#10 ソフトクリームと彼の過去

 この部屋に来てから何度目の朝だろう。
 隣に寝ているはずの人が、今朝は見当たらない。驚いて手を伸ばしてみると、彼が寝ていたと思われる場所にはまだ彼のぬくもりが残っていた。
 すぐに私はベッドから起き出し、リビングルームへ向かう。どこにも彼の姿がない。どうやら早朝に外出したらしい。
 仕事だろうか。胸がドキドキするけど考えてもわからない。とりあえずシャワーでも浴びようと着替えを準備していると、玄関のドアが開いた。
「おはよ」
「おかえり……なさい?」
 スポーツ用のサングラスをかけた優輝が面倒くさそうに靴を脱いでいる。ランニングシューズにランニングウェア。そっか、走りに行ってきたんだ。
「シャワー?」
 サングラスを外した優輝が、私を見て言った。なんだか気まずくて腕に抱えた着替えを背中へ回す。
「あ、お先にどうぞ」
「一緒に入る?」
 優輝は目を細めてニヤッと笑った。こ、怖い。何を考えているのかわからないけど、どうせロクなことではないはず。
「あーいや、私は朝ごはん作ろうかな」
「それ、俺のぶんもある?」
「まぁ、昨日と同じようなものでよければ」
「じゃ、よろしく」
 言い終わらないうちに優輝はランニングウェアを脱ぎ始めた。私は慌てて着替えを持ったままリビングルームへ避難する。
 ソファに着替えを置き、バスルームをちらりと振り返った。えっと、もしかして、バスルームに一緒に入るっていうのは、恋人なら普通のこと?
 考えただけで顔がボッと熱くなった。
 いやいや、言っておきますけどね、優輝とキスして恋人になったのは昨晩のことですから。まだ一緒にシャワーとか早いでしょう。あれ、でも、キスしたらその次ってなんだろう。
 ……え、うそ。えええええ!?
 バスルームのドアが閉まる音で我に返った私は、火照る頬を両手で挟みながらキッチンに立つ。
 さっきのセリフはからかっただけだよね。だからあっさり引き下がったんだよね。
 だってシャワーを一緒に使うということは、少なくとも服を脱がなくてはならないわけで、つまりふたりとも何も着ていないわけで、ひとことで言えば裸ですよ、はだか!
 いやいやいや。無理だから。しかも朝からいきなり……ねぇ?
 それに恋人になったとはいえ、優輝が私のことをどう思っているのか、まだはっきりしたことは聞いていない。私だって優輝に好きだと告白したわけではないし。
 そう考えるとこれは本当に恋人関係と呼べるのだろうか。やっぱりからかわれているだけなのかも。
 だからこんな曖昧な状態でキスより先に進んでしまうのはよくないと思う。
 ここまで来てはじめてわかったけど、キスにしろ、そこから先のことにしろ、互いの気持ちが見えないままでも簡単にできてしまうし、実際の行為は強烈な刺激となって都合のいい錯覚を呼び起こしかねない。つまり私は優輝に愛されていると勘違いしそうで、それが怖くて仕方ないのだ。
 どうして優輝は私を恋人にすると言い出したんだろう。それって結局、私の身体が目的なんだろうか。私じゃなくても、突然押しかけてきた女の子を家に居候させて、恋人にしたんだろうか。
 優輝の考えていることが全然わからない。
 頭の中はあれこれ考えていてせわしなかったが、手は順調に無駄なく動き、定番のグリーンサラダとベーコンとたまごやきができあがった。リンゴの皮をむいていると優輝がバスルームから出てくる音がした。我ながら最高のタイミング。
「いいにおいだな。腹へった」
 声のするほうを見ると、下着姿の優輝がバスタオルで髪をゴシゴシ拭いていた。慌てて目をそらし、ソファの着替えを手に取る。
「食べていてくださいね。私、シャワーを浴びに……」
 廊下へ向かおうとしたが、優輝に腕をつかまれて足止めをくう。彼の髪はまだ濡れていて、前髪が目を覆うほど長い。その隙間から鋭い視線が私をとらえた。
「冷めるぞ」
「でも……」
「じゃあ俺も未莉がシャワー終わるまで待つ」
「冷めちゃいますよ」
「一緒に食べよう」
 私はぎこちなく頷いた。拒否する理由がないし、それは私にとってものすごく魅惑的な誘いだった。
「その前に」
 と、突然優輝が私の腕を強く引いた。あごに彼の長い指がかかり、上を向かされた瞬間、唇同士が軽く触れる。
「未莉を食べたい」
「わ、私は食べものじゃないし、おいしくないです」
「それは試してみないとわからない」
「い、いや、だから、朝食が冷めちゃうのでダメです」
 私は腕を突っ張り、優輝の胸に密着するのを阻止した。彼の二の腕から肩、そして胸にかけてしなやかで逞しい筋肉がついていて、抱きしめられたらそこは温かくてこれ以上ないほど安心できる場所だということも知っている。
 本当はほんの一瞬でいいから抱きしめられたい。だけど抱かれたら一瞬だけでは物足りなくなる。だからこそ今は阻止せねば。だって私は今日も仕事に行かねばならないのだ。
 そんな私の葛藤を見越してか、優輝は甘い声で囁いて誘惑してくる。
「会社なんか休めばいい」
「無理……です」
 きれいな顔が近づいてきて、数秒、私の唇をふさいだ。
「わかった。今日は我慢する」
 優輝は私の腕を解放し、廊下を歩いていった。その背中を見送りながら、なぜか少しがっかりしている私。
『今日は我慢する』ということは、我慢しない日もあるわけ? そうなったら私はどうなってしまうのだろう。
 黒っぽい細身のジーンズにミントグリーンのTシャツを着た優輝が戻ってきて、朝食の席につく。
 まだパジャマ姿の私は、今さらだけど寝起きのままだと気がついた。家族以外にこんな姿を晒しても案外平気なものだな、とたまごやきをつつきながら思う。ついでに言えば、相手は世の女性を虜にしているイケメン俳優なんだけど。
 あらためて向かい側に座る優輝を見た。
 がっつくというほどではないけど、さすがに男子なだけあって、私よりはひと口の量が多い。その食べっぷりに見とれながら、彼は私のこの姿をどう思っているのだろうと考える。だらしない女だと思われていないかな。これからは朝起きたらすぐ着替えたほうがいいかも。あーでも、パジャマって楽なんだよね。
「ぼーっとして、どうした?」
 私の視線に気がついた優輝がきれいな眉を少し寄せてこちらを見た。
「あ、いや、外は寒いのにTシャツだな、と思って」
「ああ。俺、昔から冬でも薄着なんだ」
「私の故郷は北のほうだけど、寒冷地仕様だから家の中は温かくて、そういう人が意外と多かったかも。冬に暖房のそばでアイスクリームを食べるのがちょっとした贅沢なんです」
 優輝はクスッと笑って牛乳を飲む。彼は牛乳が好物で、冷蔵庫に牛乳パックをいつも常備していた。背が高いのは毎日牛乳を飲んでいたからなのかな。
「未莉も食べた?」
「まぁ、たまに」
「俺は地元のコンビニに売っている100円のソフトクリームが好きで、季節に関係なく食ってたな」
 ――地元のコンビニエンスストアに売っている100円のソフトクリーム。
 私の脳内で一瞬、ある商品が閃いた。それはソフトクリームがそっくりそのままパッケージされたもので、他のアイスクリームと一緒に店内の冷凍ケースで売られていた。濃厚なミルクの味が印象的で、私も子どもの頃から大好きだった。100円という安さゆえに地元の人間ならたぶん誰もが知っている有名な商品だ。
 あれはどこにでも売っているのかな? 少なくともこの辺りでは見かけないけど。
「それ、地元って……どこ?」
 訊いてから、優輝の顔を見てハッとした。
 彼はうっすらと笑みを浮かべているが、目だけが笑っていない。突き刺さるような鋭い眼光を私に向け、さらに少しだけ目を細めた。
「どこだろうな。忘れた」
「うそだ」
「うそじゃない。過去は捨てた」
「なにそれ」
 思わず身を乗り出したけど、優輝はわざとらしく時計を見て「遅刻するぞ」と冷たく言い放つ。
 私は残っていたサラダを急いでほおばり、最後に牛乳を飲み干して立ち上がった。
「恋人って、本気なの?」
 優輝を見下ろして言う。
「不満?」
 彼は私をまっすぐに見つめ返した。さっきの酷薄な表情は消え、瞳が一瞬揺れたような気がした。
「そうじゃなくて、私は優輝のことを何も知らないのに、それでも恋人って言えるのかなと思ったの」
「よくばりだな。どうせすべてを知ることなんかできないのに」
「でも私は、優輝の名前が本名なのかどうかさえ知らないし」
「本名だよ。いいから、もう行け。皿は洗っておくから」
 時計を見ると、家を出ると決めた時間が迫っていた。もう少し話していたいけど、遅刻するのはまずい。仕方なく優輝に背を向けた途端、なぜかクスクスと笑われた。
「焦らなくても、これからゆっくり教えてやるよ。ひとつひとつ、手とり足とり、な」
 背後からのあやしげな発言は聞こえなかったことにして、私は出勤の準備を急いだ。

 もしかしたら優輝は私と同郷なのではないか。
 電車に揺られながら私は朝食の会話を反芻し、その思いを強くした。とぼけてごまかしたのがいい証拠だ。『忘れた』なんて発言、誰が本気で信じると思ったんだろう。
 だけど優輝のことがますますわからなくなった。
 彼の部屋から外に出て、ひとりになって考え始めると、不可解なことばかりでもやもやする。
『俺、誰とも付き合う気はないから』
 はじめて優輝と一緒に眠ることになったあの晩、彼は確かにそう言い、だから『気兼ねせずに俺と一緒に寝れるな』と私をベッドに引きずり込んだ……というのは誇張だけど……つまりあの発言は私を安心させるための方便だったのかな?
『じゃあ今から未莉は俺の恋人な』というセリフとは、どう考えても矛盾するって気がついていないの?
 これで混乱しない人間はいないよ、普通。
 だから本気かどうか訊いたのに、『不満?』って……ずるい。その返答は反則だ。 
 結局、私はどうやっても不利な立場なんだよね。優輝は私の情報を姉から仕入れ、何もかもお見通しで。情報を持っているほうが強いに決まっている。
 もし私が不満だと言ったらどうなるんだろう。他の設定に変更するとか? ……さすがにそれはないか。
 なにげなく吊り広告へ視線を向けた私は、口を半開きにしたまま驚愕で固まった。目をこれ以上ないほど見開き、そこに書かれた文字を頭の中で何度も読み上げる。
「明日香と守岡、深夜の密会」
 女性週刊誌の広告だった。大きな活字が躍る横には「熱愛続行中」と丁寧に状況説明まで付け加えられているし、添付されているふたりの写真はいかにも人生楽しんでいますという表情なので、信ぴょう性が否が応でも増すわけで。
 ――でもこれはでっち上げられた記事なんだよね。
 そう自分に言い聞かせるが、1度目にしてしまった文字は脳に焼きついてうまく消せない。消したい部分を必死に擦れば擦るほど、自分の心を削っているような気がして惨めな気分になる。
 電車をおりた私は、売店の前で立ち止まった。
 明日香さんとの熱愛報道は事実無根だと言った優輝を疑うわけではない。だけどでたらめな記事だとしても、見過ごすことはできそうにない。だって私は優輝の恋人――のはずだもの。
 吊り広告が出ていた女性週刊誌の上にさりげなくファッション雑誌を重ねて店員へ差し出した。そのとき隣に男性が並んだ。
「未莉さんが女性週刊誌を読むとは思いませんでした。ゴシップとか興味なさそうに見えたのにな」
 私は財布を開いたまま、隣の男性を見上げる。友広くんだった。
「これは……頼まれたの」
「へぇ。誰に? 一緒に住んでいる男に、ですか」
 友広くんの挑発には乗らず、代金と引きかえに雑誌を受け取ると無言で彼のそばを離れた。
 しかし友広くんはすぐ私に追いつき、断りもなく並んで歩き始めた。嬉しくないけど同じ目的地に向かっているのだから振り切ることもできない。
 どうして彼は私に付きまとうのだろう。
 苛立ちをあらわにして彼を思い切り睨みつけた。すると友広くんは肩をすくめてみせた。
「怒らないでくださいよ。怒った未莉さんもかわいいけど、そんな目で見られるのは嫌だな」
「私にかまわないでほしいの」
「どうして? 僕、何か迷惑なことをしましたか?」
「こっちが聞きたいわ。どうして私にかまうの?」
 友広くんは怯むことなく正面から私の視線を受け止め、微笑んだ。
「未莉さんがかわいいから」
「そんなわけないでしょう。からかうなら他の女性にして」
「嫌です」
 やけにきっぱりと友広くんは言った。
「僕は未莉さんがほしい」
「朝から冗談はやめて。いきなり何を言い出すのよ」
 軽くあしらう調子で答えたのがいけなかったのだろうか。突然友広くんに腕をつかまれた。
「冗談でこんなことを言うわけないでしょう。ちゃんと僕を見てください」
 私は慌てて辺りを見回し、彼の手を振り払った。同じ会社の人間に誤解されたら困る。
「私、友広くんとは……無理だから」
「それ、どういうこと?」
 友広くんの声が低くなる。今まで聞いたことのない響きだったから、背筋がぞくっと粟立った。
 このままでは埒が明かない。私は覚悟を決め、雑誌の入った袋を胸の前でぎゅっと抱きしめた。
「好きな人がいるの。だから迷惑です」
 突然、誰が見てもはっきりとわかるくらいに友広くんの顔が蒼ざめた。口を半開きにしたまま、茫然と突っ立っている。まるで電車内の吊り広告を見たさっきの私みたいに。
「ごめんなさい」
 そう言い残して私は彼から離れた。
 いつか友広くんには釘を刺さねばならない、と感じていた。だけどこれが一番いい方法だったのか、私にはよくわからない。これしかないと思って口にした言葉が、彼に予想以上のダメージを与えたらしく、私自身も相当の衝撃を受けていた。
 もしかしたら言ってはいけないことを言ってしまったのかも。愕然とした友広くんの顔を見て、とっさにそう思ったのだ。
 友広くんを置き去りにして、会社へ急いだ。すれ違う人に挨拶をしながら所属部署へ向かうと、どういうわけか始業前から課長が腕まくりをして、きびきびとファイルの山を移動している。他の人たちもデスクを片付けたり、埃の積もったキャビネットをせっせと雑巾がけしていた。
「あの、今日は大掃除の日ですか?」
 私は隣の席の男性におそるおそる声をかけた。中堅社員の男性は私に柔和な笑顔を見せて言った。
「明日急にお偉いさんが来ることになったんだ。それでみんな慌てて環境美化に取り組んでいるんだよ」
「お偉いさん、ですか」
「ほら、今は経済界の重鎮になっている、うちの昔の社長。柴田さんも新聞やテレビで見たことあるでしょう。あの人が現場を激励しに来るんだって」
 ああ、とテレビニュースに登場した白髪交じりのおじ様の顔を思い浮かべて頷いた。背が高く、鋭い眼光が印象的な細面の顔で、切れ者という雰囲気が全身からにじみ出ているような人だった。
 そんな偉い人が視察に来るとなると、このだらしない印象しかない職場環境はまずいだろうな、と思う。乱雑な職場を見渡し、隣の席の男性に尋ねた。
「私は何をすればいいでしょうか」
「柴田さんのデスクは片付いているから、あ、そうだ、コピー室の掃除をお願いします」
「わかりました」
 返事の後、回れ右をしたら友広くんの姿が目に飛び込んできた。青白い顔の彼はわけもなく宙を睨みつけ、私が視界に入ることを拒むようにそっぽを向いていた。

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#10 ソフトクリームと彼の過去 * 1st:2014/05/20


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