#03 笑えない私の事情

 あのオーディションからあっという間にひと月が経った。
 もはやわかりきった結果だけど、書面で正式に不合格が伝えられると、私よりも柚鈴が憤慨したり沈み込んだりしてしばらくは忙しかった。おかげで私はひどく落ち込まなくてすんだから柚鈴には感謝しなければならない。
 柚鈴と私は同い年で、モデルの仕事を始めたのも同じ時期だった。
 ほんわかした外見に似合わない毒舌のせいで敵を作りやすいと柚鈴は言うけれども、売れっ子になった今も私の親友でいてくれるのは、笑えない私の事情のせいなのかも、と思うことがある。
「あれ、柴田さん。こんなところで何しているんですか?」
 どう見ても片付いているとは言えないオフィスの隅にいた私は、突然声をかけられて驚いた。後方から若い男性社員が近づいてきている。向かいのデスクに座る友広和哉(ともひろかずや)だ。
「あ、ちょっとファイルを探しに来て……」
「やっぱりイケメンですよね、守岡優輝は」
「は!? いや、あのね、私は別にこのポスターを見ていたわけじゃ……」
「見入っていましたよ、ずーっと。そっか、守岡がタイプだったんだ。どうりで社内の男性に興味ないわけだ」
 友広くんは私の隣に立って腕組みをした。彼は入社早々、社内の女性陣の間で人気ナンバーワンの地位を獲得していた。実際見上げなければならない長身だし、まだ少年っぽさを残した爽やかな笑顔は、私もたまにドキッとさせられる。
「ん?」
 隣の友広くんをじっと見つめていた私は、不思議そうな視線を向けられ、慌てて前を見た。
 ――うわっ! な、なによ!
 正面に貼られたポスターの中から優輝がこちらを睨んでいる。
 黒いフォーマルスーツ姿でカメラを持ち、こちらへ乗り出すようなポーズを作っているだけなのに、もの言いたげなその表情が視界に入った瞬間から目を離せなくなってしまう。
「ゆう……も、守岡優輝は確かにかっこいいけど、ほら、なんか性格悪そうじゃない?」
 優輝と言いそうになったのは失敗だった。横目で見ると友広くんの表情がさっと変わる。彼は妙に察しのいいところがあって、隙を見せたら尻尾をつかまれそうで怖い。別にやましいことなんか何もないんだけどね。
 ふーん、と相槌ともつかない声を漏らすと、友広くんは私に笑いかけた。
「もう知っているかな? 今、守岡は次のドラマで共演する姫野明日香と噂になっているみたいですよ」
「……えっ?」
 聞き返す声は情けないくらい小さかった。
 友広くんが私の顔を覗き込むように首を傾げる。
「撮影始まってすぐに熱愛発覚ですからね。やっぱりすげぇもてるんだろうな。それにこの顔で口説かれたらどんな女性もノーとは言えないでしょ?」
「知らないわよ、そんなこと」
「あーでも柴田さんならすぐには陥落しないかも」
「それ、どういう意味?」
「だって『鉄壁の守り』じゃないですか。誰が柴田さんを口説き落せるかって、男どもの間では話題なんですよ。知りませんでした?」
「知るわけないでしょ、そんなこと!」
「あ、ちょっと、怒らないでくださいよ」
 私は友広くんを置いてスタスタと自分のデスクへ戻った。少し遅れて彼も向かいの席へ戻ってくる。
「変なこと言ってすみません」
 遠慮がちに友広くんが言う。周囲の目もあるので、私は気にしないふりをして首を横にふって見せた。
 一度も笑ったことのない私を男性社員たちが『鉄壁の守り』と揶揄しているのは知っていた。そして彼らが私の笑わない理由をつんつんした性格だからだと思い込んでいることも。
 でも友広くんの言葉で、過去に接触してきた男性たちがからかい半分だったとわかり、本気で腹が立ったのだ。
 すべてお断りしたのは賢明でしたね、未莉さん。……なんて自分を褒めて、ズンと落ち込む。
 信用してもいい男性なんて、どこにもいない。
 そう思った瞬間、なぜか優輝の顔が浮かんできて、私は意味もなく手をこすり合わせた。通りすがりの上司に「寒いの?」と声をかけられる。
「はい、なんだか急に寒気がしまして……」
 真面目な顔で答えながら、脳内に出現した優輝を大急ぎで消した。
 そりゃ、あの夜、優輝には助けてもらいましたよ。ついでにあのとき車の中で言ってくれた言葉が、私の心の支えになっているのは確かだし。最後のチャンスと思っていたオーディションがダメだったのに、まだ夢をあきらめなくていいのかなとしぶとく考えているくらいだから。
 しかし……オーディションからひと月で明日香さんと熱愛ってどういうことなの!? あの夜、私に言った意味深なセリフは何? 結局アンタはそばにいる女性なら誰でもいいのか!
 ふう、と息をついてなにげなく前を見る。書類ケースの向こう側から友広くんが険のある視線を私へ向けていた。

 定時で仕事を終え、いつもの帰路につく。
 これも契約社員という立場で、残業の必要がない業務をしているおかげだ。もちろんそれに見合った給料しかもらっていないから、生活はかなり苦しい。
 借りているマンションもかなり古くてボロボロだ。入居して間もない夜中、天井から落ちてきた水滴が顔に当たり飛び起きたことがある。雨漏りのせいで布団にカビが生えて泣きたくなった。
 こんなふうに挙げていけばキリがないほど不満はある。でも引っ越すにはそれなりにお金がかかるから、貯金のない私は仕方なくこのマンションに住みついている。
 スーパーで買った食材を冷蔵庫にしまい、ひとり分の夕飯を作り始めた。自炊するのも生活費を少しでも切り詰めるためなんだけど、おかげで料理の腕前も上がったので、この生活も決して悪いことばかりではない。
 それでも、まだ両親が健在だったことを思い出すと、心が鉛になったかのように気持ちが沈んでしまう。
 今頃故郷は雪がちらつき、人々は白い息を吐きながら急ぎ足で歩く季節だ。
 庭の木々が雪をまとい、キラキラと宝石のように輝いていた寒い朝。
 父は朝食の前に新聞を広げ、母が差し出したホットミルクを受け取る。姉は洗面台を占領していて、寝ぐせのついた私の髪をぶつぶつ言いながらも梳(と)かしてくれた。
 パンとベーコンとたまごやき、それからサラダとフルーツの並ぶ食卓。
 まだ姉が家にいたのだから、小学生の頃だ。あのありふれた毎朝の風景が、今はなによりも恋しい。
 私から父母と故郷を奪ったのは火だ。
 父は地元で運送会社を経営していて、母も経理関係を手伝っていた。
 ある日その社屋で火災が発生し、隣接する倉庫へ燃え移った。知らせを受けて駆けつけた私は、燃え盛る火の前で声の限り父と母を呼んだが、両親は二度と私の呼びかけに答えてはくれない姿で見つかった。葬儀ではふたりの遺体のそばで泣き明かし、一生分の涙をそこで流してしまったような気がする。
 その後、運送会社は父の弟である私の叔父が継ぎ、私は通っていた女子校の寮に入った。
 叔父は私の面倒を見るという名目で私たちが住んでいた家に住みつき、私が両親から受け取るはずだった遺産を自らの管理下においた。つまり私の学費と生活費以外を巻き上げたのだ。頼れるただひとりの姉がショーを終えて帰国したのは、叔父がぬかりなく私たち家族のすべてを自分のものとした後だった。
 叔父を恨む気持ちはとても語りつくせるようなものではない。でも当時高校2年生だった私がもう少し賢く立ち回れば家族の何かを守れたかもしれない、という後悔のほうが今は強い。
 すでに自立していた姉は、叔父に訣別を宣言し、大学へ進学した私を全面的に支援してくれた。けれども忙しい姉と同居することはなかった。私もできるだけ姉に頼らずにやっていこうと考えるようになっていた。他人に頼るばかりでは生きていけないと思い知ったからかもしれない。
 ご飯とみそ汁、それに豚肉と野菜の炒めもの、ほうれんそうのお浸し。ひとりぼっちの食卓にはこれでも豪華すぎるほどだ。私は小さなローテーブルの前で「いただきます」と手を合わせた。
 笑えない――そのことに気がついたのは両親の葬儀が済んでひと月が過ぎた頃だ。
 どんなに悲しいできごとが起きても、時が少しずつ心の傷を癒してくれるはず。もともと楽観的な私はそう思っていたけど、高校生という多感な時期に人生が一変してしまったせいか、私の心身は私の意志を無視して『笑う』という感情表現を断固拒否し続けている。
 だけど、この世界で笑わずに生きるのは困難だ。
 高校生になってから始めたモデルの仕事は、両親を亡くした後オファーが途絶え、就職活動につきものの面接では印象が悪かったのか、ついにひとつも内定をもらえなかった。
 笑顔さえ作れたらどんなに生きやすいだろう、と思う。本当は面白おかしくて笑いたい瞬間もある。それでも私の心と身体は笑おうとしない。
 私、いつまで笑わないでいるんだろう。
 会社で友広くんに言われたことを思い出すとため息が出る。性格を誤解されるのはかまわないけど、笑わないのをおもしろがって言い寄られるのは嬉しくない。このままだと生涯彼氏なんかできないのでは……。
 それは嫌だな。枯れていくだけって感じがして。
 私だって人並みに恋をしたいし、いつか誰かと素敵な家庭を築けたらいいなと思う。
 ふと、ずいぶん昔のことを思い出した。
 あれは私がまだ笑っていた頃だ。自転車に乗った年上の高校生に突然「送っていく」と言われて、はじめて男の人と並んで歩いた。ちょっとしたデートみたいで、すごくドキドキしたのを今も覚えている。
「君、この辺の子じゃないだろ。ここ、ついこの前、通り魔が出たんだ」
「通り魔!?」
「君みたいな子がひとりで歩くのは危険だぞ」
 見上げた彼の顔が、なぜか優輝の顔になっていて、私はご飯の塊をみそ汁の椀に落としてしまった。
 確かにその人は優輝並みの長身だったし、全体の雰囲気が貴公子っぽくて優輝に似ているかもしれない。
 でもあの人、眼鏡かけていたな。だからとっさに頭がよさそうだと判断したのだけど。
 あ、いや、別に優輝が頭悪そうに見えるってわけじゃないよ。むしろ頭や勘がいいから演技がうまいのだろうし、あの業界でそつなくやっていくには賢くないとダメだって思うから。
 ……ん? 私、誰に弁解しているんだろう。
 しかも生まれてはじめてのほのぼのロマンスが、今や優輝の顔でしか思い出せなくなっている。
 うわーん、どうしてくれるんだ。私の大切な思い出が上書きされちゃったじゃないか!
 今日の私は本当にどうかしている。会社で優輝のポスターを見たせい?
 ねぇ、どうして頬をさわったの。どうして頭を撫でたの。
 優輝のしたことに意味などないと言い聞かせても、わがままな私は一向に聞き入れようとしない。
 彼は明日香さんと付き合っている。それは事実なんだろう。あれからたったひと月しか経っていないけど、恋はきっと一瞬で落ちるもの。それを止めることなんか誰にもできやしない。
 箸を機械的に動かして夕食を終える。噛んでも噛んでも、味がしなかった。ひとりぼっちに慣れているとはいえ、味気のない食事はつまらない、と心底思った。

 その晩、私は不思議な夢を見た。
 見覚えのある街角で、私はぼんやり立っている。たぶん信号待ちをしているのだと思う。
 急に誰かが「あっ!」と大声を上げたので、私は驚いて首を回した。その途端、背後から腰のあたりにドンと強い衝撃が走る。
「え?」と言えただろうか。
 気がつけば私は地面に横たわっている。どうやら背後に停車していた車が、間違えて私のほうへバックしてきたらしい。
「大丈夫?」
 誰かが近づいてきた。顔を上げると、その人が私に手を差し伸べている。
「あのね、『あっ!』じゃわからないでしょ! 『あぶない』とか『ぶつかる』とか言ってよ!」
「ごめん。君にみとれていた」
「はぁ!? 何寝ぼけたこと言っているのよ! 人命がかかわっているのよ、人命が!」
 夢だから寝ぼけているのは当然だな、と頭の片隅でツッコミを入れつつも、叫んだおかげで胸がスカッとしていた。
 せっかく手を貸してくれると言っているのだから、その手につかまって……、と相手の顔を見た私は「ひゃぁ!」と奇妙な声を発した。
「未莉、起きろ」
 私の前になぜか優輝が跪(ひざまず)いていた。
「言われなくたって、立ちますとも」
「いいからすぐに起きろ。もたもたするな」
「でも、いててっ、腰が痛くて……」
「そんなこと言っている場合じゃない」
 優輝がふわりと私の上体を抱き起した。顔が近い。な、な、なんかこの展開、突然すぎる!
 その瞬間、私の鼻がぴくっと反応した。きな臭いような……。
 これは何かが燃えているにおい?
「未莉、起きろ!」
 脳内に誰かの絶叫が響き渡る。
 優輝の姿はかき消えた。次の瞬間、黒い闇が私の視界を覆ったかと思うと、風がごうごうと鳴り、ぱちぱちと木が燃える危険な音が聞こえてきた。足元のほうに、ぼうっと勢いよく紅の炎が上がり、獰猛な舞を踊り始めた。
「え、ちょっと待っ……!」
 布団をはねのけて飛び上がった。目を開けたそのときから頬に熱風が吹きつけるのを感じる。
 まずい。火事だ。
 ……うそでしょ。どうして燃えているわけ? そりゃ、このマンション古いけど。あ、そっか、古いから燃えるのか!
 目覚めたばかりの私は明らかに混乱していた。だけどとにかく逃げろ、と本能が告げる。
 パジャマの袖口で鼻と口を覆い、通勤かばんを探す。その間に消防士さんの大声が聞こえてくる。
「助けてくださーい! ここに、ここにいます!」
 聞こえただろうか。
「おーい」と声を上げながら、かばんと一緒にかけてあった上着をつかんだ。それから玄関のほうへ向かったけど、玄関はもう炎に侵略されていて靴を取りに行けない。
 バリバリと壁を壊すような音が近づいてきて、ガシャンと窓ガラスが割れた。振り返ると消防士さんが窓の向こうでこちらに手を差し伸べていた。
 部屋の外に連れ出されて、ようやく助かったという実感がわいた。パジャマの上に急いでコートを着込み、裸足のまま救急車に連行される。地面は痛いけど、これくらいは我慢しなければ。
「けがはありませんか」
「おかげさまでどこも無傷です」
 救急隊員さんはホッと表情を緩めて、家族に連絡を取るように勧めてきた。私が通勤かばんからケータイを取り出すと、救急隊員さんは次に運ばれてきたマンションの住人へと駆け寄る。
 私は救急車をおりて、唯一の肉親である姉に電話をかけた。

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#03 笑えない私の事情 * 1st:2013/12/25


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