#12 絶体絶命

「えっ!?」
 あちこちから異口同音の反応が上がったのは当然だ。通用口に控えていた受付嬢たちこそが優輝の案内役なのであって、それを優輝本人が一瞬でぶち壊したからだ。
「でも彼女は契約社員でして、守岡さんの案内役には適さないかと……」
 慌てて口を開いたおじさまを無視して、優輝は私に近づいてきた。
「僕は彼女と話をしてみたいんです」
 な、何を言い出すんだ、この男は!
 目を剥いて抗議してみたが、優輝は私の前へ来ると「はじめまして」と軽く頭を下げた。
「はじ……め、まして?」
「お名前を伺ってもいいですか」
「柴田です。というか、名札見ればわかると思いますけど」
 私がそう答えると、息を詰めて見守っていた周囲の人間たちが一斉に声を上げた。
「おい、そんな言い方……!」
 その中で高木さんだけがクスッと笑いを漏らし、私たちのほうへやって来た。
「皆さん、わがままを言って申し訳ない。守岡は予定調和を嫌っているだけなので、ほんの少しこのわがままに付き合っていただけませんか」
 さすがは優輝のマネージャーだ。彼のそのひと言でスーツのおじさまたちは諦めたような表情をし、壁際の受付嬢たちも私を睨むのをやめ、ひそひそ話をしながら優輝の背中を見つめることに専念し始めた。
 谷本さんに至っては優輝が間近にいることでぽーっと放心状態になっていたが、いきなり我に返ったかと思うと、ぐいと私を優輝の前に押し出した。
「柴田さんはへらへら媚びたりしないから、案内役には適任ですよ。こんなにしっかりした子、今どき珍しいと思います。守岡さん、やっぱり見る目あるわぁ!」
 私はのけぞって優輝から少しでも離れようと試みたが、通用口という狭い空間に人々が密集している中では半歩下がるのもやっとのこと。しかも私の背中は谷本さんにしっかりと両手でと支えられていた。
 フッと笑う声が聞こえる。顔を上げると意地悪な目が私を見下ろしていた。
「柴田さんに案内してもらえないなら、僕はもう帰ります」
「……わかりました。ご案内いたします」
 なぜこうなる。
 この後、私の身に降りかかる災難がどの程度の規模になるのかまったく想像もつかないが、とりあえず今はそう答えるしかなかった。

「こちらが社員食堂になります」
 私の斜め前にはいかめしい表情の屈強なボディーガードがいて、私の後ろには高木さんがいて、その後ろにはお偉いさんたちがぞろぞろと連なっていて、そして私の真横には上機嫌な優輝がいる。
「柴田さんもここで昼食を?」
「ええ、今日もここの片隅で食べました」
「へぇ。お弁当を持参することはないの?」
「あいにく朝は忙しくて弁当を作る暇がないのです」
「ふーん。忙しいんだ?」
 隣から意味ありげな視線を向けられたけど、私は気がつかないふりをした。
「ええ、私はぎりぎりまで寝ていたいほうなので」
「意外だね。早起きしそうな感じがするのに」
「残念ながら朝は苦手なんです」
「朝、走ると気持ちがいいよ。もし早起きできたら試してみてください」
「たぶん永久に無理です」
 私がそう答えると、優輝はプッと大げさにふき出した。
「そう。なかなか強情だね」
「褒め言葉と受け取らせていただきます」
 クックッと顔をそむけて笑う優輝を横目で思い切り睨む。すると後ろの高木さんまで、こらえきれないように喉をクッと鳴らした。
「じゃあ、そろそろ柴田さんの部署に案内してもらえないかな」
 笑いをひっこめた優輝が、私の顔を覗き込むようにして言った。
 私は優輝から目をそらし、小さくため息をつく。
 ここまでは勤務時間中に社員が立ち寄らない場所の案内だったけど、この先は実際の職場見学になる。なぜ私まで全社員の好奇の目に晒されなければならないのか。
「急に静かになったけど、どうかした?」
「できればこの先にはご案内したくないですね」
「へぇ、もしかして恋人がいるとか? 社内恋愛?」
 すぐさま隣に冷ややかな視線を送る。それを優輝は涼しい顔で受け止め、微笑みを返してきた。
「ここは会社で、仕事をする場所ですけど」
「でも恋愛をしてはいけない、という決まりもないはず」
「お仕事中、いつもきれいな女優さんに囲まれている守岡さんならではの発言ですね」
 私はわざと優輝の顔を見上げて言った。こんなの嫌味のうちに入らないでしょう。事実だもの、ね。
 予想通り優輝は笑みを絶やさない。だけど口を開く直前、彼の頬が少し歪んで見えた。
「あいにく僕は仕事と恋愛を一緒にできるほど器用ではないんだ」
 食堂からの長い廊下を渡り終え、階段をのぼる。優輝と私の間には沈黙が横たわった。余計なことを言ってしまったかもしれない、と一段一段踏みしめながら私は思う。
「こちらです」
 階段をのぼりきったところで、私は優輝の顔を見た。彼も私をまっすぐに見つめてくる。
 防火扉の脇を通って机の並ぶ空間へ足を踏み入れた。突然歓声が上がり、社員たちの熱狂的な眼差しが優輝に集まる。私は一歩後方へ下がった。
「やるな。さすが未莉ちゃん」
 高木さんが小声で耳打ちしてきた。
「なんのことですか?」
「俺には優輝を言い負かすことはできないからさ」
 主に女性社員たちから握手攻めに遭っている優輝を見ながら、さっき一瞬だけ彼の頬にさした影の意味を考える。
「はいはい、ここで立ち止まらないで!」
 後ろから上層部のスーツ陣が優輝の周りに群がる社員たちをかき分けて出てきた。
「柴田さん、このまま止まらずに君の席までご案内しなさい」
「はい」
 上司の命令に返事をして、優輝を先導するように通路を進む。軽く頭を下げたり、手を振ったりしながら、愛想よく挨拶する優輝に、社員たちはひっきりなしに声をかけた。
 立ち止まらずに進むと、あっという間につきあたりのフロアに到着した。
「あそこが私の席です」
 私は少し手前で立ち止まり、空席を指差した。
「へぇ、座ってみてもいい?」
「どうぞ」
 優輝が私の席へ近づくと、友広くんが顔を上げた。そしてゆっくり立ち上がる。
「いらっしゃい。すごい人気ですね、さすがは守岡さん」
 頑なに私を無視していた人とは思えぬ柔らかい笑顔で友広くんは優輝に対峙した。
「お邪魔します」
 優輝は短くそう言うと、私の椅子を引いて腰をおろした。それから友広くんへ視線を戻す。
「あなたはどんなお仕事をされているのですか?」
「主にカメラの取扱説明書を作っています」
「それは責任重大なお仕事ですね」
「ほかに『柴田さんの乱れた襟を直してあげる』のも僕の大事な仕事ですよ。責任重大でしょう?」
 ガタッと椅子を後ろにのけるようにして優輝が立ち上がった。
「ほう。その仕事なら僕にもできそうだ」
 ちょっ、なんで急に不穏な空気になるわけ?
 私は慌てて優輝のそばに駆け寄り、ふたりの会話に割り込んだ。
「あの、次に行きますので……」
「どういうこと?」
 声は小さかったけど、その冷酷な響きは私の耳にしっかり届く。優輝の頬から表情が消えていて、私はひどく焦った。
「し、知りません」
「柴田さん」
 小声の会話を友広くんが断ち切った。友広くんと目が合ったのは久しぶりだ。
「よかったですね。憧れの守岡優輝と会えて。仕事中でもポスターに見とれるくらいファンでしたよね」
 突如、別の焦りが腹の底からわきあがり、私は無意識に「あの、あの」と口走る。
 優輝は友広くんを正面から見据えた。それをひやひやしながら見守ることしかできない無力な私――。
「社内恋愛って楽しそうですね」
 隣に立つ優輝が微笑みながらそう言った。見ようによっては他人を小ばかにしたような笑みだ。
 友広くんは険しい表情で優輝をじっと見つめている。それからおもむろに口を開いた。
「誰もがアンタのようにもてるわけじゃないんだ。こっちは恋愛を楽しむ余裕なんかどこにもない。人を好きになるのは……ただ苦しいだけ」
 のどから振り絞るような声だった。
 私は優輝の足元に視線を落とす。
 もしかしたら私に対する当てこすりも爪の先ほどは含まれているかもしれない。そう思うのはうぬぼれが過ぎるだろうか。
 しかし何も知らない優輝は迷惑そうな顔で小さくため息をついた。
「さっき柴田さんにも言ったけど、僕はそんなに器用じゃない。仕事中に恋愛のことなど考える余裕はないね」
「それがどうした」
 友広くんが短く言い捨てた。
 当初の愛想よい笑顔はどこへ行ってしまったのだろう。あまりの豹変ぶりに背筋が寒くなったが、隣の優輝は案外平気らしく、ふてぶてしさをも感じる不満げな表情で友広くんを見つめ返した。
「やけに絡んでくるけど、何かつらいことでもあったんですか?」
 この悪気のない問いを友広くんは苦しげな表情のまま受け止めた。
 そして視線を斜め下に落とすと、スッと表情を消した。
「柴田さんには好きな人がいるそうです」
「ちょっ、なに言って……!」
 友広くんに抗議しようと1歩前に踏み出したけど、横からの「へぇ」という声につい隣の人を見上げてしまった。
 視線がぶつかった瞬間、私は顔どころか首まで真っ赤になった気がして、弾かれたように回れ右をし、フロアの隅へと一目散に駆け出す。目指すは階段だ。
 気が動転している私は、なぜか階段を駆け上がっていた。下りていくと誰かに遭遇してしまう可能性が高いけれども、この上は屋上だから誰もいないはず。
 鉄製の大きな重いドアを開けると、青い空が目に飛び込んできた。風が吹いて髪が乱れるのもさほど気にならない。外気を大きく吸い込んで、それからゆっくり吐き出すと、息苦しかったのが嘘のように胸がすっとした。
 バタンとドアの閉まる音がしたので、ホッとしてもう一度深呼吸する。
「こんなすてきな場所に案内してもらえるとは思わなかった」
 予期せぬ他人の乱入に、私の肩はビクッと震え上がった。気配がまったく感じられなかったのだ。役者ともなると気配を消すくらいお手のものなの?
 静かな足音が近づいてくる。私は首だけ回して優輝の姿を確かめた。
「なんでついてくるんですか」
「柴田さんは僕の案内役でしょう」
 優輝は私の隣まで来たけど、一定の距離を置き、あくまで私とは初対面の人気俳優に徹するつもりらしい。
「そうですが……」
「なにも柴田さんが逃げ出すことはないのに。『好きな人がいる』と知られて困る相手がいるなら別だけど」
 うっ、と返答に詰まる。優輝の言うことはたぶん正しい。私が逃げ出したのは、つまりそういう理由なのだ。
 だがそれを認めるわけにはいかない。強情な私は慌てて虚勢を張った。
「私は逃げ出したのではなく、ぜひとも守岡さんを屋上へご案内したいと考え、少々強引な方法を使っただけのことで……」
「だよね」
 物わかりのいい返事をしたかと思うと、続けてアハハと大げさに笑い出した優輝を、私はキッと睨みつけた。
 優輝はすぐに笑いをかみ殺し、なぜか「ありがとう」と言った。
 不意を突かれてきょとんとしている私に、彼はまぶしいほどの笑顔を向ける。
「楽しかった。いい気分転換になったよ」
「……よかったですね」
 もっと言いたいことがあるような気がしたけど、結局こんな言葉しか出てこなかった。
 ドアがギィと音を立てて開いた。振り返ると、高木さんを始めスーツのおじさまたちがぞろぞろと屋上へやって来る。
 どうやら時間切れらしい。
 優輝はスーツ陣に囲まれて、別れの挨拶もそこそこに階下へ消えた。
 騒々しいパレードでやって来たくせに、去り際のあっけなさにはなんだか拍子抜けしてしまって、不思議と物足りないような気持ちになる。
 屋上から部署へ戻った私は、離席していたことを上司に謝罪した。課長も部長もやむを得ない事情とわかっているから「ご苦労様でした」とねぎらってくれる。
 しかし向かいの席の友広くんだけは、私の存在を完全に無視し、仏頂面でパソコンに向かっていた。
 その姿を目にした瞬間、はしゃいだ気分は浮力を失い急降下する。優輝がいたひとときが遠い日に見た夢のように思えて胸が痛んだ。

 予想もしなかったできごとのせいで、私はかつてないほどの疲労を覚えていた。
 普段はろくに挨拶を返してくれない女性社員までわざわざ私の席へ足を運び、優輝のことを質問してくる。朝のジョギングを勧められたくだりは何度繰り返しただろう。もともと愛想のない私だけど、いい加減うんざりして机の上にバンと手をつき「少し放っておいてください」と言いたくなった。
 しかし契約社員の身分でそんなえらそうなことも言えず、かといって適当にあしらうこともできず、結局相手を不愉快にさせないよう気を遣いながら優輝の話をした。
 当たり障りのない会話というのは案外疲れる。しかもパソコンの向こうで友広くんが聞き耳を立てていると思えば神経もすり減るわけで、内心ではひいひい言っていた。
 無表情の仮面はこういうとき強固な守りになるものだけど、女性の陰口をあなどってはいけない。
 ただでさえ友広くんの向かい席ということで女性社員のいらぬ反感を買っているのに、優輝が案内役に私を指名したことで、私の社内の立場は絶体絶命の苦境へと追いやられてしまったのだ。
「お疲れさまでした」
 終業を告げるチャイムと同時に私は席を立ち、逃げるように職場を去った。
 ほとんど駆け足で電車に乗り込み、買い物もせずに姉名義のマンションへ帰る。とにかくひとりになりたかったのだ。
 エレベーターを降りて玄関のドアを開ける。その瞬間、暗い玄関が予告なしに明かるくなり、驚いた私は思わず「ひっ」と声を上げた。
「おかえり」
 優輝が玄関の電灯スイッチに指をかけたまま、じっと私を見ていた。壁にもたれているそのポーズが憎いほどかっこよくて、つい見とれてしまう。
「ただいま」
「靴、脱がないの?」
 声が硬い。胸の内がひやりとするけど、とりあえず靴を脱ぐ。
 廊下へ上がると優輝がいきなり私の腕をつかんだ。
「あの男、誰?」

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#12 絶体絶命 * 1st:2014/06/10


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