#14 背徳的な指先

「あの、何をしているの?」
 キスが途切れた隙に問う。優輝は不機嫌な表情で言った。
「見てわかるだろう」
「見なくてもわかりますが……いや、そうではなく、なぜ?」
 胸を包んでいる優輝の手がわずかに動いた。心臓がドクンと脈打ち、思わず息をのむ。
「そんなこと訊いてどうする」
「だって……」
 いきなりこんなことされたら誰だって驚くでしょう。
 あれ、でも、キスしたら次は……うそ、これはいきなりじゃなくて、当たり前の展開だというの?
「パジャマ姿で目の前をうろうろされて意識するな、というほうがどうかしてる。俺も一応男なんだけど」
 頬から急速に血の気が引いていく。確かに私はパジャマ姿でも案外平気だとのんきに考えていた。ここに押しかけたあの夜も私はパジャマ姿だったし、優輝も『色気がない』と言っていたし。だからいつだって平然としていたんじゃなかったの?
 なんて考えている場合ではない。優輝はシャツのボタンを外しにかかった。
「ま、待って!」
「待たない」
 本当に待ってくれる気はないらしく、形のよい長い指がシャツの前を開けていく。無駄な抵抗とわかっていたが、私は自分の襟元をかき合わせ、両手でぎゅっと握りしめた。
「ダメだって……」
「それ、むしろ誘い文句だから」
「え?」
 額と額がこつんとぶつかり、優輝と間近で見つめ合ったそのとき、彼の指が下着の中に忍び込んだ。誰にも許したことのない領域だというのに、私は祈るように目を閉じ、シャツの襟元をひたすら握りしめることしかできない。
 彼の指から感じる体温。シャツの上から触られたのとは全然違う強烈な刺激。
 嫌なら叫べばいい。きっと優輝はやめてくれる。
 だけど私は息を止めて、彼の指の動きを私のすべてで感じようとしていた。ゆるゆると肌の上を滑る指先が、ふくらみの頂点をかすめる。花の蕾のようなその部分に彼が触れた途端、背筋に電流が走った。
「……っ、ん……」
 甘い吐息が漏れて自分でも焦る。こんな声、私じゃない。だけど優輝が突起を優しく転がしたり弾いたりするたびに、甘ったるく喘いでしまう。我慢したくてもできないなんて、こんなの、私じゃない。
「かわいい顔してる」
「うそ」
「もっと見せて」
「ダメ……っ」
 目を伏せ、頭を振った。優輝のことしか考えられなくなりそうな意識をあちこちに分散させたかった。
 だけどまぶたの裏にはオーディションで初めて会った優輝の姿が勝手に再生される。突っ伏していたテーブルから上体を起こし、長い前髪の間から眠そうな目を私に向けたあの瞬間――思い出した途端、心臓が握りつぶされたかのように痛み、腰の奥のほうでとろりと何かがこぼれ出した。
「……ふぁ、ぁ……っ」
 優輝は背中に手を回し、器用に下着のホックを外した。胸を締めつけるものがなくなり心許ない気持ちの私とは対照的に、彼は嬉々として両手でふくらみをもてあそび始めた。
 いつの間にか下腹部が溶鉱炉のように熱くなっている。自分の体なのに何が起こっているのかわからない。優輝の指に過剰に反応してしまうのだ。
 クスッと笑う声が聞こえた。
「こっち来いよ」
 優輝の手が私の腰を抱き、体の向きを反転させながら自分のほうへ引き寄せた。背中が彼の胸におさまって、私の胸はふたたび大きな手に包まれる。てのひらが突起をあやすように動く。
「ゃっ……、こんなの、恥ずか……しぃ」
「体に力入らないくらい感じてるくせに、まだ恥ずかしいとか言う?」
 耳元で囁かれた。私は肩をすくめながら泣きそうな気持ちで優輝を振り返る。
「感じてなんか……なぃ」
「じゃあ、ここ」
 そう言いながら優輝は人差し指と中指で花の蕾のように尖った部分を挟んだ。
「んぅ……っ」
「こんなに硬くしているのはどうして?」
 耳たぶを熱く湿ったものが這う。同時に硬くなった胸の突起をきゅっと摘み上げられた。その瞬間、頼みの綱と思いすがりついていた理性が、あっけなく欲望の濁流に押し流されてしまった。
「は……っ、ダメ」
「ダメじゃない。その顔、すごくそそられる」
「なに言って……んっ、ゃ……」
「声もかわいいし」
「ちがっ……んぅ」
 優輝は私の首筋にキスを落とす。体をこわばらせる私の太ももをよしよしと慰めるように優輝の右手がなでた。ただ触られているだけなのに、とろけるような甘美なさざ波が足元から這い上がってきて、鳥肌が立つ。
 その手がするりとスカートの内側に入り込んだ。
「ぇっ!?」
「感じていないなら平気だろ?」
「な、ちょっ……平気なわけな、ぃ……っ」
 フレアスカートを選んだ今朝の自分自身を呪う。これがタイトスカートだったら優輝も少しは手間取ったかもしれないのに。当然のことながら彼の指はやすやすと下着を探り当てた。
「ダメなの、そこは、無理っ」
「大丈夫。感じていないのを確かめるだけだから」
 とても優しい声音が私の耳を震わせる。そんなわけない。私は太ももに力を入れて足を閉じた。
「そういうことすると、これ、脱がす」
「なっ……!」
 優輝はスカートの中で下着のゴムをつまんでいる。見えないのに彼の指の動きを異常なほど意識してしまう自分自身が恥ずかしい。脱がされるのも嫌だけど、足の力を緩めることもできそうにない。
「無理、これ以上はもう無理!」
「ふーん。うそつきだな」
 そう言ったかと思うと優輝はまた太ももをなで始めた。内心ホッとしたそのとき、太ももの裏側へ移動した彼の指が下から閉じた足の間に潜り込み、秘められた薄い布地をなぞった。
「ひゃぁ……んっ」
 彼の指が火照ったその場所をじれったいくらいの速度で行きつ戻りつする。誰にも許したことのない部分に彼が触れているというだけでも十分恥ずかしいのに、その指がもたらす背徳的な刺激に身も心もしびれ、荒くなる呼吸を押し殺すのが難しくなっていた。
 かすかな衣擦れの音と、私の熱い吐息が静かな部屋に響く。
「……っは……ぁ……」
「感じていないんだったな。じゃあやめてもいいよな?」
「ゃ、ぁ……だ、め……」
 フッと笑う優輝の吐息が耳にかかる。それだけで彼に触れられている部分にじわりと熱いものが滲んでしまう。きっと、いや絶対、優輝も気がついている。
「やめないでほしいなら『もっとして』って言えよ」
 そんなこと恥ずかしくて言えない。唇を噛んで目を閉じた。
 不意に熱をもつ秘められた場所から優輝の指が離れ、私はごちそうを目の前にしながらおあずけを食らったかのような気持ちになった。おかしいな。目の前のごちそうは十分いただいた後なのに。
 ご飯を食べていた数十分前の平和な時間が、悲しいくらい遠い昔のできごとのように思えてきた。激しい運動後のような疲労のせいで、まだ体に力が入らない。優輝に後ろから抱きしめられたまま、動悸がおさまるのを待つ。
「もうギブアップ?」
「さっきから『無理』だって言っているのに」
「そうは聞こえなかったけど」
「勝手に解釈しないでよ。こんな……恥ずかしいこと……もう無理!」
 私は背中を起こし、はだけたシャツの胸元を両手で閉めた。胸の前で拳を握りしめる。
「うそをつくのは体によくない」
「うそなんかついていないもん!」
 後ろで優輝がクスッと笑った。それから私の背中をゆっくりと撫でる。
「やめてほしくなかったくせに」
 耳元でささやかれ、思わず肩がビクッと震えた。
「ちがっ……!」
「わかった。そういうことにしておく」
 おっ、意外にも聞き分けがいいけど、もしかして何か裏がある?
 訝しんだその瞬間、私の耳にこんな言葉が飛び込んできた。
「そのうちいやでも素直にさせてやる」
 立ち上がった優輝はあっという間にテーブルの皿を片付け、時計を見るなり「ジム行ってくる」と言い残して出ていった。

 バスタブに身を沈めた私は鼻の下までどっぷりと湯に浸かって、今日という1日はなんだったのか、と考えてみた。今日に限らず、近頃私の日常がまったく落ち着きのない非日常と化していて、本当に困る。
 腕で自分の体をぎゅっと抱きしめた。
 とにかく落ち着かなくては。いや、私は落ち着いている。落ち着きがないのは私の周囲であって私自身ではない。
 でも、と頭の中で誰かが反論する。
 心が乱れてコントロール不能になるのは経験済みだけど、体がいうことを聞かなくなるなんて……あんなの私じゃない。
 優輝が私のシャツのボタンを外したことはショックだった。でも私がそれを待ち望んでいたかのような反応をしてしまったことのほうが、今になってみると恐ろしい。思い出すだけで泣きたくなる。
 同時に下腹部に覚えのない疼きが走った。体が耐えられないほど熱くなり、私はバシャッと音を立てて勢いよくバスタブから飛び出す。
 怖い。私が私でなくなってしまいそうで怖い。もし私が私でなくなったらどうなるんだろう。
 とりあえず今は何も考えずに寝よう、と思った。いろんなことがありすぎて頭がパンク寸前だし、優輝がジムから帰ってきて、これ以上おかしなことになっても困るし。
 こんな夜は早く寝るに限る。
 さっさと寝るために急いで支度を済ませた私は、広いベッドの端にしがみつくような姿勢で意識のスイッチがオフになる瞬間をひたすら待った。

 そしてやって来た朝。バスルームが空いていることを確認した私は、シャワーを浴びてすばやく着替えをすませた。これであの男も文句はないはずだ。
 優輝はまた早起きして走っているらしい。昨晩はジムへ行き、今朝も走るくらいだから、見かけによらず運動好きなのか、あるいは今後演じる役に備えて体を作っているのかも。
 私はなにげなく自分の足を見た。昨晩のあやまちを踏まえ、今日はパンツスタイルにしてみたが、太ももが微妙にきつくなっている気がして焦る。おかしいな。ここに住むようになってから通勤で歩く時間が増えたはずなのに。
 これって怠惰のせい?
 もしかして私にはプロ意識が足りない?
 そりゃ私は姉の事務所に所属しているものの、仕事は皆無ですよ。自慢げに言えることではないとわかっているけど、そんな私が走ったりジムに通ったりしたところで仕事が舞い込んでくるわけじゃない。
 それに太ももよりもまずこの仏頂面をどうにかしないとダメだ。
 でも少しくらいは体を動かしたほうがいいな、と思いながら朝食を作る。食べるものも気をつけなくては。
 帰ってきた優輝は「おはよう」とだけ言い残して、バスルームへ消えた。

「ずいぶん難しい顔をしているけど、考えごと?」
 久しぶりに会った姉は私の顔を見るなり、そう言った。
「うん、まぁ、ちょっと」
「当ててみようか。守岡くんのことを考えていた。違う?」
「えっ、……いや、そんなわけないじゃない」
 うふふ、と姉が笑った。背中の皮膚がぞくりと粟立つ。
「当たった!」
「だから、違うって」
 大声で反論したけど、それはむしろ姉の正しさを証明する形になってしまった。
 確かに考えていましたとも。今朝の優輝の態度が驚くほどそっけなくて、あれは怒っているのかな、と。
「彼とはうまくやっているの?」
 隣を歩く姉は唇の端を上げた。ヒールの高い靴も姉にとってはスニーカーと大差ないらしい。私もウォーキングの訓練は受けたけど、ハイヒールでここまで軽やかには歩けない。世界を相手に仕事をしてきたモデルだから当然といえばそれまでだが、やはり姉もプロであり続けるために日々努力しているのだろう。そう考えると私は――なんの努力もしていない、かも。
 姉が私の顔を覗き込み、返事を催促するようにしなをつくった。
「あ、えっと……あの人、気分屋でまだ慣れない」
 昨晩私を翻弄したのは優輝なのに、あんな恥ずかしいことをしておきながら、今朝はほとんど無言。機嫌悪そうな顔をしていたから声もかけにくいし。
 しかし、なぜ私が優輝の機嫌をうかがわなければならないのか。こういう場合、どう考えても怒るのは私のほうじゃない?
「へぇ。気分屋には見えないけどな」
「外面はそうかもね」
「それって未莉が十分彼に馴れているということじゃないの」
「は? あの人、最初からだよ。いきなり機嫌悪かったり、いきなり優しかったり……」
 げっ、言葉の選択を間違えてしまった。
 突っ込まれることを覚悟して目をそらしたけど、姉は「ふーん」と返事をしただけで何も言わない。肩透かしを食らった気分で姉の横顔を見ると、なぜか穏やかな視線を向けてきた。
「な、なに?」
「少し……いや、ものすごく安心したわ」
「安心?」
「未莉が寂しくなさそうで。ついでに血色もいいし」
 私は思わず自分の頬に手を当てた。
「い、いや私はひとりでいても全然寂しくないし、むしろひとりでいるほうが気楽で好きだし。それにファンデーションのメーカーを変えたから血色がよく見えるだけで、あの人と一緒にいることとは無関係だから。あの人にはまったくなんの影響も受けていませんから!」
「そう。そんなに力いっぱい否定しなくてもいいのよ」
 からかうような目で私を一瞥すると、姉は目的のドアを開けた。部屋の中から「おはようございます」という挨拶が聞こえてくる。
「お、未莉ちゃん、久しぶりだね」
 西永さんが屈託のない笑顔を見せた。今日のシャツは紺と白のストライプで、紫色のセーターを肩にかけている。おしゃれな男性は目立つものだけど、ドアが開いた瞬間やはり真っ先に目がいってしまった。
「あら、私に挨拶はないのかしら?」
 姉はわざと西永さんの隣に立ち、挨拶を催促した。すると部屋の中にいた若い人たちから笑いが起こる。西永さんは立ち上がって姉に手を差し出した。
「これはこれは紗莉さん、ようこそいらっしゃいました。むさくるしいところですが、どうぞおかけください」
 姉とがっちり握手をし、それから隣の席をすすめた。私も姉の隣に座る。
 おそらく入ったばかりの見習いだと思われる線の細い男子が、腕をブルブル震わせながらコーヒーカップを運んできた。ハラハラしながらコーヒーカップが無事にテーブルに着地するのを見届け、視線を正面へ向けると、反対側のテーブルに私と同じ年頃の美しい女性を発見する。
「竹森(たけもり)」と書かれた名札を首にぶら下げている彼女は、口元に笑みを浮かべ自信に満ちた目つきで私を見た。
「それでは打ち合わせを始めます」
 西永さんの声でミーティングルームはしんと静まり返った。

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#14 背徳的な指先 * 1st:2014/09/25


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