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涙色の彼女 4



 毎日朝がやって来るのは当然のことだが、それがこんなに嬉しいことだと感じられる俺は相当お目出度い頭になっているようだ。

 何しろ低血圧なのか目覚めてからしばらくは全く使い物にならない俺が、起き上がってすぐに思考活動を開始しているのだから今までなら信じられない話だ。

 勿論、考えることは一つ。



 ――さーて、今日はどうしてやろう?



 今までの自分は一体何をしていたのだろうと思う。毎日毎日、ただ学校に行って、ただ授業を受けて、ただ友達と適当に話を合わせて、ただ帰ってくる。

 退屈でつまらない学校生活だったことは間違いない。

 だけど、今の俺は違う。学校に行く目的がある。まさに生徒の鑑と言ってもいい。

 ――いや、さすがにそれは違うな。

 そう自分にツッコミを入れつつ、自室から出てリビングに降りた。

「お兄ちゃん、おはよう」

 妹がパジャマ姿でうろうろしていた。酷い寝ぐせで髪の毛が重力に思い切り反発している。

「おはよう。それにしても笑佳(えみか)、お前の髪は毎朝爆発して大変だな」

 半分しか目が開いていない妹は、首だけを俺のほうに向けてニヤッとゆるい笑顔を見せた。

「お兄ちゃん、今日はどうしたの?」

「……ん?」

「朝から私に話しかけるなんて、ずいぶん機嫌いいね」

 鋭い指摘にドキッとしたが、表情を変えずにフンと鼻だけ鳴らす。

「俺はついに朝が弱いのを克服したんだ!」

「偉そうに言うことか?」

 父が呆れたような声で割り込んできた。新聞で顔が隠れて見えないが、この人はいつも朝からピシッとしている。ということは、低血圧は母親譲りなのだろうか。

「暖人。ずいぶん匂うな」

 新聞をめくるついでに父が顔を見せて俺を睨んだ。この父親は古い考えの持ち主で、高校生はいわゆる硬派な格好をすべきだと信じている。当然俺は毎朝服装やら髪型などを注意されていた。

「父さんの鼻も正常に働いているみたいで安心だね」

「お前は外見を飾るだけの能しかないのか」

「ダサい格好で真面目なのがいいって、いつ、どこの、何の基準?」

「口だけは一人前だな」



「ぎゃーーーーーっ!!」



 突然キッチンから悲鳴ならぬ絶叫が聞こえた。

 父が諦めたように目を瞑り新聞を膝の上におろした。妹がふらふらとキッチンへ消える。すぐに絶叫の理由が判明した。

「はい、目玉焼きとソーセージが炭になりましたー!」

 妹の手には元が何だったのかもわからない黒い物体が載せられた皿……。

 後ろから母が鼻をすすりながらサラダを山盛りにしたボールを持ってきた。勿論、嘘泣きだ。

「だってー、お母さんは二つのことを同時になんかできないんだものー!」

 そう言い訳し始めた。ほぼ毎日聞く台詞だ。母の脳には残念ながら学習能力というものは備わっていないらしい。

 この家庭は平和だ、と食パンを頬張りながら思う。ちなみに我が家の朝食はパンだ。

「ねー、ねー、聞いてよ」

 母が席に着くなり口を開く。料理を失敗したことなどきれいさっぱり忘れたらしく、いつになくハイテンションだ。



「パンパカパーン! なんと、ひろちゃんに彼女ができましたー!」



「はぁ!?」

 俺は思わず素っ頓狂な声を上げた。妹の笑佳にいたっては、飲もうと思って口に含んだ牛乳を向かい側に座っている父親めがけて勢いよく噴射した。

「ウソだろ?」

「ひろちゃんって、寛人(ひろと)お兄ちゃんのことだよね?」

「他に誰がいますか?」

 母は父におしぼりと間違って台ふきんを渡しながらにこやかに答えた。案外間違いじゃなくて本気で渡しているのかもしれない。この人ならあり得る。

「お母さん、寛兄ちゃんから聞いたの?」

「いいえ。でもわかるの。だって私、母親ですもの」

 ――おい、待て。憶測でそんなことを大々的に発表するな!

 でもこの母の言うことは侮れない。俺は顔を引きつらせたまま食事を続けた。

「えー、証拠は? なんで彼女ができたって思ったの?」

「うん。昨夜お夜食持って行ったらひろちゃんがメールしてたの。あら、と思って覗き込んだらなんと、ハートの絵文字がいっぱいでー」

 ――……ありえん! あのクソ真面目で冗談も通じないようなダサ男が!

 俺は焦げたソーセージに箸を突き立てた。炭になった部分がぽろぽろと剥がれ落ちる。

「というわけで、はるちゃん、あなたも頑張って!」

「なんで俺が頑張らなきゃならないんだよ!」

 母は真向かいからニタニタと笑いかけてきた。この人は本当に侮れない。

「だってはるちゃん、いつになく気合入ってるから。……ターゲットロックオン?」

 ――……一体、どういう母親だよ?

 俺は無言で立ち上がった。

「ちゃんと『ごちそうさま』くらい言いなさい」

 あからさまに不機嫌な態度を取る俺のことなど全く意に介せず、母は毅然と言い放った。この人には威圧や脅しは一切通用しない。

「どこがご馳走かわからないけど、ごちそうさま!」

 俺はもう半ばやけくそで言い捨てて家を出た。




 俺の気持ちとは裏腹に今日は朝から快晴だ。

 隣の席には高橋さん。いや、もうこの際だ。舞ちゃんでいいよね?

 舞ちゃんは相変わらず朝からそっけない。挨拶も仕方なくしてやったという感じで、俺は初っ端からかなり落ち込んだ。

 一時間目は世界史の自習だった。

 プリントが配られると俺はすぐさまやっつける。やり終えると弟の寛人の顔が浮かんできて無性に腹が立った。

 もともと俺は他人への興味が薄い。誰が誰と付き合おうが別れようがどうでもよかった。

 だが、寛人だけは別だ。

 弟と俺は年子だ。だけど兄弟なのに似ているところは少しもなく、何もかもが正反対だった。

 寛人は幼い頃から非凡な学力で注目され、今はS市の進学校に通っている。ムカつくことにそこでも常に最上位に君臨しているらしい。

 でも残念なことに弟は容姿が凡庸だった。身長はついに妹にも追い越され、体重も注意しなければBMI指数が「肥満」の域になってしまう。当然運動が苦手だ。

 これらのことは言うまでもないが俺の優位で、兄としてのプライドを鼻にかけていられる部分でもある。容姿については遺伝子の気まぐれだろうからお気の毒としか言いようがないけどね。

 そんなわけで俺たちは小さな頃からことごとく比較されてきた。両親は直接言葉にはしないものの、暗に俺と寛人を競わせてきたのだ。

 ぶっちゃけ俺は、勉強に関してはもう諦めていた。

 でも色恋沙汰まで弟に負けるのは兄としてどうにも許せない。



 俺は隣の席の舞を見た。

 ……もう「ちゃん」付けもやめてやる!

 非常に几帳面な字で解答を丁寧に書いている。なんというか、彼女らしい。

 朝、父には「ダサい格好で真面目」の何がいいのかと噛み付いてきたが、本当は俺も「ダサい格好で真面目」はそれほど嫌いじゃない。清潔感がないのは論外だけどね。

 舞の場合はこの無頓着加減が逆にいい。あまり頑張りすぎてると見てるだけでも痛々しいし、無頓着すぎるとこれまた別の意味で注目の的になる。そういう点で舞は非の打ちどころがないくらいだ。

 この眼鏡がどうかと思うこともあるが、眼鏡を外したらたぶん舞の評価は激変するだろう。……特に男どものね。

 そう考えると、眼鏡はこのままでいいなと思う。むしろ眼鏡がいいような気がしてくる。俺って案外眼鏡フェチだったりするのか?

 ふと舞が首を動かす。

 どうやら俺の机の上を見たようだ。カンニングかと思ったがどうやら違う。すぐに今度は鬼のような速さで問題を解き始めた。

 ――なーんだ。見てもいいのに。

 俺は内心がっかりしながら更に舞を観察していた。こんな近くで見てるのに気がつかないとはどういう神経をしているんだ?

 しばらくすると解答が出来上がったらしく、満足げな表情で姿勢を正した。そしてまたちらりと俺の机の上を見る。今度は少し険しい顔になった。

 ――なんなんだ、一体?

 そうこうしているうちに一時間目は終わってしまった。俺は首をひねる。

 ――俺ってそんなに避けられるべき存在?

 こうなりゃ、根気比べだ。こっちを見るまでずっと見つめてやる。





 二時間目は数学だった。

 またもや舞は一生懸命ノートに向かっている。黒板とノートを往復する視線が俺のほうに向けられる気配はまるでない。

 ところが板書をとる手が突然止まった。

 顔を上げた舞は下がってきた眼鏡を元の位置へ戻す。だが、困ったような顔でそのまま黒板を見つめていた。

 ――どうしたんだろう?

 しばらく何かを考えていたようだが、その表情が変化したと思うとこちらをちらりと見た。

 ――お?

 でも舞が見たのはやっぱり俺の机の上だった。ちなみに俺の机の上には教科書しかない。元からノートを取る習慣もないし、今は舞の観察に忙しくて黒板を見ている暇がないのだ。

 それに気がついた舞はようやく目を上げて俺の顔を見た。

 みるみるうちに舞の顔に驚愕の色が広がる。

「やっとこっち見たね」

 ――この瞬間をどれほど待ち侘びたことか。

 舞は問い返すように眉をピクッとさせた。

「ずっと『いつ気がついてくれるのかな』と思ってたんだけど」

 俺はわざとゆっくり言う。いじめるつもりはないけど、こんなに待たされたんだから少しくらいはいいよね?

「一時間目からずっと見てたのにな」 

 舞のびっくりした顔がその後も何秒か続いて、それからようやく我に返ったようだ。大きく息をついて遠慮がちに口を開いた。

「えっと、板書写さないの?」

「なんで?」

 彼女の小さな声がかわいいので思わず笑顔になった。でもなぜか舞は少し気まずい表情になる。

「高橋さんこそ、なんでそんなに一生懸命ノート取ってるの?」 

 一応「高橋さん」と呼ぶ。さすがにいきなり名前で呼ぶ勇気は俺にはない。

「普通ノート取るでしょ?」

「そう? だって教科書にも書いてあるでしょ」

「そりゃそうだけど……」

 舞はそこで言葉に詰まった。嬉しい。内容はどうでもいいから舞ともっと会話を続けたいと思った。

「書いて覚えるのよ!」

 突然舞は得意げにそう答えた。内心プッと噴き出したが、別にバカにしているわけじゃない。舞の態度がおかしいんだよ!

 だが、それは表に出さないようにした。

「ふーん。まぁ、いいや」

 ていうか、こんなことで喜ぶ俺って相当ヤバいな、と少し気を引き締める。

 そこに舞の弱気な声が聞こえてきた。

「あの、私、黒板の字が読めないところあるんだけど」

「ああ!」



 ――神様! (……って今までほとんど信じてなかったけど!)



 俺は舞の視力が悪いことさえ神に感謝したい気持ちになっていた。

「いいよ、読んであげるよ」

 お安い御用だよ。

「ありがとう」

 いえいえ。

「いいよ、お礼なんて。ほっぺにちゅーとかで」

 俺はにこやかに、爽やかに言った。ここ、言い方が重要だから!

 だが、舞はいきなり固まった。

「……え? スルーしちゃう?」

 ――あちゃー! 失敗したか?

 そうだよな、相手は舞ちゃんだった。もう少し手加減しないと本気で嫌われかねない。俺は後悔したが、今更ここで巻き戻しができるわけでもない。

 ――それなら、一か八か。



「じゃあ、やめた」



「ま、待って! 私、数学苦手なの」

 舞はとても困った顔をしていた。本当に数学が苦手らしい。奇遇だね、俺は数学が好きだけど?

「ふーん。いいこと聞いた」

 一瞬のうちに俺の頭の中にはいろいろな計画が持ち上がった。そりゃもう、いろいろと……ね。

「まぁ、ちゅーはそのうちでいいよ」

 ――まぁ、そのうち絶対してもらうけどね! 

 それじゃあ恩を売らなくっちゃ、と張り切って俺は大胆に舞の腕に自分の腕がくっつくくらい接近した。

 隣で舞がまたしても固まった。おかしくて仕方ないが、知らないふりをする。彼女には刺激が強すぎただろうか?

 でもこれ以上は逃げられまい!



 ふはははは!!



 笑いが止まらない。……いや、心の中だけでね。じゃないと俺がただの変なヤツだからさ。

 それからは頼まれもしないのに、舞の手が止まるたびノートと黒板をチェックした。俺ってめちゃくちゃ親切だな。きっと彼女も俺に感謝してるだろう。

 一瞬、弟のことが思い出された。



 ――見てろよ。俺だって……



 これから起こるはずの楽しいことを想像して、ひとり悦に入りながら、俺はいつになく充実した一日を過ごしたのだった。


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 1st:2009/09/01