#13 キスで魔法をかけたそのあとは

「誰って……友広くんのこと?」
 そう言った途端、腕が強く引っ張られる。優輝の顔が間近に迫り、心臓がドキッと跳ねた。
「アイツに何かされた?」
「何もされていない」
「シャツの襟を直してもらったんだろ?」
 さらに顔がぐっと近づいた。
 そりゃシャツの襟を直されたとき、私としたことが隙を見せてしまった、と反省したんですよ、一応。だけど、もとをただせば、あれは優輝のせいなのに。
 でも「優輝が私の耳を舐めるからあんなことになったんだ」なんて訴えるのもばかばかしいし、耳を舐められたくらいで動揺した私が悪いと言われたら反撃できないし。
 返事をせずにいたせいで、優輝の怒りを無駄に増幅させてしまったらしく、気がつけば彼の眉間には深い皺が刻まれている。
 私はますます困惑した。会社で最後に言葉を交わしたときは爽やかな笑顔だったのに、どうしてこうなるの――?
「怒っている?」
「怒ってはいない」
「嘘だ。機嫌悪いもの」
「あの男、気に入らない。未莉のそばにいると思うだけでむかつく」
 優輝につかまれた腕がきりきりと痛む。
「そんなこと言っても仕事だし仕方ないでしょう」
「仕事中なら何をされても仕方ないのかよ」
「そういう意味じゃない……っていうか、腕痛い」
 優輝の手を振りほどこうと腕を左右にねじってみたけど、彼は力を緩めるどころか血管を圧迫するように握りしめ、おまけに鼻がくっつきそうなくらい顔を寄せてくる。
 身を引き気味にしながら優輝の目を覗き込むと、彼の口角が上がって意地悪い笑みの形になった。
「じゃあ教えて」
「えっ、な、何を?」
「未莉の好きな人」
 ――は? 今、友広くんの話だったよね? なんで突然そういう質問になるわけ?
 目の前のきれいな瞳に、視線だけでなく意識や心までもが吸い込まれていく。私の頭の中では心臓の音が鳴り響き、呼吸をするたび胸がぎゅっと縮むように軋んだ。
「い、言えない」
「どうして?」
「なんで私が先に言わないといけないの? まずはそっちからどうぞ」
 そう言い返すと胸のつかえが取れたように気持ちが楽になった。目を閉じて、ふうっと息を吐く。
 次の瞬間、顎を上向きにされたかと思うと、強引に唇をふさがれた。すぐに唇をこじ開けるようにして彼の舌が侵入してくる。後頭部に手をあてがわれ、さらに口づけが深くなると、侵入者は口内を遠慮なく蹂躙し始めた。
 くすぐったいような感覚が次第にとろけるような甘美な刺激にすり替わる。私は通勤かばんを投げ出し、優輝の腕にすがりついた。そうでもしないと、立っていられなくなりそうだった。
 最後に下唇をじれったいほど丁寧になぞられる。
 大きく深呼吸してから、私はおそるおそる目を開けた。
 すると優輝は目を細めながら首を傾け、私の耳元で囁いた。
「聞こえた?」
「え?」
「今、言ったこと」
 私は優輝から顔を引きはがすように勢いよく後方へ下がった。同時にガンと後頭部に鈍い痛みが走り、背中が壁にぶつかる。
「あの、それって……」
「もう1回言う?」
「い、いや、でも、その、今の、って?」
「遠慮するなよ」
 彼の顔がまた急接近したそのとき、足元からくぐもった電子音が聞こえてきた。
「電話が……」
「出れば?」
 ようやく腕は解放されたけど、壁際に追い詰められた私は、壁と優輝の間にしゃがんでかばんから携帯電話を取り出した。画面には姉の名前が表示されている。
「お姉ちゃんだ」
 私はしゃがんだまま携帯電話をさりげなく優輝にも見える角度に傾けた。彼は何も言わず私を見下ろしている。
 とりあえず電話に出た。
『未莉!? 大ニュースよ!』
 つながった途端、姉の大声が耳に飛び込んでくる。
「どうしたの?」
『仕事が決まりそうなのよ!』
「へぇ。よかったね」
『未莉、あなたの仕事よ。コマーシャルの仕事』
「……は?」
 私の脳は一瞬活動を停止した。私の仕事。コマーシャル。どういうことだ。
『そこに守岡くんもいるんでしょ? ちょっと替わってよ』
 優輝は茫然としている私から携帯電話を取り上げ「お久しぶりです」と無愛想に言った。
『あら、もしかしてお取込み中だったのかしら』
 姉のにやけた顔が思い浮かぶ。慌てて携帯電話を奪い返そうとしたが、優輝はわざと持ち替えて携帯を私から遠ざけた。
「現在、職務質問中です」
『それはお楽しみのところを邪魔してごめんなさい。でも仕事の話だから許してね』
「コマーシャルの仕事は西永さん絡みですか」
 久しぶりに聞く名前に私は目を見張った。優輝はそんな私を険しい表情で眺めている。
 姉の返答が気になったので、不本意ながら聞き耳を立てて優輝のそばへにじり寄る。
『そうよ。よくわかったわね』
「請けるつもりですか」
『もちろん。西永さんなら間違いなく未莉をきれいに撮ってくれるもの』
 ん? どういう意味だろう。そう考えながら優輝を見上げると、なぜか私を睨みつけてきた。
「なるほど。用件がそれだけなら切ります」
 優輝は姉の答えを待たずに通話を終了させ、私に携帯電話を差し出した。その淀みない動作に唖然としたが、携帯電話を受け取った私はまたしゃがみ込む。なんとなく携帯電話はかばんにしまったほうがいいような気がしたのだ。
 それからのろのろと立ち上がって、優輝の胸元に視線をさまよわせた。
「ええっと」
 なんの話だったかな。――なんて、とぼけても無駄だとわかっているけど、姉から電話が来る前と空気が一変してしまった。こういうときはどうすればいいんでしょう。気まずいこと、この上ないのですが。
「仕事決まりそうだって。よかったな」
 そっけなく言った優輝の顔を見て、背筋が凍りつく。うっすらと笑みを浮かべているものの、微塵も『よかった』とは思っていない冷たい目つきで私をじっと観察しているのだ。
「ど、どうかな。まだ決定じゃないし」
「顔を売るいい機会だからがんばれよ」
「ちっとも心がこもっていない気がするんですけど」
 思い切ってそう言うと、優輝は笑みを消し、私からわざとらしく目をそらした。
「鈍感もここまで来ると罪だな」
「は?」
「なんでもない」
 いったいなんなんだ。私のどこが鈍感だというのか。
 それに優輝は私の女優になる夢を応援してくれていると思っていたのに、仕事のオファーを喜んでいないどころか、今にも「そんな仕事やめておけ」と言い出しそうな表情をしていてわけがわからない。
 西永さんの名前が出てきたから?
 まぁ、あの人はお酒が入ると絡みぐせがあるみたいで、それはちょっと迷惑だけど、仕事に関しては優輝も西永さんの腕を信頼しているはず。だから一緒に組むことが多いのでしょう?
「姉は、西永さんなら私をきれいに撮ってくれると言っていたけど、それってどういう意味?」
「そのままの意味だろうな」
 優輝は突然私の髪に手を伸ばした。ひと掴みしたかと思うと軽く握って引っ張る。途端に私の心臓がドキドキと高鳴り始めた。それを悟られないように怪訝な表情で優輝を見つめる。
「西永さんは俺みたいな男より、女性をきれいに撮ることに定評がある。つまりその女性の一番魅力的な部分を引き出すのがうまいんだ」
「そ、そうなんだ」
 優輝の指が私の顎にかけられ、互いの唇が触れそうなほど近づき、そこでぴたりと止まる。
「そのためにどんな方法を使うか、未莉はわかる?」
「わから……ない」
「女性の美しさを引き出す魔法をかけるんだ」
「魔法……?」
「そう。たとえば、こういうこと」
 唇に温かな感触。
 私は思わず目を見開いた。
「う、嘘でしょ? だ、だって……」
 目の前に艶やかな笑みが広がる。
「信じなくてもいい」
「でも西永さんは私のことを『笑顔がないから使えない』と言っていたよ」
 私は熱弁をふるうついでに優輝の腕をつかんでいた。ハッとして手を離すと、優輝は困ったような顔をして私から目をそらす。
「未莉は……」
 珍しく言葉が途切れた。言いにくそうにためらった後、再び私の目を覗き込む。
「腹へった?」
「は?」
「飯、用意しておいた」
「えっ!?」
 料理をしないはずの優輝がまさか晩ごはんを準備してくれているとは思わず、私は彼を差し置いてリビングルームへ急いだ。
 野菜を中心に美しく盛り付けられた大皿、それから一口サイズの寿司や生春巻きが5皿、ローテーブルからはみ出す勢いで並べられている。
「こ、これ、優輝が作ったの!?」
 遅れてリビングルームへやって来た優輝は小さくため息をついた。
「そんなわけないだろ。これだけ作れたら今の仕事やめて自分の店を開く」
「まぁ、そうだね」
 その返答に私はものすごくホッとしていた。だって実は優輝が料理上手だったなんてことになったら私、穴があったら入りたくなるもの。いや、自力で穴を掘って埋まっちゃうよ。
「知り合いのケータリング店にデリバリーを頼んだんだ。無理言ってふたりぶんだけ、ね」
「それはありがとうございます。でも、どうして?」
 優輝は私の背中を押してローテーブルの前に座らせた。
「今日は未莉に迷惑をかけたから、そのお詫び」
「本当に迷惑な話ですよ」
 隣に座った優輝をわざとらしく睨んだ。
 だって突然私の職場に現れるなんてそんなサプライズは頼んでいないし、あの騒動の余波はしばらく続くだろうし、その間ずっと迷惑をかけられるわけだし。事前にひとこと教えてくれれば午後半休取ったのに。
 とげとげしい私の視線をふわっとした微笑で受け止めた優輝は、箸を手に取り「いただきます」と小声で言った。
 しばらく大した会話もせず、食事に没頭する。レストランのように周囲の視線やお行儀をそれほど気にしなくていいから、食欲という本能の赴くままに箸を動かした。
 優輝も黙々と食べている。
 やっぱり専門業者の作った料理は味つけがしっかりしていておいしい。
「優輝はたくさん稼いでいるだろうし、毎日デリバリーを頼めばいいんじゃない? 私が作るより絶対おいしいよ」
 ほぼ満腹になった私は軽い気持ちでそう口にした。
 優輝は一瞬、箸を止め、不可解な顔で私を見た。
「これを毎日食いたいとは思わないな」
「そう?」
「こういう味はすぐ飽きる」
「でもまずいものは出てこないでしょう。味つけに失敗するかもしれない私の料理と違って絶対安全だよ」
「未莉は自分に自信がないんだな」
「えっ」
 胸の奥に鋭い針が差し込まれたような痛みが走った。
「そりゃ、自信なんか全然ないですよ」
 いきなり断定されたことに動揺してしまって声が震える。
 優輝が箸を置いた。
「味つけを失敗しても、焦げていても、俺は食うよ」
「は?」
「未莉が作ってくれたものなら、たとえまずくても俺は食う」
 どうして急にそういう話になったのだろう。それにその発言、かなり恥ずかしくないですか?
 黙って座っていられないような気分の私とは対照的に、優輝は真面目な顔をしていた。
 本当にどうしちゃったの、突然。
「優輝にそんな料理は出せないよ」
 なぜか頬が火照るのを今すぐ両手で隠したい。だけど気持ちを知られるのは困る。そう思いながら小声で言った。それを知ってか知らずか、優輝はただじっと私を見つめている。
 妙な沈黙に息苦しくなったそのとき、頬に優輝の指が触れた。
「そういう顔されると俺もつらい」
「えっ?」
 彼の指が頬の輪郭をなぞる。
「我慢できなくなる」
「なに……、んっ」
 いきなり唇をふさがれ、質問を口にすることは許されなかった。唇を奪われるというのはこういうことかな、なんて考えていたら、優輝が低い声で言った。
「俺がキスだけで満足していると思っていたわけ?」
「そんなの……知らない」
 顔が近いだけでもドキドキするのに、掠れた声であやしいことを言われたら、頭の中がぼーっとなり、息も苦しくなってきて、胸がはちきれそうだ。
 だって優輝がキスだけで満足していないのだとしたら、もっとそれ以上を望んでいるということ?
 それ以上って、えっと、えーっと……。
 答えが出る前に優輝の両手が柔らかく私の腰をつかんだ。驚いて身体がぴくっと反応する。キスを求めるように優輝が目を閉じて顔を寄せてきたから、唇が触れる直前、私もまぶたを閉じる。
 優しいキスが次第に深く熱を帯びたものになり、それに応えようと優輝の肩に腕をまわしたそのときだった。
 腰から脇腹を伝い、彼の右手が胸のふくらみを探り当てた。下から支えるように裾野をゆっくりと行き来する。
「……ん、んぅ!」
 ちょ、ちょっと待った、と言いたいけれども、後頭部は優輝の左手に捕捉されていて唇を離すことができない。
 その間に彼の右手は少しずつ這い上がってくる。ほどなく豊かとは言いがたい私の胸が彼の大きな手の中におさまった。

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#13 キスで魔法をかけたそのあとは * 1st:2014/09/18


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