HOME


BACK / INDEX / NEXT
好きになる理由 9



 二人っきりという状況は案外あっさりとやってきた。



 いつも通りに登校した私の机の上に「日誌」なるものが乗っかっていた。

「今日、日直だね」

 私の後から登校してきたらしい隣の席のソイツが、私の机の上を見てそうひとこと言った。

 黒板を見ると「日直:清水・高橋」と書かれている。



 ――うわぁ! 心臓に悪いよ!!



 と、心の叫びは心の中だけにとどめておくように努力しながら、私は日誌を隣の机の上にすうーっと移動させた。

 ちらりと私を見た清水くんは、私がやったのと同じようにすうーっと日誌を押し戻した。

 ……日誌書くのって面倒なんだよ?

 そう思いながら小さくため息をついた。すると清水くんがニコッと笑って、小さくガッツポーズを作った。くうっ! 負けた……。

「その代わり黒板消しは任せてよ」

 と言って清水くんはまた綺麗な笑顔を見せた。

 考えてみれば黒板消しのほうが嫌な仕事かもしれない。チョークの粉が制服にかかるのがやっかいだし、背があまり高くない私には上のほうを消すのが大変だったりする。

 もしそれを知っていて引き受けてくれたのなら、もしかして清水くんってものすごく優しい人なのでは? もしかして、わ、わ、私のためにわざわざ嫌なことを引き受けてくれたとか……!?

 ――……ないない。ありえない!

 ああ、もう!

 こんな些細なことですら、いちいち彼の行為の意味を考えて一喜一憂する私はバカだ。そんなことにいちいち深い意味などあるはずない。

 そもそも私はたまたまくじ引きで清水くんの隣に席になっただけで、彼が私を構うのは今まで彼の周りにいなかったタイプの人間だからで、他意などあるはずもないのだ。

 だいたい私はこの容姿だ。まず、この眼鏡! これがイケてない。それに髪型も小学生のときからほとんど変わっていない。さすがにオカッパではないけれど、限りなくそれに近い。それにスタイルも……たぶんよくない。だから流行の服なんか着ても似合うわけない。

 はぁ……。

 ため息をついた私に、つんつんと清水くんが腕を突っついてきた。

「…………?」

「呼ばれてるよ。ほら、数学のテスト」

 ひぃ! 昨日やったテストがもう返ってくるとは!?

 私は渋々立ち上がりのろのろと教壇の前に出る。

「高橋、……次は頑張れよ」

 その言葉で点数がかなり悪いことが解答用紙の赤字を見なくてもわかってしまった。何かが胸の中にうっとこみ上げてきてこらえるのが辛い。

 そして受け取った私の目に飛び込んできたのは28という赤い数字と数えるほどしかない丸……。

 自分の席に戻りながら、唇を噛んで更にこみ上げてくるものを懸命に押しとどめようとしたが、腰を下ろした途端視界がうるんだ。

「どうだった? ん? ……にじゅう」

 私は慌てて解答用紙を裏返して机の上に伏せた。一度だけキッと隣のソイツ睨んで自分もその解答用紙の上に突っ伏した。



 ――……くやしいっ!



 今までこんなに悪い点数を取ったことがなかった。涙が勝手にあふれてくる。

 だがしかし。

 ここで気がついたのは眼鏡が邪魔だということだ。突っ伏したところまではよかったが、このままでは眼鏡に水溜りができてしまう。……というか、既にできているというべきか。

 私は窓のほうに首を捻じ曲げ、顔を少しだけ上げて眼鏡を取った。もう授業などどうでもよかった。眼鏡を乱暴に机の端に置いてまた突っ伏した。

 朝、あんなに浮かれていた私は本当にバカだ。

 恋だの愛だのに惑わされてはいけない。そんなものに心を奪われて、いつまでもこの小さな世界から抜け出せないのは嫌なのだ。

 私はこんな点数を取った自分が許せなかった。次こそは絶対挽回してやる!

 そんなことを頭の中で繰り返し自分に言い聞かせているうちに授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。

 もう涙もほとんど乾いていたので鼻をすすりながら顔を上げた。

 隣の席のソイツが大きな声で

「起立!」

 と言った。そういえば授業の始めと終わりの号令は日直の仕事だった。眼鏡を拭きながら立ち上がった。何気なく隣を見ると、一瞬彼もこちらを見た。

 視線が合って、ドキッと心臓が跳ね上がった。

 清水くんも驚いた顔をしている気がした。……眼鏡をかけていないから自信はないのだけど。



 ――いかんいかん! 今の私に色恋は無用。むしろ邪魔。そんなことしてる場合じゃない。



 そう思った瞬間、胸がぎゅっと切なく縮んだ気がした。



 昼休みに私は思い立って図書室へ足を運んだ。図書室は校舎の二階の突き当たりに位置している。

 古い本の背表紙を眺めながら、本棚の間をゆっくり進む。

 本棚の通路が途切れて校舎の端の窓辺にたどり着いた。今日は蒸し暑いせいか窓が開け放たれていた。

 私は窓から少し顔を出して周囲を確認した。最後に下を見る。

 ――うん。ここなら大丈夫。今なら風もないし。

 それからスカートのポケットにこっそり忍ばせてあったパスケースを取り出した。ゆっくり開いて小さな封筒を引っ張り出す。

 封筒をちらりとのぞいた。確かにそこにはお姉ちゃんがくれた四葉のクローバーが入っている。

 ――お姉ちゃん、ごめんね。でも私には必要ないの。

 心の中でそうつぶやいたが、それでもしばらく踏ん切りがつかなかった。



 ――よし!



 私は覚悟を決めて窓から少し身を乗り出した。



「高橋さん」



 ――……え?



「こんなところで何してるの?」

 ――その声は……



「窓から落ちても知らないよ」

 そう言った声の主はクスッと笑った。私は反射的に持っていた小さな封筒をポケットにねじ込み振り返る。

「なんでこんなところにいるの?」

「さぁ?」

 とぼけた表情をして私のほうへ近づいてきた。清水くんだった。



 ――なんでこんなときに現れるんだーーー!!



 何を隠そう、私はお姉ちゃんにもらった四葉のクローバーを窓から捨てようと思っていたのだ。なんて絶妙なタイミング。

「それより俺に教えてほしくない?」

 何ですか? その誤解を招きそうな表現? しかも日本語としておかしいでしょ。目的語を端折るな!

「数学……でしょ? それは……」

 ――……教えてほしいけど。

 清水くんは意味ありげな笑みを浮かべた。こ、怖い! 私の顔に書いてある本心を読まれたのだろうか。



「じゃあさ、俺のウチと図書館とどっちがいい?」



 ――そんなの……

「図書館!」

 ――に決まってるじゃないか!



 私は迷わず即答した。冷や汗が背中に垂れる。逆に心臓はオーバーヒートしていた。

 清水くんはまたクスッと笑って

「そう言うと思った」

 と言いながら私の隣に立った。外を見たかったのか、窓枠に手をかけて遠くを見ているようだ。

「じゃあ、土曜日ね。期末テストは来週だから間に合うでしょ?」

 私のほうを見ずにさらりと言った。

 今日は木曜日だ。ということは、明後日……。

「OK?」

「……うん」

 清水くんが私を見下ろす気配がした。うわー! そう思っただけで勝手に顔が赤くなる。誰か止めて!

 彼が去っていく後姿を見てホッとしたところに、誰かが近づいてくる気配がした。

「高橋さーん! ぐふっ」

 と、清水くんと入れ違いで現れたのは同じクラスの高梨(たかなし)まゆみさんだった。「ぐふっ」というのは彼女の笑い声らしい。

「清水くんと仲いいんだね。隣の席になってから?」

 高梨さんは屈託のない笑顔で話しかけてきた。彼女はクラスの中で唯一私に普通に話しかけてくる女子だ。長い髪を三つ編にして両脇に垂らしているが、真面目そうな容姿とは裏腹に親しみやすいひょうきん者で、男女問わず気軽に絡む人が多い。

 私は彼女の問いにぎこちなく頷いた。

「そうなんだ! 清水くんって授業中寝てばかりじゃない?」

 ――え?

 少なくとも私は隣の席になってからの一週間で彼が居眠りするのを見たことがない。

「私は寝てるの見たことない」

「ホント? 私が隣の席になったときは一日中ずーっと寝てたよ。だからあまり話したことないんだ」

 高梨さんはそう言って「ぎゃは」と笑った。たぶん彼女はしゃべらなければものすごく大人っぽい美人だと思うが、しゃべっていなければ口を開けてぼーっとしている人なので、そういう顔を見ることができるのはまれだった。

 私は高梨さんの笑う顔につられて思わず笑ってしまった。周りを明るい雰囲気にさせる不思議な力を持った人だなと思う。

「ま、清水くんはカッコいいけど私のタイプじゃないからな〜」

「高梨さんってどういうタイプが好きなの?」

 つい、余計なことが口から出た。

 でも彼女は真剣に考える顔をしてうーんと唸った。そして考えた末の答えは

「私ね、マッチョ系が好きなんだよね。熊みたいに身体が大きい人とか」

 だった。つくづく世の中にはいろいろなタイプの人がいるものだと思う。

「高橋さんは?」

 ――え!? わ、私……?

 なんと答えてよいのかわからなかった。そもそも何日か前まで好きな人すらいなかったのだし。

「わ、私は……え、えーと……頭のいい人、かな?」

 適当に思いついたことを言ってみた。

 高梨さんはとても感心したような表情になって何度も頷いた。

「わかるー! 高橋さんってそういう人好きそうだもんね」

 ――そ、そうかな?

「真面目な人好きそうだもん」

「そうかも」

「清水くんみたいな人は苦手っぽい」

「そうかも」

 ――……って、えええええ!?

「あの人、頭はいいかもしれないけど全然真面目じゃないからな〜。授業はほとんど聞いてないし、女の子はつまみ食いばっかりしてるし」



 ――つまみ食い……



「ま、でも彼は相当面食いっぽいから私には関係ない話なんだけどね」



 ――面食い……



 そうだよね。私にも全然関係ない話なんだ。

 胸のどこかに棘が刺さったようだった。チクチクと痛いがなかなか取れない。そんな痛みが私をしばらく苛んだ。

 高梨さんは普段から表情の乏しい私の微妙な変化には気がつかなかったようで、別のクラスの友達に声をかけられ忙しそうに去っていった。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 スカートのポケットに手を突っ込んでみる。指にカサカサと小さな封筒の感触。結局捨てることはできなかった。

「……はぁ」

 小さくため息をついて私は図書室を後にした。





 その日の午後の授業はぼんやりとやり過ごした。時折隣の席をチェックしてみる。眠ってはいない様子だ。

 面食いにつまみ食い……。

 私の頭の中ではその二つの言葉が数珠つなぎになってぐるぐると回っている。

 思えば今日は朝からアップダウンの激しい一日だった。心がぽーんと高く投げ上げられたかと思うと、そのまま何にも誰にも受け止められることなく、勢いよく地面にズボッとめり込んでしまったような感覚だ。

 誰かこのかわいそうな私の心を拾い上げて、ぽんぽんと土埃も払って、ついでに元の場所に戻してくれないだろうか。

 こんなに心が揺れていると何も手につかない。これじゃ来週の期末テストは昨日の数学のテストの二の舞になりそうだ。

 私の名前も舞。……全然関係ないけれども!



 結局この日、私は日誌以外の日直の仕事を清水くんに押し付けて、呼吸の八割をため息でまかないながら、史上最低点の数学の解答用紙を持って家に帰った。勿論、その解答用紙は親には見せず、びりびりにちぎってゴミ箱行きになったんだけどね。

 でも、ベッドにもぐりこんだ私はふと思う。

 土曜日は明後日だ。いや、今夜寝て、目が覚めたら金曜日で、土曜日はその翌日だ。当たり前の話だけど……。

 そしてその土曜日は図書館で清水くんに数学を教えてもらうのだ。



 ――じゃあさ、俺のウチと図書館とどっちがいい?



「ぎゃーーーっ!」

 私は思い出して飛び起きた。一人で悶えているのはかなりオカシイが、このセリフに悶えずしていられようか? いや絶対無理。

 だいたいいきなり「俺のウチ」に誘いますか?

 どういうことなんだろう。私なんか箸にも棒にもかからないから、家に呼んだところで誰も何も言わないだろうということ? ま、それは事実だよね。

 そもそも数学を教えてくれるのだって、他意はないのだから彼にとってはボランティアなんだよね。そう、ボランティア。

 ……でも、どうして私にボランティアなんかする必要あるんだろう?

 あれ? 何故こんなことになったんだったっけ?



 こうしてまた私は眠れぬ夜を過ごしたのだった……。


BACK / INDEX / NEXT

HOME


Copyright(c)2009 Emma Nishidate All Rights Reserved.

 1st:2009/05/19