#15 姉の秘密

 コマーシャルの打ち合わせは3時間近くかかった。今朝姉から呼び出され、急遽午後半休をもらったのだけど、会社で仕事をするよりも精神的な疲労が甚だしい気がする。
 打ち合わせ終了後、トイレの洗面台の前で「未莉さん」と呼び止められた。
 真横に竹森さんがいた。思ったより背が高い。私は少し見上げるようにして彼女に答える。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。未莉さんって本当にかわいらしい方ね」
 微笑みながらそう言った竹森さんは、私よりはるかにかわいらしいと思うのだけど。
「いいえ、全然。竹森さんのほうが美人なのに、西永さんのアシスタントをされているなんてもったいないです」
 鏡の中の竹森さんは首を横にふった。
「未莉さんは守岡優輝を相手にしても堂々としていたでしょう。私、あのオーディション、見ていたのよ。守岡さんが女性にあんな態度取るの、はじめて見たわ」
 あーなるほど。竹森さんはよく優輝と一緒にお仕事されているんですね。
 さりげなく自慢されたような気がして、私は思わず竹森さんの顔をまじまじと見つめてしまった。陶器のようにきれいな肌に意志の強そうな濃いめの眉。そして理知的な光が見え隠れする切れ長の目。うっかりすると吸い込まれそうな気がして、慌てて真正面の鏡に視線を戻した。
「恥ずかしいところを見られていたんですね」
 私は消え入りそうな声で言った。
 せっかく最終選考まで残ったのに、肝心なところで相手役の俳優に罵声を浴びせて消える人間がどこにいるというのだろう。審査会場にいた全員が私のことをあざ笑っていたに違いない。少なくとも私が竹森さんの立場だったら、何をしに来たんだと呆れると思う。
「いいえ、未莉さんが選ばれなくて残念でした」
 鏡には私に笑いかける竹森さんの顔が映っている。残念そうに眉根を寄せ、慰めるように小首を傾げた。ひとつひとつの動作が女性らしくて、妙に心がくすぐられた。
 こんなとき私も笑顔を返せたらいいのだけど、できないものはできない。中途半端な暗い表情で「でも」と応じた。
「今回のコマーシャルに声をかけてもらえたのは、あのオーディションのおかげなので本当にありがたく思っています」
 その瞬間、すっと竹森さんは目を細めた。背筋に寒気が走る。なんだろう、この感じ。彼女の頬から笑みが消えただけなのに――。
「そうよね。西永さんにも気に入られて、未莉さんは本当にラッキーだわ」
 ん?
 言外に「笑顔も作れないくせに」というニュアンスを察知したのは、ただの勘違い……だよね。他人の善意を素直に受け取れない私の悪いくせが出てしまったかな。
 とはいえ、なんだかうすら寒い心地だった。早く姉のもとに戻ったほうがいいと本能が訴えてくる。もしかすると竹森さんとは微妙に波長が合わないのかもしれない。
 かばんからハンカチを取り出して、用事が済んだことをアピールしてみる。
「えっと、姉を待たせているので失礼します。今日はありがとうございました」
「あ、引き留めてしまってごめんなさい。これからよろしくお願いします」
 愛想よく笑う竹森さんに軽くお辞儀をしてトイレを出る。姉の姿を見つけた途端、胸の奥が暖かくなり、無意識にほうっと大きな息を吐いた。

 西永さんのオフィスから出ると、ビルの前で高木さんが私たち姉妹を待っていた。もちろん彼の後ろにはいつもの黒い車。どうやら姉が呼んだらしい。
「お疲れさま」
 姉は高木さんに軽く手を上げると、当たり前のように助手席に乗り込む。高木さんは後部座席のドアを開け、私に「乗って」と言った。
「えっ……」
 車内の様子に思わず絶句する。
 いきなりだらしなく投げ出された足が目に飛び込んできたのだ。どうやら先客が奥のシートを倒して寝ているらしい。
「アイツのことは気にしなくていいから」
 そう言って高木さんは運転席のほうへ回る。
 気にしなくていい、と言われても、隣の席を気にしないわけにはいかない。その人が目を閉じているのを確認し、おそるおそるシートに腰かけた。
 すぐに車は発進する。ほどなくして車内に緊張感のない電子音が流れた。きょろきょろして発信源を探していると、隣の席で寝ていた人がズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
『おっはようございまーす。明日香でーす。優輝さまぁ、これから一緒にご飯食べませんか?』
 優輝さま――!?
 この甘ったるい声の主は姫野明日香なのか。私は驚いて隣に寝そべっている優輝を見た。
 明日香の声は前の列にも届いたらしく、姉と高木さんが揃ってクスクスと笑い始めた。
「食べない」
 短い返答の後、通話はあっさりと終了した。
 眠そうな目でぼんやりと車の天井を見つめていた優輝が、不意に私のほうを向く。
「おやすみ」
「は?」
 次の瞬間、まぶたが閉じた。そして私の視線を避けるように顔をそむけてしまう。
 なんなの、いったい。
 信号で停車した隙に、運転席の高木さんが振り返った。
「昨晩、一睡もしていないらしい」
「えっ……?」
「あら、寝ないで何をしていたのよ」
 姉が冷やかすような口調で言った。
「オールナイトで映画鑑賞だそうな」
「そういえば守岡くん、次の仕事は映画だったわね」
「未莉ちゃんも寝不足?」
 高木さんの問いかけに、私はなぜか気まずい思いで「いいえ」と答えた。だって、まずいよね、昨晩のあれこれを突っ込まれたら。
 深く追及されないことを祈っていると、姉が前を見たまま大きく頷いた。
「夜更かしは肌の大敵。徹夜なんてもってのほかよ。今日の未莉は肌がつやつやしているから、睡眠は充足しているみたいね。このままケアを怠らないように」
「……はい」
 さすがプロ。私は姉のアドバイスをありがたく胸にしまって、隣の席を盗み見る。
 それにしても全然気がつかなかった。どうして徹夜なんかしたのだろう。
「しっかし何やっているんだか」
 高木さんが呆れ声で言った。助手席の姉がクスッと笑う。
「彼はね、私に対して怒っているのよ」
「どうして?」
 私は思わず身を乗り出して、姉に尋ねる。
「オオカミさんのところに未莉を連れて行ったから」
 オオカミって西永さんのことかな。でも優輝がそんなことで怒っているとしたら、それってまるで――。
 ここまで考えた私の脳裏に昨晩の優輝のセリフがよみがえる。
『鈍感もここまで来ると罪だな』
 いやいやいや。優輝がまさか、ね。――まさか私のことを本気で好きだとか、ありえないし。
 だって人を好きになるには、何かしらきっかけや理由があると思うから。
 残念ながら、優輝の側にはそういうものが存在しない。だからこそ優輝は私に「恋人」と定義づけをしてくれたのだと思う。私の居場所を作るために――。
 そう考えると彼は優しい。なんかいろいろわかりにくい人だけど、根本にあるのは優しさなのだ。鈍感な私でもそれくらいは気がついている。
 しかし昨晩のアレはなんなんだ。相手には困っていないはずの男がなぜ私にあんなことするんだ!
「全然わかんない!」
「えっ?」
 姉が私を振り返った。
「あ、いや、なんでもない」
 発言を打ち消すように手をふってみたが、高木さんは前を見据えたまま首を傾げる。
「なんだ、なんだ、未莉ちゃんまで。やっぱり何かあったんじゃないのか?」
「そうだ。昨日電話したとき、守岡くんが『職務質問中』と言っていた。なんだかあやしいわね。あなたたち、いったい何をしていたのよ」
 まずい。話題を変えなくては。
「別に何も。私の勤務先のことを教えてあげていただけ」
「ふーん。つまらないわね」
「あーお腹空いたなー。これからみんなでご飯に行かない?」
 私は無理して明るい声を出した。ごまかせたかどうかはわからないけど、とにかく話題をすり替えなくては。
 しかし私の能天気なひとことで、車内の空気が一変した。
 姉は前を向いて「いかない。このままあなたたちを送っていくわ」と言い放った。有無を言わせぬきっぱりとした口調だった。
「あ……はい。お願いします」
「夕食作るのが面倒ならピザでも頼みなさい」
「うん。そうする」
 返事は小声になってしまった。
 姉の機嫌が悪くなったのは、きっと私の不用意な発言のせいだ。昨晩のことをごまかしたかったのもあるけど、結局私は久しぶりに姉と一緒に過ごすこの時間が嬉しくて仕方なかったのだ。できるならこの4人でもう少し一緒にいたい。それが私の本音だった。
 身を縮めて小さくなった。息が苦しい。
 そのとき突然、隣の人影が動いた。びっくりして肩が震える。
「僕は怒っていません」
 シートの背もたれを戻し、起き上がって座り直した優輝は、窓に肘をついて外の景色を眺めた。私の場所からは彼の表情が見えないけど、口調はずいぶんのんびりしている。
 もしかして寝ぼけているの?
 なんて訝しく思っていると、姉の「あら、そう」という声が聞こえてきた。
「それに紗莉さんがいけないんですよ。きちんと説明しないから。それでなくても未莉は疎いのに」
 え、疎い? なんのことを言っているわけ?
 ぽかんとしていると、姉がいきなり大口を開けて豪快に笑い始めた。車内に響く姉の笑い声につられたのか、高木さんも笑い出す。
「守岡くんの言うとおりね。隠すつもりはなかったけど、照れくさくて言いにくかったのよ。ごめんなさい」
 しばらくして、ようやく笑いをおさめた姉が目尻の涙を拭いながら言った。
 悪いけど、私にはまだ何がなんだか全然わからない。
「どういうこと?」
「私、高木くんと一緒にいるの」
「……え?」
「今の私の帰る家は高木くんのところ、ってこと」
「あ……そう。……って、えええええ!?」
 自分でも驚くほどの大きな声が出た。いや、なんていうか、想定外だったので。
 でも言われてみると納得できることがたくさんある。
 さっき迷わず助手席に座った姉の態度。あれは恋人なら当然だよね。
 それに高木さんはオーディション翌日、西永さんに呼び出された私を絶妙なタイミングで迎えに来てくれた。あれも確か姉の指図だったし。
 そして火事で焼け出された翌朝、朝食や衣類の差し入れを持ってきた彼は、予告なしに姉のマンションの鍵を開けたのだ。ものすごく驚いて隠れようとしたけど、それってなんの意味もないことだったのね。
 確かに優輝のマネージャーなのに姉の使い走りまでする高木さんは少し不思議な存在だった。でもそんな疑問を溶かしてしまうほど、高木さんはごく当たり前にそれらをこなしていた。なるほど、姉の恋人が務まるわけだ。
 とはいえ、私はふたりが一緒にいるところを見るのは今日がはじめてだし、どんなに敏感な人でも、いきなりふたりが恋人関係だと見抜けるはずないと思うのだけど。
「今日は久しぶりにふたりの時間を楽しむらしいよ」
 優輝が頬杖をついたまま私のほうを向いた。見つめられてなぜかドキッとする。
「そ、そうなんだ」
「だからみんなで食事をするのはまた今度にしよう」
 目を細めた彼の頬に微笑が浮かぶ。いつもより優しい声が私の胸にスッと入ってきた。
「うん」
 このやり取りを姉に冷やかされるかと思ったけど、前の席から聞こえてきたのは予想外のセリフで――。
「そうね。近いうちに」
 それは母にそっくりの声音だったから、私は不意に泣きたくなった。

 しかし考えてみれば、私が優輝のところへ転がり込んでからまだ2週間も経っていないというのだから、人生何が起きるかわからないし、起こったできごと次第でその後の生活が一変してしまうこともあるのだ、としみじみ思う。
「ピザか」
 エレベーター内で優輝がぽつりとつぶやいた。どうやら今夜はピザの気分ではないらしい。
「何か作りますよ」
 買い物をしていないから食材は心もとないけど、いざというときの冷凍食品もあるし、今晩の夕食くらいならなんとかなる。
「じゃあ頼む」
 後頭部に手を当てて首を回しながら優輝は言った。車のシートで寝転がっていたから首が痛いのかもしれない。
 私はその様子を横目で見て、それから大きく息を吸った。
「あの……さっきはありがとう」
 隣に立つ人が首を斜めに傾けたまま動作を止める。
「ああ」
 そっけない返事のせいで私の心は急に重くなった。これじゃあ今朝に逆戻りだ。
 優輝は先にエレベーターを出て、玄関を開けた。今夜もずっとこんな調子だったらどうしようと不安になる。
 でもとにかく夕食の準備をしなくては。
 靴を脱いで顔を上げると、優輝が私の進路を妨げるように突っ立っていた。
「少し話したいことがある」
「あ、うん。……今?」
 優輝からこんなふうに言ってくるのははじめてだ。表情からどんな話か読み取れたらいいのだけど、いつになく真面目な顔をしているからなんだかドキドキする。悪い話だったらどうしよう。背中に変な汗がにじんできた。
「いつでもいい。ベッドの上でもいいし」
 えっ……と。こういうときはどんな反応をするのが正解なの!?
「ど、しよ?」
「あのさ」
 急に優輝の手が私の頬に触れた。逃げはしなかったけど、肩がビクッと震えた。
「そんなに警戒するなよ。未莉が嫌なら、昨日みたいなことはもうしない」
「……そ、いうわけじゃ……」
 形のよい優輝の眉が何かをこらえるように一瞬だけ歪む。それから急に頬に触れていた手を引っ込めた。
「そういえば、未莉には好きな人がいるんだったな」
 優輝はわざと私の目を覗き込んでニヤリとした。ここで笑うということは、この人、絶対何か企んでいる。
「それはもう言わないで」
「わかった。未莉の嫌がることはしない」
「話したいことって、そのこと?」
「違う。後で話す」
 そう言うとすたすたとリビングルームへ行ってしまった。テレビのスイッチが入り、木製のロッキングチェアがギシッと音を立てた。
 どんな話なんだろう。
 リビングルームの入口から優輝の様子を盗み見たところで何もわかるはずがなく、私はおとなしくキッチンへ向かった。

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#15 姉の秘密 * 1st:2014/10/02


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