こんな暗い教室でどうやって授業するんだ? とクラスメイトは騒然となっていたが、俺には全く関係ない話だった。板書をノートに書き写すなんて面倒なことはしたことがないからだ。
朝のホームルームが始まる前に俺がしたことと言えば、彼女の名前を調べることだ。まず教壇の上に置いてある座席表を何気なく見に行く。この「何気なく」というのが難しい。だが今日はクラス内が停電のおかげで騒がしいのでこれは割と簡単にできた。
――高橋さんか。そういえばそうだったかも。
この国ではかなりメジャーな姓だから忘れてしまったんだろう。うちの隣も高橋さんだしな。
姓はわかったが下の名前がわからない。壁に貼り出してあるクラスの各委員の表を見たが彼女は何の委員にもなっていないらしい。
――さて、どうする?
俺は日誌に目をつけた。確か日直の名前を書く欄があったはずだ。今日の日直の席へ向かう。
「ねぇ、ちょっと日誌見せてくれない?」
「いいけど、何するの?」
日直は高梨というこのクラスでは少し変わった女子だった。余計な詮索をしそうなタイプだからやっかいだ。
「暇だから先生のコメント読もうかと思って」
「こんな暗い中で?」
「そう。俺、視力いいから平気だし」
「ふーん。どうぞ」
何とか日誌を奪い取ることに成功する。俺は高梨の席から少し離れて日誌をパラパラとめくった。
――あった!
「高橋 舞」
と、おそらく彼女のものだろうと思われる丁寧な文字を目で追った。意外と達筆で感心した。書写の手本みたいな筆跡だ。
――そうか。舞ちゃんね。
――……ん? タカハシマイ……ちゃん?
俺は記憶の片隅に何か引っかかるものを感じて、日誌から目を上げた。
「何か面白いことでも書いてあった?」
高梨が俺の脳内過去検索に割って入ってきた。正直、俺はこの高梨が苦手だ。妙に勘がよくて言葉に棘がある。
「まぁね。高梨さんって面白い文章書くね。先生も『ユーモアがある』って書いてるけど」
「そう? せっかくだから面白おかしく書いたほうがいいかと思ってるだけ」
三つ編にした左右のおさげを両手で弄びながら高梨は俺の顔を覗き込んだ。
「清水くんって、クセ毛?」
「そうだけど」
「いいなー。私もそんな感じのクセならよかったのにー!」
いつもきっちりと三つ編おさげにしているな、と思ったらどうにもならないクセ毛らしい。しかも彼女はかなりの剛毛に見える。お気の毒に。
ここで話を切り上げて自分の席に戻った。斜め前方の高橋さんをもう一度見てみると文庫本を読んでいた。目の悪い彼女はあんな分厚い眼鏡をかけているくせに、本を眼鏡の手前まで引き寄せている。
――こんな暗い中で活字なんか見たらもっと視力が悪くなるよ?
それにしてもあの眼鏡は変装効果抜群だな、と俺は妙に感心した。そしてあのおかっぱ。いつ見ても同じ長さのような気がするから不思議だ。まるでこけしのようだと思う。
――……こけし? 待てよ、どこかで聞いた気がする。
俺はまた脳内過去検索を再開した。こけし、こけし、こけし……
『本当にかわいい子ね! 英理子がフランス人形なら、マイちゃんはこけしみたい。でもお目目がぱっちりしてるから、きっと将来美人になるわよ!』
英理子のおばさんの声だ。あれは確か小学一年生だっただろうか。夏休みに英理子の家に遊びに行ったら、知らない女の子が英理子と一緒に遊んでいた。
当時おばさんの趣味で英理子はパーマをかけていた。フランス人形のようだとよく大人たちが評していたが、実際はそんなおしとやかな性格ではない。しかもなぜか怪力だ。
それに対して、初めて会ったその知らない女の子はおとなしくて、黙っていると本当にこけし人形のようだった。俺が英理子の部屋に入った瞬間、その子は大きな目を更に見開いて俺を凝視した。
――そうか。あのときの……。俺たちはもっと幼い頃に会っていたんだ。
だが俺の気持ちは複雑だった。なぜかと言うと彼女に会ったことがあるということ以外何も覚えていない。何をして遊んだのかなんてまるで思い出せない。
――あのときは本当に人形みたいでかわいかったのにな。
別に今がかわいくないと思っているわけではないが、まさかこんな姿になっているとは……なんて言ったらやはり失礼だな。ごめんね、高橋さん。
だが考え方を変えてみるとあの姿は非常に効果的だ。少しかわいいというだけで周りにちやほやされて、どうしようもない男と付き合って穢れていく女の子は多い。もったいない話だ。
――そのどうしようもない男の筆頭が俺なんだけどさ……。
知らないうちにため息が出る。
『はるくんのやってることは結局サヤカさんに対する当て擦りじゃない!』
――英理子もはっきり言いやがって。
サヤカさんにふられてかなりの痛手を負ったのは確かだった。そもそもサヤカさんから好きだと告ってきたくせに、半年足らずで「留学することが決まりました」というのはいくらなんでも酷すぎる。俺もサヤカさんを好きになって、二人はこれからというところだったのだ。
初恋なんてそんなもの、と割り切るには俺は幼すぎて、行き場のない気持ちをどうにかして処理しなくてはならなかった。そのために他の女の子を利用したと非難されれば反論できない。
――俺、サイテー……。
高橋さんの後ろ姿を見ながら一年前のことを思い出す。
演奏の途中でつまづいてしまった男の子が、もう一度ステージに戻って弾き始めたのを見た彼女は涙を浮かべた。
「あら、どうしたの? 涙なんか流して」
隣に座っている彼女の母親らしき人が小声で言った。すると彼女は眼鏡をはずして涙を拭ったのだ。それから静かに言った。
「だってあの子はこの曲を今日の発表会で演奏するために毎日練習してきたんでしょ? だから最初は失敗しちゃってかわいそうだなと思ったけど、今度はちゃんと弾けてよかったなって思ったら……」
――「毎日練習」……か。
俺だって本当は知っていたんだ。サヤカさんが毎日何時間もピアノに向かっていることも、本気でその道に進みたいと思っていることも。
突然、電気が復旧した。
高橋さんは急に明るくなった教室に驚いたのか、本から目を離し電灯を見上げた。だがすぐにまた小説の世界へ戻る。
彼女の周りだけはまるで別世界だ。静謐な空気が彼女を守っているかのようだ。不躾にそこへ踏み込むことは許されない気さえする。
その後ろ姿を見ていると俺は自分の愚かさを嫌というほど思い知らされた。本当に俺はどうしようもない男だ。
もし、高橋さんがこのどうしようもない俺の醜態を知ったらどう思うだろう? 軽蔑するだろうか。それとも慰めてくれるだろうか。
――たぶん、どっちでもないな。……軽くシカト、とか。
その考えが一番しっくりきた。俺は自分の考えに思わず苦笑する。
時間より遅れて担任が教室に入ってきた。そこで俺は高橋さんのことを考えるのを中断した。
それから俺は日々高橋さんを観察するようになった。
彼女の生活は単調だ。単調すぎて美しいくらいだ。
だが、たまに彼女らしくない行動もある。ある日の昼休み、担任が放送で高梨を職員室へ呼んだ。
いつもと同じように静かに本を読んでいた高橋さんは、その放送が終わるや否や立ち上がり、急いで教室を出て行った。俺はその姿をチラリと見て首を傾げたが、すぐに合点がいった。
数分後、がっくりとうなだれた高橋さんが教室へとぼとぼと戻ってきた。そして真っ直ぐ自分の席に戻る。「はぁ……」というように大きくため息をついて、また読書を再開した。
このとき俺はよほど高橋さんに声をかけようかと思ったが、結局やめた。
彼女は担任の放送を「たかなし」ではなく「たかはし」と聞いてしまったのだ。慌てて職員室へ行ったが人違いだったというわけだ。失敗を一緒に笑ってあげたほうが気が楽になるだろうと思ったが、いきなり俺が声をかけたら今は逆効果になりそうだ。
俺は突然悲しくなった。
クラスメイトが高橋さんをいてもいなくても同じとしか思っていないのと同様、彼女も俺などいてもいなくても同じくらいにしか思っていないのだ。それどころか、俺の存在を認識しているかどうかすら怪しい。
だいたい、こんなに観察しているのに高橋さんと目が合ったことがない。あの分厚い眼鏡だからどこを見ているかわからないというのもあるが、どうも俺は彼女の視界にすら入っていないようだ。
――ちょっと悔しいな……。
俺はそう思う自分に驚いた。
そりゃ一年前に見た「その人」にもう一度出会えたら、俺はその人に恋をするかも、とは思っていた。
でも「その人」が高橋さんだとわかってからはそれが俺の勝手な思い込みで、何か運命的な出会いを期待していた自分がおかしくて仕方がなかった。
それが、だ。
こうして日々彼女を観察していると、いつの間にか「こっち向かないかな?」とわずかに期待している自分がいる。
――そして俺に気がついて。
――そのときはきっと初めて会った幼い頃と同じように驚いた顔をするよね?
人間ってヤツは失恋しても懲りもせずまた恋ができるからタフな生き物だ。やっぱりこれって恋だろうな、とぼんやり思う。しかも自ら誰かを好きになったのは初めてかも……。
それにしてもあのときどうしてあんなに驚いた顔をされたんだろう。いつか絶対思い出させて問いただしてやろうと俺は密かに思う。
チャンスは必ずやってくるはずだ。何と言っても同じクラスだしね。
俺は辛抱強くただひたすらそのときを待った。