを考えた。

 ――つーか、考えるまでもないし。

 ゆっくりとか、舞のスピードに合わせてとか、そんなのん気なことは言ってられない。



 とにかく伝えなくてはならない、と思う。……俺の気持ちを。



 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り、高梨が超ゴキゲンな顔で教室に戻ってきた。一瞬目が合うと、意味ありげにニッコリする。俺も同じように嫌味な笑顔を返した。

 舞にとって救いは、このクラスの女子の中に少なくとも一人は中立の人間がいるということだ。高梨が完全に舞の味方だとは言えないが、アイツは思ったよりもフェアな精神の持ち主らしい。

 ついでに英理子もいるし、それほど悲観すべき状況でもないような気がしてきた。

 ――まずは田中を改心させなきゃな。

 それから舞とどこで話をつけるか、だろ?

 進路? そんなものは後でいい。だいたい受験するのは来年なのに、何で今から決めておかなきゃならないのか、意味がわからない。

 生きる目標を見つけて、俄然やる気が湧いてきた。まずは午後の授業中に十分に休息を取っておこう。

 授業が始まると、俺は頬杖をつきながら目を閉じて、先生の声をBGMにして夢の世界へと旅立った。





 放課後、帰ろうとする田中を呼び止めた。それから有無を言わさず自転車置き場へ連行する。

「話ってなんだよ?」

 田中は不満そうに口を尖らせて言った。

「俺は高橋さんの噂は信じないし、これからも高橋さんと仲良くするわ」

「は?」

 怪訝な顔で田中は聞き返してくる。コイツにはもっとはっきり言わないとわからないだろうな、とその顔を見て思った。



「だから、俺は高橋さんと仲良くするから。友達以上になれるように」



「ま、待てよ、清水。お前、それって……す、す、す」

 田中は壊れたCDのように「す」を繰り返す。

 ため息をついてから、次の言葉を教えてやった。



「好きなんだよ、彼女のことが」



「…………!!」

 言葉にならない声を上げて、田中は一歩後退りした。

「なんか文句ある?」

「な、ない。ないです」

 俺は二歩前進し、田中の顔を覗きこんだ。

「勿論、協力するだろ? なんつっても俺とお前はダチだもんな」

「も、も、も、勿論!」

「つーことで、田中。あの高橋さんの噂は根も葉もないデタラメだから、他のヤツにもそう言えよ」

 田中は急に俺の肩をガシッと掴んだ。そしてキリッとした目で俺の視線をとらえると力強く言った。



「任せておけ! 言っただろ? 俺はどんなことがあってもお前の味方だからな!」



 ――田中。お前、サイコー!

 あまりにも単純すぎる親友に内心ではほくそ笑みながら、清々しい気持ちで親友と自転車を並べて走らせた。

 男の友情もたまには役に立つな、と思いながら……。


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 1st:2010/03/12